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第1章:辺境復興編
16話:決断
二日が過ぎた。トビアスは客室にいる。
セバスによると、食事は取っているが、部屋からは出てこない。初日の夜は遅くまで灯りがついていたが、二日目の夜は早く消えたらしい。考え疏れたのか、考え尽くしたのか。
急かすつもりはない。待つと言ったのだから、待つ。
その間、私は普段通り帳簿を進めた。軟膏事業の計画書を作っている。トビアスが残ると決めた場合の収支計画と、去った場合の代替案。両方を数字にしておく。感情で判断しない。数字で備える。
それが私のやり方だ。
——去った場合の代替案の方が、ペンが重かった。それは数字の問題であって、それ以外の何でもない。
三日目の昼過ぎ。窓の外にトビアスの姿が見えた。
広場の端に立っている。隣にグレンがいた。
二人が何か話している。距離は遠くて声は聞こえない。トビアスが何か長く喋って、グレンが短く返す。またトビアスが喋る。グレンが一言。トビアスが黙る。
(珍しいわね。グレンが自分から誰かと話してる)
いや、グレンから話しかけたのかは分からない。でもあの二人が並んで立っている光景は、少し不思議だった。
しばらくして、トビアスが館に向かって歩き出した。
***
執務室の扉を叩く音。
「どうぞ」
トビアスが入ってきた。二日前とは顔が違う。あまり眠れていないのだろう、目の下の隈は深い。でも目そのものは澄んでいた。
「アイリス様。お願いがあります」
「聞くわ」
「ここで働かせてください」
短かった。二日も悩んでいた人間が、一言で決断を伝えた。
「理由を聞いてもいい?」
「昼に、グレンさんと話しました」
やっぱりあの会話か。
「グレンさんも上官の不正を報告して、辺境に飛ばされたと聞きました。私と同じだと」
「それで?」
「グレンさんに聞いたんです。なぜアイリス様の下にいるのかと」
「何て言ってた?」
「『あの人は数字で嘘をつかない』と」
(……あの無口が、そんなこと言ったの)
少し、胸の奥がざわついた。
「それだけ?」
「それだけです。でも、十分でした」
トビアスが真っ直ぐこちらを見た。
「殿下は言葉で私を騙しました。恩人だと思い込ませて、母や弟子を人質にして、都合よく使った。全部、言葉だけだった」
「……」
「アイリス様は帳簿を全部開いて見せた。住民の前で数字を誤魔化さなかった。嘘だと分かっていた私を追い出さなかった。言葉じゃなくて、全部行動だった」
(そんな大層なことはしてないわよ。使えそうだったから使っただけ)
でも、それを口にするのは野暮だと分かっていた。
「分かったわ。正式に雇用する。条件を説明するから座って」
トビアスが椅子に座った。私はこの二日で準備していた計画書を開いた。
「まず、給与。月額は金貨十五枚から始める。軟膏事業の利益が安定したら、売上に連動して上げるわ」
「十五枚——今の三倍以上です」
「あなたの腕に対して、今までが安すぎたのよ。次、お母様の治療費」
二枚目の紙を出した。
「軟膏の月産三十壺で、売上は最低でも金貨二百四十枚。原価と人件費を引いた純利益から、月に金貨二十枚を治療費として確保する。ここに計算の内訳があるから、確認して」
トビアスが紙を受け取った。数字を目で追っている。途中で、紙を持つ指先が少し震えた。
「お母様をこちらに呼ぶ方が治療費は下がるけど、王都の医師にかかっているなら環境を変えない方がいい場合もある。どちらがいいかは、お母様と相談して決めて」
トビアスが黙った。紙を見ているが、数字を読んでいない。目が潤んでいた。
「……はい」
「最後に、お弟子さん——リーゼ」
三枚目。
「王都のギルドは殿下の息がかかってるから、直接交渉は難しい。でも東の港町に薬師ギルドの支部がある。管轄が違うから、王都の除名処分はそのまま適用されない。支部への推薦状が必要だけど、アーレン領の領主名義で出せるわ」
「領主名義の推薦状を、私のために——」
声が揺れていた。
「あなたのためじゃないわ。東の港町との関係を作っておくのは、こっちにも利がある。薬草の販路拡大と、将来的に加工品の流通を考えたら、港町のギルドとのパイプは必要」
嘘ではない。でも、それだけでもない。
トビアスは三枚の紙を並べて見ていた。給与の計算書、治療費の確保計画、リーゼの受け入れ経路。全部に数字の裏付けがある。
