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メイ
しおりを挟む初夏の夜に満月が点滅していた。
電飾がチラチラとついて音楽を伴いまわりはじめるメリーゴーラウンドのように、それはまるでなにかが動き出すサインのようだった。
ミチルがその部屋に入ったとたん、室内の照明が一斉についた。
部屋の中央には白いタキシード姿の、ミチルよりはひとまわりは下に見える二十歳くらいの、エキゾチックでとてもキレイな顔立ちをした青年が立っていた。
入口のところにいるミチルからその青年紳士まではかなりの距離があったが、ミチルがまばたきを一度したあいだに、青年紳士はあっという間に3メートルほどそばまで近寄ってきていた。
ふしぎなことに、ミチルはそのことに驚くよりもなぜか、青年紳士がつけていた蝶ネクタイの色がよく見ると黒ではなく、こげ茶色だったことに気をとられていた。
「ベンジャミンです」
と青年紳士が言った。
「さあ、こちらまで。部屋のまんまんなかまで、さあどうぞ」
青年紳士の気品のあるたたずまいと、甘いハスキーな声に一気にリラックスした気分になったミチルは、とりあえず彼の言葉にしたがうことにした。
青年紳士のあとをついて行きながら、ミチルはあちこちと部屋を見渡していたがドアらしきものはどこにもなかった。
それからミチルはふと、自分がヘアメイク中のいつもの着慣れた仕事着でいることに気がついた。
するとそのとき青年紳士がぴたっととまったものだから、ミチルはあやうくまともにぶつかりそうになったが、とっさに両手をひろげ、爪先立ちしてなんとかギリギリ踏みとどまることができた。
このままではいくらなんでも青年紳士とはあまりにも距離が近すぎるので、ミチルは息をとめたままゆっくりと、一歩、さらにもう一歩と、忍び足でそのままうしろにさがって行った。
「ミチルさんですね」
青年紳士がふり向きざまに言った。
「そうです」
とミチルは立ちどまると同時に言った。
「ギャラリー6へようこそ。愛を知る場所へようこそいらっしゃいました」
「それは、どうも」
「……どうされましたか? だるまさんがころんだみたいになってますけど」
ミチルは動きをとめたままだった。
「ああ。つい」
とミチルは言うと、もとに戻った。
「まあ、そうゆうこともあるでしょう」
「そうゆうこともあるんですか?」
「特にいまの状態では。それに、記憶というのはいつだって気まぐれによみがえってくるものですからね」
青年紳士はそう言ってにっこりと微笑んだままでいた。
「ええと」
ミチルは間がもたず言った。
「はい」
と青年紳士は真顔になって返事した。
「あの、まずはどこから聞いていけばいいかわからないんだけど、とりあえずさっき、なんとかシックスとかおっしゃいましたか?」
「ええ」
「なんですか、それ」
「ギャラリー6ですか?」
「それです」
「ギャラリーとは、もちろん展示室という意味でもありますが、そもそもは廊下の機能を兼ねた部屋という意味でもあるのです」
「へえ~」
「おわかりいただけましたでしょうか?」
「ギャラリーの意味はわかりました」
「おそれいります」
「だけど、それにシックスがついてるからちょっとまだいまいちね」
「シックスは数字の6のことでございます」
「そうですか。なんかよかった」
「よかったですか?」
「ええ。ここが一応まともなところで」
「突然このような場所へこられたらそのように思われるのも当然です」
「6より7のほうが好きだな」
「美しいものは7ですからね」
「わかってるね。虹の色は無限だけど美しいから7色にしたって話じゃない」
「音楽も無限にあるなかから7つの音を選んだ」
「もっと美しいものがあるよ」
「なんでしょう」
「うんとね……あれ、思い出せない。なんだっけな。言っておいてなんだよって感じだよね。ごめんごめん」
