【完結】帳簿令嬢の答え合わせ ~その不正、すべて帳簿が覚えています~

Lihito

文字の大きさ
14 / 72
第1章:辺境復興編

14話:職人の手

トビアスが来て三日目。

帳簿を全部見せた。収支台帳、取引記録、在庫管理表、修繕費の明細。隠すものはないから、好きなだけ見ればいい。

トビアスは朝から応接間に籠もって帳簿を読んでいた。

最初の数時間は、ページをめくる手が速かった。ざっと目を通すというより、何かを探している手つき。数字の並びを追うのではなく、数字の「裂け目」を探している。不整合、辻褄の合わない項目、意図的に隠された支出——そういうものを。

(心当たりがあるわね、その読み方)

前世で監査が入った時の調査員が、まさにあれだった。最初から「何かあるはず」と決めて読む。見つけるまで帰らない目。

でも午後になると、手が遅くなった。ページを戻る回数が増えた。同じ箇所を二度、三度読み返している。

探しているものが、見つからないのだ。

夕方、トビアスが帳簿から顔を上げた。こちらを見る目が、朝とは違っていた。疑いではない。困惑だ。

「……これ、全部お一人で?」

「セバスが手伝ってくれてるわ」

「いえ、そういう意味ではなく。この仕訳の精度、王都の商会でもなかなか——」

「褒めても何も出ないわよ」

出た。帳簿を褒められると機嫌が良くなるのは自覚している。でもそこは顔に出さない。

トビアスが帳簿を閉じて、少し黙った。何か言いたそうな、でも言葉を選んでいるような顔。

「……殿下から聞いていた話と、だいぶ違います」

「何を聞いてたの?」

「品質管理が杜撰で、流通も整っていない、と」

(やっぱりそう吹き込んだのね)

「見ての通りよ」

それだけ言った。「嘘をついてたのは殿下の方」とは言わない。この男が自分の目で見たものと、殿下の言葉と、どちらを信じるか。その判断は本人に任せる。

トビアスは何も言わなかった。否定もしない。でもまだ、その先に踏み込む覚悟はないらしい。仕方ない。自分の恩人が嘘つきだなんて、三日で受け入れろという方が酷だ。

***

四日目。トビアスを連れて領地を回った。

まだ構えている。隣を歩いていても、半歩分の距離を保っている。自分から縮めない距離。

老婆の畑。南から来た若い夫婦の家。修繕が終わったばかりの井戸。どこでも住民がトビアスに話しかけた。

「あんた、薬師さんかい。お嬢が連れてきたのなら安心だね」

「道が直ってから、本当に楽になったよ」

「この前の蕪、美味かったでしょう。また持ってくるからね」

トビアスは最初、住民の反応を黙って観察していた。領主への愛想笑いや、怯えた従順さを探していたのかもしれない。でも老婆はこちらに蕪を押しつけてくるし、若い夫婦は井戸の修繕の礼を言いながら世間話を始める。命じられて動く人間の顔ではなかった。

見るたびに、トビアスの眉間の力が少しずつ抜けていく。帳簿で感じた困惑が、今度は目の前の光景で裏づけられている。聞いていた話と、違う。

昼過ぎ、広場のベンチで休んでいた時。トビアスが呟いた。

「ここの人たち、アイリス様を信頼しているんですね」

「信頼というか、利害が一致してるだけよ。私が領地を立て直せば、住民の生活も良くなる。損得勘定」

「それだけですか」

「それだけ」

嘘だ。老婆の蕪も、息子が戻ってくるという手紙も、損得だけでは説明がつかない。でも、そういうことを口にするのは得意じゃない。

トビアスがこちらを見ていた。何か気づいた顔をしていたけど、追及はしなかった。

ただ、帰り道の半歩分の距離が、少し縮まっていた気がした。

***

五日目。加工の試作を始めた。

トビアスが館の裏に仮設の作業場を作った。すり鉢、蒸し器、濾過用の布。道具は簡素だが、手つきに迷いがなかった。

レムリア草を刻む。煮出す。濾す。油脂と混ぜる。温度と時間を細かく調整しながら、軟膏の形にしていく。

横で見ていた。三日目の帳簿の前、四日目の領地巡り。あの時の固さが嘘のように、道具を持った瞬間に全部消えていた。背筋が伸びて、手の動きに無駄がない。草を刻む速度、温度を指先で測る仕草、工程の切り替えに迷いがない。

