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第1章:辺境復興編
17話:二度目の敗北
トビアスの正式雇用から五日後。軟膏の量産体制が形になり始めた頃、セバスが駆け込んできた。
「アイリス様、王都から馬車が」
窓を覗いた。見覚えのある紋章。王家の馬車だ。
(来たわね)
送り込んだ駒から報告がないのだ。しびれを切らして確認しに来た。予想より早い。あの人は我慢ができない。
「セバス、応接間の準備を。グレン、隣にいて」
「はい」
グレンの声がいつもより低かった。前回の訪問を覚えている。
玄関先に馬車が停まった。扉が開いて、レオナルドが降りてくる。後ろにミレーヌ。前と同じ組み合わせ。学ばない人たちだ。
「久しぶりだな、アイリス・ヴァレンシア」
「ようこそ、殿下。お久しぶりです」
「ああ。——トビアスを呼べ」
挨拶もそこそこだった。余裕がない。目が泳いでいる。
「お呼びしますね。応接間にどうぞ」
応接間に通して、セバスに茶を出させた。レオナルドは椅子に座らず、苛立ったように窓の外を見ている。ミレーヌがその隣で落ち着かない顔をしていた。
トビアスが入ってきた。
背筋が伸びている。二週間前、玄関先で背筋を正した時の力みはなかった。
何となく、鑑定した。
【トビアス・ヴェーバー】
現在価値:1,650
潜在価値:1,800
(——1,650)
来た時は350だった。たった二週間で、ここまで跳ね上がっている。
当然だ。この人は仕分け係じゃない。職人だ。腕に見合った仕事を与えれば、数字はちゃんと応える。飼い殺しがどれだけ無駄だったか、この数字が証明している。
レオナルドがすぐに向き直った。
「トビアス。報告を聞こう。あの女の——この領地の実態はどうだった」
トビアスは真っ直ぐ立っていた。初めて会った時より、背筋が伸びている。
「殿下。報告することはございません」
「何?」
「この領地に不正はありません。帳簿は正確で、品質管理も適切です。殿下が仰っていたような杜撰さは、どこにもありませんでした」
レオナルドの顔が歪んだ。
「お前は俺が送ったんだぞ。俺の命令で——」
「殿下」
トビアスが一歩前に出た。
「今日から私は、アイリス様に雇っていただきます」
部屋の空気が凍った。
壁際のグレンが、音もなく位置を変えた。トビアスとレオナルドの間ではなく、トビアスの横。五日目の夕方、トビアスと私の間に体を入れた男が、今はトビアスの隣に立っている。
「——ふざけるな」
レオナルドの顔が歪んだ。
「トビアス、お前の母親のことを忘れたのか。治療費を誰が出してると思っている」
トビアスの肩が一瞬、強張った。それでも声は震えなかった。
「母の治療費は、アイリス様が確保してくださいました」
自分で言った。私の方を見なかった。助けを求める目ではなかった。
「でたらめだ。そんな辺境の小娘に——」
「殿下」
私が口を開いた。帳簿を閉じて、椅子から立ち上がる。
「優秀な人材を送っていただいて、ありがとうございました」
にっこり笑って言った。
レオナルドの顔が一瞬、停止した。送り込んだ刺客が敵に雇われて、その上感謝される。処理が追いつかない顔。
テーブルの上に紙を一枚置いた。軟膏事業の収支計画書。治療費の確保スケジュール。月ごとの支出と、原資の内訳。
「軟膏事業の利益から月額金貨二十枚を治療費に充てます。計算の根拠はここに。ご確認いただければ」
レオナルドは紙を見ない。見ても分からないことを、本人が一番分かっている。
「弟子はどうする! リーゼのギルドでの立場は俺が——」
トビアスがまた、自分で答えた。
「リーゼの件は、東の港町の薬師ギルド支部に推薦状を出していただきました。王都のギルドとは管轄が異なりますので——」
「殿下の影響は及びません」
私が後を継いだ。トビアスが言いかけたことを、数字の裏付けで封じる。
「いつの間に——」
「三日前です」
レオナルドの脅し札が、一枚ずつ消えていく。母の治療費。弟子の立場。どちらも、あの男が二年間トビアスを繋ぎ止めていた鎖だ。
もう、切れている。
「殿下。他に何かございますか」
レオナルドが私を睨んだ。手が震えている。怒りなのか屈辱なのか、たぶん両方。
「……覚えてろ」
捨て台詞。前回と同じだ。語彙が増えない。
「ミレーヌ、行くぞ」
「殿下、お待ちになって——」
ミレーヌがこちらを一瞥した。何か言いたそうな顔。でもレオナルドに腕を引かれて、そのまま出ていった。
馬車の扉が閉まる。車輪の音が遠ざかっていく。
***
静かになった応接間で、セバスが冷めた茶を片づけていた。
