短編ア・ラ・モード

ゆぶ

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虹色のメロディー

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 冬の日曜日の昼下がり。
 午前中の雨もすっかりあがり、どんよりとした雲間からは太陽がのぞきはじめていた。

 高層ビルと公園をむすぶ石段には女神像が立っている。 
 空に向かって両手をひろげている女神像のまわりを青年は反時計まわりに一周してみた。

 青年はふたたびこの街を去る。
 それはなんとなく幸運を願ってした行為だった。
 いつか夢がかなってふり返ったときに語るちょっとしたエピソードにでもなるかな、なんて思いながら。

 それから青年は大きな樹の下のベンチに座った。 
 いちばん濡れていないベンチがそこだった。

 休日のせいか、それとも夕方までは雨だという予報だったせいか、公園には青年と鳩たちしかいなかった。
 そこへ毛並みの美しい白い猫が木陰からあらわれた。
 そのとたん鳩たちはいっせいに飛び去ってしまった。

 白い猫はまるで邪魔ものを消すかのように公園内をせわしなく歩きまわっていた。
 ひととおり公園内を見てまわった白い猫は、こんどは青年のそばまでやってきた。
 白い猫は青年の恰好を見さだめるようにして通りすぎてゆくと、あわれたときとおなじ木陰のその向こうへと一度もよそ見することなく去って行った。

 なんだか妙に気になって、青年はあらためて自分の恰好を点検してみた。
 着古したダウンコートにチノパン。
 底がななめに擦り減ったスニーカー。
 生れつきのさらさらのストレートヘアで風にみだされても気にならない髪だったが、一応手ぐしでととのえた。
 その髪と中性的な顔立ちから歳は10代後半にも見られがちな青年は、数日前に27歳になったばかりだった。

 青年がそこのベンチに座ってからかれこれもう一時間以上は経っていた。
 なのに青年はマネキンのようにずっとおなじ姿勢のままでいて、その瞳は遠くの一点だけ、そう黄金に輝く女神像だけを、ただじっと見つめていた。

 とそのとき、青年に向かって一陣の風が吹いてきた。
 その風は冷たくも暖かくもなかった。
 自然の風とはあきらかに違う、いわばベールのような風だった。

 最初の風は挨拶がわりといった感じだった。
 やあ、とかるく肩をぽんとたたいて去って行ったような、そんな感じ。

 それからまたやや間があってつぎの風がやってきた。
 こんどの風はながく吹き続き、青年のからだをくるむようにしながら通り過ぎて行った。

 なんて心地のよい風なんだろう。
 すべてが許され、そしてすべてが祝福されているような気分だった。

 おのずと目を閉じていた青年の耳に、ふとどこからかフルートらしき音色が聴こえてきた。
 どうやら風の中にそれが流れているようだった。

 その音色というのは、閉じ込められた塔の上に続く階段のように、メロディーが螺旋状に移ろいながら進行していた。

 青年に届けられた、風のたより。

 開いてみると音が流れはじめるグリーティングカードのように、青年の耳にははっきりと風のメロディーが聴こえていた。

 青年はその美しいメロディーのとりこになった。
 忘れまいと、青年は心の中の五線譜にしっかりとそのメロディーを書き留めた。

 数えてみるとそれは7つの音で構成されていた。
 青年は思った。
 もしも虹の7色を、ピアノの鍵盤にみたててひとつずつ順番に鳴らしていったら、きっとこんなメロディーになるんだろうなと。

 青年はカードマジックを得意とするマジシャンで、ステージ上では、手の中からありえないほどの無数のカードを一枚一枚つぎつぎと出現させるマジックをメインに披露していた。

 しかしいま青年は、先月には所属していた東京の芸能事務所を辞め、住んでいた高円寺のアパートもすでに引き払って、この頃病気がちで入退院をくりかえしている実家の母のもとへと一時的に帰ってきていた。

 そこには祖父と祖母もいて、青年の部屋の片隅には、東京から送ったいくつかの段ボール箱が手つかずのままそこに置かれてあった。

 若くして病に倒れた青年の父親も新進気鋭のマジシャンだった。
 大掛かりなマジックを得意とする天才的な奇術師で、甘いマスクと飾らない人柄でテレビでも活躍していて人気もあった。

