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第3章:帝国攻防編
48話:幕間 収穫の手順
帝国トレヴィーゾ、通商院。
カール・ライヒナーの執務室には、書類以外のものがほとんどなかった。窓が一つ。机が一つ。棚には報告書が日付順に並んでいる。装飾はない。効率を妨げるものを置く趣味がなかった。
部下が一人入ってきた。通商院の官吏。名はベッカー。この男は余計なことを言わない。それだけで価値がある。
「長官。王国の件で続報が入りました」
「言え」
「財務卿ヴィクトール・ハイゼン、逮捕。枢密院の審理を経て、正式に拘束されたとのことです」
カールはペンを置いた。
「——やはり、か」
驚きはなかった。三月前に報告が途絶えた時点で、嫌な予感はあった。あの男は駒としては申し分なかった。財務卿という椅子に座っている、それだけで価値があった。だが自分で判断させてはいけない種類の人間だった。
「書簡は」
「財務卿府から押収された書類の中に、未開封の書簡が含まれていたと」
「中身は」
「特定には至っていないようです」
当然だ。差出人は通商院の名を使っていない。文面も定型の外交書簡に見えるよう書いてある。読んだところで、帝国通商院長官からの指示だとは分からない。
だが未開封であること自体が苛立たしかった。循環取引の露呈が近いという分析と、対処の手順を書いた。読んでいれば、少なくとも証拠の処理は間に合った。
読まなかった。自分の管轄は自分で始末する——あの男の口癖だった。どこの世界にも一定数いる。能力が足りないのに報告を怠り、自分で何とかしようとして炎上する人間。前の世界にもいた。
「経緯を聞かせろ。最初から」
ベッカーが報告書を開いた。
***
「まず、循環取引網の摘発です。エルスト商会を中心とした取引の輪が監査院に——」
「把握されたか」
ベッカーが言い切る前に、カールが引き取った。
「事実上、崩壊しています」
カールは椅子の肘掛けに指を置いた。動かさなかった。
あの取引網を組むのに一年かかった。嘘の売上で信用を膨らませ、融資を引き出させ、王都の市場を回す。膨らめば膨らむほどいい。好きなタイミングで潰せる。潰れた後に、救済者の顔をして安く買い取る。前の世界でやっていたことと同じだ。スケールが変わっただけだった。
それを根本から潰された。
「誰が端緒を」
「アーレン領の令嬢です。名はアイリス・ヴァレンシア。元公爵家の——」
「追放された娘か。聞いたことがある。どうやって辿った」
「帳簿からです。転売の調査で商会の取引記録が監査院に提出され、循環取引の構造が——」
「帳簿から輪が見えたのか」
カールの指が肘掛けの上で一つ叩いた。
あの輪は、帳簿を一冊見ただけでは分からないように組んである。複数の商会の記録を突き合わせて、金の流れを追わなければ見えない。それを、辺境の令嬢がやった。
「続けろ」
「摘発を受けて、財務卿が二つの命令を出しています。一つは主要商会への一斉営業停止命令。もう一つは辺境への公金輸送命令です」
「一斉停止?」
カールの声が変わった。
「目的は」
「帳簿の回収です。証拠隠滅のために——」
「証拠隠滅」
カールが繰り返した。低い声だった。
あの男に市場の構造が見えていたとは思えない。本当に証拠を消したかっただけだろう。だが結果として、あれは正しいカードだった。循環取引が潰されたなら、残る手は一斉停止しかない。強制的に取引を止めれば信用が一気に剥がれ、体力のある商会も巻き込まれて倒れる。焼け野原になる。焼け野原の後に入るのが、最も安い。
動機は間違っていたが、手だけは正しかった。
「阻止されたと言ったな」
「はい。停止命令が出る前に、健全な商会の取引記録が監査院に提出されており——」
「出る前に?」
カールが初めて体を起こした。
「同じ令嬢か」
「はい」
停止が来ることを読んでいた。循環取引の構造を見抜いた上で、次の手まで予測した。
「……この令嬢、ブルクハルト商会の件もそうか」
ベッカーが一瞬間を置いた。手元の報告書を確認している。
「城壁修繕事業の中抜きを発覚させたのも、同じ令嬢です」
ブルクハルト商会。公共事業を経由して公金を抜く、別の収穫ルートだった。あの駒が潰された報告は受けていた。だが誰に潰されたかまでは追っていなかった。
循環取引と中抜き。別々に走らせていた仕組みが、同じ人間の手で剥がされている。帳簿から構造を読み取り、監査院に持ち込む。手口が一貫している。
単独では何もできない。だが放置すれば、同じことを繰り返す。
「公金輸送の方は」
「辺境に偽の補助金を送り、受領時の金額不足で横領に見せかける手口でしたが、輸送記録と重量の不整合を——」
「あの手口を使ったのか」
カールが遮った。ベッカーの声が止まった。
ヴィクトールが財務卿になる前のことだ。近衛にいた騎士が上官の不正を報告して、始末に困っていた。カールが手口を教えた。封印金庫、受領署名、重量の調整。ヴィクトールは言われた通りに実行し、騎士は消えた。あの一件がきっかけで、ヴィクトールはカールを信頼するようになった。以来、王国側の窓口として使ってきた。