「そんなことはまったく思ってはいません。それを思い出すための部屋でもあるのですからお気になさらないでください」
「そうなんだ」
「はい」
「それじゃあ、あらためてって言ったらなんだけど、よかったら説明してもらえると助かるんですけど、ギャラリー6」
「かしこまりました。ギャラリー6、ご説明させていただきます」
「ありがとう」
「いいえ」
青年紳士はそう言うと、こんどはどこかしらコミカルな身ぶりをまじえながらしゃべりはじめた。
「現実世界では、ここ、ギャラリー6は、博物館のなかにある市民のためのいくつかある展示室のなかのひとつですが、こちらの世界では、さきほどももうしましたとおり、愛のありかを知る場所なのでございます」
「なるほど」
ミチルは深くうなずいて言った。
「ところでいま、こちらの世界とか言いましたか?」
「はい」
「つまりその、現実世界ではないと」
「そのとおりです。そのふたつの世界は、調和し共存して、完全なるひとつとして存在しているわけですが、ここは言わば、ふたつの世界をむすぶ廊下の機能を兼ねた部屋でして」
「ほら~やっぱり普通じゃないじゃないですか」
「ご懸念はごもっともです」
「えっ、死んだの、ぼく」
「死んではいませんよ」
「ほんとに?」
「ほんとうです」
「よかった……って言ってもいいのかな」
「もちろんでございます」
「でももうすぐ死ぬとか」
「死にません」
「ほんとうだね?」
「ここでは嘘はつけません」
「そうなの? えっ、もしついたらどうなるの?」
「死にますね」
「ほんとうに?」
「はい」
「言ってよ、そうゆうことは最初に」
「ごめんなさい。怖がらせたくはなかったものですから。でも、嘘をついたときには、死んでしまうことなりますよとは、一度はかならず伝えることにはなっております」
「うっかり嘘をついてしまったら?」
「この部屋の照明が赤くなって、それでベンジャミンがさきほどのセリフをお伝えするというような段取りになっております」
「それでほんとのことを言い直したらセーフ?」
「はい。照明はもとに戻って、セーフでごさいます」
「いきなり死ぬわけじゃないんだ」
「チャンスはありますね」
「チャンスをもらっても嘘つくひといるでしょ」
「たまに」
と青年紳士が言った瞬間に部屋の照明が赤くなった。
「なんなの!」
「嘘をついたらこうなります」
「息が、できないけど……」
「この部屋で二度つづけて嘘をつくひとはいません」
青年紳士がそう言うと部屋の照明はもとに戻った。
ミチルは大きく息を吸い込んだ。
「ですから、わたしの言うことばに嘘はないのです」
「嘘をついたのはぼくじゃなかったよ」
「すみません。かわりにわたしが。信じてほしくて」
「きみも苦しかったんじゃないの?」
「はい」
「あれではなかなか言い直すのもむずかしそうだね」
「そうですね」
「だけどこれで信じることができたからどこかホッとしたよ。ぼくは死んでもいないしもうすぐ死ぬわけでもない。そのことがはっきりとわかったんだからね」
「素晴らしい」
青年紳士は拍手をして讃えた。
「なんかうれしいけど」
「とてもよくご理解いただけてベンジャミンはしあわせです」
「そこまで言ってもらえると抱きしめたくなるよ」
「ベンジャミンはかまいませんが」
「いや、きょうはやめとくよ」
「ではいつか」
「うん、いつかね」
青年紳士はくるりとからだを一回転ターンさせ、微妙に変なポーズをきめてみせた。
「では、さらにわかりやすくご説明させていただきます」
「まだあるの?」
「ここからがメインです」
「まいったな」
「それではまず、数字の6ですが、6は完全数でして、完全数は調和数でもあるのですが、やはりその前に、完全数とはなにか。というところからはじめなければなりません」
ミチルは完全にかたまっている。
「言うなればその、完全数とは真の約数の和が自分自身になる数字のことなのです」