トビアスの肩が小さく震えていた。口を引き結んで、紙から目を離さない。泣いているのを見られたくないのだろう。
待った。ここで声をかけるのは野暮だ。
「殿下は、口約束でした」
「何?」
「弟子の面倒を見てやる、母の治療費も心配するな、と。でも具体的な数字は一度も出なかった。いくら出すのか、いつまでに手配するのか、何も」
トビアスが紙を握り締めた。
「あなたは初日から、数字で見せてくれた」
(当たり前でしょう。口約束なんて、帳簿に載らないものは信用できないのよ)
「条件に不満があれば言って。交渉は受けるわ」
「ありません。全て、ありがたくお受けします」
「じゃあ決まりね。明日から正式に、アーレン領の加工技術責任者」
トビアスが立ち上がって、深く頭を下げた。
***
トビアスが出ていった後、グレンに聞いた。
「あの人と何を話したの」
「……聞いていたのですか」
「窓から見えただけよ。声は聞こえてない」
グレンが少し間を置いた。
「聞かれたので、答えました」
「何を聞かれたの」
「なぜここにいるのか、と」
「で、何て答えたの」
「……忘れました」
(嘘つき)
追及はしなかった。グレンが自分の言葉を照れている。それだけで十分だった。
***
夕方、セバスが紅茶と一緒に噂を持ってきた。
「公爵家の続報です。王都の監査院から正式に査察が入ったそうです」
「査察?」
「帳簿の不備が常態化していると、取引先から複数の苦情が入ったとのこと。提出期限の超過は三度目で、監査院も看過できなくなったようです」
三度目。私がいた頃は一度も遅れたことがなかった。
「査察の結果次第では、追加課税もあり得るそうです」
「そう」
感慨はなかった。
公爵家が傾くのは計算通りだ。帳簿を回せる人間がいなくなったのだから、当然の帰結。私が何かしたわけじゃない。あの家が勝手に沈んでいるだけ。
「アイリス様」
「何?」
「お気持ちは、複雑でしょうか」
セバスが静かに聞いた。
「別に。数字の通りよ」
セバスは何も言わなかった。紅茶を注ぎ足して、静かに下がった。
窓の外、夕日が領地を照らしている。広場ではトビアスが住民と話している。手振りが大きい。薬草の話でもしているのだろう。
人が増えた。仕事が増えた。領地が動いている。
あの家は沈み、この土地は上がる。帳簿の上では、それだけのこと。
(……それだけのこと、よ)
紅茶を飲んだ。少し冷めていた。
セバスによると、食事は取っているが、部屋からは出てこない。初日の夜は遅くまで灯りがついていたが、二日目の夜は早く消えたらしい。考え疏れたのか、考え尽くしたのか。
急かすつもりはない。待つと言ったのだから、待つ。
その間、私は普段通り帳簿を進めた。軟膏事業の計画書を作っている。トビアスが残ると決めた場合の収支計画と、去った場合の代替案。両方を数字にしておく。感情で判断しない。数字で備える。
それが私のやり方だ。
——去った場合の代替案の方が、ペンが重かった。それは数字の問題であって、それ以外の何でもない。
三日目の昼過ぎ。窓の外にトビアスの姿が見えた。
広場の端に立っている。隣にグレンがいた。
二人が何か話している。距離は遠くて声は聞こえない。トビアスが何か長く喋って、グレンが短く返す。またトビアスが喋る。グレンが一言。トビアスが黙る。
(珍しいわね。グレンが自分から誰かと話してる)
いや、グレンから話しかけたのかは分からない。でもあの二人が並んで立っている光景は、少し不思議だった。
しばらくして、トビアスが館に向かって歩き出した。
***
執務室の扉を叩く音。
「どうぞ」
トビアスが入ってきた。二日前とは顔が違う。あまり眠れていないのだろう、目の下の隈は深い。でも目そのものは澄んでいた。
「アイリス様。お願いがあります」
「聞くわ」
「ここで働かせてください」
短かった。二日も悩んでいた人間が、一言で決断を伝えた。
「理由を聞いてもいい?」
「昼に、グレンさんと話しました」
やっぱりあの会話か。
「グレンさんも上官の不正を報告して、辺境に飛ばされたと聞きました。私と同じだと」
「それで?」
「グレンさんに聞いたんです。なぜアイリス様の下にいるのかと」
「何て言ってた?」
「『あの人は数字で嘘をつかない』と」
(……あの無口が、そんなこと言ったの)
少し、胸の奥がざわついた。
「それだけ?」
「それだけです。でも、十分でした」
トビアスが真っ直ぐこちらを見た。
「殿下は言葉で私を騙しました。恩人だと思い込ませて、母や弟子を人質にして、都合よく使った。全部、言葉だけだった」