 結婚して一年も経たずに夫を亡くした青年の母は、まだ生後半年にも満たなかった青年を連れて、東京のマンションから実家へともどった。

 母と祖父と祖母にかこまれて青年は育ち、地元の大学まで進学すると、そこで中学の数学の教員免許を取得した。
 教員免許はいうなれば夢に向かうための免罪符だった。

 子供の頃から父への関心と好奇心からひそかにマジックの研究と練習を毎日のように重ねていた青年は、自分もマジシャンになることをある日母に告白した。

 息子が父の夢の続きを歩いてくれることを母はとても喜んだ。 
 青年はもっともっと母を喜ばせようとプロのマジシャンへの登竜門である新人コンテストに出場するとそこでみごとに優勝した。

 青年はそのコンテストでの優勝がきっかけで東京の芸能事務所の目に留まり、そうしてプロのマジシシャンとしての第一歩を踏み出していった。

 その事務所の社長は社員時代に青年の父親に世話になったことがあるらしく、そのことを懐かしそうに青年に語った。

 青年は経緯もあるので事務所を辞めたことは母には話さないでおくことにした。
 そのかわりに、来週から別府の大きなホテルに出張してショーをやることになったという話をした。
 でもそれはほんとうのところは、青年とは地方のイベントで知り合い親しくなったひとつ年上の、はんぶんねこという大道芸人の友人から紹介された仕事であった。

 かれはそこのホテルの経営者の次男坊だった。
 生まれつき左目をおおうように痣があったせいでかれは幼い頃にひどいいじめにあった。
 そうしたかれを勇気づけたのはホテルのショーにやってきていたピエロだった。
 素顔を隠したピエロはなんでもできた。
 ジャグリングやマジックもこなすオールラウンダーで、そのすべてを組み込んだ感動的な演出はたちまちかれを夢中にさせた。
 かれは父親にピエロの楽屋に連れていってもらった。
 ピエロはかれの痣を勇者のしるしだと言った。
 そのことをキミが証明するんだと。

 そうしてかれは、顔半分に顔半分のねこの仮面をつけたはんぶんねこというピエロのようなパフォーマーになった。

 青年とかれは出会うとたちまち意気投合し、それからはプライベートでも親交を深めていった。
 新しいマジックができたらお互いに見せ合ったりした。
 悔しいことも楽しいことも、一緒に経験した。
 夢もよく語り合った。
 青年の夢の行き先はラスベガスで、かれの未来図は日本中の小学校をまわることだった。

 青年に仕事が入らなくなったのは、女帝と呼ばれるプロモーターに会ってからだった。
 実際に業界に入るとなおさらさまざまな噂を聞くようになる。
 彼女に関してもそう。
 彼女はかつてはモデルで、イベントで知り合った青年の父親とつき合っていた。
 青年の父は東京では彼女と、地元では青年の母と関係を続けていた。
 
 青年の母の妊娠で身をひくかたちとなった彼女はすぐさま転身してプロモーターとなった。
 どうやらある大物プロモーターの息がかかっているようだった。

 青年の父と母の結婚生活は一年未満と短いものだった。
 いっぽう彼女はしだいにプロモーターとしての頭角をあらわしていったが、それと同時に彼女のまわりにはつねに不吉な死の噂もつきまとっていた。

 彼女に敵対する人間や、意向に反する行動をとったパフォーマーらが相次いで一年以内に不慮の死を遂げていることがそうだった。

 それは偶然と言うにはあまりにも続きすぎていた。
 そしてそのうちだれも彼女に歯向かう者はいなくなり、いつしか彼女は女帝と呼ばれるようになっていた。

 青年がプロとなって五年が過ぎた頃、青年は都内のビルの中にある劇場での仕事の際に、事務所の人間を通して上階のある一室へと呼び出され、そこではじめて彼女と対面した。

 応接セットのみの殺風景な小さな部屋に入ると、ブルーのスーツを凜と着こなした彼女は窓際に立ち、窓の向こうのトワイライトタイムのビル群をずっと眺めたままでいた。

 青年が挨拶をすませると、彼女は座りなさいとぞんざいな口調で命令した。
 青年がソファーに座ると、彼女はそこでようやくふり向いた。

 美しかった。
 母の美しさとはまた別の洗練された美しさだった。

 彼女はわたしの噂は耳にしているかと聞いた。
 青年は父とのことですかと答えると、知ってるなら話がはやいと本題に入った。

 それは彼女のもとで働けというものだった。
 プロモーターの仕事を一から教えてあげるからと。
 青年は話の筋がよくのみこめなかったが、青年のそういう様子を見て彼女はこう言った。