ミチルは市街地のなかにある木立に囲まれた『小さな森』というハウスウェディング会社でヘアメイクを担当していた。
彼はその前は大手チェーンのヘアサロンで働いていた。
専門学校を卒業してこの土地を選んだのには理由があった。
中学生の頃、実家の旅館に泊まりに来ていたある家族のなかにおなじ歳くらいの女の子がいた。
庭で白猫とあそんでいたミチルのところに彼女がひょいとやって来た。
猫をなでる彼女の髪の美しさにみとれたミチルは、思わずうしろからその髪をなでてしまった。
彼女は驚くどころか、ふり向いてニッコリと笑ったのだった。
どこから来たのと、ミチルは彼女に聞いた。
それからミチルは青春のありったけを、あの髪にもういちど触れるのためだけについやすことにした。
いっぽう、そのハウスウェディング会社でウェディングプランナーをしていた奈々子は、父親が経営するこの結婚式場がコストダウンのためそのほとんどを外注化していたなかで、なにかひとつこの式場だけのウリになるものが必要だと考えていた。
花嫁たちと触れ合うなかでミチルの名前はたびたび耳にしていた。
奈々子は予約を入れてミチルを指名した。
そうしてふたりはふたたび出逢った。
再会の日から約一年後、ふたりは『小さな森』で結婚式を挙げた。
ギャラリー6の部屋のある部分の壁だけが集中的に青い光を一瞬きらめかせては消えていった。
そうなるたびに青年紳士が楽しそうに華麗なタップを踏んで踊っていた。
そうしているうち壁がもう光らなくなると青年紳士は満足そうに一息つき、それからミチルのほうに半回転ターンさせてからだを向けるとこう言った。
「とても素敵なかがやきでした。すっかりもう準備はできたようですね」
「準備?」
「はい」
「ねえ」
「ええ」
「今日は、雨の音が聴こえないね」
青年紳士は少し視線をおとした。
「いま、気づいたんだけどね」
「それは、雨の音ではありません」
「そうなの?」
「ええ」
「そっか……それってやっぱり、準備ができたってことなのかな」
「そのようです」
「ねえ」
「はい」
「今日はそれに、なんだか眠くない」
「いいことです」
「ずっと、いつも、眠りたかったのに」
「あなたは、一日のうちの16時間はずっと眠りつづけていたのですからね」
「16時間」
「猫もそれくらい寝てます」
「どおりでいつも寝ているわけだね」
「猫には猫の寝る理由があるのです」
「うんと、例えば?」
「はい。その理由は71個ございます」
「わおっ!」
「ご説明させていただきます」
「ちょっと待って」
「はい」
「ごめん。またさっきの数字の6の説明みたいになりそうだよね」
「あっ、なるべく簡潔にお話しさせていただきます」
「いや、そうゆうことでもないんだけど」
「かいつまんで、ということで」
「かいつまんでも、どうかな」
「早口で」
「ううん。なんてゆうかな。そう。そうだ。いちばんの理由が知りたいな」
「いちばんの理由ですか?」
「いちばんの理由」
「71番目の理由のことですね」
「あっ、そうなんだ」
「いちばんの理由となるとそうなります」
「ということはつまり、そうたいした理由じゃないものから並んでいるわけだね」
「いいえ、どれも大切な理由です。ただ、71番目の理由がいちばんの理由なのは、70個の理由がそのためにあるからでして、それらの理由の説明なしには、71番目の理由は理解できないからなのです」
「ごめん。ぼくが間違ってた」
「いえ。ベンジャミンの言い方が悪かったのです。お許しください」
「とんでもない。うん。じゃあ、あれだね。この話もまたいつかね」
「わかりました」
「詳しいんだね、猫のこと」
「ある程度ですが」
「そう。じゃあね、話をもとに戻して悪いんだけど、眠くないのはいいことなんだね」
「はい、とっても」
「そっか。いつもと違う感じはなんだかとても不安でね」
「わかります」
「うん」
「で、ぼくは、どうしてこんなことになってるのかな?」
「おぼえていますか?」