手際がいい。1,800の潜在価値は伊達じゃない。仕分け係として腐らせておくには、あまりにもったいない腕だ。

「アイリス様、ここからが重要です。冷却の速度で品質が変わります。早すぎると分離する。遅すぎると硬化が不均一になる」

「温度管理の基準は?」

「室温にもよりますが、目安として——」

「待って。それ、数値で出せる? 基準温度と冷却時間の関係を表にしたいの。再現性がないと量産できないから」

「数値、ですか」

「感覚でやってるなら、今のうちに全部数字に落として。あなたがいない時でも同じ品質で作れるようにしたい」

トビアスが少し目を丸くした。それから、初めて笑った。

「……分かりました。工程表を作ります」

「お願い。原材料の歩留まりも記録して。何グラムのレムリア草から何壺の軟膏が取れるか、正確に」

メモを取り始めた。原価計算が頭の中で走っている。

レムリア草の仕入れ原価——いや、自前の群生地だから採取コストだけ。人件費と道具の減価償却。製造工程の時間あたりコスト。軟膏一壺の原材料費。王都での軟膏の相場。

「トビアス、王都の軟膏の相場って今いくら?」

「品質によりますが、レムリア草の軟膏なら一壺で金貨八枚から十枚です」

「生のレムリア草がひと束で金貨三枚。一束から軟膏は何壺取れる?」

「二壺半から三壺、というところです」

金貨三枚の原料から、金貨二十枚以上の製品が作れる。原価率を計算すると——。

「利益率、三倍どころじゃないわ」

声が上がった。完全に上がった。

「輸送コストも下がるわね。生の薬草は嵩張るけど、軟膏なら同じ容積で——セバス、紙を持ってきて。大きいやつ」

セバスが慌てて紙を持ってきた。テーブルに広げて、数字を書き始める。年間の生産計画。月ごとの出荷量。必要な人員と設備。損益分岐点。

「ここを加工拠点にする。原料は目の前にあるんだから、輸送費はほぼゼロ。問題は製造の人手と——」

ペンが止まった。トビアスがこっちを見ていた。

「……すみません、続けてください」

「何?」

「いえ。帳簿の話をしている時のアイリス様は、少し——」

「少し、何」

「……楽しそうだなと」

(うるさいわね)

「数字の話は楽しいの。当たり前でしょう」

ペンに戻った。顔が熱いのは気のせいだ。

***

夕方。作業場の片づけをしていたら、グレンが来た。

午後からずっと、作業場の入り口付近に立っていた。監視と言えば監視だが、トビアスが危害を加えるような人間でないことは、もう分かっているはずだ。

「お疲れ様。今日も異常なし?」

「……異常ありません」

いつもの一言。でも、何か引っかかる。

グレンが作業場の中を見回した。テーブルの上に広げた計算用紙。トビアスが書いた工程表。二人で書き込んだメモ。

「……随分、進んだようですね」

「ええ。加工が軌道に乗れば、領地の収入が大きく変わるわ」

「そうですか」

短い。いつも短いけど、今日のはなんだろう。温度が低い。

トビアスが裏口から戻ってきた。手に試作の軟膏を持っている。

「アイリス様、最初の一壺が完成しました。品質を確認していただけますか」

「見せて」

壺を受け取る。蓋を開けると、澄んだ薬草の香りがした。色は薄い緑で、質感も滑らか。市場に出せる品質だ。

「上出来じゃない。トビアス、明日から本格的に量産計画を——」

「アイリス様」

グレンが一歩前に出た。

「日が暮れます。作業は明日に」

「……まだ計算が途中なんだけど」

「体を壊します」

その声が妙に近かった。見上げると、グレンがすぐ横に立っている。いつの間に距離を詰めたのか。トビアスとの間に、自然に体を入れるような位置取り。

「……分かったわよ。続きは明日」

グレンが頷いて、先に出ていった。背中が少し硬い。

トビアスが小声で言った。

「あの方、少し怖いですね」

「あれが普通よ。愛想がないだけ」

(でも今日は、いつもよりちょっと愛想がなかったわね)

