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二十四 様々な音がする

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 翌日、あたしたちは早速、贅をつくしたアリフレートの別荘の庭で風遁の術の練習をすることにした。朝早く皆を起こすと、あたしは用意した朝食を振舞い、皆を庭に急き立てた。
 ちなみに、前夜予定されていた夜の双六ゲーム会は、なしになった。アンは疲労が激しくすぐに床に入ったし、アリフレートは寄るところがあるから、と夕飯も食べずに一人で出かけた。人を自分の別荘に誘っておいてこの態度。いったい彼は何がしたいのか。皆で楽しく過ごしたかったのではないのだろうか。アンに孤高の男ぶりを見せつけたかったのか。とまあ憤ってみたものの、ありそうな線としては、学生生活の最後に皆でわいわいしてみたらどうかな、楽しいかもしれない、と思ったものの、一日一緒にいたら飽きてしまったしとかだろう。夕方の彼の顎には、朝にはなかったニキビが一つできていた。短時間で実ったにしては育ちぶりが良く、今にもしゃべりだしそうな大きさだった。
 あたしは一人で缶詰を開けて夕飯にした。あたし一人きりの室内だと、きこ、きこ、と缶を切る音がやたら大きく響いた。その後しばらく邸内を散策したりしたが、あまりにも真に迫った絵画や変な格好をした彫像などを気味悪く感じるようになって、そうそうに自室に引き上げて眠ったのだった。
 昨日は疲れ果てて、いつもの艶めく褐色ではなく土気色になっていたアンの様子は、今朝はずいぶん良くなっているようだった。昨夜、アンが怖いと言う魚のはく製を彼女の部屋から自分の部屋に移した。あたしは魚のはく製に追われる夢を見たが、些細なことだ。
 今日は朝いちばんに彼女に会うなり、疲れた足に張る湿布薬を渡した。それから皆の朝食を作るだけでなく、彼女のパンには特別厚めにバターを塗ったり、ミルクを注いだりして、かいがいしくお世話して、完璧な一日の完璧な幕開けを演出しようとしている。ちなみにこのパンやミルクは、アリフレートが朝帰りの道すがら買ってきたものだった。なかなかいいパンで、一口食べるなり、「おいしい」の「おい」までが出かかって、往生した。
「おい、お、おい、こらぁ!」
 と半分出た言葉を何とかごまかすことができたが、二人は唐突なあたしの言葉に居心地が悪そうな顔をした。
 確か、宗教や文化によってはこう言う風に食べ物を評価してはいけない、という行儀作法があると聞いたことがある。アンやアリフレートの信仰までまだ聞けていないので、できる限り配慮のある行動を心掛けねばなるまい。せっかくの完璧さが、損なわれるところだった。
 さて、風遁の術だ。教頭の家から失敬してきた風遁の札は全部で四枚あった。そのほか、火遁の札も一枚あったが、これは風遁の術を極めた後、余興として使うことにした。
「そもそも、どうやって飛ぶのさ。風遁の術で、魔法の箒みたくひらひらは飛べないでしょう?」
 そう、風遁のレッスンについては、あたしもどのようにするのかわかっていない。この度の唯一のブラックボックスである。
「地面に向かって強い風を起こして、その風で体を浮かせるんだよ」
「へえ」
 そんなことが可能だろうか。アリフレートは結構体格が良いので、それを浮かすとなるとかなりの出力が要求される。
 とにかく、まずはこの風遁の札の力を見てみないことには始まらない。かまいたちのように、身をも引きさく鋭い風を起こす札だったら、意味がない。そこで、一番札使いの達者なアリフレートが、何もないところに向かって、術を使ってみることにした。
 そこで彼がさっそく長い呪文を唱えて、風を起こした。
 結果として、その風はかまいたちではなかった。風は直径三メートルはあろうかという塊で出てきて、十メートル先に立っている裸の彫像がごっそり取り囲む噴水の水を、三十秒に渡って辺りにまき散らした。そのときになんともいえない、湿った柔らかい穴から空気が抜けるときのような音が、大音量で鳴った。しかも授業で使っているときとはくらべものにならない嫌な臭いが、あたりに漂い、あたしたちは大急ぎで場所を移動した。
 尾籠びろうな話になりかねないので、その風についての詳細はこれ以上言わないことにするが、とにかく、威力だけは特筆すべきものがあり、使いようによって人を飛ばしかねないと、信じさせるに十分であった。
 それからあたしの、札を使わないで風を起こす技もアリフレートが見たいと言った。あたしは正直、あたしの技と風遁の札を掛け合わせてもなんらいい効果は得られないと思ってはいるが、その技をアリフレートがえらく褒めるので、いい気になって魔法を見せびらかした。コツをうまくつかめないアンやアリフレートは、札なしで些細な風さえも起こせず、大変苦労していた。