「なにを?」
「あなたが仕事中に倒れられて、病院に搬送されてしばらく入院されていたこと」
「いや」
「そこはまだのようですね。あなたは、奥様の、彼女の記憶がすべてなくなっていたのです。もっと言えば彼女に通じる記憶もぜんぶ。それで、あなたは実家に帰ったほうがいいというまわりの方々の判断で、いまここに至っているわけなのです」
「彼女の記憶を、ぜんぶ?」
「はい」
「忘れるはずがない」
「ええ」
「忘れるなんて」
「もう忘れません」
「だって、おぼえてるよ」
「思い出すのをいま見てました」
「いま?」
「そのかがやきを、ベンジャミンは見てました」
「彼女のことはぜんぶ、思い出したのかな」
「あること以外は」
「あること」
「それを、わたしの手を握った時点で思い出します」
「手を握らない選択肢はないよね」
「彼女を助けたいですか?」
「もちろん」
「彼女はずっと宙ぶらりんのままです。理解していてもこころが言うことを聞かないのです。助けられるのは、あなただけです」
「わかった」
「よかったです」
「じゃあ、君とはここでお別れなのかな?」
「そうなります」
「ひょっとして、君のことは忘れてしまうのかな?」
「この部屋を出た瞬間に」
「これから起こることも?」
「はい。目覚めた瞬間に」
「残念だね」
「ベンジャミンも、とても残念です」
「もう会えないってこと?」
「ベンジャミンは忘れませんから」
「そう」
「はい」
「そっか……」
「それでは」
青年紳士はそう言って、ミチルに手をそえるようにとしなやかに左手を差し出した。
遠浅の入り江の海岸らしく白い砂浜が左右の岬のほうまでつづいていた。
そこには人影はなく、風もなかった。
ほのかにピンク色に染まった空には見たこともない姿をした大きな鳥がかなたの水平線から飛んできて、そしてミチルのはるか上空を過ぎ去って行った。
その鳥を目で追いながらミチルがふり向くと、そこには奈々子が立っていた。
セミロングのストレートの黒髪はそのままで、お気に入りのレモン色のワンピースを着て、足にはエメラルドグリーンのサンダルを履いていた。
奈々子はくちもとだけで微笑むと、ミチルに声を掛けた。
「ねえ、こっちにきて、座らない?」
ミチルはそっとうなずくと、彼女のとなりに並んで座った。
メトロノームのような正確さで、波音だけが、ただ聴こえていた。
「その、サンダル」
ミチルが言った。
「うん」
と奈々子は小さくうなずいた。
「あの日出張で持って行ったサンダルに、その服。そう言えば奈々子がいなくなってから、いろんな人から聞かれたことだった。そう、あの日になくなっていたもの……そのうちのふたつが、それだった」
「うん」
「聞かれるたびに、ぼくはほんとうは、君のことをまるで見ていなかったんじゃないかって、そう思うようになっていった」
「でもちゃんとおぼえてた」
「そうだね」
「おぼえててくれた」
「うん……」
奈々子が砂を手ですくって、砂時計のようににぎりしめた手のすきまから砂を少しずつこぼしていった。
ミチルはそれを静かに見つめていた。
時間は確かに流れているようだった。
奈々子は砂がなくなると、両手をかるくたたいて手についた砂をはらった。
それからミチルが言った。
「ああ、このへんって、けっこうシーグラスが見つかりそうだね」
「そうなの。誰もこないような浜辺にそれはあるのよ」
「うん」
「一度ね、シーグラスでサンキャッチャーを作って、あなたの誕生日プレゼントにしたかったの」
「そうだったんだね」
「素敵でしょ。海は、捨てられガラスびんを長い年月をかけて、宝石みたいにして返してくれるのよ」
「うん」
「だからね、それを使って、あなたといるときのわたしをかたちにしてみたかったの」
「そっか」
「あなたのこころを通ったときにだけ、わたしの気持ちは虹色にかがやくのよ」
「ぼくも、そうだよ」
「……よかった」
