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「薬棚の番をしているだけの女は要らぬ」と追放された薬務官——兵士が一人、死んだ
兵士が死んだ。
薬が効かなかった——んじゃない。薬が間違っていた。
「解熱剤を投与したはずなのに、容態が悪化して——」
「何を投与した」
「トリカブトの根の煎じ液を……軍医殿の指示通りに……」
「量は」
「えっと……親指の爪ほど、と」
「……誰のだよ」
「は?」
「親指の爪。お前のか? 軍医のか? あの体格のいい衛生兵のか?」
沈黙。
トリカブトは猛毒だ。解熱効果はあるが、致死量との差が極めて小さい。「親指の爪ほど」なんて曖昧な分量で使っていい薬じゃない。体重の軽い兵士に、体格のいい衛生兵の「親指の爪」分を投与したら——。
「フィオナ殿がいた頃は、こんなこと——」
「フィオナ殿はもういない。副団長が追い出しただろ」
それ、わたしの話。
***
半年前に巻き戻す。
わたしの朝は、薬棚の点検から始まる。
王国第一騎士団「白銀旗」の薬務室。石の壁に沿って並ぶ棚に、百七十三種の薬草と、四十二種の調合薬が並んでいる。
「ゲンチアナ、問題なし。ジギタリス、乾燥進んでる。今日使い切る分に回す」
一つずつ瓶の蓋を開けて、匂いを嗅ぎ、色を確認し、指先で触る。声に出しながら。独り言じゃなくて、記録。あとで帳面に写す。
わたしの名前はフィオナ・フォン・ハイルング。白銀旗の薬務官。百七十三種の薬草の状態を毎朝確認し、四十二種の調合薬を管理し、三百名の団員の投薬記録を一人で把握している。
「フィオナさん、ヘルマンが熱出してます。いつもの解熱薬ください」
衛生兵のルッツが顔を出した。
「ヘルマン。——昨日、膝の痛み止めもらいに来てたよね」
「ええ、そうですけど」
「だったら解熱薬は通常のじゃなくて、ヤナギの樹皮に替える。ジギタリス系の痛み止めと、通常の解熱薬は飲み合わせが悪い」
「え、そうなんですか?」
「腎臓に負担がかかるの。二日くらい間を空ければ大丈夫だけど、昨日飲んだばかりだから」
ルッツが感心した顔で薬を受け取っていった。
飲み合わせ。三百人分の投薬記録を頭に入れてなかったら、こんな判断はできない。誰がいつ何を飲んだか。持病はあるか。体重はどのくらいか。アレルギーは。前回の薬の効き具合はどうだったか。
全部覚えてる。帳面にも書いてあるけど、帳面を見る前に名前を聞いた瞬間に出てくる。
「フィオナさん、マルティンの傷薬——」
「マルティンは先週の傷がまだ塞がってないから、今の軟膏から蜂蜜混合に切り替えて。化膿しかけてるなら先にセージの洗浄液で消毒してから」
「あ、はい。えっと——蜂蜜混合って、どの瓶ですか」
「右から三番目の棚の上段。赤い蓋の。ラベルに『外傷・化膿初期』って書いてある」
「……フィオナさん、見なくても場所分かるんですね」
「六年やってればね」
母は二十五年やっていた。白銀旗の薬務官を、わたしが継ぐ前に。二十五年間、この騎士団で投薬事故がゼロだった理由を、誰も考えなかった。
薬は効いて当たり前。投薬事故が起きないのは当たり前。当たり前のことは、誰の手柄にもならない。
***
「フィオナ殿、こちらの鎮痛剤の在庫が不足しておりますが」
軍医のエアハルトが薬務室に顔を出した。白銀旗の主席軍医。五十がらみの、自尊心の塊みたいな男。
「不足してないです。棚を入れ替えました」
「入れ替えた? なぜ勝手に」
「勝手にじゃなくて、先月報告しましたよ。夏場は室温が上がるから、熱に弱い薬を奥の涼しい棚に移すって」
「聞いていないが」
「報告書に書きました。お読みになってないですか」
エアハルトの眉が動いた。読んでない。毎月出してる報告書、読まれたことがない。
「……鎮痛剤はどこだ」
「奥の棚、左から四番目。ラベルは同じです」
「まったく、薬棚の管理くらい軍医に相談してからやれ。自分の判断で動くな」
「相談しようとしたんですけど、エアハルト殿が報告書を——」
「薬の管理は薬の管理だ。医療の判断は軍医がする。お前は棚を整理していればいい」
棚を整理していればいい。その「棚の整理」の中に、百七十三種の品質管理と、四十二種の調合と、三百名分の投薬記録の管理が含まれてるんだけど。
「それと」
「何ですか」
「副団長に呼ばれている。行ってこい」
嫌な予感がした。
***
副団長のコンラートは、執務室で足を組んでいた。わたしの婚約者。赤毛で、目つきが鋭い。有能だけど、有能な自分が大好きなタイプ。
「フィオナ、座れ」
「立ったままで結構です。何ですか」
「最近、お前の薬務費が高いと経理から突き上げが来ている」
「高くないです。品質を維持するために必要な額です」
「同じ薬を作っている街の薬師に見積もりを取ったら、半額だった」
「同じ薬じゃないです。うちのは一人ひとりの体質に合わせて濃度を調整してるので——」
「濃度の違いなど、素人に分かるか」
「素人に分からないから、わたしが管理してるんですよ」
コンラートの目が細くなった。この表情は知ってる。言い負かされると出る顔。
「効き目が同じなら、安い方でいい。来月から街の薬師に外注する」
「効き目は同じじゃないです。一人ひとり体重も体質も違うのに、全員同じ薬を出したら——」
「軍医がいるだろう。軍医が判断して、薬師が出す。お前は不要だ」
不要。
その言葉が出た瞬間、もう次が来ると分かった。
「婚約も破棄する」
「……理由は」
「薬棚の番をしているだけの女を、副団長の妻にはできん」
薬棚の番。六年間の全部が、その四文字。
「——分かりました」
「それだけか?」
「それだけです。……一つだけいいですか」
「何だ」
「エアハルト殿に伝えてください。ヴェンデル小隊長は心臓の持病があるので、ジギタリス系の薬を絶対に投与しないようにと。あと、ベルガー伍長は——」
「そんなことは軍医が把握している」
「把握してないです。把握してたら、先月ヴェンデル小隊長にジギタリスの点滴を出そうとしてないです」
