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二十六 ごめんね、あなたなんだよ
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アリフレートはさんざん荷造りを急かしたけれど、あたしとアンがお別れをする機会は設けてくれた。
アンは部屋を完全に暗くするため、昼間のうちはドアを開けないと宣言していたが、この部屋には隠れ扉があった。というのも、アリフレートの母親が飼っている猫のための通路がこの部屋にも通じているらしく、あたしならその薄暗い通路を通って。アンのところまでたどり着くことができる、と彼が教えてくれた。あたしが入るや否や、先の方でカタカタと小動物が走り去る音が聞こえた。ぞっとしない通路ではあったが、蜘蛛の巣をかき分けかき分け進むと、果たしてアンの居室に着いた。
アンの部屋は遮光カーテンがきっちりと引かれていたが、全くの暗闇でもなく、カーテンの上部の隙間から漏れる光で、おぼろげに家具の輪郭などは浮かび上がっていた。
アリフレートがドア越しに、あたしが猫通路を通って来ることをあらかじめ説明しておいてくれたので、あたしが通路から抜け出ると、すぐにアンが近づいてきた。
「フジ。あなたの町が大変なことになっているって」
最小限の声量で話しかけてきた。彼女から話しかけてきてくれたことにあたしは安堵した。
「うん。それでね、本当に申し訳ないんだけど、あたしは暗くなる前にウォリウォリに向けて出発することになったの。それで、それでね」
一人旅は危険だと、アリフレートが一緒についてきてくれることになったのだ。アンについては、アリフレートが懇意にしている近所の老夫婦が学院まで送り届けることになっている。
アンはあたしに皆まで言わせず、話し出した。
「わかっているわ。彼も一緒に行くんでしょう。いいのよ。わたし、わかっているのよ。気を付けて行ってらっしゃいね」
「うん、うん。そうなんだけど、違うの」
「何が違うというの?」
「だからさ、その、別にあたしとアリフレートはそんなんじゃないっていうか」
アンは話をよく聞くために、あたしの口元に耳を寄せた。この日彼女は花の香水をつけておらず、いつも通り、柔らかな椰子の香りが漂った。もごもごとくちごもっていると、アンは心底不思議そうな声で言った。
「どうしてそんなことを言うの?」
あれっ?だって、アンはアリフレートのことが気になっていて、あたしと彼の仲が良すぎることに気分を害していたのではなかっただろうか。
でも、どうしてあたしはそう思ったのだっただろうか。すべてはアリフレートの妄想から始まったのだっただろうか。あたしはもしかして、とんちんかんで失礼な、そして口にしたら真実になってしまうような取り返しのつかないことを言ってしまったのだろうか。じわっと背中に嫌な汗がにじんでくる。
「アンは、アリフレートのことを好きなんだよね」
「違うわ。どうして?」
「どうしてって、そりゃ……」
さっきそう言っていなかっただろうか?勘違いかもしれない?あたしはニッキのことが心配になって混乱してしまっているのだろうか。
そうだ、思い出した。彼女はアリフレートのことをよく目で追いかけているのだ。それに、アンもアリフレートも寡黙な方だが、二人でいるときは結構よくしゃべる。その際のアンの表情の輝きだって、まぶしいくらいだ。アリフレートだって、まんざらでもなさそうに口元に笑みさえ浮かべて話している。そうだ。独りぼっちを感じていたのはあたしの方だ。
「わたし、彼のことほとんど知らないわ。フジ、あなたのことだって、お花の交換のときと、選択授業で少し会うっきりで、あまり知らないわ。どうしてわたしを今回の旅行に誘ってくれたのか、とても不思議に思っているの。でも来て良かったわ。あなたが頑張り屋だってことも、寂しがり屋だっていうことも知ることができた。アリフレートが実際不良でないってことも、よく分かったわ。わたしの思った通りだったわ」
「あ、そうなの」
「でも、わたしそれだけよ。だって、彼のこと、あまり知らないし、これ以上のことはわからないもの。あなたのことも。でも、見ている限り、あなたたちって、とてもお似合いだわ」