なにげなく、ミチルが奈々子の足もとに目をやると、いっぽうのサンダルがなくなっていた。
そんなはずはなかった。
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海に投げすてたなら、気づかないはずがない。
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片方のサンダルがなくなっていることを聞くのが怖かった。
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奈々子が言った。
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「……うん」
「それが、いま奈々子にはわかるんだね」
「ええ」
「ぼくにわかる日がくるかな」
「あなたなら」
「それって、何になるの?」
「……」
「それがいったい、何になるっていうの?」
「……ふせげる」
「ふせげる……何を」
「こぼれてゆく、命を……愛があつまって、愛以上のものになるのに、それができない」
「できない」
「そう」
「どうして?」
「おろそかにしてるから」
「何を?」
「命を」
「でも……」
「……」
「でも、奈々子の命以外を救っても、ぼくには無意味だよ。そう思わないかい? 奈々子が逆の立場でも」
「……」
「意味は、あるの? いちばん大切なものとひきかえに、誰かを救っても」
『小さな森』のコンセプトは永遠の一日というものだった。
一階にはチャペルや披露宴会場や控え室などがあり、二階にはオフィスやスタッフルームやヘアメイク室などのほかに、広いテラスに面したカフェがあった。
カフェは挙式の打ち合わせや来客用、さらには会議室としても利用されていた。
その部屋の壁には、ここで式を挙げたふたりのしあわせそうな場面のLサイズの写真が白いフレームに入れられて一面に飾られていた。
そのなかにはもちろん、ミチルと奈々子の写真もあった。
従業員がみんな帰ったところで奈々子の父親の幸彦は、廊下のつきあたりにあるオフィスの自分のデスクに座って窓ガラスのほうをじっと見つめていた。
満月の月明かりに照らされたかすかなシルエットの木立の葉が、ときおり風にそよいでいた。
幸彦のデスクの上には写真が一枚置かれてあった。
それは、片方のエメラルドグリーンのサンダルが、海岸の岩場のすきまの下の深いところにはさまってある写真だった。
奈々子が行方不明になったあと、依頼した探偵が撮った無数の写真のなかから見つけたものだった。
幸彦はその写真を見つけた瞬間に探偵に回収を指示した。
しかし、そこにはもうサンダルはなかった。
幸彦はなくなっている写真も確認し、そのことを警察にも報告した。
空はだんだんと夕陽の光を反映させていた。
「探し続けてもいいんだよね……あきらめなくて……ずっと、このまま」
奈々子はじっと前を見つめている。
「ああ、お義父さんもお義母さんも、奈々子の帰りを信じて待っている。ああ、奈々子のチーム心配いらないよ。奈々子も最初そうであったように、奈々子のチームはお義母さんがプランナーとしてサポートしてくれてるからね。だからもし、まだどこかで……」
「あのね」
奈々子はさえぎるように言った。
「わたしほんとうは、あなたを一緒に連れていきたかったの」
「そうしてくれてもかまわないよ、ぼくは」
それを聞いて奈々子は泣きだしそうな顔になった。
「でもね、できなかった。どうしてもそうさせないなにかがあって、それは、はじめは、とても小さな、そう、小さなぬくもりみたいなものだったけど、それがいつしか、あなたをくるむように全身にひろがっていったわ」
「ぬくもり」
「そう」
ミチルの両親と奈々子の両親は、ミチルの退院の日が決まったとき『小さな森』のカフェに集まった。
ふたりの籍はこのままにしておくこと。
