相原伊織

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   傘

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 最終電車に揺られ、地下鉄の駅を降りると外は案の定雪だった。
 街灯に照らされた白い粒が見慣れた駅周辺の街並みにすでに五センチばかり積もり、辺りの喧騒をすっぽりと覆い隠していた。静かな夜だ…。僕はポケットからしわくちゃになったアメリカン・スピリットをひっぱり出し、火を点けて一息つくと、重ね着したパーカーのフードを被り、覚悟を決めて歩き出した。
 そう、今晩僕は傘を持っていないのだ。


             ❇︎


 僕はあるチェーン店のコーヒーショップにアルバイトとして勤めていて、その日はちょうどプロモーション・チェンジの日だった。季節の変わり目やクリスマス等のイベントの度に、一部のマグやらタンブラーやらドリンクやらの商品の入れ替わりがあり、その入れ替わりのことをプロモーション・チェンジと呼ぶ。商品の検品やディスプレイ、店内のポスターやメニューボードの交換等の一連の作業を僕が任されていて、新しい商品の発注やら商品を陳列するイメージやらの入念な下準備の末、切り替わり前日のクローズ後にそれらを実行する。そんなわけでプロモ・チェンジが行われた夜、新しい商品達はまるでグラミー賞授賞式を翌日に控えたピアニストのように気高く夜明けを待ち、僕は疲れ果てた見習い保育士のように最終電車に揺られるわけだ。
 今日は二月十四日で、それはバレンタインから桜をフィーチャーした春を連想させる商品への切り替わりだった。


             ❇︎


 二月十四日の朝はどんよりとした低い雲が空を覆っていて、窓を開けて外に出てみると細かい粒のあられが降っていた。ベランダの人工芝に落ちては三ミリくらい弾んで止まるあられ達は、まるで一粒ひとつぶが意思を持った猫用トイレマットみたいに見えた。部屋のスピーカーからはストロークスが朝にふさわしいギターアンサンブルを聴かせていた(…ストロークス…素晴らしいバンドだ…)。猫用トイレマットのようなあられ達はストロークスの音楽性の素晴らしさなどこれっぽっちも理解する気のないような冷めた面持ちで、次々に人工芝を三ミリ弾んでは腰を据えてこちらを見ていた。僕は彼らの視線に耐えかねて、でもそれを悟られないように気を付けながら注意深くゆっくりと窓を閉めた。まあいいさ。好みというものは何者にもある。それこそもしかしたら、無数の猫用トイレマット達の中にも一粒くらいはストロークスに聴き入っている者がいたかも知れないじゃないか? …まあ、いいさ。
 今日はバレンタイン・デーで、仕事は十七時からだ。そして、九時には駅で恋人と待ち合わせをしている。子どもの頃から使っている水色の壁掛け時計に目をやると、長針は自慢気に三十分を指していた。八時半…。駅までは五分。着替えと朝食で二十分、歯を磨くのに三分だ。ストロークスも満足して演奏を終えた。


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 彼女は九時きっかりに待ち合わせ場所に現れた。淡い色のニットにチャコール・グレーのピーコートを羽織り、右手にブラウンのフェイクレザーのハンドバッグ、左手にチョコレートらしき物が入った紙袋を下げていた。僕が袋の中身を想像したのを見透かしたように、彼女は左手を肘の高さまで上げてみせた。やれやれ。僕はバレンタインというものが昔からどうも好きになれない。そもそも、チョコレートを売る企業の戦略がなぜ我々の暦にまで介入してくるのだろう? 搾り取られるのはまっぴらだ…と僕は思った。ビール、煙草…発泡酒から第三のビール…そして、煙草…。とてつもなく大きな存在に搾取されているような…、いや、もっと酷い。人生をコントロールされているような気分になって、僕はその度に心の底からうんざりした。二月十四日、バレンタイン・デー、大衆の煽動…そして、プロモ・チェンジ…。
 やれやれ、と僕は思った。