「……何?」
「わたしが止めました。報告書に書いてあります」
コンラートの顔が一瞬こわばった。でも、すぐに戻った。
「軍医と薬師で回す。問題ない」
「……分かりました」
***
薬務室を出る日、最後の仕事をした。
三百名分の投薬記録を、一人ずつ紙に書き出した。名前、体重、持病、アレルギー、現在服用中の薬、飲み合わせの注意点。
三百枚。夜通しかかった。
エアハルトの机に置いた。読むかどうかは——まあ、期待してない。
革鞄ひとつ。母の調合帳と、使い込まれた薬研やげん。重い。でも、これだけは持っていく。
門を出る時、衛生兵のルッツが走ってきた。
「フィオナさん! 本当に行っちゃうんですか」
「うん」
「なんで——エアハルト殿も副団長も、フィオナさんがいなかったらどうなるか分かって——」
「分かってないから追い出すんでしょ」
ルッツが泣きそうな顔をした。
「ルッツ。一つだけ頼みがある」
「何でもします」
「三百枚の記録をエアハルト殿の机に置いてきた。もし読まないようだったら、あんたが読んで。特に飲み合わせのところ。赤で印つけてあるから」
「……はい」
「あと——トリカブトの分量は、絶対に『親指の爪ほど』なんて曖昧な指示で出さないで。体重に対して何粒って、数字で管理して」
「分かりました」
「頼んだよ」
ルッツの目が赤い。ありがとうございました、と何度も頭を下げている。
振り返らなかった。
***
東に四日。山間の町に着いた。
温泉地から少し離れた、鉱山の町。坑夫が多くて、怪我や体調不良が日常茶飯事。なのに、まともな薬師がいないらしい。
町に入って最初に目に入ったのは、咳をしている子供だった。母親が背中をさすっている。
「その咳、長いですか」
つい声をかけてしまった。
「もう五日も。薬を飲ませたいんだけど、町に薬師がいなくて——」
「何か飲ませました?」
「煎じ薬を……隣の町で買ったんですが、効かなくて」
「見せてもらえますか」
母親が袋から薬を出した。匂いを嗅いだ。
「……これ、大人用ですね。子供にこの量は多すぎます。半分にして、あと蜂蜜で溶いてあげてください。苦いから、このまま飲ませると吐いちゃう」
「半分で効くんですか?」
「子供の体重なら十分です。三日続ければ治ります」
母親の目が丸くなった。
「あなた、薬師さん?」
「……まあ、一応」
その日のうちに、町の集会所で三人診た。咳の子供、腰を痛めた坑夫、慢性の頭痛の老婆。
翌日は五人。三日目は八人。
「フィオナ先生、今日も来てくださったんですか!」
先生。そう呼ばれたの、初めてだった。白銀旗では「薬棚の番人」だったのに。
***
正式に町に居着くことにしたのは、一週間後だった。
空き家を借りて、薬務所を開いた。といっても、母の調合帳と薬研と、山で採った薬草が棚に並んでるだけの小さな部屋。
町の鉱山管理官が挨拶に来た。
「町に薬師が来てくれるなんて、何年ぶりだろう。ありがたい。——鉱山の方でも、怪我人の対応をお願いしたいんだが」
「もちろんです。ただ、坑内の怪我は種類が特殊なので、現場を見せてもらえますか」
「現場?」
「粉塵の状態とか、どういう怪我が多いかとか。見ないと薬の準備ができないので」
管理官が驚いた顔をした。
「……前に来た薬師は、現場なんか見なかったが」
「見ないと分からないことがあるんです」
翌日、鉱山に入った。坑道は暗くて、空気が悪い。粉塵が多い。ここで毎日働いてたら、肺がやられる。
坑道の奥で、怪我をした坑夫の手当てをしている男がいた。
「——この傷、止血が先だ。布を巻け。きつく」
「ヨナス先生、血が止まりません——」
「止まる。圧迫が足りないだけだ。もっと強く。そう、それでいい」
大柄な男。黒い髪を雑に結んで、シャツの袖をまくっている。手が血だらけだ。
止血の手際がいい。慣れてる。
「あんた、医者?」
声をかけたら、男が振り返った。
「医者じゃない。ただの鉱山医だ。免許はない」
「免許ないのに手当てしてるの?」
「免許持ちが来ないんだから、仕方ないだろ。おれか、さもなきゃ誰もいない。——あんたは?」
「町の薬務所を開いたフィオナです」
「薬師か。助かる。薬のことはさっぱりだ」
「さっぱりなのに手当てはするんだ」
「止血と骨接ぎはできる。でも薬は怖くて出せない。量を間違えたら殺すだろ」
……まとも。この人、まともだ。自分に何ができて何ができないかを分かってる。
「傷薬、持ってきてます。使います?」
「頼む。——おれはヨナス。鉱山付きの何でも屋みたいなもんだ」
ヨナスに傷薬を渡した。塗り方を教えると、すぐに覚えた。手先が器用だ。
「この軟膏、市販のと全然違うな。傷にしみない」
「蜂蜜とセージを混ぜてるの。化膿を防いで、痛みも抑える」
「へえ。——量は?」
「指の腹にこのくらい。傷の大きさによって変えて」
「分かった。……あんた、教え方が具体的でいいな。前に来た薬師は『適量』としか言わなかった」
「適量って言葉、わたし嫌いなんです」
「おれもだ」
ヨナスがにやっと笑った。ごつい顔なのに、笑うと少年みたいになる。
***
ヨナスとの連携が始まった。
彼が怪我人を診て、わたしが薬を出す。彼の診断は正確だけど薬の知識がない。わたしは薬の知識はあるけど外科処置はできない。噛み合った。
問題は、鉱山の怪我人が多すぎることだった。
「今月で十二人目だ。この坑道、崩落の危険がある」
「怪我の種類は?」
「落石による打撲が八件。粉塵吸引が三件。転落が一件」
「粉塵吸引、増えてない?」
「増えてる。換気が悪い」
「肺の薬、在庫が足りなくなりそう。山に採りに行かないと」
「一人で行くな。おれが付き合う」
「大丈夫ですよ、山くらい」
「大丈夫じゃない。魔獣が出る」
「……出るの?」
「出る。先月も坑夫が一人やられてる」
翌朝、二人で山に入った。ヨナスが前を歩く。腰に鉈を提げている。
「薬草、どの辺に生えてるか分かるのか」
「日陰の湿った斜面。沢沿いが多い」
