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「この畝の、右端から三歩分の範囲。表面から前足一つ分までの深さだけ。土の硬さはどう?」
畝の間にちょこんと座った狐が、しばらく地面に鼻を押しつけていた。体は子犬ほどで、尻尾は一本きり。
「……かたい。ねっこ、はいらない」
「わかった。じゃあそこだけ、前足一つ分の深さまで、根が横に広がれるくらいの柔らかさに崩して。周りの土は動かさないで」
「……よこ、ひろがる。まわり、うごかさない。わかった」
狐が畝の端にもそもそと潜っていく。私はそれを見届けてから、木陰に戻って腰を下ろした。
朝からこれで三往復。場所を区切って、何を調べるか決めて、一つずつ聞く。結果が返ってきたら、次に何をするか具体的に伝える。そうすれば第一段階の精霊でも、ちゃんと正確にやってくれる。
——自分で鍬を振るより、ずっと楽だ。
「ミラ、またそうやって寝てんのか」
隣の畑のおじさんが鍬を担いで通りかかった。呆れ顔だが、悪意はない。
「寝てない。精霊がやってるから待ってるだけ」
「そんなちっこいのに任せたって、まともなことせんだろ。うちのなんか、『畑を見ろ』っつったら関係ないとこ掘り返しやがった。第一段階はどこもそんなもんだ」
「おじさんの狐もそのくらい?」
「おう、同じ第一段階だ。金かけて上の段階にすりゃもうちっとましなんだろうが、そんな余裕はねえ。村長んとこは第二段階だがなあ、あれは体も尻尾も二本になって、ちゃんと文で喋るらしい。羨ましい話だ」
第一段階はカタコト。単語をつなげるのがやっと。第二段階になると言葉が繋がり、体も大きくなって、できることの質が変わる。——もっとも、質が変わるのは精霊の性能だけじゃない。
「おじさん、『畑を見ろ』だとどこを見ればいいか精霊がわからないから、適当に一ヶ所拾っちゃうだけだと思うけど」
「あ?」
「場所を絞って、何を確認するか決めて聞けば、第一段階でもちゃんとやるよ」
「何言ってんだお前。精霊なんてもんは金かけて強いのを使うのが当たり前だろ。第一段階にちまちま聞くくらいなら自分で鍬振った方が早えわ」
おじさんは「大根がまた虫にやられとる」とぼやきながら去っていった。
——それがこの村の普通だ。精霊は金をかけて上位のものを使い、力任せに命じるもの。指示を工夫するという発想自体がない。
別に布教する気はない。おじさんにはおじさんのやり方がある。
前世の記憶はほとんど残っていない。ただ、体の奥に染みついた感覚がある。朝起きた瞬間から夜倒れるまで走り続けて、ある日そのまま目が覚めなかった——それだけが、輪郭だけ残っている。
だから、もう無理はしない。穏やかに、自分のできる範囲で、ちゃんと暮らす。それだけでいい。
「ミラ」
振り向くとカイが籠を抱えて立っていた。幼馴染。この村で生まれ育った農家の息子で、背が高くて腕っぷしだけは無駄にいい。
「朝飯。母さんが多く作りすぎたって」
「ありがとう。置いといて」
「まだ食ってないだろ」
なんで知ってるんだ。——いや、毎回このやり取りをしている気がする。私が朝飯を後回しにするのを見越して、カイの母親が多めに作る。善意の供給網がいつの間にかできあがっていた。
カイは断っても置いていくので、黙って受け取った。
パンと、昨日の残りらしい豆のスープ。温かい。いつの間にか狐が戻ってきていて、私の膝にもそもそと登った。
「みぎ、おわった。あと、むし、すこし」
「虫? どの畝?」
「……ひだり、の、おく」
「左の奥ね。畝の端から何歩分くらいのところ?」
「……さん」
「三歩目あたり。虫は葉にいる? 茎にいる? 土の中?」
「は。はっぱ、のうえ」
「葉の表? 裏?」
「……うら」
「何匹くらい? 片手で足りる?」
「たりる」
「なら今のうちに取り除いて。葉を傷つけないように、一匹ずつ落として。終わったら周りの畝にもいないか、同じように確認して」
「いちまい、ずつ。きず、つけない。まわり、も。わかった」
狐が再び畑に向かう。カイが隣に腰を下ろして、そのやり取りを黙って聞いていた。
「お前さ、いっつも精霊にそうやって何回も聞くよな。よく面倒くさくないな」
「後で手戻りになる方がよっぽど嫌だから」
「他の人がやると全然うまくいかないのに、ミラのはうまくいくの、ずっと不思議なんだよな」
「同じ精霊だよ。聞き方が違うだけ」
「聞き方?」
「いきなり『全部やれ』って言ったら、精霊はどこから手をつけていいかわからない。場所を決めて、何を見るか決めて、一個ずつ聞く。それだけ」
「おじさんが『畑を見ろ』って言ったら関係ないとこ掘り返されたのも?」
「そう。『畑のどこを、何のために見るか』まで言ってあげれば、ああはならない」
カイは「へえ」と素直に頷いた。理解しているのかは怪しいが、否定はしない。
子供の頃からそうだ。私が精霊に向かってぶつぶつ話しかけ始めた頃、村の子供たちは気味悪がって離れていった。カイだけがただ隣にいた。
理由を聞いたことがある。
「べつに。面白いから」
それだけだった。
——居心地が悪くない。ありがたいことに。
「今年、周り相当やばいらしいな」
カイが遠くに目をやりながら言った。
「やばいって?」
「東の村、畑の半分くらいやられてるらしい。ここ何年かで一番ひどいって。南も似たようなもんだ」
「……へえ」
私はスープを飲みながら自分の畑を見た。今のところ異常はない。毎日狐に状態を聞いているから、おかしければすぐ気づく。
「ミラ」
「ん?」
「うちの畑の端っこ、ちょっと葉の色がおかしいとこがある。見てくれないか」
「……お医者さんじゃないんだけど」
「でもミラが精霊に聞いた方が確実だろ」
カイは平然と言った。頼み方にためらいがない。できないことはできないと認めて、できる人間に任せる。変なプライドがないから断りづらい。
「……ごはん食べ終わったらね」
「ありがとう」
そう言ってカイは立ち上がり、自分の畑に戻っていった。その背中を見ながら、スープの残りを飲み干す。
……カイの畑がやられたら、朝飯の供給が止まる。それは避けたい。
膝の上の狐が耳をぴくぴくさせた。
「カイ、の、はたけ? いく?」
「ごはんのあとね」
「ごはん、のあと」
狐が私の言葉を繰り返して、尻尾を丸めて目を閉じた。
***
カイの畑に着くと、狐が私の首元からするりと降りた。移動中ずっと襟巻きのように巻きついていたくせに、畑を前にすると耳がぴんと立つ。仕事の顔になるのだけは一丁前だ。
「ここ。この辺り」
カイが指さした畝の端に、数株だけ葉の色がおかしいものがあった。黄色というより、褪せたような薄い緑。枯れているわけではないが、隣の株と比べると明らかに元気がない。
「いつから?」
「三日前くらいに気づいた。最初は一株だったのが、ちょっと増えてる」
三日で広がっている。放っておいていいやつではなさそうだ。
「じゃあ調べるね。——この畝の、色が変わってる株だけ見て。まず根元の土の匂い。普段と違うところはある?」
狐が変色した株に鼻を近づけた。しばらくすんすんと嗅いでから、首を傾げる。
「……ふつう」
「根元は普通。じゃあ次、葉っぱの裏。何かついてる? 虫とか、粉っぽいものとか」
「……ない。つるつる」
「茎はどう? 触ってみて。柔らかい? 硬い?」
狐が前足で茎をそっと押した。
「やわらかい。すこし」
「普通の株より柔らかい?」
「……うん。すこし、ぶよぶよ」
茎が柔らかくなっている。根元は異常なし、葉の裏にも何もない。水分の問題か、それとも——。
