【完結】帳簿令嬢の答え合わせ ~その不正、すべて帳簿が覚えています~

Lihito

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第2章:王都謀略編

44話:三枚目の紙

執務室に地図を広げた。

アーレン領の全体図。ルッツが書き直したもので、以前の手描きとは精度が違う。道、倉庫、住居、作業場、全部に寸法と配置理由が書き込んである。

「ここに第二加工場を置きたいの」

トビアスとルッツを呼んでいた。三人で地図を囲んでいる。グレンが少し離れた壁際に——いない。机の端に立っている。地図を覗き込んではいないが、聞いている距離。

「第二加工場ですか。今の施設では足りなくなりますか?」

トビアスが聞いた。

「今は足りてる。でも、他領からの取引が増え始めてるでしょう。今の生産量じゃ半年もたない」

先月、他領から商人が来た。軟膏の評判が広がっている。ヴァルト商会経由の王都向けだけでなく、近隣の領地からも直接引き合いが来始めた。

「加工場を増やすなら、原料の保管庫も拡張しないとダメですね。レムリア草の在庫回転が変わるから、保管場所と搬入路を一緒に見直さないと」

トビアスが地図の上で指を動かした。作業場から保管庫、保管庫から出荷場。流れを辿っている。

「お姉さん、保管庫なら南の倉庫の隣に増設できます。地盤もいいし、搬入路と繋がってる。第二加工場はその北側に置けば、原料→加工→出荷が一本の線になる」

ルッツが即座に配置を示した。全体の動線から逆算して、個別の建物の位置を決めている。

「いいわね。トビアス、加工場の規模は?」

「今の倍は欲しいです。それと——」

トビアスが言いかけて、一度止まった。

「新商品を考えています。軟膏の技術を応用した別の加工品。傷薬だけじゃなく、肌荒れや乾燥に効くもの。レムリア草の成分なら調合次第でいける」

「需要は?」

「あります。王都にいた頃、ギルドで試作まではやっていました。潰されましたけど」

最後の一言は軽かった。軽く言えるようになったのだ、と思った。

「試作の段階からやり直すの?」

「いえ、配合は頭に入っています。設備さえあれば一ヶ月で形にできます」

「見積もりを出して。来週までに」

「分かりました」

三人で地図に書き込みを加えていった。ルッツが配置を、トビアスが設備を、私が数字を。

(楽しい)

素直にそう思った。この領地の未来を三人で描いている。数字が積み上がっていく。出荷量、取引先、新商品、雇用。全部がいい方向に動いている。

「お姉さん、このペースだと年内にもう一本道を通さないと足りなくなりますよ」

「嬉しい悲鳴ね」

「自分の仕事が増えるだけなんですけどね」

ルッツが笑った。トビアスも笑っている。

「紅茶をお持ちしました」

グレンの声がした。振り返ると、盆に四つ分の湯気が立っている。

「ありがとう。——四つ?」

「ルッツ殿とトビアス殿の分も」

「気が利くじゃない」

受け取った。一口飲んだ。

(……美味しい)

前より上手くなっている。セバスの味に近づいている。蒸らしの時間を掴んだのか、渋みが消えて、香りがちゃんと立っている。

「グレン、お茶上手くなったわね」

「……セバス殿に教わっただけです」

ルッツが湯飲みを受け取りながら言った。

「グレンさん、最近よくお茶淹れてますよね。お姉さんのために——」

「ルッツ殿。地図の北東の等高線が怪しいのですが」

グレンが地図を指した。ルッツが「え、どこですか」と覗き込む。話題が逸れた。

トビアスが小さく笑っていた。私には意味が分からなかった。

***

ルッツが出ていった後、トビアスを呼び止めた。

「トビアス、少し残って」

「はい」

地図を片付けて、別の書類を出した。昨晩まとめておいたものだ。

「リーゼのこと。除名処分の撤回申し立てができるわ」

トビアスの手が止まった。

「王子は廃嫡された。あの除名処分は王子の意向でギルドに出させたものでしょう。圧力の源がなくなった以上、処分の根拠が消えている」

「……」

「あの時は推薦状で港町に逃がすしかなかった。ギルドと正面からやり合う力がなかったから。でも今は状況が違う。領主名義で撤回の申し立てを出せるし、カイル経由で監査院の記録も使える。王子の不正が公式に認定されている今なら、通る」