             ❇︎


 フードを被り、覚悟を決めて歩き出した直後、深夜の雪はさらに強くなった…。


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 彼女と付き合い始めて三年が経とうとしているが、僕は彼女のことが好きだ。
「愛している」という言葉を初めてつかったのは彼女に対してだった。僕が初めて女の子と寝たときその相手は彼女だったし、それは彼女にとっても同じだった。愛しているという台詞は文字にしてしまうとどこか薄っぺらく馬鹿げて見えるけれど、それはごく自然に出てきた言葉であり、同時にそのときの僕の心のありようを言葉に移し替えるにあたって一番ふさわしい単語であったように思う。愛してる…
 僕はこれまでに何人かの女の子(あるいは女の子と呼ぶにはいささかお年を召された女性)と寝たが、その中の誰一人に対しても「愛してるよ」などと口走ったことはない。それは今となっては僕唯一の免罪符であるように思う…。だって、本当に無いのだ。愛してなんかいないし、「好き」なのかどうかも怪しいところだ。男女のある種の好意と好意が出逢ったとき、起こるのがセックスだと僕は考えている。それは例えるならこういうことだーーーーーと、僕は思う。ーーーーー我々の国では血みどろの内戦が日常だ。世界的に見ても大きな国ではないけれど、もともとはそれぞれの農家が真心込めて育て上げた良質なコーヒー豆が人々の主要な収入源であり、それは国にとっても同じことだった。あるときコーヒー好きのバンド、ストロークスと紅茶好きでコーヒー嫌いのイングウェイ・マルムスティーン伯爵軍が火花を散らし、名もない善良な市民が理不尽に虐殺される紛争が勃発した。先に手を出したのは紅茶派だったが事態は深刻化し、やがては国全体が血で血を洗う地獄絵図と化してゆく…。自爆テロすら相次ぐ瓦礫の街並みの中、ある若い(あるいはそれほど若くはない)男女がばったり出逢う。あぁ、あなた、生きてらっしゃるのね。君こそ、よくぞ無事で。その場面で各々が「生きている」という輝かしくも儚い事実を確かめ合うために行う〝生〟の行為……それこそがセックスだーーーーー。
 その日、彼女とは二回のセックスを行ったあとで、僕は宿命のプロモ・チェンジに赴いた。


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 十七時に仕事に入ると、まずは通常の接客のオペレーションをこなした。僕の勤めている店舗は明治神宮の真下に位置しており、外国人の観光客やら代々木体育館の催し物にやってくる日本人客やら、神宮へお参りに来たのよ、当たり前じゃない。という顔をした大日本帝国国民やらでいつも賑わっている。二時間ばかり後で、外国人や日本人や大日本帝国国民がそれぞれ申し合わせたようにコーヒーカップを空にすると、見はからったように店長からGOサインが出た。僕はプロモ・チェンジに向けてバックルームで検品や練り上げたディスプレイの確認に取りかかった。今回のそれは難易度としては中の上、もしくは上の下といったあたりで、入荷件数や入れ替わりで入る新しいドリンクメニューの数でいうとまずまずのものだった。しかし、コーヒー豆や小麦を使った商品の度重なる原価高騰が企業努力だけではどうにもならなくなり、価格改定の波がついに我が社にも押し寄せてきた。価格改定の告知POPやら新しいメニューボードの準備やらで、我々アルバイトも対応に追われるプロモ・チェンジだったわけだ。客が引き、クローズ後に仕事に取りかかると、思いの外それが一筋縄ではいかないことを思い知らされる。
 まず、価格改定の関係で相対的にいつものプロモ・チェンジより仕事量が増えていた。にもかかわらず、シフトインしている人間の数はいつもと変わらなかったのだ。閉店間際に値上げに喰ってかかるお客への対応を自分がさばきながらも、その間にそちらの作業を進める従業員がいなかった…。
 そしてマグカップやタンブラー等の納品数が、前回より大分多かった。桜のモチーフは毎年大変な人気なのだ。オールダウン後に棚に陳列し、さらに在庫の保管場所を決めて個数を明確に記すことに、いつもより幾分時間を要した。
 僕が言いたいこと、要するにキーポイントは、「プロモ・チェンジ班」と通常業務の「オペレーション班」とで、先に帰路についたのが当然の如く後者だった、ということだ。