理由は分からなかった。帳簿には載らない種類の変化だった。
感想 10

あなたにおすすめの小説

婚約破棄された公爵令嬢は、もう助けません

エスビ
恋愛
「君との婚約は破棄する。――君は、もう必要ない」 王太子から一方的に突きつけられた婚約破棄。 その理由は、新たに寵愛する令嬢の存在と、「君は優秀すぎて扱いづらい」という身勝手な評価だった。 だが、公爵令嬢である彼女は泣かない。 怒りに任せて復讐もしない。 ただ静かに、こう告げる。 「承知しました。――もう、誰の答えも借りませんわ」 王国のために尽くし、判断を肩代わりし、失敗すら引き受けてきた日々。 だが婚約破棄を機に、彼女は“助けること”をやめる。 答えを与えない。 手を差し伸べない。 代わりに、考える機会と責任だけを返す。 戸惑い、転び、失敗しながらも、王国は少しずつ変わっていく。 依存をやめ、比較をやめ、他人の成功を羨まなくなったとき―― そこに生まれたのは、静かで確かな自立だった。 派手な断罪も、劇的な復讐もない。 けれどこれは、 「奪われたものを取り戻す物語」ではなく、 「もう取り戻す必要がなくなった物語」。 婚約破棄ざまぁの、その先へ。 知性と覚悟で未来を選び取る、静かな逆転譚。

婚約破棄された公爵令嬢は冤罪で地下牢へ、前世の記憶を思い出したので、スキル引きこもりを使って王子たちに復讐します!

山田 バルス
ファンタジー
王宮大広間は春の祝宴で黄金色に輝き、各地の貴族たちの笑い声と音楽で満ちていた。しかしその中心で、空気を切り裂くように響いたのは、第1王子アルベルトの声だった。 「ローゼ・フォン・エルンスト! おまえとの婚約は、今日をもって破棄する!」 周囲の視線が一斉にローゼに注がれ、彼女は凍りついた。「……は?」唇からもれる言葉は震え、理解できないまま広間のざわめきが広がっていく。幼い頃から王子の隣で育ち、未来の王妃として教育を受けてきたローゼ――その誇り高き公爵令嬢が、今まさに公開の場で突き放されたのだ。 アルベルトは勝ち誇る笑みを浮かべ、隣に立つ淡いピンク髪の少女ミーアを差し置き、「おれはこの天使を選ぶ」と宣言した。ミーアは目を潤ませ、か細い声で応じる。取り巻きの貴族たちも次々にローゼの罪を指摘し、アーサーやマッスルといった証人が証言を加えることで、非難の声は広間を震わせた。 ローゼは必死に抗う。「わたしは何もしていない……」だが、王子の視線と群衆の圧力の前に言葉は届かない。アルベルトは公然と彼女を罪人扱いし、地下牢への収監を命じる。近衛兵に両腕を拘束され、引きずられるローゼ。広間には王子を讃える喝采と、哀れむ視線だけが残った。 その孤立無援の絶望の中で、ローゼの胸にかすかな光がともる。それは前世の記憶――ブラック企業で心身をすり減らし、引きこもりとなった過去の記憶だった。地下牢という絶望的な空間が、彼女の心に小さな希望を芽生えさせる。 そして――スキル《引きこもり》が発動する兆しを見せた。絶望の牢獄は、ローゼにとって新たな力を得る場となる。《マイルーム》が呼び出され、誰にも侵入されない自分だけの聖域が生まれる。泣き崩れる心に、未来への決意が灯る。ここから、ローゼの再起と逆転の物語が始まるのだった。

亡き姉の身代わりとして嫁いだ私ですが、離縁状を置いた翌朝、夫が私の「真実」に気づいたようです』

まさき
恋愛
「サインはもう、いただきました。あとは私がこの屋敷を出るだけです」 ​五年間の結婚生活。侯爵令嬢エルゼが演じ続けたのは、亡き姉・ロザリーの「身代わり」という配役だった。 夫であるカイル公爵が愛していたのは、かつて雪の中で自分を救ってくれた初恋の少女・ロザリー。 生き写しの妹であるエルゼを娶りながらも、彼は一度も彼女を「エルゼ」と呼ぶことはなかった。 ​冷淡な視線、姉と比較される日々。 「君はどこまでいっても、ロザリーの代わりにはなれない」 その言葉を最後に、エルゼは静かに離縁状を置き、屋敷を去る決意をする。 ​しかし、彼女が消えた翌朝。 カイルは、エルゼが大切に遺していった古い小箱を見つける。 そこにあったのは、十五年前のあの日、彼が「命の恩人」に預けたはずの片方のカフスボタン。 そして、幼いエルゼが綴った、あまりにも切ない真実の日記だった。 ​――「あの日、雪の中で貴方を抱きしめていたのは、お姉様ではなく、私だったのです」 ​真実を知り、絶望の中でエルゼを追うカイル。 だが、すべてを捨てて「自分」を取り戻したエルゼは、もう二度と、彼の隣で微笑む仮面の妻には戻らない。 ​これは、名前を奪われた女が自由を掴み、愚かな夫が真実の愛を失うまでの、静かで鮮やかな再生の物語。

