【完結】帳簿令嬢の答え合わせ ~その不正、すべて帳簿が覚えています~

Lihito

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第2章:王都謀略編

46話:答え合わせ

朝、鑑定した。

【グレン・ファルクス】
現在価値:4,724
潜在価値:9,999

また下がっている。

前は4,850だった。その前は4,999。帳簿の端に並べたメモの数字が、右肩下がりの線を描いている。

(……まだ下がるの)

原因は分からない。分からないまま、ずっと上がり続けていた数字が、ここへ来て崩れ始めている。

帳簿の数字なら原因を遡れる。仕入れの変動、需要の偏り、外部環境。でもこの数字は帳簿じゃない。何を測っているのかすら掴めていないものが、目の前で崩れていく。それを眺めることしかできない。

グレンは壁際にいる。最近はずっとそこ。少し前までもう少し近かったのに。

「……異常ありません」

朝の報告。それだけ。

帳簿を開いた。今日は出荷の確認と、第二加工場の資材費の照合。こっちの数字は読める。仕入れ、加工、出荷。流れが見える。原因が辿れる。

あっちの数字は、読めない。

***

午前中は帳簿を片付けた。第二加工場の資材費が予定より一割安く上がりそうだった。トビアスの見積もりが正確だったおかげだ。浮いた分は保管庫の増設に回せる。

ルッツが南側の排水路の完成報告に来た。工期どおり。図面と現場の寸法差も許容範囲に収まっている。

「お姉さん、次は北の道の拡幅やっていいですか。荷馬車が増えてきて、すれ違いが厳しいって声が出てるんです」

「見積もりを出して。ルッツの判断で優先順位をつけていいわ」

「分かりました」

領地は順調に回っている。数字は毎日良くなっている。出荷量、取引先、雇用。全部がいい方向に動いている。

——その中で、一つだけ逆を向いている数字がある。

***

午後、来客があった。

アーレン領に移住してきた若い夫婦。他領から来た。領主への挨拶。セバスが応接に通した。

男の方が先に口を開いた。大工の経験があるらしい。ルッツの下で働きたいとのこと。声が少し上ずっていた。領主の前で緊張しているのだろう。

女の方は隣で黙って座っている。嫁いできたばかりだ。知らない土地。知らない人たち。膝の上で手を重ねている。指先が白い。

「受け入れは問題ないわ。住居はセバスが手配する。仕事はルッツに聞いて」

「ありがとうございます」

型通りの挨拶。領主としての仕事。何も特別なことはない。

男が立ち上がった。女の方も続く。男が先にドアを開けて、女の背に手を添えた。不器用な手つき。指先の置き場が定まらないような。でも触れている部分だけ、丁寧だった。

女がちらりと隣を見た。

——その目が、柔らかかった。

知らない土地に身一つで来て、不安で指が白くなるほど手を握っていた人。でも隣を見た瞬間、その目から力が抜けていた。不安が消えたんじゃない。不安のまま、それでも安心している顔。

隣にいる人を見て——それだけで。

二人が去った。

ドアが閉まった。部屋が静かになった。

「……いい夫婦ですね」

セバスがぽつりと言った。

「そうね」

そう返した。返しながら、さっきの女性の目がまだ残っていた。あの柔らかさ。見慣れないものを見た感覚。

領地経営をしていると色々な人間を見る。商人、職人、役人、農民。たくさんの顔を見てきた。でもあんな目は——帳簿の上にはない種類だった。

***

執務室に戻った。

グレンが壁際にいる。いつもの場所。

帳簿を開いた。午前の続き。出荷の照合。数字を一行ずつ追う。

追えない。

数字は並んでいる。いつも通りに。なのに目が滑る。行を辿っているはずなのに、途中で意識が離れる。一行読んで、次の行に移る時に——さっきの残像が、割り込んでくる。

あの女性の目。隣の男を見る目。

もう一度読み直した。同じ行を。三行目の出荷量。224。覚えた。次の行に移る。

——忘れた。

224。さっき確認したばかりの数字が消えている。代わりに、あの目がある。不安のまま安心している目。隣にいる人を見るだけで。

(何)

頭を振った。帳簿に集中する。ペンを取った。インクの匂い。いつもなら気にならない匂いが、やけに近い。部屋が狭くなった気がする。

ペン先を紙に置いた。書けない。何を書こうとしていたのか、一瞬で消えた。

目が上がった。

グレンがいる。壁際の整った横顔。窓からの光を受けて、輪郭が白い。

(……)

帳簿に目を戻した。戻したのに、活字が滑る。グレンの横顔がまだ残っている。さっきの女性の目と重なっている。あの柔らかさ。あの——

——ふと、鑑定が出た。

【グレン・ファルクス】
現在価値:4,724
潜在価値:9,999

朝と同じ。変わっていない——いや。

4,730。

増えている。今、この瞬間に。こんなことは初めてだった。数字が動いている。見ている前で。

4,800。

帳簿じゃなく、この人を見ている。さっきの女性と同じだ。隣にいる人を、目で追っている。

5,000。

あの女性は不安なはずだった。知らない土地。知らない人たち。でもあの顔に不安はなかった。隣にいる人を見て——それだけで。

5,200。

縁談が成立したら。この壁際に、この人はいない。朝の報告も、ない。隣にいるのは、別の誰かだ。

5,500。

心臓がうるさい。

5,800。

嫌だ。この人がいない朝が。「異常ありません」が聞こえない朝。あの不器用な気遣いが。お茶を淹れなくなった手。帳簿を取ろうとして止まった足。口を開きかけて飲み込んだ横顔。あの、視線を逸らす速さが——

6,500。

数字が加速している。自分の鼓動と同じ速度で。

7,000。

全部、あの日から変わった。縁談の話をした日。一瞬だけ歪んだ顔。剣を落とした音。理由を聞いた。「留め具が緩んでいた」。嘘だ。元近衛が剣を落とすわけがない。

7,500。

(これ、私だ)

今、この瞬間、この数字を動かしているのは私だ。なら——お茶を淹れなくなったのも。視線を逸らすようになったのも。あの一瞬の顔も。

全部——

8,000。

戦わせても動かなかった。指揮させても動かなかった。知識を問うても動かなかった。なのに今、私がこの人を見ているだけで——

8,500。

9,000。

9,500。

9,800。

9,999。

数字が止まった。上限。

数字は嘘をつかない。なら、これは本当のこと。

私はこの人が——

「……アイリス様?」

グレンの声。こちらを見ている。

「顔が赤いですが」

帳簿で顔を隠した。

「何でもないわ」

声が裏返った。

「熱があるなら——」

「ないわよ」

帳簿の向こうの沈黙。それから小さく。

「……そうですか」

その声が優しかった。本人は気づいていない種類の優しさ。

帳簿を握る手が震えている。数字がにじんで読めない。

9,999。

知ってしまった。数字が教えてくれた。数字だから、信じるしかない。

私はこの人が、好きだ。
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