 あなたにはマジシャンとしての才能がない。
 父親には遠く及ばないし、近づくこともできない。
 そもそも華がない。
 あなたの父親のすぐそばにいて、これまで数多くのマジシャンを見てきたわたしが言うのだから間違いない。
 このままパッとしないままそこそこのマジシャンで終わるのは目に見えている。
 なによりも運悪くその程度のマジシャンのマジックを見せられてしまう観客が気の毒でわたしは我慢ならない。
 すぐに答えなくていいからよく考えなさい、と。

 青年は顔を真っ赤にして立ち上がると、考えたくもないです、と言い放ってドアを激しく閉め部屋をあとにした。

 それからというもの、冷遇は青年に対してだけでなく、しだいに事務所の他のタレントたちまでもが青年の巻き添えになるかたちで干されるようになっていった。
 打開策として事務所の社長は社長室で青年にマネージャーとしての道を提案してくれたが、青年はこれ以上迷惑はかけられないとその場で事務所を辞めることを伝えた。

 それからはパフォーマーの派遣会社に登録してみたりしたが、やはりというか、青年にはいっさい依頼の連絡はこなかった。
 青年の青春のすべてをかけたものが終わろうとしていた。

 しばらくして、青年が事務所を辞めたと聞きつけたはんぶんねこのかれが青年に連絡してきた。
 別府のホテルの専属マジシャンにならないかという話だった。
 ショーだけでなく、結婚式や宴会、バーなどでも披露できるからいい経験になるんじゃないかなと。 
 しかし条件があるとかれは言った。

 専属ではあるが、空いてる時間があればショーのスタッフすなわちホテルの従業員としても働いてほしいとのことだった。
 そのほうがちゃんとボーナスも出るしね、とつけくわえて。

 最後には、好きなだけいていいし、なにかやりたくなったらそれに挑戦すればいいとも言ってくれた。

 青年は胸がいっぱいで、声をつまらせながらただただ感謝の言葉をくりかえすことしかできなかった。

 青年はそこで懸命に働き、一から出直す決意を固めた。

 風のメロディーがやんだ。

 青年はつむっていた目を開けると、目の前には、カウチンセーターにジーンズ姿の、10代半ばくらいのショートカットヘアの少女が立っていた。

 少女はどこかワクワクした表情で青年を見下ろしていた。
 少女のその透きとおるような純粋無垢な美しさはこの世のものとは思えないほどだった。

 一瞬、公園をかこむ樹々の葉がざわめいたが、すぐに静かになった。

 気温は今朝の天気予報では最高でも一桁台だったが、ハッとして思わず目を伏せた青年のひたいには汗がにじんできていた。
 ハンカチで汗をぬぐいながら青年はそれとなくまた少女の顔に目をやった。

 目が合うと彼女はふわりと微笑んだ。

 青年も微笑むと、少女はさらに輪をかけてはじけた笑顔を青年に見せるのだった。

「マジックやって」
 と少女が言った。
「えっ?」
 と青年は驚いて言った。
「ぼくのこと知ってるの?」
「もちろん」
「へえ~」
「なにがへえ~なの?」
「めずらしいなって思って」
「なにがめずらしいの?」
「いや、ぼくがマジシャンだって知ってることが」
「有名よ」
「そうかな?」
「そうよ」
「ほんとに?」
「こまかいことはいいじゃない」
「うん、まあそうだね」
「マジックやってよ」
「トランプしかできないけど」
「トランプがいい」
「それなら」

 青年はどこかウキウキした気分になっていた。
 求められて、それに応えるよろこびを感じるのはほんとうにひさしぶりのことだった。

「リターンカードをやるね」
「うん」
「もう乾いてるみたいだからとなりに座って」

 青年はベンチの端に移り、少女は青年のとなりに座った。

「知ってる? リターンカード」
「あれでしょ? よく見るやつ」
「そうそう」
「知ってる」
「じゃあ、とりあえずそれを」
「うん」

 青年はポケットから箱に入ったトランプを取り出した。
 箱からカードの束を出すと、箱はポケットへともどした。
 青年はカードをよく切って、いちばん上のカードを少女に見せた。