「沢沿いか。魔獣の水飲み場でもあるな」
「……もっと早く言ってよ」
「言ったら来ないだろ」
「言われても来ます。薬がなくなる方が困る」
ヨナスが振り返った。少し驚いた顔。
「……度胸あるな」
「度胸じゃなくて必要性です」
沢沿いの斜面に、目当ての薬草が群生していた。ヤナギの樹皮、セイヨウトチノキ、カンゾウの根。摘みながら、ヨナスに説明する。
「この樹皮は解熱と鎮痛に使う。この根は咳止め。この葉は——」
「止血にも使えるか」
「使えるけど、なんで分かるの」
「昔、婆さんに教わった。山の薬草でこの葉っぱが一番止血に効くって」
「お婆さん、薬師だったの?」
「いや、ただの山の婆さん。でも、この辺の草のことは何でも知ってた」
ヨナスが薬草を丁寧に根元から抜いた。根を傷つけないように。
「……抜き方、上手いね」
「婆さんに叩き込まれた。根を残せば来年また生えるって」
「いいお婆さんだったんだね」
「ああ。口は悪かったけど」
帰り道、ヨナスが荷物を全部持ってくれた。
「自分で持てますよ」
「おれの方が体力ある。合理的だろ」
「合理的って言えば何でも通ると思ってません?」
「思ってる」
「……まあ、ありがとうございます」
山道を下りながら、ふと気づいた。白銀旗で六年間、誰かと一緒に薬草を採りに行ったことがない。いつも一人で山に入って、一人で背負って帰ってきた。
隣に誰かがいる山道は、同じ道でも全然違って見えた。
***
薬務所が軌道に乗ってくると、ヨナスが夕方に顔を出すようになった。
最初は「傷薬の補充を頼みたい」とか用件があったけど、そのうち用件なしで来るようになった。
「今日は何の用?」
「用はない」
「じゃあなんで来たの」
「……帰り道だから」
「薬務所、あんたの帰り道にないよね」
「遠回りしてる」
正直すぎて突っ込む気にもならない。
「お茶でも飲みます?」
「もらう」
薬棚の前に二脚の椅子を並べて、薬草茶を淹れた。カモミールとミントのブレンド。
「この茶、うまいな」
「ミントを入れると胃にもいいんです」
「薬も入ってんのか」
「ミントは薬草です。何にでも入ってます」
「知らなかった。——おれが飲んでるもの全部に薬入ってたりして」
「入ってたらどうします?」
「別にいい。あんたが入れたなら悪いもんじゃないだろ」
……信頼が重い。根拠のない信頼はたいてい危ないんだけど、この人の場合はちょっと違う。ヨナスは「分からないものを信じる」んじゃなくて、「分からないけど、この人間は信じられる」で動いてる。
「ヨナスさん」
「ヨナスでいい。さん付けされると落ち着かない」
「じゃあ、ヨナス」
「何だ」
「なんで毎日来るの。本当に」
ヨナスが茶を啜った。少し間があった。
「坑道から上がると、どこにも寄るとこがなくてな。家に帰っても一人だし。ここは——」
「ここは?」
「灯りがついてると、寄りたくなる」
灯り。わたしの薬務所の窓は、夜遅くまで灯りがついている。調合をしているから。
「……勝手に目印にしてたのか、わたしの灯り」
「悪いか」
「悪くない。——でも、それ言うなら先に言ってよ。灯り消しちゃうかもしれないでしょ」
「消さないだろ。あんた、いつも遅くまで仕事してるじゃないか」
「それとこれとは別」
「何が別なんだ」
「……いいから。お茶、おかわりいる?」
「もらう」
お茶を淹れ直した。ヨナスの分は少し濃いめにする。坑道で一日中動いてる体には、ミントを多めの方がいい。
「フィオナ」
「何」
「さん付けなしで呼んでいいか」
「もう呼んでるじゃない」
「……そうだな」
二人でお茶を飲んだ。薬務所の狭い部屋。薬草の匂いと、鉱山の土の匂い。混ざると意外と悪くない。
***
ある夜、ヨナスがいつもより遅く来た。
右手に布を巻いている。
「怪我してるじゃない」
「たいしたことない。石で擦っただけだ」
「見せて」
布を解いた。掌が裂けてる。石で擦っただけじゃない。結構深い。
「これ、たいしたことなくないよ。縫った方がいい」
「縫えるのか」
「縫合はできない。でも、蝶番留めにして薬を塗れば塞がる」
消毒液で傷口を洗った。ヨナスが少し顔をしかめる。
「しみる?」
「いや。手が冷たい」
「……薬が冷たいの。我慢して」
「手の話だ」
わたしの手が冷たい。夜の薬務所は冷えるから。
「……ごめん。冷たくて」
「謝るな。——冷たいなら、温めればいいだろ」
ヨナスが、手当てが終わったわたしの手を、反対の手で包んだ。鉱山で鍛えた、大きくて硬い手。
「こうしてれば温まる」
「ちょっと——手当て中なんですけど」
「もう終わっただろ」
「……終わったけど」
手を引こうとした。引けなかった。引かなかった、が正しい。
「フィオナ」
「何」
「おれは薬のことは分からない。飲み合わせも、調合も」
「知ってる」
「でも、あんたが夜遅くまで灯りをつけて何をしてるかは、見てれば分かる」
「……何をしてるか、分かるの」
「町の全員分の薬を、一人で管理してる。前にいた騎士団でもやってたんだろ。三百人分」
「なんで知ってるの」
「ルッツって衛生兵から、手紙が来た」
「——ルッツから?」
「『フィオナ殿をよろしくお願いします。あの人は自分の体より他人の体を先に心配するので』って」
ルッツ……。余計なことを。
「あいつ、どうやってここを」
「町の薬師が来たって噂は広まってる。王都の薬務官がいなくなったって話と合わせれば、すぐ分かる」
「……余計なお世話だな」
「おれはありがたかった」
「何が」
「守る理由ができた」
手を引いた。今度は引けた。というか、引かないとまずかった。顔が熱い。
「お茶淹れます」
「さっき飲んだだろ」
「もう一杯飲むの。——帰ってください」
「分かった。おやすみ」
ヨナスが出ていった。扉が閉まった。
手のひらがまだ温かい。
……余計なことするな、ルッツ。
***
四ヶ月が過ぎた頃、王都の話が届いた。
白銀旗で投薬事故が起きた。兵士が一人、亡くなった。
トリカブトの過剰投与。曖昧な分量指示が原因。