「わかった。ありがとう、もういいよ」
狐が私の足元に戻ってきて、ふすっと鼻を鳴らした。褒められるのを待っている顔だ。しゃがんで耳の後ろを掻いてやると、目を細めて首を傾けた。
……可愛いのは認める。
「どう?」とカイが聞いた。
「茎がちょっと柔らかくなってる。今すぐどうこうってものじゃないと思うけど、広がるようなら早めに対処した方がいい」
「対処って何すればいい?」
「まだわからない。原因がわかってないから。——とりあえず、色が変わった株の周りだけ水を控えめにして、広がるかどうか見てて」
「わかった」
カイは素直に頷いた。わからないことをわからないと言っても、不安がらない。このあたりの肝の据わり方は昔からだ。
——まあ、数株だ。大したことにはならないだろう。
そう思っていた。
一週間後、村の景色が変わっていた。
カイの畑だけではなかった。あちこちの畝で葉が褪せた株が増えている。村の入口に近い畑は、一列まるごと色が抜けたようになっていた。
「こりゃあひでえな」
村の広場で、数人が腕を組んで集まっていた。おじさんもいる。
「うちは東側がやられた。肥料をやっても全然戻らねえ」
「水が足りねえんじゃねえか? 今年は雨が少なかったろ」
「いや、水はやってる。それでもだめだ」
経験則の応酬。肥料、水、天候——誰もが知っている原因を挙げて、知っている対処をする。だがどれも効いていない。
村長が出てきた。恰幅のいい初老の男で、この村で唯一、第二段階の狐を持っている。体は大型犬ほどで、尻尾が二本。言葉もまともに繋がる。
「仕方ない。調べさせるか。——畑の状態を調べろ。原因はなんだ」
村長の狐が畑を一巡りした。戻ってきて、少しぎこちない丁寧語で答える。
「……おそらく、水の不足が原因かと思われます」
「やっぱり水か。じゃあ水を増やすぞ」
翌日、水を増やした畑を村長が再び狐に調べさせた。
「……土に養分が足りない印象がございます」
「昨日は水だって言っただろ。どっちなんだ」
「……申し訳ございません。どちらも、可能性としては……」
村長が舌打ちした。周囲のため息が広がる。
「やっぱり精霊はあてにならねえ」
「俺らの経験でやるしかねえな」
——違う。
私は広場の端で狐を膝に乗せたまま、そのやり取りを聞いていた。狐が私の手のひらに頭を擦りつけてくる。反射的に指先で顎の下を撫でた。
村長の狐は嘘をついていない。「畑の状態を調べろ」では範囲が広すぎる。畑全体を見て、目についたものを一つ拾って返しているだけだ。聞くたびに拾う場所が変わるから、答えも変わる。
……でも、それは村長の問題であって私の問題ではない。
膝の上の狐がもぞもぞと向きを変えて、尻尾を私の腕に巻きつけた。温かい。この状態が一番落ち着くらしく、すぐにうとうとし始める。
「ミラ」
カイが隣に来た。いつからいたのか。
「うちの畑、あれからどうなったと思う。変色した株、倍くらいに増えてる」
「……倍?」
「ああ。それで、水を増やしてみたんだけど——」
「増やした?」
「村の人がそうしろって。でもそのあと、なんか余計に広がった気がする」
狐が耳をぴくりと動かした。私の指が止まったのを感じたのか、顔を上げて首を傾ける。
「どうした? なでて」
「……ちょっと待って」
水を増やしたら悪化した。カイの畑で最初に見たとき、茎がぶよぶよしていた。水分過多の症状に見えなくもない。だとしたら水を足すのは逆効果だ。
でも同時に、村全体で色が褪せている。水分過多なら、水をやっていない畑には出ないはずだ。
……二つ、ある?
「ミラ?」
「カイ、悪いけど狐借りるね」
「え、俺のじゃないだろ」
「うちの狐を借りるって意味。——ちょっと調べたいことができた」
膝の上の狐を抱き上げた。狐は不満そうにふすっと鼻を鳴らしたが、私の腕の中で大人しくなった。
「カイの畑と、おじさんの畑と、村長の畑。三ヶ所回る。ついてきて」
「わかった」
カイは理由を聞かなかった。立ち上がって、当然のように隣に並ぶ。
***
まず、カイの畑から。
変色した株は最初に見たときの倍以上に広がっていた。畝の端から中ほどまで、薄い緑が帯のように続いている。
「この畝の、色が変わっている株を一つ選んで。一番ひどいやつ」
「……これ。いちばん、うすい」
「その株の茎を触って。前に調べたときと比べてどう?」
「……まえ、より、やわらかい。もっと、ぶよぶよ」
「根元は? 前と同じで匂いは普通?」
「……ん。くさい」
「前は普通だったのに、今は臭い?」
「くさい。すこし」
前回は根元に異常がなかった。今は臭い。茎の軟化が進んで、根元まで来ている。進行している。
「次。同じ畝で、色が変わり始めたばかりの株。一番軽いやつ」
「……これ」
「そっちも同じ。茎の硬さと、根元の匂い」
「……かたい。ふつう。くさくない」
軽い株は茎がまだ硬くて、根元も正常。症状は茎の軟化から始まって、進行すると根元に降りていく。上から下へ。
「ありがとう。カイ、次はおじさんの畑」
「おう」
狐を肩に乗せて移動する。狐は肩の上で器用にバランスを取りながら、耳を風に向けてぱたぱたさせていた。
おじさんの畑は東側がひどいと言っていた。着いてみると、東側の畝が三列ほど、葉の色が完全に抜けている。カイの畑より進行が早い。
「おじさんの畑の、一番ひどい畝。さっきと同じことをして。茎の硬さと、根元の匂い」
「……ぶよぶよ。くさい」
「カイの畑の一番ひどいやつと比べてどう? 同じくらい? もっとひどい?」
「……もっと。もっとくさい」
「わかった。じゃあ次、ここの軽い株。まだ色が変わり始めたばかりのやつ」
狐が東側の畝の端にいる株に近づいた。
「……これ、かたい。くさくない。でも——」
狐が首を傾げた。
「でも?」
「ねもと、じゃなくて。はっぱ、に、なにか」
「何かって? 虫? 粉?」
「こな、じゃない。……ぬるぬる? すこし」
葉にぬるぬるしたものがある。カイの畑では「つるつる」だった。
「それ、葉の表? 裏?」
「うら」
「色はある? 透明?」
「……すこし、きいろ」
少し黄色い、ぬるぬるしたもの。カイの畑の軽症株にはなかった。おじさんの畑の軽症株にはある。
——何かが違う。
「ミラ、顔怖いぞ」
「……考えてるだけ。村長の畑行こう」
村長の畑は村で一番広い。第二段階の狐に管理させているだけあって、全体的には手入れが行き届いている——はずだった。
南側の区画に、はっきりと変色した一帯があった。
「村長の畑。さっきと同じ手順でお願い。一番ひどい株と、軽い株」
狐がとことこ走っていく。村長の畑は広いので、少し時間がかかった。
「ひどいの。ぶよぶよ、くさい。おじさん、とおなじくらい」
「軽いのは?」
「かたい。くさくない。はっぱ——ぬるぬる、ない」
「ない?」
「ない。つるつる」
村長の畑の軽症株には、葉のぬるぬるがない。カイの畑と同じだ。
三ヶ所の結果を並べる。
ひどい株は全部同じ。茎がぶよぶよで根元が臭い。ここに差はない。問題は軽症株の方だ。
カイの畑——ぬるぬるなし。
おじさんの畑——ぬるぬるあり。
村長の畑——ぬるぬるなし。
おじさんの畑だけ違う。そしておじさんの畑は進行が一番早い。
「もう一つ聞いていい? おじさんの畑で、ぬるぬるがあった株。その株の茎は柔らかかった?」
「……ん。やわらかかった。すこし」
「カイの畑の軽い株は、茎は硬くて葉はつるつるだった。おじさんのは、茎が少し柔らかくて葉がぬるぬるしてた」
狐が首を傾げた。意味はわかっていない。でもいい。ここからは私が考える。