「おぼえた?」
「おぼえた」

 青年はいったん少女に見せたカードを束の上にもどしてから、いちばん上のカードを束の真ん中あたりに差し込んだ。

「さてと、おまじないをかけてみて」
「わたしが?」
「うん」
「なんでもいいの?」
「いいよ」
「ニャー!」
 と少女は両手をかざして言った。
「ほらっ、いちばん上にさっきのカードがもどってきたよ」
「ほんとに?」
「めくってみてごらん」

 少女がめくると、それはさきほど少女がおぼえたカードだった。

「うそー!」
「リターンカードです」

 少女のその表情はなんだかはじめて見るような驚きのまま固まっていた。

「……もっかいやって」
「いいよ」

 青年はカードをよく切って、いちばん上のカードを少女に見せた。

「おぼえた?」
「おぼえた」

 それから青年はさっきとおなじ手順をくりかえした。

「おまじ……」
「ニャー!」

 少女はさっきとおなじおまじないをかけた。

「よしっ! かかったよ。めくってみて」

 少女がひやひやしながらめくると、やっぱりそれはさきほどおぼえたカードだった。

「なんで?」
「おまじないがきいたんだね」

 少女は拍手した。

「ありがとう」
「もういっこやって」
「いいよ」

 青年はカードをよく切って、裏のまま少女に束を渡すと、少女に背を向けた。

「1から13までのあいだで、きみがいちばん好きな数字を当てるね」
「うん」 
「その好きな数字の枚数だけ、裏のまま一枚ずつ重ねて置いていってくれるかな」
「一枚……」
 と置いていく少女。
「声に出したらわかっちゃうよ」
「あっそっか」

 少女は声に出さずにカードを重ねていく。

「置いたよ」
「じゃあね、手に持ってる残りのカードの上に、置いたカードをそのままのせてくれるかな」

 そうする少女。

「のせたよ」 

 青年は少女のほうに向き直し、ありがとうとカードの束を受け取ると、その束の下半分を少女に渡した。

「その中からさっきとおなじ好きな数字のカードを一枚えらんでくれるかな。マークは関係なしに、その好きな数字のカードを一枚だけね」
「うん」

 少女は一枚えらび出し、青年も手に持ってる上半分の中から一枚えらび出した。

「1、2の3で、見せ合おっか」
「いや~なんかドキドキしてきた」
「じゃあ、いい?」
「うん、いいよ」
「1、2の3」 
 と青年が言って、ふたりカードを見せ合った。

 青年が出したカードはスペードの7で、少女の出したカードはクラブの7だった。

 近くのバス停の前に青年と少女だけが立っていた。

「ねえねえ、どうしてわかったの?」
「まいったな」
「教えておねがい」
「うんとね、ぼくはものすごく耳がいいんだ。だから、何枚重ねたのか音でわかるんだよ」
「ほんとに?」
「ほんとに。だからきみの鼻息もよく聞こえる」
「いやだ!」
 と少女は勢いよく青年に肩で体当たりした。

 青年はその勢いにおされて倒れてしまった。

「ごめんなさい。だいじょうぶ?」

 青年はすぐに起き上がり、平気平気と微笑んだ。

「変なこと言うから」
「ごめん。冗談がすぎたね」
「もう」
「タネはあるよ。どんなマジックにも」
「タネを聞くのはルール違反よね。ごめんなさい」
「ううん」
「マジシャンなのね」
「じゃないとぼくではなくなるからね」
「そっか」
「ところで、きみはこの街のひとなの? 」
「たぶん」
「たぶん?」
「そう、おもってるの」
「そう」
「あっ!」

 少女は突然声を上げた。

「どうしたの?」 
「海が見たい」
「海?」
「うん、海」
「そうだな、行き方はね」
「連れてってくれる?」
「えっ、いま会ったばっかりだよ」
「ないの、わたしには時間が、ないの」
「そう……」 
「だから、おねがい」

 青年と少女は港にいた。
 少女は埠頭に立って海を見つめている。
 潮風が彼女の短い髪をゆらすのを、青年は少し後ろから見ていた。

「きもちいい……わたしね」
「うん」
「生まれたときから、髪の毛がないの」
「えっ」
「髪の毛……これね、かつらなの」
「そう」
「そうなの」
「言わなきゃわからないのに」
「言わないとわからないでしょ?」
「まあそうだけど」
「知っておいてほしかったの」
「うん」

