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七 裏山の哀愁

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 その日の授業は午前終わりのはずだったが、あたしは夕方までかかって反省文をしたためた後、なぜか屈伸運動を嫌というほどやらされた。ひざをがくがくさせて帰途についたが、早く寮のベッドに倒れこみたい衝動を抑え、学院の裏山へ登って行った。
 春の山にはいろいろな花が咲き乱れていた。リンゴのようにかわいくていい香りの白い花、色鮮やかなヤマブキや、花海棠はなかいどう。白い小花をたわわにぶら下げているドウダンツツジは、秋には紅葉してまた美しくなるだろう。桃色に咲くアケビの花も、秋になったら実を採りに来よう。それから、早くもひっつき虫を実らせているヤエムグラの仲間を見つけたので、あたしはそれを摘み取って制服のスカートの裾をぐるりと飾った。
 白い岩山のところまで来ると、あたしの探し人がいた。
 
 リューダは半ば草に埋もれながら、バッタを探していた。朝、彼女の探し物はバッタであり、その居場所をノートに書いたので、もしかしたらいるかもしれないと思っていたのだ。
 リューダはあたしの姿を認めると、バツが悪そうにもじもじしながら、かがんでいた膝を伸ばした。
「バッタ、見つかった?」
「うん、結構」
 虫かごには桃色がかったバッタが十五、六匹入っていた。
「ずっと探してるの?」
「ううん、さっき来たところなの。わたしも、ずっとミィたちと反省文を書いてたから」
 彼女たちには罰としての屈伸運動はなかったようだ。どんな差別なのだろう。反省文の出来の良し悪しか。
「ここのことを教えてくれてありがとう。それから、お部屋のことを悪く言ってごめんね」
 リューダはあたしに真正面から向き合って言った。
「いいよ、別に。虫が嫌いなのかと思ったけど、違うみたいね」
 リューダは先ほどから、大きめのバッタを手づかみにしている。意外に毛深い指や手の中で、バッタがもがいているのを、慣れた手つきで虫かごの中に放り込んでいる。
「カブトムシが、少し苦手なの。昔、嫌な思い出があって」
「ふぅん。昔」
「実家でね」
「実家ってどこなの?」
 リューダの実家は、ここから程遠くない、パイインカルという町だと言う。あたしもこの学院に入る前、その町を通ってきた。何を隠そう、あたしのカブトムシの幼虫たちはその町の子たちに譲ってもらったのだ。カブトムシがよく採集できる町だった。男の子たちが、大カブトムシと毒蜘蛛を戦わせて遊んでいた。
「そのバッタ、どうするの?」
「食べるの」
 何気なく発されたリューダの一言だったが、青天の霹靂であった。
「た、食べる?」
「そうよ」
 