アンはそう言うと、ぽろりと涙をこぼした。暗闇なので涙は見えなかったのだが、涙の粒が床に落ちる音が聞こえた。音はぱた、ぱた、と続き、涙は幾粒も幾粒もこぼれているようだった。
「違うんだよ。あたしたち別に」
そこまで言ったけれど、どうやって続けたらいいのかわからない。あたしたちは別に好きあっていない、なんて、あたしのような男だか女だかわからない見た目の、勉強もみそっかすの人間が言うのは滑稽じゃないだろうか。
なんと説明すればいいのだろうか。クセニアのことを話す?いえ、これはいけない。いっそ、アンがあたしの好きだった人に似ていることを伝えてしまおうか?あなたの面影にその人を探してしまう、と。彼女がその人の娘なのではないかと、何度も父親について探りを入れようかと思ったけれど、聞く勇気が出なかったこと。それから、ある晩寝床の中で、面影探しは彼女にとって失礼だし、苦しいだけなのでやめようと、固く決めたこと。でもそれから、彼女と徐々に親睦を深めるうち、特に苦労せずとも面影探しをしなくなり、その代わり、彼女の新しい魅力を次々と発見していったこと。優しい言葉の選び方や、丁寧な手つき。話し方の微妙なアクセントや、涼し気な目元などといった彼女のすべてに憧れたのだ。あたしは彼女になりたかった。
「いいのよ、わたしは。さあ、早くお行きなさい。日が暮れる前にカンタタの宿屋まで行くんでしょう?一緒に行ってあげられなくて、ごめんなさい。でもこの植物だけは、わたしきちんと育てると決めたの」
アンは優しくあたしの背中を押して、再度猫通路へと促した。あたしはその腕を素早く握って、アンを自分の方に引き寄せた。それからあたしは、彼女の頬に口づけた。
アンは身を固くしていた。三秒くらいじっとしていたのだろう。でもあたしには途方もなく長い時間に思えた。こわばって動かないと、頬はこんなにも固く、冷たく感じるものなのか、まるで人形みたいじゃないか。
あたしはアンから身を離すと、
「ごめんね。あなたなんだよ」
それから、もう一度、最後にさっと口づけた。
「アリフレートじゃない。あなたなの」
そう言い置くと、なおも動かないアンを残して、あたしは猫通路に入っていった。
アンは部屋を完全に暗くするため、昼間のうちはドアを開けないと宣言していたが、この部屋には隠れ扉があった。というのも、アリフレートの母親が飼っている猫のための通路がこの部屋にも通じているらしく、あたしならその薄暗い通路を通って。アンのところまでたどり着くことができる、と彼が教えてくれた。あたしが入るや否や、先の方でカタカタと小動物が走り去る音が聞こえた。ぞっとしない通路ではあったが、蜘蛛の巣をかき分けかき分け進むと、果たしてアンの居室に着いた。
アンの部屋は遮光カーテンがきっちりと引かれていたが、全くの暗闇でもなく、カーテンの上部の隙間から漏れる光で、おぼろげに家具の輪郭などは浮かび上がっていた。
アリフレートがドア越しに、あたしが猫通路を通って来ることをあらかじめ説明しておいてくれたので、あたしが通路から抜け出ると、すぐにアンが近づいてきた。
「フジ。あなたの町が大変なことになっているって」
最小限の声量で話しかけてきた。彼女から話しかけてきてくれたことにあたしは安堵した。
「うん。それでね、本当に申し訳ないんだけど、あたしは暗くなる前にウォリウォリに向けて出発することになったの。それで、それでね」
一人旅は危険だと、アリフレートが一緒についてきてくれることになったのだ。アンについては、アリフレートが懇意にしている近所の老夫婦が学院まで送り届けることになっている。
アンはあたしに皆まで言わせず、話し出した。
「わかっているわ。彼も一緒に行くんでしょう。いいのよ。わたし、わかっているのよ。気を付けて行ってらっしゃいね」
「うん、うん。そうなんだけど、違うの」
「何が違うというの?」
「だからさ、その、別にあたしとアリフレートはそんなんじゃないっていうか」
アンは話をよく聞くために、あたしの口元に耳を寄せた。この日彼女は花の香水をつけておらず、いつも通り、柔らかな椰子の香りが漂った。もごもごとくちごもっていると、アンは心底不思議そうな声で言った。