続報で、もう一件。ヴェンデル小隊長がジギタリス系の薬で心臓発作を起こし、命は取り留めたが前線を退いた。飲み合わせの記録を誰も確認していなかった。
「三百枚の記録……読まなかったのか」
読まなかったんだろう。分かってた。
ヨナスが夕方に来た。いつもの椅子に座って、何も言わない。
「聞いた?」
「ああ」
「わたしがいたら死ななかった」
「そうだろうな」
「でもわたしは追い出された」
「ああ」
「だからわたしのせいじゃない」
「当たり前だ」
「……当たり前なのに、なんか苦しい」
ヨナスが黙ってお茶を淹れた。わたしの分。いつの間にかこの人も、わたし好みの温度を覚えている。ちょっとぬるめ。猫舌用。
「おれに何かできることはあるか」
「ない。——ある。一つだけ」
「何だ」
「明日も来て」
「毎日来てる」
「知ってる。だから、明日も」
「……ああ。来る」
ヨナスの声は低くて、短くて、余計な飾りがない。その声がいま一番聞きたい音だと気づいて、少し困った。
***
コンラートが来たのは、翌週だった。
薬務所の前に、白銀旗の紋章入りの馬車。町の人たちがざわざわしている。
「フィオナ」
「久しぶりですね」
「戻れ」
「お断りします」
「人が死んだんだぞ」
「知ってます」
「知ってるなら——」
「知ってるから断ってるんです」
コンラートの目が見開いた。
「……どういう意味だ」
「三百枚の記録を置いてきました。読みましたか」
「記録?」
「三百名分の投薬記録です。飲み合わせの注意点に赤で印をつけてあった。あれを読んでいれば、ヴェンデル小隊長にジギタリスを出すことはなかった」
「そんなもの——」
「読んでないでしょ。エアハルト殿の机に置いたんですけど」
コンラートが黙った。
「トリカブトの件も同じです。わたしがいた頃は、投与量を全て体重ベースで計算して、数字で指示してました。『親指の爪ほど』なんて曖昧な指示は一度も出したことがない」
「だから戻って——」
「六年間、投薬事故ゼロ。わたしの仕事です。知ってましたか」
「……」
「薬棚の番をしてるだけだと思ってたでしょ」
コンラートが一歩踏み出そうとした。
その前に、ヨナスが薬務所から出てきた。腕を組んで、コンラートと向き合った。
コンラートより頭半分でかい。鉱山で鍛えた体は、騎士とは違う圧がある。
「誰だ」
「この町の鉱山医だ。免許はないがな」
「無免許の医者に何の用がある」
「用はない。ここにいるだけだ」
ヨナスの声は静かだった。脅しでもなく、怒りでもなく。ただ、動かない。
わたしはコンラートを見た。
「ここでは、わたしの薬を必要としてくれる人がいます。わたしの名前で薬を待っている人がいます。先生って呼んでくれる人がいます。——戻る理由がないんです」
「だが——」
「これを持って帰ってください」
棚から瓶を二つ出した。ヴェンデル小隊長の心臓用の薬と、粉末にした解熱鎮痛剤。
「ヴェンデル小隊長の薬は、朝晩一錠ずつ。絶対にジギタリス系と併用しないで。解熱鎮痛剤は一人ずつ体重を量って、この表の通りに投与量を決めてください」
表も一緒に渡した。体重別の投与量一覧。これがあれば「親指の爪ほど」なんて指示は出さなくて済む。
「これだけです。三百人分を管理する余裕はありません。この町の人たちが先なので」
コンラートが瓶と表を受け取った。
「……すまなかった」
「その言葉はわたしじゃなくて、亡くなった兵士のご家族に言ってください」
コンラートの顔から血の気が引いた。
「お気をつけて」
一礼した。馬車が去っていく。
ヨナスがまだ立っている。
「帰ったか」
「帰った」
「……泣いてるぞ」
「泣いてない」
「目が赤い」
「薬草のせい」
「嘘つけ」
ヨナスが何も言わずに隣に立った。肩がぶつかるくらいの距離。
「……ヨナス」
「何だ」
「お茶、淹れてくれる?」
「おれが淹れるのか。下手だぞ」
「いいよ。今日は誰かが淹れてくれたのが飲みたい」
ヨナスが中に入っていった。しばらくして、お茶を持って出てきた。
一口飲んだ。
「……濃い」
「言っただろ、下手だって」
「でも、温かい」
「当たり前だ。湯を沸かしたんだから」
「そういう意味じゃないんだけど」
「……分かってる」
ヨナスの声が少しだけ低くなった。
二人で薬務所の前に座って、下手なお茶を飲んだ。夕日が山の向こうに沈んでいく。鉱山の町の空は狭いけど、夕焼けだけは広い。
***
白銀旗から、正式な依頼書が届いた。投薬管理の顧問契約。報酬は前の三倍。
「受けるの?」
ヨナスが聞いた。
「体重別の投与量表と、飲み合わせの一覧表を送るだけ。顔は出さない」
「それでいいのか」
「いいの。あとは向こうの軍医が自分で覚えるべきことだから」
「……甘いな」
「甘い?」
「向こうには厳しくして、こっちには甘い」
「何の話?」
「自分の体の話だ。昨日、何時に寝た」
「……二時」
「今朝は何時に起きた」
「五時」
「三時間しか寝てないだろ。おれが言うのもなんだが、薬師が倒れたらこの町が困る」
「……分かってます」
「分かってないから言ってる。——今日は早く寝ろ」
「寝ます。寝ますから」
「信用できないな。灯り見てるからな」
「……見張られてるみたい」
「見張ってるんだ」
反論できなかった。この人に「灯りを見てる」と言われると、消さないといけない気持ちになる。不思議だ。白銀旗で百回言われた「早く帰れ」は全部無視してたのに。
「ヨナス」
「何だ」
「明日の山、付き合ってくれる?」
「言われなくても行く」
「……ありがとう」
「礼はいい。お茶くれ」
「自分で淹れたら?」
「おれのは濃すぎるって言っただろ」
「だからいいんだけど」
「何が」
「……何でもない。淹れてくる」
薬務所の灯りが夕暮れの中でぽつりと灯る。この灯りを、今夜も誰かが見ている。
それだけで、なんだか——もう少しだけ、頑張れそうだった。
明日も朝から薬棚の点検。それから山に行って薬草を採って、午後は坑夫の手当て。夕方にはヨナスがお茶を飲みに来る。