 ことの真相はこういうことだ。リューダは毒蜘蛛の化身である。腕や手にむしゃむしゃした毛が生えているのもそれらしい。その蜘蛛に噛まれると、重篤な病気になる。その病気を治すためには踊りを踊らねばならないという。いわく付きの恐ろしい蜘蛛だが、その踊りさえ踊ればたちまちのうちに治る。性格も温厚で、この蜘蛛が嫌がることさえしなければめったに噛むこともないため、虫好きの子供たちから好まれる種であった。その蜘蛛はビッグ・ボリーと名付けられ、背の低い少年に長いこと飼われて幸せに暮らしていた。ところがある日、いじめっ子たちが、
「お前のビッグ・ボリーと俺らの見つけたオオカブトのアイアン・ムサカと戦わせようぜ」
 と言われ、少年は断り切れなかった。というのも、断ったとしても、いじめっ子たちは夜中に少年の家に入り込み、ビッグ・ボリーを盗み出し、ボリーが死ぬまで対戦させるのだ。
 そこで自分の監督下で対戦させ、ムサカがボリーに致死的な一撃を与える前に、これを身を挺して守ろう、とそう決めたのだった。ところがムサカは速かった。その図体からは想像もできないほどの俊敏さでボリーの脇腹を三本角にくわえ込み、瀕死の重傷を負わせた。
 無残に変形したボリーの姿を前に、少年は泣いた。そして神仏にボリーの生還を願った。はかない虫の体はいかな神仏とて蘇生不可能であったが、かわりにボリーに人間の頑丈な体を与えた。これがリューダである。人間となってからも、蜘蛛だったころに好んで食したバッタの味がときおり蘇り、これを探しては夜な夜な貪り食う、ということをしているのだった。というのも、ここらの人間にはバッタを食べる習慣はなく、彼女がこれを大好物と言えば友人は眉を顰めるかもしれない。バッタ食いは人に知られぬよう、節度を守りながら行う必要がある。ところが食べるほどにうまみが増すのもバッタの魅力、あと引くうまさに彼女は朝も昼もバッタを食べたくなる。そこで園芸部に入り、叢に長時間潜んでバッタを食べても怪しまれない身分を手に入れた。これで学院生活も安泰、かと思いきや、あたしの部屋でかつての天敵、オオカブトの幼虫がごりごり育てられているのを発見。いやだなぁ、もうあの部屋には行きたくないけど、なんて言っていいわけしようかな、などと思っているうちに、ある朝幼虫が一匹虫かごの外に出てうごめいている。リューダは思わずその幼虫を踏みつぶした。踏みつぶしてから、自分のあさましい行いに驚愕し、二度とあたしの部屋に来るのをやめよう、と決めた。
 以上のことは別にリューダが言ったわけでもなく、あたしが推察するリューダの事情だ。真相と言ったが、ほんとうに蜘蛛の化身かどうかは不明である。リューダの蜘蛛の性についてもう少し掘り下げてもいいのだが、日は暮れ始めている。早いところ用事を済ませて下山せねば、夕食前の祈りに再び間に合わなくなる。
「あの、さ。リューダ。今朝あたしの部屋にきた女の人だけど、誰か知ってる?」
「どなたのことかしら?でも、たぶん部長ではない?表情のくるくる変わる、黒い長い髪に狐色の肌の方?」
「まあ、そうね。それと、手首に入れ墨をしてたよ。でも、表情はくるくる変わってなかったと思うけど?」
 彼女はとても大人びて、落ち着いて見えた。
「園芸部の部長よ。しゃべらないとしっかりして見えるけど、すぐ転んだり、すぐ焦ったり、すぐ勘違いしたりして、案外困ったところがある方なのよ」
「それは、かわいい人だね」
「そうかしら?」
 部長の名前はアンというらしい。学年は最高学年で、なんと来年の春には卒業だ。進路はどうなっているんだろうか。魔女になりそうな人として、名前が挙がっている気配はない。
「卒業後、どうするのかな?国に帰っちゃうのかな?どこの出身なんだろ」
「ご自分でお聞きになったら?これからは毎週、部長がお花を替えにいらっしゃるのではなくて?係を交替したことについて今朝起こったこと、わたし本当に本当に済まなく思っていますの。あんな風にお部屋の様子をからかわれたら、わたしもう恥ずかしくって生きていられないわ。それかキノコになってしまうわ」
 うん?キノコの化身だったのだろうか。ただの言葉の綾だろうか。あたしだって恥ずかしかったが、もう済んだことだ。不名誉があるたびにキノコになっていてはらちがあかない。大人の対応としては、歯を食いしばりながら、童のやったことと水に流すしかあるまい。
「いいって、もう」
「そうね。さ、もうそろそろ帰りましょうよ」
 リューダは本当に済まなく思っているわりにはいともあっさりと、何気ない風にその話をたたんだ。それから、これまでのあたしに対する屈託などみじんも感じさせないまま、あたしたちは他愛ない話をしながらそろって下山をしたのだった。世代による価値感の差、というものを感じる夕暮れだった。
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