 港近くにある遊園地のメリーゴーラウンドに少女が乗っている。
 青年もこれくらいならお金は出せた。

 少女はそばで見ている青年の前を通過するたびに手を振った。
 
 青年はぎこちない笑顔で応えていたが、少女が投げキッスをすると、さすがに照れて下を向いた。

 港のバスターミナルのベンチに青年と少女が並んで座っている。
 つぎのバスがくるあいだ、青年は少女にあるカードマジックを見せることにした。

「今日の記念に、きみにカードを一枚プレゼントしたいんだけど」
「すてき」
「なにがいいかな?」
「うんと、ダイヤの7」
「ダイヤの7だね」
「なんか、指輪みたいだから」
「いいね。じゃあ、ダイヤモンドの7をきみに」

 そう青年は言うと、ポケットから一枚のカードを取り出した。  
 それはダイヤの7だった。
 ダイヤの7のカードだとわかって驚く少女に青年はそのカードを差し出した。
 少女が受け取ろうとすると、カードはパッと消えてしまった。

「えっ?」
「受け取ってくれた?」
「ううん。消えちゃったよ」
「おかしいな」

 カードは青年がさっき差し出した反対の手のほうにあった。

「ああ、こっちにあった」
「いやだ、なんで、うそ」
 と少女は楽しそうにしている。
「じゃあ、もういちど渡すから受け取ってね」
「うん」

 青年はすばやくカードを持ちかえると、ふたたび少女に差し出した。
 少女が慎重に受け取ろうとすると、またもやダイヤの7のカードは消えてしまった。

「もう、いやだ、信じられない」
 と少女はケラケラと笑いながら言った。
「受け取ってくれたね」
「ううん」

 少女はすばやく青年の反対の手を見る。

「あれ?」

 青年は両手を見せて、カードを持っていないことを証明した。

「消えちゃった」
「きみにちゃんと渡したよ」

 少女は、きょとんとした顔をしている。

「上着のポケットの中を見てごらん」

 少女はまさかといった表情で、まず右のポケットに手を入れてみた。
 が、そこにはなかった。
 つぎに左のポケットに手を入れてみると、少女の目が見開いた。
 おそるおそるポケットから取り出すと、それはまぎれもないダイヤの7のカードだった。

「すごい」
「今日の思い出にね」
「永遠の思い出よ」
「よかった」
「ありがとう」
「これくらいしかできないから」
「ううん。うれしい」

 目的地行きのバスがやってきて、ふたりの前に、停まった。

 ふたりは商店街を歩いていた。 
 少女はひとつひとつの店を興味深そうにのぞきこんで見ている。
 と、少女が足をとめた。
 そこはショーウィンドウの前だった。
 ガラスの向こうには、最新ファッションに身をつつんだ女性のマネキンがあった……


 学生服などを売っている街なかの通学路に面した衣料品店。
 店頭には、ワゴンの特売品などに並んで、看板娘のように制服を着た少女のマネキンが置かれてある。
 その店の前を歩いて帰宅する、青年の小学生時代、中学生時代、高校生時代、そして大学生時代の姿が、つぎつぎとよみがえってくる。
 大学生の青年が、少女のマネキンにふり向く様子が、スローモーションになる……


 少女は少しだけ目に光るものを浮かべたままふり返って青年を見た。

「歩いてばかりでごめんね」
 少女が言った。
「気にしないで。つきあうから」
 と青年は言うと優しく微笑んだ。
「いいの?」
「ぼくにとってはこのほうが都合がいいから」
「そっか」
「でもハンバーガーとジュースくらいはおごれるから、ちょっと休んでく?」
「だいじょうぶ。ありがとう」 
「おなかすいてない?」
「平気」
「のどは?」
「だいじょうぶ」
「そう」
「一秒でも歩いていたいの」