「殿下、お茶に手をつけませんでしたね」
「もったいないわね。セバスのお茶、美味しいのに」
トビアスが椅子に座り込んだ。膝に手を置いて、深く息を吐いている。
「……すみません。手が震えてました」
「気づかなかったわよ」
嘘だ。気づいていた。でもあの場で堂々と言い切ったのは、トビアスの力だ。二週間前、私の前で背筋を正す時に力んでいた男が、恩人だった相手の前で自分の足で立った。
「トビアス。一つ聞いていい?」
「何でしょう」
「あの人に送られてきた時、本当に信じてたの? 私が極悪令嬢だって」
トビアスが少し考えた。
「……はい。信じていました。殿下の言葉を疑う理由がなかったので」
「今は?」
「帳簿を見ました。住民の顔も見ました。極悪令嬢が作る帳簿じゃないです」
(それは褒め言葉として受け取っておくわ)
「そう。じゃあ仕事に戻って。明日から量産の第二ロットよ」
「はい」
トビアスが立ち上がって、扉に向かった。途中で振り返った。
「アイリス様」
「何?」
「……ありがとうございます、では足りないんですが」
「足りてるわよ。仕事で返して」
トビアスが笑った。二週間前にはなかった笑い方だった。作業場で初めて笑った時より、もう少しだけ力が抜けていた。
出ていった。
グレンが壁際に立っている。対決の間ずっと、トビアスの隣にいた。一言も発さず、ただそこにいた。
「グレン」
「……はい」
「お疲れ様」
グレンが少しだけ頷いた。
「殿下は、また来ますか」
「来るかもね。でも手札はもう残ってないわ。前回は帳簿と法律で負けた。今度は人を送り込んでも寝返った。次に何をするか知らないけど——」
窓の外を見た。レオナルドの馬車はもう見えない。
「二度負けた相手に三度目を仕掛けるほど、あの人に執念があるとは思えないわ」
「油断は——」
「しないわよ。帳簿は常に最新にしておく。それが一番の守りだから」
グレンが黙って頷いた。
応接間を出て、執務室に戻った。テーブルの上に、量産計画の資料が広がっている。
軟膏の第二ロット。販路の開拓。東の港町への出荷ルート。やることは山ほどある。
でも今日は、少しだけ気分がいい。
レオナルドが自分の手で送り込んだ人材が、この領地の柱になる。現在価値350だった男が、二週間で1,650。送り主が知ったら卒倒するだろう。
(優秀な人材をありがとう、殿下。大事に使わせていただくわ)
帳簿を開いた。数字は嘘をつかない。あの人が何度来ても、それだけは変わらない。
「アイリス様、王都から馬車が」
窓を覗いた。見覚えのある紋章。王家の馬車だ。
(来たわね)
送り込んだ駒から報告がないのだ。しびれを切らして確認しに来た。予想より早い。あの人は我慢ができない。
「セバス、応接間の準備を。グレン、隣にいて」
「はい」
グレンの声がいつもより低かった。前回の訪問を覚えている。
玄関先に馬車が停まった。扉が開いて、レオナルドが降りてくる。後ろにミレーヌ。前と同じ組み合わせ。学ばない人たちだ。
「久しぶりだな、アイリス・ヴァレンシア」
「ようこそ、殿下。お久しぶりです」
「ああ。——トビアスを呼べ」
挨拶もそこそこだった。余裕がない。目が泳いでいる。
「お呼びしますね。応接間にどうぞ」
応接間に通して、セバスに茶を出させた。レオナルドは椅子に座らず、苛立ったように窓の外を見ている。ミレーヌがその隣で落ち着かない顔をしていた。
トビアスが入ってきた。
背筋が伸びている。二週間前、玄関先で背筋を正した時の力みはなかった。
何となく、鑑定した。
【トビアス・ヴェーバー】
現在価値:1,650
潜在価値:1,800
(——1,650)
来た時は350だった。たった二週間で、ここまで跳ね上がっている。
当然だ。この人は仕分け係じゃない。職人だ。腕に見合った仕事を与えれば、数字はちゃんと応える。飼い殺しがどれだけ無駄だったか、この数字が証明している。
レオナルドがすぐに向き直った。
「トビアス。報告を聞こう。あの女の——この領地の実態はどうだった」
トビアスは真っ直ぐ立っていた。初めて会った時より、背筋が伸びている。
「殿下。報告することはございません」
「何?」
「この領地に不正はありません。帳簿は正確で、品質管理も適切です。殿下が仰っていたような杜撰さは、どこにもありませんでした」
レオナルドの顔が歪んだ。
「お前は俺が送ったんだぞ。俺の命令で——」
「殿下」
トビアスが一歩前に出た。
「今日から私は、アイリス様に雇っていただきます」
部屋の空気が凍った。
壁際のグレンが、音もなく位置を変えた。トビアスとレオナルドの間ではなく、トビアスの横。五日目の夕方、トビアスと私の間に体を入れた男が、今はトビアスの隣に立っている。