灯りは——今日は早めに消そう。
たぶん。
【完】
薬が効かなかった——んじゃない。薬が間違っていた。
「解熱剤を投与したはずなのに、容態が悪化して——」
「何を投与した」
「トリカブトの根の煎じ液を……軍医殿の指示通りに……」
「量は」
「えっと……親指の爪ほど、と」
「……誰のだよ」
「は?」
「親指の爪。お前のか? 軍医のか? あの体格のいい衛生兵のか?」
沈黙。
トリカブトは猛毒だ。解熱効果はあるが、致死量との差が極めて小さい。「親指の爪ほど」なんて曖昧な分量で使っていい薬じゃない。体重の軽い兵士に、体格のいい衛生兵の「親指の爪」分を投与したら——。
「フィオナ殿がいた頃は、こんなこと——」
「フィオナ殿はもういない。副団長が追い出しただろ」
それ、わたしの話。
***
半年前に巻き戻す。
わたしの朝は、薬棚の点検から始まる。
王国第一騎士団「白銀旗」の薬務室。石の壁に沿って並ぶ棚に、百七十三種の薬草と、四十二種の調合薬が並んでいる。
「ゲンチアナ、問題なし。ジギタリス、乾燥進んでる。今日使い切る分に回す」
一つずつ瓶の蓋を開けて、匂いを嗅ぎ、色を確認し、指先で触る。声に出しながら。独り言じゃなくて、記録。あとで帳面に写す。
わたしの名前はフィオナ・フォン・ハイルング。白銀旗の薬務官。百七十三種の薬草の状態を毎朝確認し、四十二種の調合薬を管理し、三百名の団員の投薬記録を一人で把握している。
「フィオナさん、ヘルマンが熱出してます。いつもの解熱薬ください」
衛生兵のルッツが顔を出した。
「ヘルマン。——昨日、膝の痛み止めもらいに来てたよね」
「ええ、そうですけど」
「だったら解熱薬は通常のじゃなくて、ヤナギの樹皮に替える。ジギタリス系の痛み止めと、通常の解熱薬は飲み合わせが悪い」
「え、そうなんですか?」
「腎臓に負担がかかるの。二日くらい間を空ければ大丈夫だけど、昨日飲んだばかりだから」
ルッツが感心した顔で薬を受け取っていった。
飲み合わせ。三百人分の投薬記録を頭に入れてなかったら、こんな判断はできない。誰がいつ何を飲んだか。持病はあるか。体重はどのくらいか。アレルギーは。前回の薬の効き具合はどうだったか。
全部覚えてる。帳面にも書いてあるけど、帳面を見る前に名前を聞いた瞬間に出てくる。
「フィオナさん、マルティンの傷薬——」
「マルティンは先週の傷がまだ塞がってないから、今の軟膏から蜂蜜混合に切り替えて。化膿しかけてるなら先にセージの洗浄液で消毒してから」
「あ、はい。えっと——蜂蜜混合って、どの瓶ですか」
「右から三番目の棚の上段。赤い蓋の。ラベルに『外傷・化膿初期』って書いてある」
「……フィオナさん、見なくても場所分かるんですね」
「六年やってればね」
母は二十五年やっていた。白銀旗の薬務官を、わたしが継ぐ前に。二十五年間、この騎士団で投薬事故がゼロだった理由を、誰も考えなかった。
薬は効いて当たり前。投薬事故が起きないのは当たり前。当たり前のことは、誰の手柄にもならない。
***
「フィオナ殿、こちらの鎮痛剤の在庫が不足しておりますが」
軍医のエアハルトが薬務室に顔を出した。白銀旗の主席軍医。五十がらみの、自尊心の塊みたいな男。
「不足してないです。棚を入れ替えました」
「入れ替えた? なぜ勝手に」
「勝手にじゃなくて、先月報告しましたよ。夏場は室温が上がるから、熱に弱い薬を奥の涼しい棚に移すって」
「聞いていないが」
「報告書に書きました。お読みになってないですか」
エアハルトの眉が動いた。読んでない。毎月出してる報告書、読まれたことがない。
「……鎮痛剤はどこだ」
「奥の棚、左から四番目。ラベルは同じです」
「まったく、薬棚の管理くらい軍医に相談してからやれ。自分の判断で動くな」
「相談しようとしたんですけど、エアハルト殿が報告書を——」
「薬の管理は薬の管理だ。医療の判断は軍医がする。お前は棚を整理していればいい」
棚を整理していればいい。その「棚の整理」の中に、百七十三種の品質管理と、四十二種の調合と、三百名分の投薬記録の管理が含まれてるんだけど。
「それと」
「何ですか」
「副団長に呼ばれている。行ってこい」
嫌な予感がした。
***
副団長のコンラートは、執務室で足を組んでいた。わたしの婚約者。赤毛で、目つきが鋭い。有能だけど、有能な自分が大好きなタイプ。
「フィオナ、座れ」
「立ったままで結構です。何ですか」
「最近、お前の薬務費が高いと経理から突き上げが来ている」
「高くないです。品質を維持するために必要な額です」
「同じ薬を作っている街の薬師に見積もりを取ったら、半額だった」
「同じ薬じゃないです。うちのは一人ひとりの体質に合わせて濃度を調整してるので——」
「濃度の違いなど、素人に分かるか」
「素人に分からないから、わたしが管理してるんですよ」
コンラートの目が細くなった。この表情は知ってる。言い負かされると出る顔。
「効き目が同じなら、安い方でいい。来月から街の薬師に外注する」
「効き目は同じじゃないです。一人ひとり体重も体質も違うのに、全員同じ薬を出したら——」
「軍医がいるだろう。軍医が判断して、薬師が出す。お前は不要だ」
不要。
その言葉が出た瞬間、もう次が来ると分かった。
「婚約も破棄する」
「……理由は」
「薬棚の番をしているだけの女を、副団長の妻にはできん」
薬棚の番。六年間の全部が、その四文字。
「——分かりました」
「それだけか?」
「それだけです。……一つだけいいですか」
「何だ」
「エアハルト殿に伝えてください。ヴェンデル小隊長は心臓の持病があるので、ジギタリス系の薬を絶対に投与しないようにと。あと、ベルガー伍長は——」
「そんなことは軍医が把握している」
「把握してないです。把握してたら、先月ヴェンデル小隊長にジギタリスの点滴を出そうとしてないです」
「……何?」
「わたしが止めました。報告書に書いてあります」
コンラートの顔が一瞬こわばった。でも、すぐに戻った。