 少女はそう言って微笑むと前を向いて、またひとつひとつの店をながめはじめた。

 夜になった。
 ふたりは電波塔のふもとにある公園の街灯に照らされたベンチに並んで座っていた。

「暗くなっちゃったね」
 青年が言った。
「あっという間」
 少女が答えた。 
「遅くなったから送っていくけど」
「ここでいいの」
「遠慮しなくていいんだよ。ほんとなにかあったらあれだから」
「わたしはだいじょうぶだから」 
「ほんとに?」
「ほんとに」 
「そっか」  
「ねえ」
「うん」
「ぼくなんかでよかったのかな」
「風のメロディーが聴こえたでしょ?」
「うん」
「美しかったでしょ」
「すごく」
「心を開いてくれたから聴こえたの。心が氷のように固まっていたら、決して聴こえないメロディーよ。やわらかで、しなやかなその心があるからよ」
「きみは風をあやつれるんだね」
「動けないわたしに、風はいろんなことを教えてくれるわ」
「ぼくのたよりが届くといいな」
「きっと届くと信じてる」
「ありがとう。そうなるようがんばるよ」
「うん。今日はつきあってくれてありがとう。いちばん大切な日になった」 
「大したことできなかったけど」
「つきあってくれたことが大したことよ」
「ならいいけど」 
「夢がかなったのよ」
「よかった」
「夢をかなえてね」
「かなうかな」
「かなえることができるのは、生きているこの世界だけよ」
「そうだね」
「いまはわからないかもしれないけれど、あなたにゆだねられてるものに気づいている人はいるのよ」
「人間はみんななにかをゆだねられてるのかな?」
「みんなね。だから守ろうとしてくれてる人をまちがえないでね」
「なんかすごい秘密を教えてくれたみたいだね」
「わたしの髪の毛よりはるかにね」
「なるほど」
「わたしの秘密はないしょだからね」
「もちろん」
「よかった」

 そう言って少女はニッコリと微笑むと立ち上がった。   
 青年も立ち上がった。
 ふたりは向かい合い、見つめ合ったままになった。

「わたしを思い出したら、風を感じてね」
「いつも思い出すよ」
「うれしい」
「また」
「うん。また……」
「それじゃあ」
 と青年が言った。
「それじゃあ」
 と少女は言うと、手を振り、そして暗闇の中へと去って行った。

 それから10年近くの歳月が流れた。

 本名からレインボウと名を変えた彼は、いまやラスベガスで公演するほどの世界的に有名なマジシャンとなっていた。

 彼は地元での公演のため数日前からスタッフたちとともに市内のホテルに滞在していた。
 街かどの掲示板には、レインボウ&はんぶんねこ夢のコラボレーションと書かれたマジックショーのポスターが貼られてあった。

 彼はリハーサルの合間をぬって祖母に顔を見せ、母と祖父の墓参りをすませ、それからあの日少女と行った商店街を歩いてみたりした。

 あれから、あの日の少女に彼は会うことはなかった。

 どこかあの公園の近くの病院に入院しているのかもしれないと思ったりもしたが、少女の思い出を汚しそうでさがさなかった。
 少女に会ってから一週間後に、彼は別府へと向かった……。

 公演が終わった翌日、午後の澄んだ青空の下、サマージャケットにジーンズ姿の彼は、少女と出会った公園のあの日とおなじベンチに座っていた。
 靴は本革のワーキングブーツを履いていた。

 彼は思い出したようにジャケットのポケットからクリアケース入りのトランプを取り出して、しばらくのあいだそれをじっと見つめていた。

「おじさんはマジシャンなの?」

 彼の目の前には幼稚園児くらいの女の子が立っていた。

「そうだよ」
 と彼は答えた。

 そこへその子の母親がすいませんとやってきた。

「おじゃましてしまって」
「いや、いいんですよ。お嬢ちゃんはマジックが好きかな?」
「うん」
「じゃあね、なにかマジック見せてあげよっか」
「見たい」
「あの、ひょっとして、マジシャンの……」
「ええ、まあ」
「やっぱり。だめよあいちゃん」
「いや、いいんですよ。練習になりますから」
「でも」 
「こどもの目は厳しいんです。ですからちょっとだけいいですか?」
「なんだかすいません。よかったね、あいちゃん」
「うん」

 彼は女の子に、あの日とおなじように格段に進化させたリターンカードを披露した。

 いつの間にか彼のまわりには人だかりができはじめていた。
 あつまってきたほとんどの人が彼を知っていて、みんながみんな笑顔や驚きの表情を浮かべていた。

 彼は深呼吸すると、心に刻まれたあの虹色のメロディーを口笛で奏でた。
 それは彼にチカラをあたえてくれるおまじないとなっていた。 
 彼は立ち上がって深々とおじぎをした。
 拍手が沸き起こった。

 近くの樹木の葉が一陣の風にゆれた。

 彼は持っていたカードの中からハートの7を取り出すと、それを華麗に空へと放り投げた。

 ハートの7は風に乗ってぐんぐんと上空に舞い上がってゆき、やがてどこかに消えてしまった。

 不思議そうな顔をして見上げていた人々がふたたび彼に目をもどすと、そこにはもう彼の姿はどこにもなかった。









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赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

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