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第1章:辺境復興編
18話:灯りの数
軟膏の初出荷から十日が過ぎた。
東の港町のロッソ商会に三十壺。全て売れた。品質に問題なしとの返答付きで、追加注文まで来ている。
「アイリス様、次月分の発注書です」
トビアスが紙を持ってきた。五十壺。初回の倍近い。
「製造は間に合う?」
「人手がもう一人いれば。住民の中に、手先が器用な方がいまして」
「工程表を渡して教育して。品質が安定したら正式に雇用する」
「はい」
トビアスが作業場に戻っていく。背筋が伸びている。二週間前、レオナルドの前で自分の足で立った男の背中だ。振り返りもしない。振り返る必要がない。ここが自分の場所だと分かっている歩き方。
帳簿を開いた。売上、原価、人件費、輸送費。数字を並べて、月次の損益をまとめる。
黒字だった。
薬草の生売りだけでは細々とした利益しか出なかった。加工を始めてから、利益が四倍以上に跳ねている。トビアスの母の治療費を引いても、十分な余剰がある。
(これなら、井戸をもう一つ掘れるわね。南の道の拡幅も——)
やりたいことが次々に浮かぶ。金があれば人を雇える。人が増えれば産業が回る。産業が回れば金が生まれる。
ふと思い立って、鑑定した。
【アーレン領】
現在価値:1,800
潜在価値:2,800
(1,800)
着いた時は12だった。
12が、1,800。
帳簿の数字では追っていた。収入が増えて、人口が増えて、産業が回り始めて。数字の上では分かっていた。でも、こうして鑑定で見ると実感が違う。
半年前、荷物一つで放り出された荒れ地。セバスと二人で、崩れかけた館の帳簿を開いたところから始まった。
今、ここには帳簿がある。人がいる。仕事がある。
(……悪くないわね)
珍しく、素直にそう思えた。
窓の外にグレンの姿が見えた。館の周りを巡回している。
(……そういえば)
鑑定した。
【グレン・ファルクス】
現在価値:1,200
潜在価値:9,999
変わらない。
領地は12から1,800になった。セバスもトビアスも、役割を与えれば数字がついてきた。理由が説明できる成長だ。
この男だけ、半年経っても9,999の正体が分からない。
(……まあ、今日はいいわ)
***
夕方。セバスが焼き菓子と紅茶を持ってきた。
「今日のは新作です。麦の配合を少し変えてみました」
一口。前より香ばしい。噛むほどに甘みが広がる。
「美味しいわね。これ」
「ありがとうございます。もう一つ、お耳に入れておきたいことが」
「何?」
「公爵家に監査院の査察が入ったそうです。帳簿不備の追加課税が決まったと」
「そう」
それだけ答えた。感慨はなかった。帳簿を回せる人間を追い出せば、そうなる。計算通り。
セバスも、それ以上は何も言わなかった。紅茶を注ぎ足して、焼き菓子の皿を少しだけこちらに寄せた。
「セバス、帳簿の日次記録は」
「本日分まで完了しております」
「……聞かなくても良かったわね」
「半年前なら、聞く必要がありました」
「成長したわね」
「良い上司に恵まれましたので」
焼き菓子をもう一つ取った。
***
帳簿を閉じて、ロッソ商会からの書簡を開いた。追加注文の承諾と、一つ注意書き。取引量がこの規模を超えると、王都での商業登録が必要になるらしい。
(……王都、か)
行かなければならない理由ができてしまった。面倒だが、事業を止めるわけにはいかない。
窓の外を見た。夕日がアーレン領を染めている。穏やかな景色。ただ、胸の隅に小さな棘がある。うまく言葉にできない種類の引っかかり。
(気のせいよ。たぶん)
***
日が落ちた頃、グレンが執務室に来た。
「南の道の件です。住民から拡幅の要望が出ています。荷馬車のすれ違いが厳しいと」
「見てきたの?」
「今朝、確認しました。道幅があと半間あれば十分です」
紙を一枚、机に置いた。道の幅と距離、必要な作業量の概算。文字は素朴だが、要点は揃っている。
「……グレン、いつからこういうの作れるようになったの」
「セバスに教わりました」
「護衛の仕事じゃないわよ、これ」
「見回りの延長です」