「……」
「アイリス様は帳簿を全部開いて見せた。住民の前で数字を誤魔化さなかった。嘘だと分かっていた私を追い出さなかった。言葉じゃなくて、全部行動だった」
(そんな大層なことはしてないわよ。使えそうだったから使っただけ)
でも、それを口にするのは野暮だと分かっていた。
「分かったわ。正式に雇用する。条件を説明するから座って」
トビアスが椅子に座った。私はこの二日で準備していた計画書を開いた。
「まず、給与。月額は金貨十五枚から始める。軟膏事業の利益が安定したら、売上に連動して上げるわ」
「十五枚——今の三倍以上です」
「あなたの腕に対して、今までが安すぎたのよ。次、お母様の治療費」
二枚目の紙を出した。
「軟膏の月産三十壺で、売上は最低でも金貨二百四十枚。原価と人件費を引いた純利益から、月に金貨二十枚を治療費として確保する。ここに計算の内訳があるから、確認して」
トビアスが紙を受け取った。数字を目で追っている。途中で、紙を持つ指先が少し震えた。
「お母様をこちらに呼ぶ方が治療費は下がるけど、王都の医師にかかっているなら環境を変えない方がいい場合もある。どちらがいいかは、お母様と相談して決めて」
トビアスが黙った。紙を見ているが、数字を読んでいない。目が潤んでいた。
「……はい」
「最後に、お弟子さん——リーゼ」
三枚目。
「王都のギルドは殿下の息がかかってるから、直接交渉は難しい。でも東の港町に薬師ギルドの支部がある。管轄が違うから、王都の除名処分はそのまま適用されない。支部への推薦状が必要だけど、アーレン領の領主名義で出せるわ」
「領主名義の推薦状を、私のために——」
声が揺れていた。
「あなたのためじゃないわ。東の港町との関係を作っておくのは、こっちにも利がある。薬草の販路拡大と、将来的に加工品の流通を考えたら、港町のギルドとのパイプは必要」
嘘ではない。でも、それだけでもない。
トビアスは三枚の紙を並べて見ていた。給与の計算書、治療費の確保計画、リーゼの受け入れ経路。全部に数字の裏付けがある。
トビアスの肩が小さく震えていた。口を引き結んで、紙から目を離さない。泣いているのを見られたくないのだろう。
待った。ここで声をかけるのは野暮だ。
「殿下は、口約束でした」
「何?」
「弟子の面倒を見てやる、母の治療費も心配するな、と。でも具体的な数字は一度も出なかった。いくら出すのか、いつまでに手配するのか、何も」
トビアスが紙を握り締めた。
「あなたは初日から、数字で見せてくれた」
(当たり前でしょう。口約束なんて、帳簿に載らないものは信用できないのよ)
「条件に不満があれば言って。交渉は受けるわ」
「ありません。全て、ありがたくお受けします」
「じゃあ決まりね。明日から正式に、アーレン領の加工技術責任者」
トビアスが立ち上がって、深く頭を下げた。
***
トビアスが出ていった後、グレンに聞いた。
「あの人と何を話したの」
「……聞いていたのですか」
「窓から見えただけよ。声は聞こえてない」
グレンが少し間を置いた。
「聞かれたので、答えました」
「何を聞かれたの」
「なぜここにいるのか、と」
「で、何て答えたの」
「……忘れました」
(嘘つき)
追及はしなかった。グレンが自分の言葉を照れている。それだけで十分だった。
***
夕方、セバスが紅茶と一緒に噂を持ってきた。
「公爵家の続報です。王都の監査院から正式に査察が入ったそうです」
「査察?」
「帳簿の不備が常態化していると、取引先から複数の苦情が入ったとのこと。提出期限の超過は三度目で、監査院も看過できなくなったようです」
三度目。私がいた頃は一度も遅れたことがなかった。
「査察の結果次第では、追加課税もあり得るそうです」
「そう」
感慨はなかった。
公爵家が傾くのは計算通りだ。帳簿を回せる人間がいなくなったのだから、当然の帰結。私が何かしたわけじゃない。あの家が勝手に沈んでいるだけ。
「アイリス様」
「何?」
「お気持ちは、複雑でしょうか」
セバスが静かに聞いた。
「別に。数字の通りよ」
セバスは何も言わなかった。紅茶を注ぎ足して、静かに下がった。
窓の外、夕日が領地を照らしている。広場ではトビアスが住民と話している。手振りが大きい。薬草の話でもしているのだろう。
人が増えた。仕事が増えた。領地が動いている。
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