「ミラ、何かわかったのか?」
カイが聞いた。村長の畑の横に座り込んで、じっと私の顔を見ている。
「……たぶん。でもまだ確認が要る」
「何を確認するんだ?」
「おじさんの畑が一番ひどい理由」
おじさんは水を増やしていた。カイも村の助言に従って水を増やした。村長の畑は第二段階の狐が管理していて、水やりの判断も精霊任せだ。
「カイ。水を増やしたの、いつから?」
「四日前くらいかな。村の人にそうしろって言われて」
「村長の畑は?」
「さあ……村長の狐が管理してるから、村長もよくわかってないんじゃないか。でもあの狐、水が足りないって言ってたんだろ? たぶん水は増やしてないと思う」
なるほど。
村長の畑は、精霊が「水不足」と答えたのに村長が精霊を信用しなかったから、水を増やしていない。カイは村人の助言で四日前から増やした。おじさんはおそらくもっと前から。
——そして、水を増やした畑ほど進行が早い。
「二つ、ある」
「え?」
「病気が二つ。重なってる」
狐が私の膝に戻ってきて、丸くなった。耳だけがこちらを向いている。
「一つ目は、茎を柔らかくして根元まで腐らせるやつ。これはどの畑にもある。葉の色が褪せるのはこっちの症状」
「もう一つは?」
「葉の裏にぬるぬるが出るやつ。こっちは水分が多いと広がる。おじさんの畑に出てて、カイのところにはまだ出ていないのは、おじさんの方が先に水を増やしたから」
「じゃあ水を増やしたのは——」
「一つ目の病気には関係ない。でも二つ目を呼び込んだ。村長の畑が比較的ましなのは、水を増やさなかったから二つ目が来てないだけ」
カイが黙った。それから、静かに言った。
「村の人、みんな水を増やしてる」
「……そうだろうね」
「止めさせないとまずいのか」
「まずい。二つ目が広がったらもっとひどくなる。一つ目だけなら収穫に間に合うかもしれないけど、両方重なったら枯れる」
カイが立ち上がった。
「村長に言ってくる」
「待って。私も行く。説明しないと信じてもらえない」
「俺が言っても駄目か?」
「カイは理屈を説明できる?」
「……無理だな」
「でしょ」
狐を抱き上げた。狐は温かくて、腕の中で小さく欠伸をした。この子も疲れただろう。三ヶ所回って、ずっと嗅いで触って答えて。第一段階の精霊にしては働きすぎだ。
「ありがとう。もうちょっとだけ付き合って」
「……ん。がんばる」
狐が小さな前足で私の袖を掴んだ。
——覚悟を決める。村長に話をつけに行くのは気が重いが、放っておいたら村全体が枯れる。そうなったら穏やかな暮らしどころじゃない。
「カイ」
「ん?」
「帰ったらごはん食べたい」
「母さんに言っとく」
カイは当たり前のように答えた。
村長への説明は、思ったより手間取った。
ただ「二つの病気がある」と言ったところで、根拠がなければ信じない。村長は経験豊かな農家だ。経験にない話を受け入れるには、経験を超える証拠がいる。
「村長の畑と、おじさんの畑と、カイの畑。三ヶ所で同じ調べ方をして、結果が違いました」
「お前の精霊で調べた結果だろう。第一段階の狐だぞ? うちの第二段階より正確だってのか」
「正確さの問題じゃないです。聞き方の問題です」
村長の目が細くなった。
「村長の狐に『畑の状態を調べろ』と聞いたら、水が足りないと言ったり養分が足りないと言ったり、毎回答えが変わりましたよね」
「ああ。だからあてにならん」
「あれは嘘じゃないです。畑全体を調べろと言うと、精霊は一番目立つ異常を一つ拾って返す。畑に問題が二つあれば、聞くたびに違う方を拾う。だから答えが変わったんです」
村長が黙った。
「株を一つに絞って、茎の硬さ、根元の匂い、葉の裏の状態を別々に聞けば、二つの問題がちゃんと分かれて見えます。水を増やした畑だけ二つ目の症状が出ている。これが証拠です」
「……お前、それを第一段階の狐でやったのか」
「はい」
村長はしばらく腕を組んでいた。それから、自分の第二段階の狐に目を向けた。
「——試す。お前の言う通りに、うちの狐に聞いてみる」
村長が狐に、私の指示と同じ手順で調べさせた。株を一つに絞り、茎の硬さ、根元の匂い、葉の裏。第二段階の狐はぎこちない丁寧語で、しかし明確に答えた。
「茎はやや軟化しております。根元に異臭はございません。葉の裏は、異物の付着は確認できません」
一つ目の病気の初期症状。二つ目はまだ来ていない。私の説明と一致した。
村長が深く息を吐いた。
「……水を止めるぞ。全部の畑だ」
「水を完全に止めると一つ目にも悪いので、控えめにする程度で。それと、茎の軟化が進んでいる株は早めに抜いてください。周りに広がる前に」
「他には」
「二つ目の症状——葉の裏にぬめりが出ている株は、一つ目とは別に処理しないと駄目です。まとめて同じ対処をすると、片方に効いてもう片方を悪化させます」
村長が村人を集め始めた。カイが私の隣に立って、小声で言った。
「すごかったな」
「別に。調べて、並べて、比べただけ」
「それができるのがすごいんだって」
「……ごはん」
「ああ、帰ろう」
腕の中の狐がすっかり眠っていた。小さな体が規則正しく上下している。起こすのも忍びなくて、そのまま抱えて歩いた。
夕暮れの道で、カイが半歩前を歩いている。特に会話はない。でも、こういう時間が一番楽だ。何も求められない。何も説明しなくていい。ただ隣にいるだけでいい。
——前世には、こんな時間がなかった気がする。ぼんやりとした記憶の中で、いつも何かに追われていた。止まったら終わる。休んだら置いていかれる。そんな感覚だけが、体のどこかに残っている。
「ミラ」
「ん?」
「お前が調べなかったら、村全部やられてたかもな」
「……たぶんね」
「ありがとう」
カイは前を向いたまま言った。私は何も返さなかった。
腕の中の狐が、寝たまま尻尾を私の手首に巻きつけた。
***
収穫の季節が来た。
周辺の村は軒並み壊滅的だった。東の村は畑の七割がやられ、南はもっとひどい。街道を行き来する商人の顔が暗い。今年は穀物の値が跳ね上がるだろうという話が、どこからともなく聞こえてくる。
うちの村だけが、ほぼ無傷だった。
水の管理を切り替えたのが早かったおかげで、二つ目の病害は広がる前に止まった。一つ目の方も、茎が柔らかくなった株を早めに抜いたことで被害が最小限に収まっている。完全に無傷とは言わないが、例年の八割は穫れた。周りが全滅に近い中で、八割は異常だ。
「——なんでこの村だけ無事なんだ?」
収穫の噂を聞きつけて、街から役人が来た。痩せた中年の男で、周辺の村の被害状況を調査して回っているらしい。村長と並んで畑を見渡しながら、信じられないという顔をしている。
「同じ地域で、同じ気候で、同じ時期に病害が出ている。条件は変わらないはずだ。なぜここだけ収穫できている?」
村長が腕を組んだ。少し間を置いてから、私のいる方を見た。
「……あいつです。あの精霊の使い方がおかしい娘が、早いうちに病気を見分けて対処を出しまして」
「見分けた?」
「病気が二種類重なっていたんです。他の村は一つだと思って対処したから、片方に効いてもう片方を悪化させた。あの娘だけが二つあることに気づいた」
役人が私の方を見た。私は畑の端で、膝の上の狐の背中を撫でていた。狐はすっかり気持ちよさそうに目を細めている。収穫を手伝うような殊勝な精霊ではない。私もだけど。
「君が?」
「はい」
「どうやって見分けた? 第二段階の精霊でも判別できなかったと聞いたが」
「第一段階です。うちの」
