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埋もれた祈りを秘める雪の章
幕間 神殿の深奥
夜更けの神殿は、昼の清廉さを脱ぎ捨て、影の匂いを濃くしていた。
神殿の奥、外光の届かぬ部屋に、低い声が落ちていた。
高位の神官たちが集うその場は、祈りのための空間ではない。
厚い石壁と、磨かれすぎた床が、彼らの言葉を逃がさぬよう囲っている。
蝋燭の火は低く揺れもせず、まるで息を潜めているかのようだった。
彼らの議題は、ルーチェとダリウスの婚姻申請だ。
のらりくらりと遅らせ続けていたその申請――それが、通ってしまった。
王都の神殿の管理が及んでいない、辺境の小さな神殿に務める、若く愚かしく真面目な下級神官によって、婚姻申請は王宮に送られた。
その神官は、王都の神殿を通さず、派遣されていた。王宮官吏のリヒトの依頼を受けていたのだ。
申請は送られるや否や、リヒトの働きかけによって素早く決裁にまわされ、今や国王陛下の裁可まで下りてしまっている。
今更、神殿が騒げば余計な疑念を持たれる。彼らはそれを許すしかなかった。
「……古き世の賢王陛下が、「厄災の烙印」についての余計な法を残さなければな」
年嵩の神官が、祈るように組んだ指の間から言葉を落とす。
声音は柔らかく、しかし底に侮蔑が沈んでいる。
「保護せよ、距離を取れ、その安全を確保せよ、か。ずいぶんとご親切な古の国法だ。あれさえなければ、もっと簡単だったものを」
別の神官が、鼻で笑う。
殺してしまえたものを――その続きの言葉は、誰も口にしない。
「まあ……いずれにせよ、我々が「それ」を推奨することはできん。神に仕える身としてはな」
「しかし国法を無かったことにもできぬのだから利用しようとは、これには古の賢王様方も驚かれるだろう」
くす、と乾いた笑い。
「あのシェリフォード家の会計係……いや、現在は公爵だったな。あの、「公爵様」と協力体制が取れたのは良かったのだが」
「娘の幽閉を続けるよう金も融通していたというのに。勝手に辺境送りにされたのは、正直、誤算だった」
「公爵にも真実を伝えておくべきだったか?」
「いや。知るものは少ない方がいい」
「ヴァルト辺境伯とも縁を結ばぬままでいてくれたのなら、なお良かったのだが。官吏にまで成り下がった公爵令息が、ここに来てつくづく、余計な真似をしてくれる」
溜め息めいた声。
「それで、そのヴァルト辺境伯はどうする。公爵のように懐柔できそうか?」
「いや。あの領地は王都からも遠いし、ヴァルト辺境伯は王宮との縁も薄い」
「それに残念ながら、辺境は逆に我々の影響力も弱い……」
「何より、権力欲のない男は懐柔しにくい」
「この状況も、及第点ではあるだろう。「厄災の烙印」は遠くに置き、距離を保つ。それが、あの古き国法の求めるところでもある」
言葉は続く。
「……あのご令嬢も、つくづく、お気の毒なことだ」
白い指先を弄ぶように組みながら、年嵩の神官が静かに言った。
声音は哀れみを装っているが、その奥に温度はない。
「公爵家のような目立つ家に生まれなければ……我々に見つけられることもなかったかもしれぬ」
別の神官が小さく笑う。
「まったくだ。王都の中心で、あの「印」が現れれば、対応せざるをえない。あの家に生まれた時点で、彼女は運が尽きていたとも言える」
「今からでも、神殿であの娘を確保するという手も……」
数瞬の沈黙のあと、最初の神官が続けた。
「いや、難しいだろう。それに、当初から、我々自身があれを管理することは避けると決めていた筈だ」
「烙印持ちとは距離を置きつつ、閉じ込め利用しなければ。……万一、我々を「見られては」かなわない」
沈黙が落ちる。
香の煙が揺れ、天井の高みへと溶けていく。
「だからこそ、だ」
最初の神官が、穏やかに結論づける。
「これまで通り我々自身は近づかぬ。しかし、あの娘が「正しく」動けることのないようにする。こちらが傷を負わぬようにな」
彼らにとって重要なのは、信仰ではなく、これまで通りの利を生む均衡だった。
神殿、貴族、王家――そのどれにも決定的な亀裂を生まぬこと。
そのためなら、一人の女の人生など、静かに盤上から押し流せばいい。
「では……」
一人の神官が、ためらいがちに切り出す。
「『厄災の烙印』の修正前の記録……あれはもう、焼き払っておくべきでは……」
その視線が、無意識のうちに地下へと続く階段へ流れた。
「いや」
即座に遮られる。
「あれは確かに痛い真実ではあるが、我々の切り札でもある。……最後の保険として残しておく」
神官が、言葉を続けようとした。
「しかし、厄災の――「聖印」は……」
次の瞬間、鋭い叱責が飛ぶ。
「間違えるな!」
冷たい声だった。
「あの印は、「烙印」だ。決して、違えるな」
再び、沈黙。
神殿の奥で交わされた言葉は、祈りの場に似つかわしくないほど、現実的で、打算に満ちていた。