ふたりの住まいだった賃貸マンションは解約し荷物等は奈々子の実家、つまり幸彦と久美子の家に保管しておくこと。
もしミチルが籍のことに気づいた場合は、ミチルの両親がいきさつを彼につつみ隠さず話すことなどが話し合われた。
それから半年ほど経ってから、奈々子の母親の久美子はミチルの実家へと向かった。
ミチルの様子をこの目で見て知りたかったのと、どうしても直接伝えておきたいことがあったからだった。
もしミチルの記憶が回復して『小さな森』に戻りたいと思うのなら、いつでも歓迎すると。
それは、夫が妻に託した伝言でもあった。
泣いてばかりいる妻にきっかけを与えたかったのかもしれない。
そんな夫の気持ちを、久美子はわかっていた。
だからこの旅で涙はぜったいに流さないと、久美子は決めていた。
ミチルの実家は半島の最南端の岬の海岸近くにある老舗旅館で、猫旅館としても人気があった。
猫がいる部屋があって、宿泊客はそこでふれあえるというもので全国的に固定客も多かった。
久美子がこの旅館を訪ねるのは三回目になる。
一度目は奈々子が中学生の頃。
二度目は奈々子がミチルとの結婚を切り出す前の、母と娘のふたり旅だった。
旅館は長男夫婦が手伝っていて、二度目に訪れたその夜、ふたりの客室にミチルの両親がやってきて、猫のおかげでお客さんがくるようになった話をした。
それはミチルが小学生のとき、公園にダンボール箱に入れられて捨てられていた真っ白なメスの猫をひろってきたことがはじまりだった。
名前は、メイ。
ミチルがつけた。
メイの存在が、観光客が減り経営危機に陥っていった旅館を再生させた。
メイはいまでも生きていて、彼女が産んだこどもたちはさらにこどもを産み、そのこどもたちはさらにこどもを産んでさまざまな人たちにもらわれて全国にちらばっており、助けられた命はそうしてたくさんの人々に喜びと元気をあたえているということだった。
画面のGPSによる位置情報がとある公園を示していた。
発信機を取り付けたショルダーバッグを襷掛けにして、小さな公園のベンチに座ってぼうっとしているミチルの後ろ姿がそこにはあった。
発信機は心配してついてくる家族を安心させるためミチルのほうから提案した。
久美子はミチルの父親の敏志に案内されて、そのミチルの姿を遠くから見つめていた。
ふいに敏志が、しあわせだったからですよね、とんでもなく、とつぶやいた。
それからふたりは公園を後にして人通りの少ない住宅街の路地を川のほうへと歩いて行った。
久美子はミチルの姿とさきほどの敏志の言葉が頭から離れないでいた。
並んで歩く敏志は久美子にそっと歩幅をあわせていた。
ふたりはやがて住宅街から川沿いの道に出て海のほうにと向かって行った。
「そう言えば、むかし猫を飼っていたそうですね」
敏志が言った。
「ああ、ええ、娘がまだ小学生だった頃に」
と久美子が少し微笑んで言った。
「ミチルから聞きました。シャム猫だったそうで」
「はい。知り合いの奥様から生まれたばかりの子猫を。夫とはじめたばかりの会社が忙しくて、娘といる時間もわずかな状態でしたから、寂しくないようにって」
「そうでしたか」
「ええ。でも、わずか一年ちょっとで、病気になってしまって」
「悲しんだでしょうね」
「それはもう。ベンジャミン、あっ、ベンジャミンっていう名前だったんですけど」
「オスでしたか」
「はい。オスの、とてもハンサムな猫で。身近な死ははじめてでしたから、よけいに」
「ええ」
「でもある日、あのコから聞いてきたんです。ベンジャミンは天国に行ったんだよねって。そうよって答えたら、じゃあまた天国で会えるねって。もちろんよって、ずっと待っててくれてるからってわたしは答えて。でもベンジャミンのように誰かにうれしいことをいっぱいしてあげないと天国には行けないから、そうしないとねって言ったら、パパとママのおしごとのように? って聞いてきてくれて」
「ミチルは見る目がある」
「いえ、奈々子のほうがもっと」