護衛の延長。見回りの延長。この男はいつもそう言う。でも半年前の「護衛ですから」と今の「護衛ですから」は、同じ言葉のくせに中身がまるで違う。
概算を見た。悪くない。少し多めに見積もっているのは、グレンの性格が出ている。
「ありがとう。予算に組み込むわ」
「はい」
用件が済んでも、グレンはすぐに出ていかなかった。窓の外を一瞥して、それから私の机の上を見た。帳簿と書類の山。紅茶の冷めたカップ。
「……お茶、淹れ直しましょうか」
「いつから給仕係になったのよ」
「護衛の延長です」
「延長しすぎよ」
グレンは答えず、カップを持って出ていった。しばらくして、湯気の立つ紅茶が戻ってきた。セバスの淹れ方とは違う。少し濃い。でも、悪くなかった。
***
執務室を出ると、廊下にグレンがいた。まだいる。
「まだ起きてたの」
「護衛ですから」
「今日だけで何回言ったの、それ」
「……仕事です」
廊下の窓から、月明かりが差し込んでいた。灯りが点った領地が見下ろせる。半年前は真っ暗だった場所に、ぽつぽつと光が散っている。
「増えたわね」
「……何がですか」
「灯り。人が増えた分だけ、灯りも増えた」
グレンが窓の外を見た。
「守るものが増えたわね」
「……そうですね」
短い返事。でも、声が少しだけ柔らかかった。
月明かりに照らされた横顔を、つい見てしまった。いつもの無表情。でも目元が、少しだけ緩んでいるように見える。
気のせいかもしれない。でも鑑定しなくても分かることが、たまにはある。
「グレン」
「はい」
「王都に行かないといけなくなったわ。商業登録の手続き」
「……いつですか」
「準備ができ次第。一週間後くらい」
「同行します」
「聞く前に答えないでよ」
「護衛ですから」
「……知ってるわよ」
おやすみ、と言って部屋に戻った。鍵をかけた。
窓の外に、アーレン領の夜景。小さな灯りが十数個、闇の中に浮かんでいる。
半年前、現在価値12の土地に放り出された。帳簿と鑑定と、前世の経理知識だけが手元にあった。
今、この土地には1,800の価値がある。
(まだ足りない。潜在価値は2,800。でも——)
灯りを消した。
明日もまた、帳簿を開く。
東の港町のロッソ商会に三十壺。全て売れた。品質に問題なしとの返答付きで、追加注文まで来ている。
「アイリス様、次月分の発注書です」
トビアスが紙を持ってきた。五十壺。初回の倍近い。
「製造は間に合う?」
「人手がもう一人いれば。住民の中に、手先が器用な方がいまして」
「工程表を渡して教育して。品質が安定したら正式に雇用する」
「はい」
トビアスが作業場に戻っていく。背筋が伸びている。二週間前、レオナルドの前で自分の足で立った男の背中だ。振り返りもしない。振り返る必要がない。ここが自分の場所だと分かっている歩き方。
帳簿を開いた。売上、原価、人件費、輸送費。数字を並べて、月次の損益をまとめる。
黒字だった。
薬草の生売りだけでは細々とした利益しか出なかった。加工を始めてから、利益が四倍以上に跳ねている。トビアスの母の治療費を引いても、十分な余剰がある。
(これなら、井戸をもう一つ掘れるわね。南の道の拡幅も——)
やりたいことが次々に浮かぶ。金があれば人を雇える。人が増えれば産業が回る。産業が回れば金が生まれる。
ふと思い立って、鑑定した。
【アーレン領】
現在価値:1,800
潜在価値:2,800
(1,800)
着いた時は12だった。
12が、1,800。
帳簿の数字では追っていた。収入が増えて、人口が増えて、産業が回り始めて。数字の上では分かっていた。でも、こうして鑑定で見ると実感が違う。
半年前、荷物一つで放り出された荒れ地。セバスと二人で、崩れかけた館の帳簿を開いたところから始まった。
今、ここには帳簿がある。人がいる。仕事がある。
(……悪くないわね)
珍しく、素直にそう思えた。
窓の外にグレンの姿が見えた。館の周りを巡回している。
(……そういえば)
鑑定した。
【グレン・ファルクス】
現在価値:1,200
潜在価値:9,999
変わらない。
領地は12から1,800になった。セバスもトビアスも、役割を与えれば数字がついてきた。理由が説明できる成長だ。
この男だけ、半年経っても9,999の正体が分からない。