膝の上の狐を示すと、役人の目が点になった。
「……この、狐?」
「はい」
「第一段階で、第二段階にできないことを?」
「精霊の性能の問題じゃないです。村長の第二段階でも、同じ聞き方をしたらちゃんと答えました」
「聞き方?」
横から村長が口を挟んだ。
「そうなんです。わしの狐に『畑を調べろ』と聞いたら、毎回違うことを言いおった。水が足りない、養分が足りないと。あてにならんと思っていたが——あれは聞き方が大雑把すぎたんだと。問題が二つあったから、精霊が毎回違う方を拾っていただけだった」
役人が黙って私を見た。それから、畑を見渡した。
「他の村にも同じことができるか?」
「もう収穫期なので、今からだと間に合わない村がほとんどだと思います。でも来年に向けての対策なら」
「——来年、うちの管轄の農村を回ってもらえないか」
「えっ」
「このやり方を教えて回るだけでいい。精霊への指示の出し方を変えるだけで被害が防げるなら、それだけで管轄全体の収穫量が変わる」
それは——穏やかな暮らしとは真逆の話だ。
「……考えさせてください」
「もちろん。報酬は出す。街まで来てくれればいつでも話ができる」
役人は村長と少し話をしてから帰っていった。
夕方、畑の縁に座っていた。狐が膝の上で丸まって寝ている。収穫が終わった畑は静かで、西日が土の色を濃くしている。
カイが隣に来た。手に何か持っている。
「母さんから。今日のやつ」
焼きたてのパンと、干し肉の入ったスープ。収穫祝いらしく、いつもより具が多い。
「ありがとう」
「役人に何か言われてたな」
「来年、他の村を回ってくれって」
「行くのか?」
「……わからない。ここでのんびり暮らしてたいんだけど」
カイは何も言わなかった。パンをちぎって、半分を私に差し出した。——自分のを分けてどうする。こっちにもあるのに。
「カイはさ」
「ん?」
「なんでいつもこうしてくれるの。ごはん持ってきたり、手伝ったり」
カイが少し考えた。
「べつに。いつものことだから」
「理由になってない」
「理由って要るか?」
要るだろ、普通。——でもカイの顔を見ると、本当に何も考えていないようだった。習慣として、当たり前のこととして、私の隣にいて、私が食べ忘れないように持ってきて、私が動くときについてくる。
……まあ、いいか。深く考えるのは性に合わない。
「ミラ」
「ん?」
「さっき村長が言ってたこと、ちょっと気になったんだけど」
「何?」
「村長の狐は第二段階だろ。お前のは第一段階。でもお前の方がちゃんと調べられた」
「聞き方の問題だって言ったでしょ」
「うん。それがわかんないんだ。なんでみんなお前と同じ聞き方をしないの?」
私はパンを噛みながら黙った。
なんで。
それは私にもわからない。この世界では、精霊は「金をかけて強いやつを使い、力任せに命じる」のが当たり前だ。おじさんも、村長も、役人も、東の村も南の村も。みんな同じ。上位の精霊に大雑把に命じて、うまくいかなければ「精霊はあてにならない」と言う。
指示を工夫するという発想自体がない。誰一人として。
前世の記憶はぼんやりとしか残っていないけれど、一つだけはっきり感じることがある。精霊を前にすると、「聞き方が大事だ」と体が勝手にわかる。言葉を選んで、順序を組んで、一つずつ確認する。それが当たり前だと思っていた。
でも、この世界ではそれが当たり前じゃない。
「——ねえ、カイ」
「ん」
「みんなさ、なんで精霊に『やれ』としか言わないんだろう」
「さあ。そういうもんだと思ってるんじゃないか?」
「そういうもの、か」
そうだ。誰もおかしいと思っていない。金をかけて上位の精霊を使うのが唯一の正解で、指示の出し方を工夫するなんて発想は存在しない。私だけが違うことをしていて、私だけが結果を出している。
それが、たまたま私が変なだけなのか——それとも、この世界全体の精霊の使い方が、根本から間違っているのか。
膝の上の狐が寝返りを打った。小さな前足が私の指に触れて、無意識に握るように丸まった。
「……来年」
「うん?」
「他の村を回るの、やっぱり行くかもしれない」
「そうか」
「別に大それたことをするつもりはないよ。ただ、聞き方を教えるだけ。それだけで変わるなら、まあ、やってもいいかなって」
「俺も行っていいか」
「……なんで?」
「力仕事が要るかもしれないだろ」
要らないと思うけど。でも断る理由もない。
「……好きにすれば」
カイが小さく笑った。私はスープの残りを飲み干して、空を見上げた。
星が出始めていた。穏やかな夜だ。明日もたぶん穏やかで、明後日も、その次も。——でもどこかで、もう少しだけ遠くを見てみたいと思っている自分がいる。
精霊の使い方が変わったら、この世界はどうなるのだろう。
膝の上の狐が目を開けた。私と目が合って、ふすっと鼻を鳴らした。
「……ねむい」
「うん。帰ろうか」
「かえる。カイも?」
「カイもね」
狐を抱き上げると、もう慣れたように腕の中に収まった。カイが立ち上がって、当たり前のように隣に並ぶ。
穏やかに暮らしたいだけ。それは本当だ。でも、少しだけ——ほんの少しだけ、この穏やかさを広げてみたくなっている。
それが自分らしくないことくらい、わかっている。でも、まあ。
——面倒になったら帰ってくればいい。ここに。
【完】
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最後までお読みいただき、ありがとうございます。
本作は、長編連載を視野に入れた読切作品です。
もし「この続きが読みたい」と思っていただけましたら、ぜひ【お気に入り】や【感想】をお願いいたします。
皆様からのリアクションを投票として受け取り、反響次第で【長編連載化】を決定いたします。
★前作も同じ形で皆さまの声をいただき、長編化に至りました。
『帳簿令嬢の答え合わせ ~その不正、すべて帳簿が覚えています~』
(連載中・ついにあの謎が判明する山場なので、追いかけるなら今がオススメです)
皆さまの反応が、この物語の続きを作ります。
読切を他にも投稿していますし、連載中の作品も作者ページから読めますので、ぜひご確認ください。
畝の間にちょこんと座った狐が、しばらく地面に鼻を押しつけていた。体は子犬ほどで、尻尾は一本きり。
「……かたい。ねっこ、はいらない」
「わかった。じゃあそこだけ、前足一つ分の深さまで、根が横に広がれるくらいの柔らかさに崩して。周りの土は動かさないで」
「……よこ、ひろがる。まわり、うごかさない。わかった」
狐が畝の端にもそもそと潜っていく。私はそれを見届けてから、木陰に戻って腰を下ろした。
朝からこれで三往復。場所を区切って、何を調べるか決めて、一つずつ聞く。結果が返ってきたら、次に何をするか具体的に伝える。そうすれば第一段階の精霊でも、ちゃんと正確にやってくれる。
——自分で鍬を振るより、ずっと楽だ。
「ミラ、またそうやって寝てんのか」
隣の畑のおじさんが鍬を担いで通りかかった。呆れ顔だが、悪意はない。
「寝てない。精霊がやってるから待ってるだけ」
「そんなちっこいのに任せたって、まともなことせんだろ。うちのなんか、『畑を見ろ』っつったら関係ないとこ掘り返しやがった。第一段階はどこもそんなもんだ」
「おじさんの狐もそのくらい?」
「おう、同じ第一段階だ。金かけて上の段階にすりゃもうちっとましなんだろうが、そんな余裕はねえ。村長んとこは第二段階だがなあ、あれは体も尻尾も二本になって、ちゃんと文で喋るらしい。羨ましい話だ」