ふたりはなぐさめあうように少しだけ微笑みあった。
「メイちゃんでしたっけ、ミチルさんが」
「あ、そうですそうです」
「メイちゃん、奥様とはよくお電話でお話しするんですけど、メイちゃん最近はあまり元気がないって」
「そうなんですよね。ここ最近、だんだん毛が抜けてきていて、まあ、もうおばあちゃんもおばあちゃんなんでね」
「まるで、またミチルさんと過ごせる日を待ってたみたいですね」
「そうなんだと思います。むかしのまんまです。相変わらずミチルはメイとずっと話をしていて」
「それ、娘もそうでした」
「ああ」
「よくそんなに話すことあるなってくらいずっと」
「ふたりは馬が合ったんですね」
「きっと」
「たぶんメイには、明日も生きる理由があったのでしょう」
「明日も生きる、理由」
「ええ。わたしは感じるんですよね。メイにとっては、一日でも長く生きることが、ありがとうの大きさだったんだろうなって。そうした一日一日の命を、どんなに大切に抱きしめて生きてきたか。そのことが、いまミチルのそばにいるメイの姿をみて、痛いほどよくわかるんです……」
久美子はふとある光景を思い浮かべていた。
小学生のミチルが段ボール箱のなかをのぞきこむ。
子猫のメイがミチルを見上げる。
そしてそれは、奈々子とベンジャミンにとってかわる。
小学生の奈々子が身をかがめてケージのなかの子猫のベンジャミンを見下ろす。
見上げるベンジャミン。
ベンジャミンに話しかけている奈々子。
ベンジャミンは眠くてしょうがない様子……
「久美子さん。こちらです」
敏志が言った。
「ああ」
と海に誘われるように行き過ぎた久美子がふり返って言った。
ふたりは川沿いの道から海に出る手前で折れて路地に入って行った。
久美子はそこの海に、奈々子がいるような気がして立ちどまった。
「どうかしましたか?」
「あ、いえ。あの、ミチルさんはいつもあの公園に」
「ええ。ああ、あの公園ですよ、メイを見つけたのは」
「そうですか」
ふたりはさらに路地を曲がると、その向こうにある旅館の前でミチルの母親の圭織が大きく手をふっていた。
久美子も圭織に手をふり返した。
夕方の通り雨のあと海の上空には虹がかかっていた。
そしてやがて夜になり、空には満月がかがやきはじめた。
奈々子が静かに立ち上がり、あらがうようにゆっくりとした動きで波打ち際に向かって歩きだした。
ミチルも意識が遠のいてゆくなかで、ハッとして我にかえり、ふらふらと立ち上がって奈々子を追った。
奈々子は足を止め、ふり返ると、来てはだめだと首をふってミチルを制止した。
ミチルはいやだと、奈々子に手をのばして近づいていった。
奈々子は泣いていた。
ミチルは足が動かなくなった。
なにかに呼応しながら、そこに境界線ができていたように。
いくな、と言おうようとしたが、声もでなかった。
奈々子が泣きながら精いっぱいの笑顔をみせた。
その顔を見たミチルは泣いた。
夕陽のまぶしさが増して奈々子を見えなくしていった。
ミチルは叫んだ。
声にならない、絶叫だった。
やがてあざやかなオレンジ色の光がみちあふれ、ミチルをつつみこんだ。
まんまるい月の前を、とぎれとぎれの雲の一団が通り過ぎて行った。
部屋の出入り口の障子があけっぱなしにされた縁側のガラス戸から、わずかに満月の明かりが差し込んでいる。
ふとんでは、ミチルがタオルケットを抱きしめるようにして眠っている。
ミチルのかたわらには、ぴったりと寄り添うようにして、ゴロゴロとのどを鳴らしながら寝ているメイの姿があった。
0
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疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
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