トビアスが黙ったまま、こちらを見ていた。

「除名が撤回されれば、リーゼは正式な薬師として動ける。港町でも、王都でも、どこでも」

「……アイリス様」

声がかすれていた。

「それは——」

「書面はもう作ってあるわ。確認して」

紙を渡した。撤回申し立ての文案。根拠の整理。添付する証拠書類のリスト。

トビアスが紙を受け取った。読んでいる。指先が震えていた。

「あの時、三枚の紙を出したでしょう。給与と、治療費と、推薦状。あれが私にできる全部だった」

「覚えています」

「推薦状は迂回策だった。本当は除名そのものを潰したかった。でもできなかった。——今なら、できる」

トビアスが紙から目を上げた。目が赤い。

「アイリス様。実は——もう一つお伝えしたいことがありました」

「何?」

「母の容体が落ち着きました。王都の医師から、環境を変えても問題ないと」

「……そう」

「こちらに呼びたいと考えています。王都に置いておく必要がなくなったので」

治療費は月20枚を確保している。王都の医師にかかる必要がなくなれば、その分を第二加工場の資金に回せる。経理的にはいい話だ。

でもトビアスの顔は、経理の話をしている顔ではなかった。

「お母様の住居は手配する。——リーゼはどうするの。除名が撤回されたら、港町に残る?」

「……来ると思います」

「根拠は?」

「師匠の近くで働きたいと、手紙に書いてありました。何度も」

(……何度も、ね)

何度もと言う時のトビアスの顔が、少し照れていた。

「分かったわ。二人とも受け入れる。リーゼは加工技術者として正式雇用。給与は腕を見てから。お母様の住居も手配する。セバスに言っておく」

「ありがとうございます」

「条件は書面で出す。明日までに」

トビアスが頭を下げた。深く、長く。

あの時と同じだ。三枚の紙を見せた時、深く頭を下げて、紙を握ったまま黙っていた。

あの時、レオナルドは口約束だった。面倒を見る、心配するな、と。でも具体的な数字は一度も出さなかった。だからトビアスは「あなたは数字で見せてくれた」と言った。

今回も同じ。数字で見せる。それしかできないし、それでいい。

「アイリス様」

「何?」

トビアスが顔を上げた。さっきまでの赤い目が、少し笑っていた。

「加工場の見積もり、来週と言いましたが、三日で出します。リーゼが来る前に形にしておきたいので」

「……いいわね。その意気で」

トビアスが出ていった。

一人になった。窓の外で、トビアスがルッツと何か話しているのが見えた。ルッツが驚いた顔をして、それから笑った。トビアスも笑っている。手振りが大きい。

(人が増える。仕事が増える。領地が動く)

あの時の三枚の紙。あれが精一杯だった自分が、今は除名処分の撤回まで手が届く。

(……少しは、マシな領主になれたのかしら)

帳簿に目を落とした。数字は淡々と並んでいる。

***

午後、見回りに出た。

領地に活気がある。南の倉庫に荷馬車が出入りしている。住民の顔に見覚えのないものが増えた。他領から移ってきた人たち。職を求めて、あるいは噂を聞いて。人が人を呼んでいる。

若い夫婦が道端で話し込んでいる。引っ越してきたばかりらしく、荷物がまだ馬車に積まれている。女性の方が不安そうにしていたが、夫が何か言って笑わせた。

「……いい領地になりましたね」

グレンが言った。前にも同じことを言った。帰ってきた日に。

「前も言ってたわね、それ」

「……そうでしたか」

覚えていないふりをしている。覚えている顔だった。

***

夕方、書簡が届いた。

ヴァルト商会から。市場が安定し始めた、という内容。納入ペースを戻したいとのこと。

(……落ち着いたのね)

ただ、一文だけ気になった。「以前とは客層が変わった印象があります。活気が戻っているが、顔ぶれが違う」。

ヴァルト商会主らしい淡々とした書き方。「顔ぶれが違う」。帝国系が入ってきている、とは書いていない。でもそういう意味だろう。

ロッソ商会からも続報。「前回お伝えした状況が進んでいます。周囲の商会は概ね好意的に受け入れています」。好意的に受け入れている。帝国系の好条件に流されている。ロッソ商会だけが踏みとどまっている。

二通を引き出しにしまった。見て見ぬふりをしているわけじゃない。ただ、今は足元が先だ。トビアスの母とリーゼの受け入れを整えて、第二加工場の着工を進めて、流通基盤を固める。それが終わってから。

***

セバスがノックした。

「アイリス様」

いつもと声が違う。

「どうしたの」

「ブレンナー辺境伯家からの書状です。……縁談でございます」
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