「——ふざけるな」
レオナルドの顔が歪んだ。
「トビアス、お前の母親のことを忘れたのか。治療費を誰が出してると思っている」
トビアスの肩が一瞬、強張った。それでも声は震えなかった。
「母の治療費は、アイリス様が確保してくださいました」
自分で言った。私の方を見なかった。助けを求める目ではなかった。
「でたらめだ。そんな辺境の小娘に——」
「殿下」
私が口を開いた。帳簿を閉じて、椅子から立ち上がる。
「優秀な人材を送っていただいて、ありがとうございました」
にっこり笑って言った。
レオナルドの顔が一瞬、停止した。送り込んだ刺客が敵に雇われて、その上感謝される。処理が追いつかない顔。
テーブルの上に紙を一枚置いた。軟膏事業の収支計画書。治療費の確保スケジュール。月ごとの支出と、原資の内訳。
「軟膏事業の利益から月額金貨二十枚を治療費に充てます。計算の根拠はここに。ご確認いただければ」
レオナルドは紙を見ない。見ても分からないことを、本人が一番分かっている。
「弟子はどうする! リーゼのギルドでの立場は俺が——」
トビアスがまた、自分で答えた。
「リーゼの件は、東の港町の薬師ギルド支部に推薦状を出していただきました。王都のギルドとは管轄が異なりますので——」
「殿下の影響は及びません」
私が後を継いだ。トビアスが言いかけたことを、数字の裏付けで封じる。
「いつの間に——」
「三日前です」
レオナルドの脅し札が、一枚ずつ消えていく。母の治療費。弟子の立場。どちらも、あの男が二年間トビアスを繋ぎ止めていた鎖だ。
もう、切れている。
「殿下。他に何かございますか」
レオナルドが私を睨んだ。手が震えている。怒りなのか屈辱なのか、たぶん両方。
「……覚えてろ」
捨て台詞。前回と同じだ。語彙が増えない。
「ミレーヌ、行くぞ」
「殿下、お待ちになって——」
ミレーヌがこちらを一瞥した。何か言いたそうな顔。でもレオナルドに腕を引かれて、そのまま出ていった。
馬車の扉が閉まる。車輪の音が遠ざかっていく。
***
静かになった応接間で、セバスが冷めた茶を片づけていた。
「殿下、お茶に手をつけませんでしたね」
「もったいないわね。セバスのお茶、美味しいのに」
トビアスが椅子に座り込んだ。膝に手を置いて、深く息を吐いている。
「……すみません。手が震えてました」
「気づかなかったわよ」
嘘だ。気づいていた。でもあの場で堂々と言い切ったのは、トビアスの力だ。二週間前、私の前で背筋を正す時に力んでいた男が、恩人だった相手の前で自分の足で立った。
「トビアス。一つ聞いていい?」
「何でしょう」
「あの人に送られてきた時、本当に信じてたの? 私が極悪令嬢だって」
トビアスが少し考えた。
「……はい。信じていました。殿下の言葉を疑う理由がなかったので」
「今は?」
「帳簿を見ました。住民の顔も見ました。極悪令嬢が作る帳簿じゃないです」
(それは褒め言葉として受け取っておくわ)
「そう。じゃあ仕事に戻って。明日から量産の第二ロットよ」
「はい」
トビアスが立ち上がって、扉に向かった。途中で振り返った。
「アイリス様」
「何?」
「……ありがとうございます、では足りないんですが」
「足りてるわよ。仕事で返して」
トビアスが笑った。二週間前にはなかった笑い方だった。作業場で初めて笑った時より、もう少しだけ力が抜けていた。
出ていった。
グレンが壁際に立っている。対決の間ずっと、トビアスの隣にいた。一言も発さず、ただそこにいた。
「グレン」
「……はい」
「お疲れ様」
グレンが少しだけ頷いた。
「殿下は、また来ますか」
「来るかもね。でも手札はもう残ってないわ。前回は帳簿と法律で負けた。今度は人を送り込んでも寝返った。次に何をするか知らないけど——」
窓の外を見た。レオナルドの馬車はもう見えない。
「二度負けた相手に三度目を仕掛けるほど、あの人に執念があるとは思えないわ」
「油断は——」
「しないわよ。帳簿は常に最新にしておく。それが一番の守りだから」
グレンが黙って頷いた。
応接間を出て、執務室に戻った。テーブルの上に、量産計画の資料が広がっている。
軟膏の第二ロット。販路の開拓。東の港町への出荷ルート。やることは山ほどある。
でも今日は、少しだけ気分がいい。
レオナルドが自分の手で送り込んだ人材が、この領地の柱になる。現在価値350だった男が、二週間で1,650。送り主が知ったら卒倒するだろう。
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