第一段階はカタコト。単語をつなげるのがやっと。第二段階になると言葉が繋がり、体も大きくなって、できることの質が変わる。——もっとも、質が変わるのは精霊の性能だけじゃない。
「おじさん、『畑を見ろ』だとどこを見ればいいか精霊がわからないから、適当に一ヶ所拾っちゃうだけだと思うけど」
「あ?」
「場所を絞って、何を確認するか決めて聞けば、第一段階でもちゃんとやるよ」
「何言ってんだお前。精霊なんてもんは金かけて強いのを使うのが当たり前だろ。第一段階にちまちま聞くくらいなら自分で鍬振った方が早えわ」
おじさんは「大根がまた虫にやられとる」とぼやきながら去っていった。
——それがこの村の普通だ。精霊は金をかけて上位のものを使い、力任せに命じるもの。指示を工夫するという発想自体がない。
別に布教する気はない。おじさんにはおじさんのやり方がある。
前世の記憶はほとんど残っていない。ただ、体の奥に染みついた感覚がある。朝起きた瞬間から夜倒れるまで走り続けて、ある日そのまま目が覚めなかった——それだけが、輪郭だけ残っている。
だから、もう無理はしない。穏やかに、自分のできる範囲で、ちゃんと暮らす。それだけでいい。
「ミラ」
振り向くとカイが籠を抱えて立っていた。幼馴染。この村で生まれ育った農家の息子で、背が高くて腕っぷしだけは無駄にいい。
「朝飯。母さんが多く作りすぎたって」
「ありがとう。置いといて」
「まだ食ってないだろ」
なんで知ってるんだ。——いや、毎回このやり取りをしている気がする。私が朝飯を後回しにするのを見越して、カイの母親が多めに作る。善意の供給網がいつの間にかできあがっていた。
カイは断っても置いていくので、黙って受け取った。
パンと、昨日の残りらしい豆のスープ。温かい。いつの間にか狐が戻ってきていて、私の膝にもそもそと登った。
「みぎ、おわった。あと、むし、すこし」
「虫? どの畝?」
「……ひだり、の、おく」
「左の奥ね。畝の端から何歩分くらいのところ?」
「……さん」
「三歩目あたり。虫は葉にいる? 茎にいる? 土の中?」
「は。はっぱ、のうえ」
「葉の表? 裏?」
「……うら」
「何匹くらい? 片手で足りる?」
「たりる」
「なら今のうちに取り除いて。葉を傷つけないように、一匹ずつ落として。終わったら周りの畝にもいないか、同じように確認して」
「いちまい、ずつ。きず、つけない。まわり、も。わかった」
狐が再び畑に向かう。カイが隣に腰を下ろして、そのやり取りを黙って聞いていた。
「お前さ、いっつも精霊にそうやって何回も聞くよな。よく面倒くさくないな」
「後で手戻りになる方がよっぽど嫌だから」
「他の人がやると全然うまくいかないのに、ミラのはうまくいくの、ずっと不思議なんだよな」
「同じ精霊だよ。聞き方が違うだけ」
「聞き方?」
「いきなり『全部やれ』って言ったら、精霊はどこから手をつけていいかわからない。場所を決めて、何を見るか決めて、一個ずつ聞く。それだけ」
「おじさんが『畑を見ろ』って言ったら関係ないとこ掘り返されたのも?」
「そう。『畑のどこを、何のために見るか』まで言ってあげれば、ああはならない」
カイは「へえ」と素直に頷いた。理解しているのかは怪しいが、否定はしない。
子供の頃からそうだ。私が精霊に向かってぶつぶつ話しかけ始めた頃、村の子供たちは気味悪がって離れていった。カイだけがただ隣にいた。
理由を聞いたことがある。
「べつに。面白いから」
それだけだった。
——居心地が悪くない。ありがたいことに。
「今年、周り相当やばいらしいな」
カイが遠くに目をやりながら言った。
「やばいって?」
「東の村、畑の半分くらいやられてるらしい。ここ何年かで一番ひどいって。南も似たようなもんだ」
「……へえ」
私はスープを飲みながら自分の畑を見た。今のところ異常はない。毎日狐に状態を聞いているから、おかしければすぐ気づく。
「ミラ」
「ん?」
「うちの畑の端っこ、ちょっと葉の色がおかしいとこがある。見てくれないか」
「……お医者さんじゃないんだけど」
「でもミラが精霊に聞いた方が確実だろ」
カイは平然と言った。頼み方にためらいがない。できないことはできないと認めて、できる人間に任せる。変なプライドがないから断りづらい。
「……ごはん食べ終わったらね」
「ありがとう」
そう言ってカイは立ち上がり、自分の畑に戻っていった。その背中を見ながら、スープの残りを飲み干す。
……カイの畑がやられたら、朝飯の供給が止まる。それは避けたい。
膝の上の狐が耳をぴくぴくさせた。
「カイ、の、はたけ? いく?」
「ごはんのあとね」
「ごはん、のあと」
狐が私の言葉を繰り返して、尻尾を丸めて目を閉じた。
***
カイの畑に着くと、狐が私の首元からするりと降りた。移動中ずっと襟巻きのように巻きついていたくせに、畑を前にすると耳がぴんと立つ。仕事の顔になるのだけは一丁前だ。
「ここ。この辺り」
カイが指さした畝の端に、数株だけ葉の色がおかしいものがあった。黄色というより、褪せたような薄い緑。枯れているわけではないが、隣の株と比べると明らかに元気がない。
「いつから?」
「三日前くらいに気づいた。最初は一株だったのが、ちょっと増えてる」
三日で広がっている。放っておいていいやつではなさそうだ。
「じゃあ調べるね。——この畝の、色が変わってる株だけ見て。まず根元の土の匂い。普段と違うところはある?」
狐が変色した株に鼻を近づけた。しばらくすんすんと嗅いでから、首を傾げる。
「……ふつう」
「根元は普通。じゃあ次、葉っぱの裏。何かついてる? 虫とか、粉っぽいものとか」
「……ない。つるつる」
「茎はどう? 触ってみて。柔らかい? 硬い?」
狐が前足で茎をそっと押した。
「やわらかい。すこし」
「普通の株より柔らかい?」
「……うん。すこし、ぶよぶよ」
茎が柔らかくなっている。根元は異常なし、葉の裏にも何もない。水分の問題か、それとも——。
「わかった。ありがとう、もういいよ」
狐が私の足元に戻ってきて、ふすっと鼻を鳴らした。褒められるのを待っている顔だ。しゃがんで耳の後ろを掻いてやると、目を細めて首を傾けた。
……可愛いのは認める。
「どう?」とカイが聞いた。
「茎がちょっと柔らかくなってる。今すぐどうこうってものじゃないと思うけど、広がるようなら早めに対処した方がいい」
「対処って何すればいい?」
「まだわからない。原因がわかってないから。——とりあえず、色が変わった株の周りだけ水を控えめにして、広がるかどうか見てて」
「わかった」
カイは素直に頷いた。わからないことをわからないと言っても、不安がらない。このあたりの肝の据わり方は昔からだ。
——まあ、数株だ。大したことにはならないだろう。
そう思っていた。
一週間後、村の景色が変わっていた。
カイの畑だけではなかった。あちこちの畝で葉が褪せた株が増えている。村の入口に近い畑は、一列まるごと色が抜けたようになっていた。
「こりゃあひでえな」
村の広場で、数人が腕を組んで集まっていた。おじさんもいる。
「うちは東側がやられた。肥料をやっても全然戻らねえ」
「水が足りねえんじゃねえか? 今年は雨が少なかったろ」
「いや、水はやってる。それでもだめだ」
経験則の応酬。肥料、水、天候——誰もが知っている原因を挙げて、知っている対処をする。だがどれも効いていない。
村長が出てきた。恰幅のいい初老の男で、この村で唯一、第二段階の狐を持っている。体は大型犬ほどで、尻尾が二本。言葉もまともに繋がる。