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 オペレーション班として業務を終え先に上がったのは二人だった。残されたのがレジ締めと店の戸締まり等の最終的な確認を行う店長………そして僕だ。
「お疲れ様です☆」
と同期で一つ歳下のユミちゃんが僕に声を掛けた。
「お疲れ様。気を付けて帰って下さいね」
と、幾分疲れ気味の声で僕は返した。まだ敬語が完全には抜けていないのだ。敬語がなかなかやめられないことに関しては、僕はちょっとした権威だと自分では思っていて、こればっかりはどうしようもなかった。無論声を大にして自慢できる類のことではないけれど…実のところ僕はとっても人見知りなのだ。昔からそうだ。
 そのとき帰ったオペレーション組の二人は、。ユミちゃんのビニール傘は僕のそれと同型だったが、気にも留めなかった。でも、僕はそのときわずかでも、それを気にするべきだったのだ。東京も、そしてもちろん僕の家がある埼玉南部も、記録的大雪だったのだから…。


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 仕事を終え帰路につくとき、時計は深夜の十二時を回っていた。終電…。やれやれ、と僕は思う。店長に挨拶を済ませ、傘をとる。…傘? 僕の傘が無かった。あるのは深緑色をした悪趣味な花柄の、の細い女物の傘一本だけだった。もう一度傘立てを探してみる。が、突きつけられた現状は蟻一匹入り込む隙間も無く同じだった。僕は両方の手のひらをわざとらしく点検してみせた後、諦めて店を出た。雪が止んでいればいいけれど…そんな淡い期待は地下鉄の駅を降り外へ出た瞬間に、フセイン像が民衆の手で倒されるかのように無残に崩れ落ちた。
 おまけに僕は減煙中で、煙草は一日三本と決めていた。バイト上がりにアメリカン・スピリットを買ってしまわないように、家の最寄り駅から三つ前までの電車賃しか持ち合わせてはいなかった。家までの道のりは十数キロ…。
 最終電車に揺られ、地下鉄の駅を降りると外は案の定雪だった。
 そして、今晩僕は傘を持っていないのだ。


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 雪は徐々に激しさを増していった。フードを被り、無謀にも風車に挑むドン・キホーテのように果敢に歩を進める僕にとって致命的なのは他でもない、眼鏡が濡れることだった。
 信じてもらえないだろうけれど、僕にとって眼鏡が汚れるということはこれ以上はないというくらいに深刻な事態だ。。誓ってもいい、嘘じゃないのだ。……こればかりは僕に生まれた僕自身にしかわからないだろう…。
「……でも、本当なのだ…。」
だからこそ僕は後悔した。…この職場を選んだことさえも、心の底から後悔した。


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 雪が激しさを増すにつれ、僕はほとんど泣きながらこう思った。
「あぁ、イヤーホンさえ家に忘れて来なければ…。この地獄を、僕は自分なりに上手くやり過ごせただろうか?」
朝、出がけに彼女と一緒に居たためにうっかり忘れたのだ。二人で一本の傘を差し駅に向かって歩きながら、僕たちはころころとした小粒のあられが雪に変わる瞬間を見た。中空を視認するのもままならないような速度で落ちていたあられの粒が、我々のまばたきの間をすり抜けるように、ゆっくりと舞い踊る雪に姿を変えた。それはまるで虹の下をくぐろうと必死に走った少年が雨雲の切れ目に出くわした情景のような、ある種限定的な場面でしか感じることのできない驚きだった。僕たちは見開いた目を見合わせ、唇を綻ばせたのだけれど声が出てこなかった。「世界中のみんなが無いと決めて笑っても」ーーーーーかわりに僕の心の中で、虹の下をくぐろうと走る少年の声がしたーーーーー「ぼく一人でも信じている限り、それは在るんだ」。素敵な意見だった。


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 森の中をしなやかに駆け生きる小動物のような少年の眼を前にして、誰がイヤーホンを忘れたことなんかに気付くだろう? そんなわけで、今朝僕は命綱のように重要な意味を持つイヤーホンを、家に忘れてきた。
 ところで、僕を求めるときの彼女の眼は、無垢なシマリスのように可愛い。