だが彼らは疑わない。
それこそが、神に仕える者の「正しさ」だと。
神殿の奥、外光の届かぬ部屋に、低い声が落ちていた。
高位の神官たちが集うその場は、祈りのための空間ではない。
厚い石壁と、磨かれすぎた床が、彼らの言葉を逃がさぬよう囲っている。
蝋燭の火は低く揺れもせず、まるで息を潜めているかのようだった。
彼らの議題は、ルーチェとダリウスの婚姻申請だ。
のらりくらりと遅らせ続けていたその申請――それが、通ってしまった。
王都の神殿の管理が及んでいない、辺境の小さな神殿に務める、若く愚かしく真面目な下級神官によって、婚姻申請は王宮に送られた。
その神官は、王都の神殿を通さず、派遣されていた。王宮官吏のリヒトの依頼を受けていたのだ。
申請は送られるや否や、リヒトの働きかけによって素早く決裁にまわされ、今や国王陛下の裁可まで下りてしまっている。
今更、神殿が騒げば余計な疑念を持たれる。彼らはそれを許すしかなかった。
「……古き世の賢王陛下が、「厄災の烙印」についての余計な法を残さなければな」
年嵩の神官が、祈るように組んだ指の間から言葉を落とす。
声音は柔らかく、しかし底に侮蔑が沈んでいる。
「保護せよ、距離を取れ、その安全を確保せよ、か。ずいぶんとご親切な古の国法だ。あれさえなければ、もっと簡単だったものを」
別の神官が、鼻で笑う。
殺してしまえたものを――その続きの言葉は、誰も口にしない。
「まあ……いずれにせよ、我々が「それ」を推奨することはできん。神に仕える身としてはな」
「しかし国法を無かったことにもできぬのだから利用しようとは、これには古の賢王様方も驚かれるだろう」
くす、と乾いた笑い。
「あのシェリフォード家の会計係……いや、現在は公爵だったな。あの、「公爵様」と協力体制が取れたのは良かったのだが」
「娘の幽閉を続けるよう金も融通していたというのに。勝手に辺境送りにされたのは、正直、誤算だった」
「公爵にも真実を伝えておくべきだったか?」
「いや。知るものは少ない方がいい」
「ヴァルト辺境伯とも縁を結ばぬままでいてくれたのなら、なお良かったのだが。官吏にまで成り下がった公爵令息が、ここに来てつくづく、余計な真似をしてくれる」
溜め息めいた声。
「それで、そのヴァルト辺境伯はどうする。公爵のように懐柔できそうか?」
「いや。あの領地は王都からも遠いし、ヴァルト辺境伯は王宮との縁も薄い」
「それに残念ながら、辺境は逆に我々の影響力も弱い……」
「何より、権力欲のない男は懐柔しにくい」
「この状況も、及第点ではあるだろう。「厄災の烙印」は遠くに置き、距離を保つ。それが、あの古き国法の求めるところでもある」
言葉は続く。
「……あのご令嬢も、つくづく、お気の毒なことだ」
白い指先を弄ぶように組みながら、年嵩の神官が静かに言った。
声音は哀れみを装っているが、その奥に温度はない。
「公爵家のような目立つ家に生まれなければ……我々に見つけられることもなかったかもしれぬ」
別の神官が小さく笑う。
「まったくだ。王都の中心で、あの「印」が現れれば、対応せざるをえない。あの家に生まれた時点で、彼女は運が尽きていたとも言える」
「今からでも、神殿であの娘を確保するという手も……」
数瞬の沈黙のあと、最初の神官が続けた。
「いや、難しいだろう。それに、当初から、我々自身があれを管理することは避けると決めていた筈だ」
「烙印持ちとは距離を置きつつ、閉じ込め利用しなければ。……万一、我々を「見られては」かなわない」
沈黙が落ちる。
香の煙が揺れ、天井の高みへと溶けていく。
「だからこそ、だ」
最初の神官が、穏やかに結論づける。
「これまで通り我々自身は近づかぬ。しかし、あの娘が「正しく」動けることのないようにする。こちらが傷を負わぬようにな」
彼らにとって重要なのは、信仰ではなく、これまで通りの利を生む均衡だった。
神殿、貴族、王家――そのどれにも決定的な亀裂を生まぬこと。
そのためなら、一人の女の人生など、静かに盤上から押し流せばいい。
「では……」
一人の神官が、ためらいがちに切り出す。
「『厄災の烙印』の修正前の記録……あれはもう、焼き払っておくべきでは……」
その視線が、無意識のうちに地下へと続く階段へ流れた。
「いや」
即座に遮られる。
「あれは確かに痛い真実ではあるが、我々の切り札でもある。……最後の保険として残しておく」
神官が、言葉を続けようとした。
「しかし、厄災の――「聖印」は……」
次の瞬間、鋭い叱責が飛ぶ。
「間違えるな!」
冷たい声だった。
「あの印は、「烙印」だ。決して、違えるな」
再び、沈黙。
神殿の奥で交わされた言葉は、祈りの場に似つかわしくないほど、現実的で、打算に満ちていた。
だが彼らは疑わない。
それこそが、神に仕える者の「正しさ」だと。
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