「軍医と薬師で回す。問題ない」
「……分かりました」
***
薬務室を出る日、最後の仕事をした。
三百名分の投薬記録を、一人ずつ紙に書き出した。名前、体重、持病、アレルギー、現在服用中の薬、飲み合わせの注意点。
三百枚。夜通しかかった。
エアハルトの机に置いた。読むかどうかは——まあ、期待してない。
革鞄ひとつ。母の調合帳と、使い込まれた薬研やげん。重い。でも、これだけは持っていく。
門を出る時、衛生兵のルッツが走ってきた。
「フィオナさん! 本当に行っちゃうんですか」
「うん」
「なんで——エアハルト殿も副団長も、フィオナさんがいなかったらどうなるか分かって——」
「分かってないから追い出すんでしょ」
ルッツが泣きそうな顔をした。
「ルッツ。一つだけ頼みがある」
「何でもします」
「三百枚の記録をエアハルト殿の机に置いてきた。もし読まないようだったら、あんたが読んで。特に飲み合わせのところ。赤で印つけてあるから」
「……はい」
「あと——トリカブトの分量は、絶対に『親指の爪ほど』なんて曖昧な指示で出さないで。体重に対して何粒って、数字で管理して」
「分かりました」
「頼んだよ」
ルッツの目が赤い。ありがとうございました、と何度も頭を下げている。
振り返らなかった。
***
東に四日。山間の町に着いた。
温泉地から少し離れた、鉱山の町。坑夫が多くて、怪我や体調不良が日常茶飯事。なのに、まともな薬師がいないらしい。
町に入って最初に目に入ったのは、咳をしている子供だった。母親が背中をさすっている。
「その咳、長いですか」
つい声をかけてしまった。
「もう五日も。薬を飲ませたいんだけど、町に薬師がいなくて——」
「何か飲ませました?」
「煎じ薬を……隣の町で買ったんですが、効かなくて」
「見せてもらえますか」
母親が袋から薬を出した。匂いを嗅いだ。
「……これ、大人用ですね。子供にこの量は多すぎます。半分にして、あと蜂蜜で溶いてあげてください。苦いから、このまま飲ませると吐いちゃう」
「半分で効くんですか?」
「子供の体重なら十分です。三日続ければ治ります」
母親の目が丸くなった。
「あなた、薬師さん?」
「……まあ、一応」
その日のうちに、町の集会所で三人診た。咳の子供、腰を痛めた坑夫、慢性の頭痛の老婆。
翌日は五人。三日目は八人。
「フィオナ先生、今日も来てくださったんですか!」
先生。そう呼ばれたの、初めてだった。白銀旗では「薬棚の番人」だったのに。
***
正式に町に居着くことにしたのは、一週間後だった。
空き家を借りて、薬務所を開いた。といっても、母の調合帳と薬研と、山で採った薬草が棚に並んでるだけの小さな部屋。
町の鉱山管理官が挨拶に来た。
「町に薬師が来てくれるなんて、何年ぶりだろう。ありがたい。——鉱山の方でも、怪我人の対応をお願いしたいんだが」
「もちろんです。ただ、坑内の怪我は種類が特殊なので、現場を見せてもらえますか」
「現場?」
「粉塵の状態とか、どういう怪我が多いかとか。見ないと薬の準備ができないので」
管理官が驚いた顔をした。
「……前に来た薬師は、現場なんか見なかったが」
「見ないと分からないことがあるんです」
翌日、鉱山に入った。坑道は暗くて、空気が悪い。粉塵が多い。ここで毎日働いてたら、肺がやられる。
坑道の奥で、怪我をした坑夫の手当てをしている男がいた。
「——この傷、止血が先だ。布を巻け。きつく」
「ヨナス先生、血が止まりません——」
「止まる。圧迫が足りないだけだ。もっと強く。そう、それでいい」
大柄な男。黒い髪を雑に結んで、シャツの袖をまくっている。手が血だらけだ。
止血の手際がいい。慣れてる。
「あんた、医者?」
声をかけたら、男が振り返った。
「医者じゃない。ただの鉱山医だ。免許はない」
「免許ないのに手当てしてるの?」
「免許持ちが来ないんだから、仕方ないだろ。おれか、さもなきゃ誰もいない。——あんたは?」
「町の薬務所を開いたフィオナです」
「薬師か。助かる。薬のことはさっぱりだ」
「さっぱりなのに手当てはするんだ」
「止血と骨接ぎはできる。でも薬は怖くて出せない。量を間違えたら殺すだろ」
……まとも。この人、まともだ。自分に何ができて何ができないかを分かってる。
「傷薬、持ってきてます。使います?」
「頼む。——おれはヨナス。鉱山付きの何でも屋みたいなもんだ」
ヨナスに傷薬を渡した。塗り方を教えると、すぐに覚えた。手先が器用だ。
「この軟膏、市販のと全然違うな。傷にしみない」
「蜂蜜とセージを混ぜてるの。化膿を防いで、痛みも抑える」
「へえ。——量は?」
「指の腹にこのくらい。傷の大きさによって変えて」
「分かった。……あんた、教え方が具体的でいいな。前に来た薬師は『適量』としか言わなかった」
「適量って言葉、わたし嫌いなんです」
「おれもだ」
ヨナスがにやっと笑った。ごつい顔なのに、笑うと少年みたいになる。
***
ヨナスとの連携が始まった。
彼が怪我人を診て、わたしが薬を出す。彼の診断は正確だけど薬の知識がない。わたしは薬の知識はあるけど外科処置はできない。噛み合った。
問題は、鉱山の怪我人が多すぎることだった。
「今月で十二人目だ。この坑道、崩落の危険がある」
「怪我の種類は?」
「落石による打撲が八件。粉塵吸引が三件。転落が一件」
「粉塵吸引、増えてない?」
「増えてる。換気が悪い」
「肺の薬、在庫が足りなくなりそう。山に採りに行かないと」
「一人で行くな。おれが付き合う」
「大丈夫ですよ、山くらい」
「大丈夫じゃない。魔獣が出る」
「……出るの?」
「出る。先月も坑夫が一人やられてる」
翌朝、二人で山に入った。ヨナスが前を歩く。腰に鉈を提げている。
「薬草、どの辺に生えてるか分かるのか」
「日陰の湿った斜面。沢沿いが多い」
「沢沿いか。魔獣の水飲み場でもあるな」
「……もっと早く言ってよ」
「言ったら来ないだろ」
「言われても来ます。薬がなくなる方が困る」
ヨナスが振り返った。少し驚いた顔。