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 目深に被ったパーカーのフードをかいくぐって、雪の粒は僕の眼鏡を着々と侵していった。青信号を渡る僕を待つ深夜のタクシーは、まるで獲物が力尽きるのを待つ飢えたハイエナのように見えた。イヤーホンを忘れたおかげで僕の音楽プレーヤーの中では、暇をもてあましたストロークスのメンバー達が退屈そうに煙草をふかしたりコーヒーをすすったりして各々に時間を潰していた。僕は今にも歩くのをやめてその場に倒れ込みそうになりながらも、今は亡きビニール傘のことを想った。イングヴェイ・マルムスティーンがその生涯において、ギタープレイでミスを犯したところにお目にかかったことが無い…。
 誰の目から見ても…僕の負けさ………


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 もう半年ほど経つだろうか…。もともと僕はビニール傘が嫌いで、それ故に一万円ほどはたいてヴィヴィアン・ウエストウッド・マンのアンブレラを東武デパートで買ったのだ。なのに、ちょっとした腹いせにそれをたたき折ってしまった過去があった。僕はそのことを今さら、悔やみ切れないくらいに一生分の後悔の念をもって悔やんだ。お気に入りの傘さえあれば、こんな大雪の真夜中でさえピクニックのように思えたことだろう…。俺は浅はかだった。なんて愚かで、なんてくだらない人間だったのだろう…。
 そんなことを思いながら、その日四本目の煙草に火を点けた。自分の中の確固たるルールを破ったはずの一本なのに、その煙を肺の奥まで吸い込んで吐き出してしまうと、後悔ややり場の無い怒りに押し潰されかけていた、自我のような…僕の中の柔らかい部分が少しだけ原形を取り戻したように思えた。俺は愚かだ…しかし、今こうして生きている…。
 そのときだった。何故か彼女の顔が浮かんだ。彼女?
 抗鬱剤を三十錠丸呑みしたとき、僕の喉に指を突っ込んで吐かせた後泣きながら怒った彼女。僕と仲の良かった(ローリング・ストーンズの話で盛り上がったっけ…)従兄弟が自殺したとき、身内の死のように泣いてくれた彼女…。
「私にも何か、少しでもゆうくんのために何か、できたんじゃないかって思うとね、悲しいの…すごくね、悔しいの…」
悠くんというのは死んでしまった僕の従兄弟の名だ。彼はトーイックで960点を取った後、三十二歳で自分の部屋で首を吊って死んだ。遺書らしきものは見つからなかった。僕は彼の死を聞いたとき泣かなかった。なぜかはわからなかったけれど、もっと後で、そう遠くない後で、彼のために涙を流すべきときがくるのではないかと直観的に思ったのだ。


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 そして今、僕は彼を想って泣いた。


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 然るべき時間が過ぎて、遅れてやってきた悲しみが僕を包み込んだとき、僕は四本目の煙草を捨てた。僕はこの生涯において傘泥棒と煙草のポイ捨てだけはしたことが無かった(ミスター・イングヴェイ・マルムスティーン、これでドローだ…)。
 生まれて初めてのポイ捨てを自ら目の当たりにして感じたーーーーーその火種は積もった雪に溶けて、暖炉のある木造の家屋を連想させたーーーーーその危うい炎は、一秒ほどくすぶってから物憂げに消えた。…消滅したと言ったほうがいいかも知れない。哀しい消え方だった。
 そして僕は、彼女と猫のことを想った。猫……彼は元気だろうか。二ヶ月ほど前、僕と彼女はある一匹の仔猫と出逢い、わけあって三日ほど一緒に暮らした。我々は彼に「ニコライ」と名を与え、彼は恐縮そうに、精一杯それに応えた。我々三人にとって、その三日間はとても新鮮で、それでいてごく当たり前のような時間だった。僕の中で、誰かの声が聞こえていた。

我々は、再び一つ屋根の下、共に暮らすことになるであろう。

………そうだ。僕には何ものにも代えざるべき存在がある! 〝彼女〟がいて、そのすぐ後にニコがいた。あぁ、俺はこんな目にあって、自分のルールに背を向けて初めて、思い返すことができたのだ…! 恥ずべきことだ。僕には、辿り着くべき場所があるのだ…!