「仕方ない。調べさせるか。——畑の状態を調べろ。原因はなんだ」
村長の狐が畑を一巡りした。戻ってきて、少しぎこちない丁寧語で答える。
「……おそらく、水の不足が原因かと思われます」
「やっぱり水か。じゃあ水を増やすぞ」
翌日、水を増やした畑を村長が再び狐に調べさせた。
「……土に養分が足りない印象がございます」
「昨日は水だって言っただろ。どっちなんだ」
「……申し訳ございません。どちらも、可能性としては……」
村長が舌打ちした。周囲のため息が広がる。
「やっぱり精霊はあてにならねえ」
「俺らの経験でやるしかねえな」
——違う。
私は広場の端で狐を膝に乗せたまま、そのやり取りを聞いていた。狐が私の手のひらに頭を擦りつけてくる。反射的に指先で顎の下を撫でた。
村長の狐は嘘をついていない。「畑の状態を調べろ」では範囲が広すぎる。畑全体を見て、目についたものを一つ拾って返しているだけだ。聞くたびに拾う場所が変わるから、答えも変わる。
……でも、それは村長の問題であって私の問題ではない。
膝の上の狐がもぞもぞと向きを変えて、尻尾を私の腕に巻きつけた。温かい。この状態が一番落ち着くらしく、すぐにうとうとし始める。
「ミラ」
カイが隣に来た。いつからいたのか。
「うちの畑、あれからどうなったと思う。変色した株、倍くらいに増えてる」
「……倍?」
「ああ。それで、水を増やしてみたんだけど——」
「増やした?」
「村の人がそうしろって。でもそのあと、なんか余計に広がった気がする」
狐が耳をぴくりと動かした。私の指が止まったのを感じたのか、顔を上げて首を傾ける。
「どうした? なでて」
「……ちょっと待って」
水を増やしたら悪化した。カイの畑で最初に見たとき、茎がぶよぶよしていた。水分過多の症状に見えなくもない。だとしたら水を足すのは逆効果だ。
でも同時に、村全体で色が褪せている。水分過多なら、水をやっていない畑には出ないはずだ。
……二つ、ある?
「ミラ?」
「カイ、悪いけど狐借りるね」
「え、俺のじゃないだろ」
「うちの狐を借りるって意味。——ちょっと調べたいことができた」
膝の上の狐を抱き上げた。狐は不満そうにふすっと鼻を鳴らしたが、私の腕の中で大人しくなった。
「カイの畑と、おじさんの畑と、村長の畑。三ヶ所回る。ついてきて」
「わかった」
カイは理由を聞かなかった。立ち上がって、当然のように隣に並ぶ。
***
まず、カイの畑から。
変色した株は最初に見たときの倍以上に広がっていた。畝の端から中ほどまで、薄い緑が帯のように続いている。
「この畝の、色が変わっている株を一つ選んで。一番ひどいやつ」
「……これ。いちばん、うすい」
「その株の茎を触って。前に調べたときと比べてどう?」
「……まえ、より、やわらかい。もっと、ぶよぶよ」
「根元は? 前と同じで匂いは普通?」
「……ん。くさい」
「前は普通だったのに、今は臭い?」
「くさい。すこし」
前回は根元に異常がなかった。今は臭い。茎の軟化が進んで、根元まで来ている。進行している。
「次。同じ畝で、色が変わり始めたばかりの株。一番軽いやつ」
「……これ」
「そっちも同じ。茎の硬さと、根元の匂い」
「……かたい。ふつう。くさくない」
軽い株は茎がまだ硬くて、根元も正常。症状は茎の軟化から始まって、進行すると根元に降りていく。上から下へ。
「ありがとう。カイ、次はおじさんの畑」
「おう」
狐を肩に乗せて移動する。狐は肩の上で器用にバランスを取りながら、耳を風に向けてぱたぱたさせていた。
おじさんの畑は東側がひどいと言っていた。着いてみると、東側の畝が三列ほど、葉の色が完全に抜けている。カイの畑より進行が早い。
「おじさんの畑の、一番ひどい畝。さっきと同じことをして。茎の硬さと、根元の匂い」
「……ぶよぶよ。くさい」
「カイの畑の一番ひどいやつと比べてどう? 同じくらい? もっとひどい?」
「……もっと。もっとくさい」
「わかった。じゃあ次、ここの軽い株。まだ色が変わり始めたばかりのやつ」
狐が東側の畝の端にいる株に近づいた。
「……これ、かたい。くさくない。でも——」
狐が首を傾げた。
「でも?」
「ねもと、じゃなくて。はっぱ、に、なにか」
「何かって? 虫? 粉?」
「こな、じゃない。……ぬるぬる? すこし」
葉にぬるぬるしたものがある。カイの畑では「つるつる」だった。
「それ、葉の表? 裏?」
「うら」
「色はある? 透明?」
「……すこし、きいろ」
少し黄色い、ぬるぬるしたもの。カイの畑の軽症株にはなかった。おじさんの畑の軽症株にはある。
——何かが違う。
「ミラ、顔怖いぞ」
「……考えてるだけ。村長の畑行こう」
村長の畑は村で一番広い。第二段階の狐に管理させているだけあって、全体的には手入れが行き届いている——はずだった。
南側の区画に、はっきりと変色した一帯があった。
「村長の畑。さっきと同じ手順でお願い。一番ひどい株と、軽い株」
狐がとことこ走っていく。村長の畑は広いので、少し時間がかかった。
「ひどいの。ぶよぶよ、くさい。おじさん、とおなじくらい」
「軽いのは?」
「かたい。くさくない。はっぱ——ぬるぬる、ない」
「ない?」
「ない。つるつる」
村長の畑の軽症株には、葉のぬるぬるがない。カイの畑と同じだ。
三ヶ所の結果を並べる。
ひどい株は全部同じ。茎がぶよぶよで根元が臭い。ここに差はない。問題は軽症株の方だ。
カイの畑——ぬるぬるなし。
おじさんの畑——ぬるぬるあり。
村長の畑——ぬるぬるなし。
おじさんの畑だけ違う。そしておじさんの畑は進行が一番早い。
「もう一つ聞いていい? おじさんの畑で、ぬるぬるがあった株。その株の茎は柔らかかった?」
「……ん。やわらかかった。すこし」
「カイの畑の軽い株は、茎は硬くて葉はつるつるだった。おじさんのは、茎が少し柔らかくて葉がぬるぬるしてた」
狐が首を傾げた。意味はわかっていない。でもいい。ここからは私が考える。
「ミラ、何かわかったのか?」
カイが聞いた。村長の畑の横に座り込んで、じっと私の顔を見ている。
「……たぶん。でもまだ確認が要る」
「何を確認するんだ?」
「おじさんの畑が一番ひどい理由」
おじさんは水を増やしていた。カイも村の助言に従って水を増やした。村長の畑は第二段階の狐が管理していて、水やりの判断も精霊任せだ。
「カイ。水を増やしたの、いつから?」
「四日前くらいかな。村の人にそうしろって言われて」
「村長の畑は?」
「さあ……村長の狐が管理してるから、村長もよくわかってないんじゃないか。でもあの狐、水が足りないって言ってたんだろ? たぶん水は増やしてないと思う」
なるほど。
村長の畑は、精霊が「水不足」と答えたのに村長が精霊を信用しなかったから、水を増やしていない。カイは村人の助言で四日前から増やした。おじさんはおそらくもっと前から。
——そして、水を増やした畑ほど進行が早い。
「二つ、ある」
「え?」
「病気が二つ。重なってる」
狐が私の膝に戻ってきて、丸くなった。耳だけがこちらを向いている。
「一つ目は、茎を柔らかくして根元まで腐らせるやつ。これはどの畑にもある。葉の色が褪せるのはこっちの症状」
「もう一つは?」
「葉の裏にぬるぬるが出るやつ。こっちは水分が多いと広がる。おじさんの畑に出てて、カイのところにはまだ出ていないのは、おじさんの方が先に水を増やしたから」
「じゃあ水を増やしたのは——」
「一つ目の病気には関係ない。でも二つ目を呼び込んだ。村長の畑が比較的ましなのは、水を増やさなかったから二つ目が来てないだけ」