「……度胸あるな」
「度胸じゃなくて必要性です」
沢沿いの斜面に、目当ての薬草が群生していた。ヤナギの樹皮、セイヨウトチノキ、カンゾウの根。摘みながら、ヨナスに説明する。
「この樹皮は解熱と鎮痛に使う。この根は咳止め。この葉は——」
「止血にも使えるか」
「使えるけど、なんで分かるの」
「昔、婆さんに教わった。山の薬草でこの葉っぱが一番止血に効くって」
「お婆さん、薬師だったの?」
「いや、ただの山の婆さん。でも、この辺の草のことは何でも知ってた」
ヨナスが薬草を丁寧に根元から抜いた。根を傷つけないように。
「……抜き方、上手いね」
「婆さんに叩き込まれた。根を残せば来年また生えるって」
「いいお婆さんだったんだね」
「ああ。口は悪かったけど」
帰り道、ヨナスが荷物を全部持ってくれた。
「自分で持てますよ」
「おれの方が体力ある。合理的だろ」
「合理的って言えば何でも通ると思ってません?」
「思ってる」
「……まあ、ありがとうございます」
山道を下りながら、ふと気づいた。白銀旗で六年間、誰かと一緒に薬草を採りに行ったことがない。いつも一人で山に入って、一人で背負って帰ってきた。
隣に誰かがいる山道は、同じ道でも全然違って見えた。
***
薬務所が軌道に乗ってくると、ヨナスが夕方に顔を出すようになった。
最初は「傷薬の補充を頼みたい」とか用件があったけど、そのうち用件なしで来るようになった。
「今日は何の用?」
「用はない」
「じゃあなんで来たの」
「……帰り道だから」
「薬務所、あんたの帰り道にないよね」
「遠回りしてる」
正直すぎて突っ込む気にもならない。
「お茶でも飲みます?」
「もらう」
薬棚の前に二脚の椅子を並べて、薬草茶を淹れた。カモミールとミントのブレンド。
「この茶、うまいな」
「ミントを入れると胃にもいいんです」
「薬も入ってんのか」
「ミントは薬草です。何にでも入ってます」
「知らなかった。——おれが飲んでるもの全部に薬入ってたりして」
「入ってたらどうします?」
「別にいい。あんたが入れたなら悪いもんじゃないだろ」
……信頼が重い。根拠のない信頼はたいてい危ないんだけど、この人の場合はちょっと違う。ヨナスは「分からないものを信じる」んじゃなくて、「分からないけど、この人間は信じられる」で動いてる。
「ヨナスさん」
「ヨナスでいい。さん付けされると落ち着かない」
「じゃあ、ヨナス」
「何だ」
「なんで毎日来るの。本当に」
ヨナスが茶を啜った。少し間があった。
「坑道から上がると、どこにも寄るとこがなくてな。家に帰っても一人だし。ここは——」
「ここは?」
「灯りがついてると、寄りたくなる」
灯り。わたしの薬務所の窓は、夜遅くまで灯りがついている。調合をしているから。
「……勝手に目印にしてたのか、わたしの灯り」
「悪いか」
「悪くない。——でも、それ言うなら先に言ってよ。灯り消しちゃうかもしれないでしょ」
「消さないだろ。あんた、いつも遅くまで仕事してるじゃないか」
「それとこれとは別」
「何が別なんだ」
「……いいから。お茶、おかわりいる?」
「もらう」
お茶を淹れ直した。ヨナスの分は少し濃いめにする。坑道で一日中動いてる体には、ミントを多めの方がいい。
「フィオナ」
「何」
「さん付けなしで呼んでいいか」
「もう呼んでるじゃない」
「……そうだな」
二人でお茶を飲んだ。薬務所の狭い部屋。薬草の匂いと、鉱山の土の匂い。混ざると意外と悪くない。
***
ある夜、ヨナスがいつもより遅く来た。
右手に布を巻いている。
「怪我してるじゃない」
「たいしたことない。石で擦っただけだ」
「見せて」
布を解いた。掌が裂けてる。石で擦っただけじゃない。結構深い。
「これ、たいしたことなくないよ。縫った方がいい」
「縫えるのか」
「縫合はできない。でも、蝶番留めにして薬を塗れば塞がる」
消毒液で傷口を洗った。ヨナスが少し顔をしかめる。
「しみる?」
「いや。手が冷たい」
「……薬が冷たいの。我慢して」
「手の話だ」
わたしの手が冷たい。夜の薬務所は冷えるから。
「……ごめん。冷たくて」
「謝るな。——冷たいなら、温めればいいだろ」
ヨナスが、手当てが終わったわたしの手を、反対の手で包んだ。鉱山で鍛えた、大きくて硬い手。
「こうしてれば温まる」
「ちょっと——手当て中なんですけど」
「もう終わっただろ」
「……終わったけど」
手を引こうとした。引けなかった。引かなかった、が正しい。
「フィオナ」
「何」
「おれは薬のことは分からない。飲み合わせも、調合も」
「知ってる」
「でも、あんたが夜遅くまで灯りをつけて何をしてるかは、見てれば分かる」
「……何をしてるか、分かるの」
「町の全員分の薬を、一人で管理してる。前にいた騎士団でもやってたんだろ。三百人分」
「なんで知ってるの」
「ルッツって衛生兵から、手紙が来た」
「——ルッツから?」
「『フィオナ殿をよろしくお願いします。あの人は自分の体より他人の体を先に心配するので』って」
ルッツ……。余計なことを。
「あいつ、どうやってここを」
「町の薬師が来たって噂は広まってる。王都の薬務官がいなくなったって話と合わせれば、すぐ分かる」
「……余計なお世話だな」
「おれはありがたかった」
「何が」
「守る理由ができた」
手を引いた。今度は引けた。というか、引かないとまずかった。顔が熱い。
「お茶淹れます」
「さっき飲んだだろ」
「もう一杯飲むの。——帰ってください」
「分かった。おやすみ」
ヨナスが出ていった。扉が閉まった。
手のひらがまだ温かい。
……余計なことするな、ルッツ。
***
四ヶ月が過ぎた頃、王都の話が届いた。
白銀旗で投薬事故が起きた。兵士が一人、亡くなった。
トリカブトの過剰投与。曖昧な分量指示が原因。
続報で、もう一件。ヴェンデル小隊長がジギタリス系の薬で心臓発作を起こし、命は取り留めたが前線を退いた。飲み合わせの記録を誰も確認していなかった。