「まずは、体全体で風を起こすイメージでさ、それができたら風を手のひらに集中させるんだよ」
「その、体全体というのがわからない」
「こう、体全部の毛穴に固い物をぶわっと感じたら、少しずつ毛穴から放出させるように、そよっと、さ」
 時がたつのも忘れてああでもない、こうでもないと試行錯誤をしていると、とっくに正午を過ぎていた。
「なにもあたしの術と一緒にやらなくてもいいじゃない。札だけで十分だよ。あたしはもう戻らなくっちゃいけないから、あとは二人でやっててね」
 あたしが屋敷に戻ろうとすると、二人は不満を表明した。
「まだ少しっきゃしていないじゃないか。もっとまじめにやってくれよ、フジ」
「わたしももう少しあなたに教えてもらいたいわ。ねえ、これってとても素敵な魔法よ」
 褒められてあたしは顔がにやけるのを止められなかった。よほどこのまま風の吹かせ方について一講釈しようかとも思ったが、結局のところ、あたしも突然コツをつかんだだけでよく仕組みはわかっていない。各自のセンスでこのコツを直感的にわかってもらうしかないのだ。
「あたしは、今晩の準備をしなけりゃならないのでね。君らも早めに帰ってきてよね」
 昨晩できなかった双六の時間は、今晩のお楽しみタイムの前に繰り越されている。そして、お楽しみタイムでは例のコショーを使った変身ショーをするのだが、あたしにはそのショーで使用する予定だったものの、無残に壊れてしまった衣装を修繕するという大仕事が残っているのだ。
 あたしが帰り支度をしていると、アリフレートが懐から身代わりの術の札を出した。それをまたあたしに使う気だろうか。年頃の乙女を、再度素裸にする?アンの目の前で?
 あたしはカッとなって、先手必勝とばかりに風遁の札を彼に向けて投げつけ、「チッ」と舌打ちをして術を最小限の威力で解き放った。
 嫌な臭いの風の塊がアリフレートとアンを襲い、彼らは同時に尻もちをついた。
「二度も同じ手を食らうと思いなさんなよ」
 あたしはアンを助け起こしながらアリフレートに吐き捨てた。アンは衝撃でふらついているので、助け起こした勢いでぴったりと抱き着いてきた。たたらを踏んだが、なんとか転ばずに持ちこたえた。ところが、あたしたちがもたついている間にアリフレートは起き上がると、
「貴重な札をよくも使いやがったな」
 と、残る風遁の札を用いて、風をあたしたちに向かって投げつけてきた。それはあたしの起こした風の数倍の威力を持って、あたしとアンを数メートル吹き飛ばした。あたしたちが吹き飛ばされたところには、大きくて尖った石がごろごろあるところで、たまたまこの上に落ちなかったから良かったものの、一歩間違えば死、臭い爆風にあおられた挙句のむごい死となる可能性もあった。
 頭に来た。あたしはアリフレートにつかみかかりにいったが、ともに時間を過ごした時間が増えたせいで、あたしの攻撃手法は読み切られていた。アリフレートはなんなくかわ」し、水たまりのあるところにあたしを転がそうとした。あたしはただ転がされてなるものかと、がむしゃらに手を伸ばして、奴の顎をつかんだ。
「くぬっ。貴様の、昨日できたばかりの、ニキビも道連れだ」
 二人でやりあっていると、突然、アンが奇声を上げた。サイレンのような緊急性のある声だ。あたしたちはお互いにつかみ合った手を離さないまま、アンの方を見た。彼女は、風遁の練習中も肌身離さず背負っていたリュックを膝の上に置いて、ひどく慌てている。彼女は口を真一文字に閉じているが、奇怪な叫び声は彼女の方から聞こえてくる。
「バッバドンナオホホンカの根っこが!」
 どうも彼女はかの幻のバッバドンナオホホンカを鉢に移し、リュックにつめてこの旅行に臨んだのだが、爆風にあおられた拍子に、その根っこが半分土から抜けてしまったらしい。以前彼女から聞いた話では、バッバドンナオホホンカは掘り起こされると声を出すらしいので、この奇怪な叫び声は、その植物が出しているようだ。
「暗いところへ行かなくちゃ!」
 アンはリュックを抱えると、そのまま屋敷の方へ一気に駆け出した。ニンジャクラスで見る限り運動が得意ではなさそうな彼女であったが、このときは韋駄天のごとく速かった。
 戦闘意欲を喪失したあたしたちは、ただあっけにとられて、遠ざかるバッバドンナオホホンカの、耳障りなオウムのような鳴き声を聞いた。それから、アリフレートが、は、と息を吐く音が一つそこに響いた。
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