カイが黙った。それから、静かに言った。
「村の人、みんな水を増やしてる」
「……そうだろうね」
「止めさせないとまずいのか」
「まずい。二つ目が広がったらもっとひどくなる。一つ目だけなら収穫に間に合うかもしれないけど、両方重なったら枯れる」
カイが立ち上がった。
「村長に言ってくる」
「待って。私も行く。説明しないと信じてもらえない」
「俺が言っても駄目か?」
「カイは理屈を説明できる?」
「……無理だな」
「でしょ」
狐を抱き上げた。狐は温かくて、腕の中で小さく欠伸をした。この子も疲れただろう。三ヶ所回って、ずっと嗅いで触って答えて。第一段階の精霊にしては働きすぎだ。
「ありがとう。もうちょっとだけ付き合って」
「……ん。がんばる」
狐が小さな前足で私の袖を掴んだ。
——覚悟を決める。村長に話をつけに行くのは気が重いが、放っておいたら村全体が枯れる。そうなったら穏やかな暮らしどころじゃない。
「カイ」
「ん?」
「帰ったらごはん食べたい」
「母さんに言っとく」
カイは当たり前のように答えた。
村長への説明は、思ったより手間取った。
ただ「二つの病気がある」と言ったところで、根拠がなければ信じない。村長は経験豊かな農家だ。経験にない話を受け入れるには、経験を超える証拠がいる。
「村長の畑と、おじさんの畑と、カイの畑。三ヶ所で同じ調べ方をして、結果が違いました」
「お前の精霊で調べた結果だろう。第一段階の狐だぞ? うちの第二段階より正確だってのか」
「正確さの問題じゃないです。聞き方の問題です」
村長の目が細くなった。
「村長の狐に『畑の状態を調べろ』と聞いたら、水が足りないと言ったり養分が足りないと言ったり、毎回答えが変わりましたよね」
「ああ。だからあてにならん」
「あれは嘘じゃないです。畑全体を調べろと言うと、精霊は一番目立つ異常を一つ拾って返す。畑に問題が二つあれば、聞くたびに違う方を拾う。だから答えが変わったんです」
村長が黙った。
「株を一つに絞って、茎の硬さ、根元の匂い、葉の裏の状態を別々に聞けば、二つの問題がちゃんと分かれて見えます。水を増やした畑だけ二つ目の症状が出ている。これが証拠です」
「……お前、それを第一段階の狐でやったのか」
「はい」
村長はしばらく腕を組んでいた。それから、自分の第二段階の狐に目を向けた。
「——試す。お前の言う通りに、うちの狐に聞いてみる」
村長が狐に、私の指示と同じ手順で調べさせた。株を一つに絞り、茎の硬さ、根元の匂い、葉の裏。第二段階の狐はぎこちない丁寧語で、しかし明確に答えた。
「茎はやや軟化しております。根元に異臭はございません。葉の裏は、異物の付着は確認できません」
一つ目の病気の初期症状。二つ目はまだ来ていない。私の説明と一致した。
村長が深く息を吐いた。
「……水を止めるぞ。全部の畑だ」
「水を完全に止めると一つ目にも悪いので、控えめにする程度で。それと、茎の軟化が進んでいる株は早めに抜いてください。周りに広がる前に」
「他には」
「二つ目の症状——葉の裏にぬめりが出ている株は、一つ目とは別に処理しないと駄目です。まとめて同じ対処をすると、片方に効いてもう片方を悪化させます」
村長が村人を集め始めた。カイが私の隣に立って、小声で言った。
「すごかったな」
「別に。調べて、並べて、比べただけ」
「それができるのがすごいんだって」
「……ごはん」
「ああ、帰ろう」
腕の中の狐がすっかり眠っていた。小さな体が規則正しく上下している。起こすのも忍びなくて、そのまま抱えて歩いた。
夕暮れの道で、カイが半歩前を歩いている。特に会話はない。でも、こういう時間が一番楽だ。何も求められない。何も説明しなくていい。ただ隣にいるだけでいい。
——前世には、こんな時間がなかった気がする。ぼんやりとした記憶の中で、いつも何かに追われていた。止まったら終わる。休んだら置いていかれる。そんな感覚だけが、体のどこかに残っている。
「ミラ」
「ん?」
「お前が調べなかったら、村全部やられてたかもな」
「……たぶんね」
「ありがとう」
カイは前を向いたまま言った。私は何も返さなかった。
腕の中の狐が、寝たまま尻尾を私の手首に巻きつけた。
***
収穫の季節が来た。
周辺の村は軒並み壊滅的だった。東の村は畑の七割がやられ、南はもっとひどい。街道を行き来する商人の顔が暗い。今年は穀物の値が跳ね上がるだろうという話が、どこからともなく聞こえてくる。
うちの村だけが、ほぼ無傷だった。
水の管理を切り替えたのが早かったおかげで、二つ目の病害は広がる前に止まった。一つ目の方も、茎が柔らかくなった株を早めに抜いたことで被害が最小限に収まっている。完全に無傷とは言わないが、例年の八割は穫れた。周りが全滅に近い中で、八割は異常だ。
「——なんでこの村だけ無事なんだ?」
収穫の噂を聞きつけて、街から役人が来た。痩せた中年の男で、周辺の村の被害状況を調査して回っているらしい。村長と並んで畑を見渡しながら、信じられないという顔をしている。
「同じ地域で、同じ気候で、同じ時期に病害が出ている。条件は変わらないはずだ。なぜここだけ収穫できている?」
村長が腕を組んだ。少し間を置いてから、私のいる方を見た。
「……あいつです。あの精霊の使い方がおかしい娘が、早いうちに病気を見分けて対処を出しまして」
「見分けた?」
「病気が二種類重なっていたんです。他の村は一つだと思って対処したから、片方に効いてもう片方を悪化させた。あの娘だけが二つあることに気づいた」
役人が私の方を見た。私は畑の端で、膝の上の狐の背中を撫でていた。狐はすっかり気持ちよさそうに目を細めている。収穫を手伝うような殊勝な精霊ではない。私もだけど。
「君が?」
「はい」
「どうやって見分けた? 第二段階の精霊でも判別できなかったと聞いたが」
「第一段階です。うちの」
膝の上の狐を示すと、役人の目が点になった。
「……この、狐?」
「はい」
「第一段階で、第二段階にできないことを?」
「精霊の性能の問題じゃないです。村長の第二段階でも、同じ聞き方をしたらちゃんと答えました」
「聞き方?」
横から村長が口を挟んだ。
「そうなんです。わしの狐に『畑を調べろ』と聞いたら、毎回違うことを言いおった。水が足りない、養分が足りないと。あてにならんと思っていたが——あれは聞き方が大雑把すぎたんだと。問題が二つあったから、精霊が毎回違う方を拾っていただけだった」
役人が黙って私を見た。それから、畑を見渡した。
「他の村にも同じことができるか?」
「もう収穫期なので、今からだと間に合わない村がほとんどだと思います。でも来年に向けての対策なら」
「——来年、うちの管轄の農村を回ってもらえないか」
「えっ」
「このやり方を教えて回るだけでいい。精霊への指示の出し方を変えるだけで被害が防げるなら、それだけで管轄全体の収穫量が変わる」
それは——穏やかな暮らしとは真逆の話だ。
「……考えさせてください」
「もちろん。報酬は出す。街まで来てくれればいつでも話ができる」
役人は村長と少し話をしてから帰っていった。
夕方、畑の縁に座っていた。狐が膝の上で丸まって寝ている。収穫が終わった畑は静かで、西日が土の色を濃くしている。
カイが隣に来た。手に何か持っている。
「母さんから。今日のやつ」
焼きたてのパンと、干し肉の入ったスープ。収穫祝いらしく、いつもより具が多い。
「ありがとう」
「役人に何か言われてたな」