 雪は少しずつ、弱まり始めていた。


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 不思議なことに僕は、自分が彼女のくれたチョコレートを想いながら歩いていることに気が付いた。バレンタイン…まあそれもいいじゃないか。〝愛するひと〟がくれるチョコレート、大衆の煽動…そして、帰るべき場所。僕の目指すべき自宅には紛れも無い、愛するひとが想いの全てを溶かし込んだ「たかがチョコレート」が待っているのだ。想いの全てだと? と、人は言う。でも彼女はそういうひとだ。僕が一番知っている。
 彼女は、そういうことができてしまうひとだ。


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 どれくらい歩いただろうか。いつもの倍以上の時間をかけて、滑りやすい凍てついた雪道を歩いて辿り着いた…。
 手足はかじかんで身体の芯まで冷えきっていたが、僕の胸の奥はいつもよりも温かかった。傘をなくしたことに対する行き場のない感情も、ずいぶん前にどこかへ消え失せていた。僕は空想の中で、暖炉の前、その部屋の中では唯一値が張りそうなペルシャ絨毯じゅうたんの上でバックギャモンをしている僕と彼女と、彼女の膝の上で気だるそうにあくびをするニコライを想った。戦いは終わったのだ…。人生は勝ち負けじゃ計れない。でもイングヴェイ、…!


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 芯まで冷えきった身体を温めるために気の済むまで熱い湯に浸かった僕は、温めた缶詰のオニオン・スープを飲み干した後、彼女の作ってくれたチョコレートの最後の二粒を味わって食べた。


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   後日譚ごじつたんとして

 次の日は酷い筋肉痛で身体中が痛んだ。滑りやすい道を歩くのに、普段は使わない筋肉を使ったせいだと思う。それと、後日確認してみるとユミちゃんの持っていった傘は彼女自身のビニール傘だった。紛れないようにセロテープで目印を付けていたのだ。一瞬でも彼女がっていってしまったのかもと疑った自分が恥ずかしかった。結局僕の傘は見つからなかったが、それはまあ良しとしよう。そもそもビニール傘なのだし、僕はビニール傘が嫌いなのだ。


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 桜をフィーチャーした新商品達の売れ行きは好調だった。桜を見ていつも想うのは、僕が小学生のとき亡くなった祖母のこと…、最後に彼女と広い公園へ花見に行ったときのことだ。埼玉南部の桜はちょうど見頃で、満開の桜吹雪の中、一枚の花びらが祖母のお茶のコップ(たしか水筒の蓋だった)に舞い落ちてきた。「風流だこと」と言いながらお茶をすすり、「来年の桜は、もしかしたら見られないかも知れないねぇ」と言った。そのとき僕にはその言葉の意味がわからなかったけれど、彼女は本当に次の年の桜を見られなかった。死期を悟っていたのだ…。
 僕は祖母のために桜のマカロンを買って、仏壇に供え手を合わせた。桜マカロンは仏壇の上では、店で並んでいたときの気高さが幾分薄らいで見えた。
ほとけさんはねぇ」
よく祖母は幼い僕に言ったものだった。
「お供え物の美味しいところだけを、ちゃぁんと食べるのよ。生きている人間の目からは、わからないけどねぇ」
…桜マカロンは今まさに、祖母に食べられているのだ。


             ❇︎


 彼女のくれたチョコレートについて少し話そう。こんなチョコだ。





ハート型のものは中にガナッシュが入っている。僕が最後まで残していたのは右上と左下である。とっても美味しかった。


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 最後に、僕は煙草をやめることにした。自分で決めたルールを破ってしまったのだし、十代の頃から毎日吸い続けてきたのだ。もう充分さ。残りのアメリカン・スピリットを一日三本ずつ吸うと、きっかり二日で無くなる計算だ。悪くないな、と僕は思う。引退の潮時なのだ。
 そう決めてしまった後で、僕は自分がこの生涯においてたった一度、道端に捨てた吸殻を拾いに行った。そこには哀しげに横たわる色褪せた冬の夢のような吸殻があった。それは他の誰かの色褪せた冬の夢のように見えたが、それは紛れも無く、僕自身が捨てた僕自身の色褪せた冬の夢だった。

 そう、ひとつの季節が死んだだけさ。

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