「三百枚の記録……読まなかったのか」
読まなかったんだろう。分かってた。
ヨナスが夕方に来た。いつもの椅子に座って、何も言わない。
「聞いた?」
「ああ」
「わたしがいたら死ななかった」
「そうだろうな」
「でもわたしは追い出された」
「ああ」
「だからわたしのせいじゃない」
「当たり前だ」
「……当たり前なのに、なんか苦しい」
ヨナスが黙ってお茶を淹れた。わたしの分。いつの間にかこの人も、わたし好みの温度を覚えている。ちょっとぬるめ。猫舌用。
「おれに何かできることはあるか」
「ない。——ある。一つだけ」
「何だ」
「明日も来て」
「毎日来てる」
「知ってる。だから、明日も」
「……ああ。来る」
ヨナスの声は低くて、短くて、余計な飾りがない。その声がいま一番聞きたい音だと気づいて、少し困った。
***
コンラートが来たのは、翌週だった。
薬務所の前に、白銀旗の紋章入りの馬車。町の人たちがざわざわしている。
「フィオナ」
「久しぶりですね」
「戻れ」
「お断りします」
「人が死んだんだぞ」
「知ってます」
「知ってるなら——」
「知ってるから断ってるんです」
コンラートの目が見開いた。
「……どういう意味だ」
「三百枚の記録を置いてきました。読みましたか」
「記録?」
「三百名分の投薬記録です。飲み合わせの注意点に赤で印をつけてあった。あれを読んでいれば、ヴェンデル小隊長にジギタリスを出すことはなかった」
「そんなもの——」
「読んでないでしょ。エアハルト殿の机に置いたんですけど」
コンラートが黙った。
「トリカブトの件も同じです。わたしがいた頃は、投与量を全て体重ベースで計算して、数字で指示してました。『親指の爪ほど』なんて曖昧な指示は一度も出したことがない」
「だから戻って——」
「六年間、投薬事故ゼロ。わたしの仕事です。知ってましたか」
「……」
「薬棚の番をしてるだけだと思ってたでしょ」
コンラートが一歩踏み出そうとした。
その前に、ヨナスが薬務所から出てきた。腕を組んで、コンラートと向き合った。
コンラートより頭半分でかい。鉱山で鍛えた体は、騎士とは違う圧がある。
「誰だ」
「この町の鉱山医だ。免許はないがな」
「無免許の医者に何の用がある」
「用はない。ここにいるだけだ」
ヨナスの声は静かだった。脅しでもなく、怒りでもなく。ただ、動かない。
わたしはコンラートを見た。
「ここでは、わたしの薬を必要としてくれる人がいます。わたしの名前で薬を待っている人がいます。先生って呼んでくれる人がいます。——戻る理由がないんです」
「だが——」
「これを持って帰ってください」
棚から瓶を二つ出した。ヴェンデル小隊長の心臓用の薬と、粉末にした解熱鎮痛剤。
「ヴェンデル小隊長の薬は、朝晩一錠ずつ。絶対にジギタリス系と併用しないで。解熱鎮痛剤は一人ずつ体重を量って、この表の通りに投与量を決めてください」
表も一緒に渡した。体重別の投与量一覧。これがあれば「親指の爪ほど」なんて指示は出さなくて済む。
「これだけです。三百人分を管理する余裕はありません。この町の人たちが先なので」
コンラートが瓶と表を受け取った。
「……すまなかった」
「その言葉はわたしじゃなくて、亡くなった兵士のご家族に言ってください」
コンラートの顔から血の気が引いた。
「お気をつけて」
一礼した。馬車が去っていく。
ヨナスがまだ立っている。
「帰ったか」
「帰った」
「……泣いてるぞ」
「泣いてない」
「目が赤い」
「薬草のせい」
「嘘つけ」
ヨナスが何も言わずに隣に立った。肩がぶつかるくらいの距離。
「……ヨナス」
「何だ」
「お茶、淹れてくれる?」
「おれが淹れるのか。下手だぞ」
「いいよ。今日は誰かが淹れてくれたのが飲みたい」
ヨナスが中に入っていった。しばらくして、お茶を持って出てきた。
一口飲んだ。
「……濃い」
「言っただろ、下手だって」
「でも、温かい」
「当たり前だ。湯を沸かしたんだから」
「そういう意味じゃないんだけど」
「……分かってる」
ヨナスの声が少しだけ低くなった。
二人で薬務所の前に座って、下手なお茶を飲んだ。夕日が山の向こうに沈んでいく。鉱山の町の空は狭いけど、夕焼けだけは広い。
***
白銀旗から、正式な依頼書が届いた。投薬管理の顧問契約。報酬は前の三倍。
「受けるの?」
ヨナスが聞いた。
「体重別の投与量表と、飲み合わせの一覧表を送るだけ。顔は出さない」
「それでいいのか」
「いいの。あとは向こうの軍医が自分で覚えるべきことだから」
「……甘いな」
「甘い?」
「向こうには厳しくして、こっちには甘い」
「何の話?」
「自分の体の話だ。昨日、何時に寝た」
「……二時」
「今朝は何時に起きた」
「五時」
「三時間しか寝てないだろ。おれが言うのもなんだが、薬師が倒れたらこの町が困る」
「……分かってます」
「分かってないから言ってる。——今日は早く寝ろ」
「寝ます。寝ますから」
「信用できないな。灯り見てるからな」
「……見張られてるみたい」
「見張ってるんだ」
反論できなかった。この人に「灯りを見てる」と言われると、消さないといけない気持ちになる。不思議だ。白銀旗で百回言われた「早く帰れ」は全部無視してたのに。
「ヨナス」
「何だ」
「明日の山、付き合ってくれる?」
「言われなくても行く」
「……ありがとう」
「礼はいい。お茶くれ」
「自分で淹れたら?」
「おれのは濃すぎるって言っただろ」
「だからいいんだけど」
「何が」
「……何でもない。淹れてくる」
薬務所の灯りが夕暮れの中でぽつりと灯る。この灯りを、今夜も誰かが見ている。
それだけで、なんだか——もう少しだけ、頑張れそうだった。
明日も朝から薬棚の点検。それから山に行って薬草を採って、午後は坑夫の手当て。夕方にはヨナスがお茶を飲みに来る。
灯りは——今日は早めに消そう。
たぶん。
【完】
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