「来年、他の村を回ってくれって」
「行くのか?」
「……わからない。ここでのんびり暮らしてたいんだけど」
カイは何も言わなかった。パンをちぎって、半分を私に差し出した。——自分のを分けてどうする。こっちにもあるのに。
「カイはさ」
「ん?」
「なんでいつもこうしてくれるの。ごはん持ってきたり、手伝ったり」
カイが少し考えた。
「べつに。いつものことだから」
「理由になってない」
「理由って要るか?」
要るだろ、普通。——でもカイの顔を見ると、本当に何も考えていないようだった。習慣として、当たり前のこととして、私の隣にいて、私が食べ忘れないように持ってきて、私が動くときについてくる。
……まあ、いいか。深く考えるのは性に合わない。
「ミラ」
「ん?」
「さっき村長が言ってたこと、ちょっと気になったんだけど」
「何?」
「村長の狐は第二段階だろ。お前のは第一段階。でもお前の方がちゃんと調べられた」
「聞き方の問題だって言ったでしょ」
「うん。それがわかんないんだ。なんでみんなお前と同じ聞き方をしないの?」
私はパンを噛みながら黙った。
なんで。
それは私にもわからない。この世界では、精霊は「金をかけて強いやつを使い、力任せに命じる」のが当たり前だ。おじさんも、村長も、役人も、東の村も南の村も。みんな同じ。上位の精霊に大雑把に命じて、うまくいかなければ「精霊はあてにならない」と言う。
指示を工夫するという発想自体がない。誰一人として。
前世の記憶はぼんやりとしか残っていないけれど、一つだけはっきり感じることがある。精霊を前にすると、「聞き方が大事だ」と体が勝手にわかる。言葉を選んで、順序を組んで、一つずつ確認する。それが当たり前だと思っていた。
でも、この世界ではそれが当たり前じゃない。
「——ねえ、カイ」
「ん」
「みんなさ、なんで精霊に『やれ』としか言わないんだろう」
「さあ。そういうもんだと思ってるんじゃないか?」
「そういうもの、か」
そうだ。誰もおかしいと思っていない。金をかけて上位の精霊を使うのが唯一の正解で、指示の出し方を工夫するなんて発想は存在しない。私だけが違うことをしていて、私だけが結果を出している。
それが、たまたま私が変なだけなのか——それとも、この世界全体の精霊の使い方が、根本から間違っているのか。
膝の上の狐が寝返りを打った。小さな前足が私の指に触れて、無意識に握るように丸まった。
「……来年」
「うん?」
「他の村を回るの、やっぱり行くかもしれない」
「そうか」
「別に大それたことをするつもりはないよ。ただ、聞き方を教えるだけ。それだけで変わるなら、まあ、やってもいいかなって」
「俺も行っていいか」
「……なんで?」
「力仕事が要るかもしれないだろ」
要らないと思うけど。でも断る理由もない。
「……好きにすれば」
カイが小さく笑った。私はスープの残りを飲み干して、空を見上げた。
星が出始めていた。穏やかな夜だ。明日もたぶん穏やかで、明後日も、その次も。——でもどこかで、もう少しだけ遠くを見てみたいと思っている自分がいる。
精霊の使い方が変わったら、この世界はどうなるのだろう。
膝の上の狐が目を開けた。私と目が合って、ふすっと鼻を鳴らした。
「……ねむい」
「うん。帰ろうか」
「かえる。カイも?」
「カイもね」
狐を抱き上げると、もう慣れたように腕の中に収まった。カイが立ち上がって、当たり前のように隣に並ぶ。
穏やかに暮らしたいだけ。それは本当だ。でも、少しだけ——ほんの少しだけ、この穏やかさを広げてみたくなっている。
それが自分らしくないことくらい、わかっている。でも、まあ。
——面倒になったら帰ってくればいい。ここに。
【完】
------------------------------------------------
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
本作は、長編連載を視野に入れた読切作品です。
もし「この続きが読みたい」と思っていただけましたら、ぜひ【お気に入り】や【感想】をお願いいたします。
皆様からのリアクションを投票として受け取り、反響次第で【長編連載化】を決定いたします。
★前作も同じ形で皆さまの声をいただき、長編化に至りました。
『帳簿令嬢の答え合わせ ~その不正、すべて帳簿が覚えています~』
(連載中・ついにあの謎が判明する山場なので、追いかけるなら今がオススメです)
皆さまの反応が、この物語の続きを作ります。
読切を他にも投稿していますし、連載中の作品も作者ページから読めますので、ぜひご確認ください。
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彼の名はアルト。隣国の王子でありながら、政争で毒を盛られたトラウマから食事ができなくなっていたのです。
ルシアナが差し出したもぎたての甘酸っぱいトマトが、彼の凍りついた心を優しく溶かしていき……。
王都の食糧難もなんのその、最強の農業特区を作り上げるルシアナと、彼女を溺愛する王子が織りなす、温かくて美味しいスローライフ・ラブストーリー、ここに開幕です!
【完結】貧乏令嬢の野草による領地改革
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八歳の時に木から落ちて頭を打った衝撃で、前世の記憶が蘇った主人公。
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主人公は、魔法・知識チートは持っていません。
加筆修正しました。
お手に取って頂けたら嬉しいです。
豊穣の巫女から追放されたただの村娘。しかし彼女の正体が予想外のものだったため、村は彼女が知らないうちに崩壊する。
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豊穣の巫女に追い出された村娘、アンナ。彼女は村人達の善意で生かされていた孤児だったため、むしろお礼を言って笑顔で村を離れた。その感謝は本物だった。なにも持たない彼女は、果たしてどこに向かうのか…。
小説家になろう様でも投稿しています。
追放された悪役令嬢、農業チートと“もふもふ”で国を救い、いつの間にか騎士団長と宰相に溺愛されていました
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公爵令嬢のエリナは、婚約者である第一王子から「とんでもない悪役令嬢だ!」と罵られ、婚約破棄されてしまう。しかも、見知らぬ辺境の地に追放されることに。
絶望の淵に立たされたエリナだったが、彼女には誰にも知られていない秘密のスキルがあった。それは、植物を育て、その成長を何倍にも加速させる規格外の「農業チート」!
畑を耕し、作物を育て始めたエリナの周りには、なぜか不思議な生き物たちが集まってきて……。もふもふな魔物たちに囲まれ、マイペースに農業に勤しむエリナ。
はじめは彼女を蔑んでいた辺境の人々も、彼女が作る美味しくて不思議な作物に魅了されていく。そして、彼女を追放したはずの元婚約者や、彼女の力を狙う者たちも現れて……。
これは、追放された悪役令嬢が、農業の力と少しのもふもふに助けられ、世界の常識をひっくり返していく、痛快でハートフルな成り上がりストーリー!
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