『お前のためを思って言っている』が千回記された日記帳が、社交界に流出した件

歩人
ファンタジー
「お前のためを思って言っている」「普通はこうだろう?」「お前が悪いから怒るんだ」——ディートリヒ侯爵子息は、婚約者のカティアにそう言い続けた。3年間、毎日。カティアは日記をつけていた。恨みではない。「何が普通なのか」を確かめるために。日記には日付と、彼が言った言葉だけが記されている。感想も解釈もない。ただ事実だけ。婚約破棄の場で、カティアは日記を読み上げなかった。ただ、茶会で親しい令嬢に見せただけだ。令嬢たちは青ざめた。「これ、全部言われたの?」日記は写本され、社交界に広がった。ディートリヒ本人は「何がおかしいのかわからない」と主張した。——それが一番怖いのだと、誰もが理解した。

追放令嬢、辺境王国で無双して王宮を揺るがす

遊鷹太
ファンタジー
王国随一の名門ハーランド公爵家の令嬢エリシアは、第一王子の婚約者でありながら、王宮の陰謀により突然追放される。濡れ衣を着せられ、全てを奪われた彼女は極寒の辺境国家ノルディアへと流される。しかしエリシアには秘密があった――前世の記憶と現代日本の経営知識を持つ転生者だったのだ。荒廃した辺境で、彼女は持ち前の戦略眼と人心掌握術で奇跡の復興を成し遂げる。やがて彼女の手腕は王国全土を震撼させ、自らを追放した者たちに復讐の刃を向ける。だが辺境王ルシアンとの運命的な出会いが、彼女の心に新たな感情を芽生えさせていく。これは、理不尽に奪われた女性が、知略と情熱で世界を変える物語――。

忘れて幸せになってください。〜冷酷な妻として追い出せれましたが、貴方の呪いは私が肩代わりしていました〜

しょくぱん
恋愛
「君のような冷酷な女は知らない」――英雄と称えられる公爵夫人のエルゼは、魔王の呪いを受けた夫・アルフレートに離縁を突きつけられる。 しかし、夫が正気を保っているのは、エルゼが『代償魔導』で彼の呪いと苦痛をすべて肩代わりしていたからだった。 ボロボロの体で城を追われるエルゼ。記憶を失い、偽りの聖女と愛を囁く夫。 だが、彼女が離れた瞬間、夫に「真実の代償」が襲いかかる。

虚弱体質?の脇役令嬢に転生したので、食事療法を始めました

たくわん
恋愛
「跡継ぎを産めない貴女とは結婚できない」婚約者である公爵嫡男アレクシスから、冷酷に告げられた婚約破棄。その場で新しい婚約者まで紹介される屈辱。病弱な侯爵令嬢セラフィーナは、社交界の哀れみと嘲笑の的となった。

婚約を破棄され辺境に追いやられたけれど、思っていたより快適です!

さこの
恋愛
 婚約者の第五王子フランツ殿下には好きな令嬢が出来たみたい。その令嬢とは男爵家の養女で親戚筋にあたり現在私のうちに住んでいる。  婚約者の私が邪魔になり、身分剥奪そして追放される事になる。陛下や両親が留守の間に王都から追放され、辺境の町へと行く事になった。  100キロ以内近寄るな。100キロといえばクレマン? そこに第三王子フェリクス殿下が来て“グレマン”へ行くようにと言う。クレマンと“グレマン”だと方向は真逆です。  追放と言われましたので、屋敷に帰り準備をします。フランツ殿下が王族として下した命令は自分勝手なものですから、陛下達が帰って来たらどうなるでしょう?