(……まあ、今日はいいわ)
***
夕方。セバスが焼き菓子と紅茶を持ってきた。
「今日のは新作です。麦の配合を少し変えてみました」
一口。前より香ばしい。噛むほどに甘みが広がる。
「美味しいわね。これ」
「ありがとうございます。もう一つ、お耳に入れておきたいことが」
「何?」
「公爵家に監査院の査察が入ったそうです。帳簿不備の追加課税が決まったと」
「そう」
それだけ答えた。感慨はなかった。帳簿を回せる人間を追い出せば、そうなる。計算通り。
セバスも、それ以上は何も言わなかった。紅茶を注ぎ足して、焼き菓子の皿を少しだけこちらに寄せた。
「セバス、帳簿の日次記録は」
「本日分まで完了しております」
「……聞かなくても良かったわね」
「半年前なら、聞く必要がありました」
「成長したわね」
「良い上司に恵まれましたので」
焼き菓子をもう一つ取った。
***
帳簿を閉じて、ロッソ商会からの書簡を開いた。追加注文の承諾と、一つ注意書き。取引量がこの規模を超えると、王都での商業登録が必要になるらしい。
(……王都、か)
行かなければならない理由ができてしまった。面倒だが、事業を止めるわけにはいかない。
窓の外を見た。夕日がアーレン領を染めている。穏やかな景色。ただ、胸の隅に小さな棘がある。うまく言葉にできない種類の引っかかり。
(気のせいよ。たぶん)
***
日が落ちた頃、グレンが執務室に来た。
「南の道の件です。住民から拡幅の要望が出ています。荷馬車のすれ違いが厳しいと」
「見てきたの?」
「今朝、確認しました。道幅があと半間あれば十分です」
紙を一枚、机に置いた。道の幅と距離、必要な作業量の概算。文字は素朴だが、要点は揃っている。
「……グレン、いつからこういうの作れるようになったの」
「セバスに教わりました」
「護衛の仕事じゃないわよ、これ」
「見回りの延長です」
護衛の延長。見回りの延長。この男はいつもそう言う。でも半年前の「護衛ですから」と今の「護衛ですから」は、同じ言葉のくせに中身がまるで違う。
概算を見た。悪くない。少し多めに見積もっているのは、グレンの性格が出ている。
「ありがとう。予算に組み込むわ」
「はい」
用件が済んでも、グレンはすぐに出ていかなかった。窓の外を一瞥して、それから私の机の上を見た。帳簿と書類の山。紅茶の冷めたカップ。
「……お茶、淹れ直しましょうか」
「いつから給仕係になったのよ」
「護衛の延長です」
「延長しすぎよ」
グレンは答えず、カップを持って出ていった。しばらくして、湯気の立つ紅茶が戻ってきた。セバスの淹れ方とは違う。少し濃い。でも、悪くなかった。
***
執務室を出ると、廊下にグレンがいた。まだいる。
「まだ起きてたの」
「護衛ですから」
「今日だけで何回言ったの、それ」
「……仕事です」
廊下の窓から、月明かりが差し込んでいた。灯りが点った領地が見下ろせる。半年前は真っ暗だった場所に、ぽつぽつと光が散っている。
「増えたわね」
「……何がですか」
「灯り。人が増えた分だけ、灯りも増えた」
グレンが窓の外を見た。
「守るものが増えたわね」
「……そうですね」
短い返事。でも、声が少しだけ柔らかかった。
月明かりに照らされた横顔を、つい見てしまった。いつもの無表情。でも目元が、少しだけ緩んでいるように見える。
気のせいかもしれない。でも鑑定しなくても分かることが、たまにはある。
「グレン」
「はい」
「王都に行かないといけなくなったわ。商業登録の手続き」
「……いつですか」
「準備ができ次第。一週間後くらい」
「同行します」
「聞く前に答えないでよ」
「護衛ですから」
「……知ってるわよ」
おやすみ、と言って部屋に戻った。鍵をかけた。
窓の外に、アーレン領の夜景。小さな灯りが十数個、闇の中に浮かんでいる。
半年前、現在価値12の土地に放り出された。帳簿と鑑定と、前世の経理知識だけが手元にあった。
今、この土地には1,800の価値がある。
(まだ足りない。潜在価値は2,800。でも——)
灯りを消した。
明日もまた、帳簿を開く。
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