「どうしてそんなことを言うの?」
あれっ?だって、アンはアリフレートのことが気になっていて、あたしと彼の仲が良すぎることに気分を害していたのではなかっただろうか。
でも、どうしてあたしはそう思ったのだっただろうか。すべてはアリフレートの妄想から始まったのだっただろうか。あたしはもしかして、とんちんかんで失礼な、そして口にしたら真実になってしまうような取り返しのつかないことを言ってしまったのだろうか。じわっと背中に嫌な汗がにじんでくる。
「アンは、アリフレートのことを好きなんだよね」
「違うわ。どうして?」
「どうしてって、そりゃ……」
さっきそう言っていなかっただろうか?勘違いかもしれない?あたしはニッキのことが心配になって混乱してしまっているのだろうか。
そうだ、思い出した。彼女はアリフレートのことをよく目で追いかけているのだ。それに、アンもアリフレートも寡黙な方だが、二人でいるときは結構よくしゃべる。その際のアンの表情の輝きだって、まぶしいくらいだ。アリフレートだって、まんざらでもなさそうに口元に笑みさえ浮かべて話している。そうだ。独りぼっちを感じていたのはあたしの方だ。
「わたし、彼のことほとんど知らないわ。フジ、あなたのことだって、お花の交換のときと、選択授業で少し会うっきりで、あまり知らないわ。どうしてわたしを今回の旅行に誘ってくれたのか、とても不思議に思っているの。でも来て良かったわ。あなたが頑張り屋だってことも、寂しがり屋だっていうことも知ることができた。アリフレートが実際不良でないってことも、よく分かったわ。わたしの思った通りだったわ」
「あ、そうなの」
「でも、わたしそれだけよ。だって、彼のこと、あまり知らないし、これ以上のことはわからないもの。あなたのことも。でも、見ている限り、あなたたちって、とてもお似合いだわ」
アンはそう言うと、ぽろりと涙をこぼした。暗闇なので涙は見えなかったのだが、涙の粒が床に落ちる音が聞こえた。音はぱた、ぱた、と続き、涙は幾粒も幾粒もこぼれているようだった。
「違うんだよ。あたしたち別に」
そこまで言ったけれど、どうやって続けたらいいのかわからない。あたしたちは別に好きあっていない、なんて、あたしのような男だか女だかわからない見た目の、勉強もみそっかすの人間が言うのは滑稽じゃないだろうか。
なんと説明すればいいのだろうか。クセニアのことを話す?いえ、これはいけない。いっそ、アンがあたしの好きだった人に似ていることを伝えてしまおうか?あなたの面影にその人を探してしまう、と。彼女がその人の娘なのではないかと、何度も父親について探りを入れようかと思ったけれど、聞く勇気が出なかったこと。それから、ある晩寝床の中で、面影探しは彼女にとって失礼だし、苦しいだけなのでやめようと、固く決めたこと。でもそれから、彼女と徐々に親睦を深めるうち、特に苦労せずとも面影探しをしなくなり、その代わり、彼女の新しい魅力を次々と発見していったこと。優しい言葉の選び方や、丁寧な手つき。話し方の微妙なアクセントや、涼し気な目元などといった彼女のすべてに憧れたのだ。あたしは彼女になりたかった。
「いいのよ、わたしは。さあ、早くお行きなさい。日が暮れる前にカンタタの宿屋まで行くんでしょう?一緒に行ってあげられなくて、ごめんなさい。でもこの植物だけは、わたしきちんと育てると決めたの」
アンは優しくあたしの背中を押して、再度猫通路へと促した。あたしはその腕を素早く握って、アンを自分の方に引き寄せた。それからあたしは、彼女の頬に口づけた。
アンは身を固くしていた。三秒くらいじっとしていたのだろう。でもあたしには途方もなく長い時間に思えた。こわばって動かないと、頬はこんなにも固く、冷たく感じるものなのか、まるで人形みたいじゃないか。
あたしはアンから身を離すと、
「ごめんね。あなたなんだよ」
それから、もう一度、最後にさっと口づけた。
「アリフレートじゃない。あなたなの」
そう言い置くと、なおも動かないアンを残して、あたしは猫通路に入っていった。
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