あれは貸しを作るための道具だった。勝手に持ち出して、しかも失敗した。
「指示は出していない。独断だな」
「そのようです」
カールは窓の外に目を向けた。帝国の街並みが午後の光に沈んでいる。
道具の使い方を教えただけの人間に、判断まで任せるべきではなかった。あの男を使い続けたのは、財務卿の椅子に座っているという一点に価値があったからだ。その椅子を自分で蹴り飛ばした。
「処遇ですが、救出の手配を——」
「あの男からはもう引き出せるものがない。放置しろ」
ベッカーが一瞬黙った。カールは気づかなかった。
***
「現在の王国の市場はどうなっている」
「循環取引の摘発後、不安定な状態が続いています。信用が収縮し、中小商会を中心に経営が悪化しています」
焼け野原にはならなかった。一斉停止が阻止されたから、市場はゆっくりしぼんでいる。体力のない商会から順に苦しくなる。劇的ではないが、隙はある。
「弱っている商会に、融資の形で入れ。条件は雛型の通りでいい。最初の半年は返せる額にしておけ。焦ると警戒される」
「王都だけでよろしいですか」
「港町も続けろ。エルスト商会が消えた穴は埋まっているな」
「後続の商会が参入済みです。周囲への浸透は順調です」
「アーレン領の名前が最近よく出てくる。流通拠点として育っていると聞いている」
「軟膏の加工事業を軸に、周辺からの流入が増えているようです」
「接触しろ。あの令嬢の足元だ。目の届く距離に入っておけ」
ベッカーが頷いた。
「財務卿の後任は」
「まだ決まっていません」
「候補が固まる前に接触しろ。決まってからでは遅い。決まる前に貸しを作れ」
ベッカーが一礼して退室した。
一人になった。
椅子から立ち上がり、窓際に歩いた。
この世界に来て三年になる。目が覚めた時、最初に気づいたのは法の不在だった。利息の上限がない。返済不能に陥った者を保護する仕組みがない。融資条件の開示義務がない。貸す側を縛る法が、ほとんど存在しない。
前の世界では規制の網を潜るのが仕事だった。ここには潜るべき網がない。
机に戻った。引き出しから書類の束を出した。王国だけではない。周辺の六つの国と地域の名前が並んでいる。それぞれに進捗と数字が記されている。
王国は七つの取引先のうちの一つに過ぎない。駒が一つ消えた程度で、計画は揺るがない。
ペンを取り、王国の欄に一行書き足した。
「財務卿:欠。後任接触中」
それだけだった。
カール・ライヒナーの執務室には、書類以外のものがほとんどなかった。窓が一つ。机が一つ。棚には報告書が日付順に並んでいる。装飾はない。効率を妨げるものを置く趣味がなかった。
部下が一人入ってきた。通商院の官吏。名はベッカー。この男は余計なことを言わない。それだけで価値がある。
「長官。王国の件で続報が入りました」
「言え」
「財務卿ヴィクトール・ハイゼン、逮捕。枢密院の審理を経て、正式に拘束されたとのことです」
カールはペンを置いた。
「——やはり、か」
驚きはなかった。三月前に報告が途絶えた時点で、嫌な予感はあった。あの男は駒としては申し分なかった。財務卿という椅子に座っている、それだけで価値があった。だが自分で判断させてはいけない種類の人間だった。
「書簡は」
「財務卿府から押収された書類の中に、未開封の書簡が含まれていたと」
「中身は」
「特定には至っていないようです」
当然だ。差出人は通商院の名を使っていない。文面も定型の外交書簡に見えるよう書いてある。読んだところで、帝国通商院長官からの指示だとは分からない。
だが未開封であること自体が苛立たしかった。循環取引の露呈が近いという分析と、対処の手順を書いた。読んでいれば、少なくとも証拠の処理は間に合った。
読まなかった。自分の管轄は自分で始末する——あの男の口癖だった。どこの世界にも一定数いる。能力が足りないのに報告を怠り、自分で何とかしようとして炎上する人間。前の世界にもいた。
「経緯を聞かせろ。最初から」
ベッカーが報告書を開いた。
***
「まず、循環取引網の摘発です。エルスト商会を中心とした取引の輪が監査院に——」
「把握されたか」
ベッカーが言い切る前に、カールが引き取った。
「事実上、崩壊しています」
カールは椅子の肘掛けに指を置いた。動かさなかった。
あの取引網を組むのに一年かかった。嘘の売上で信用を膨らませ、融資を引き出させ、王都の市場を回す。膨らめば膨らむほどいい。好きなタイミングで潰せる。潰れた後に、救済者の顔をして安く買い取る。前の世界でやっていたことと同じだ。スケールが変わっただけだった。
それを根本から潰された。
「誰が端緒を」
「アーレン領の令嬢です。名はアイリス・ヴァレンシア。元公爵家の——」
「追放された娘か。聞いたことがある。どうやって辿った」
「帳簿からです。転売の調査で商会の取引記録が監査院に提出され、循環取引の構造が——」
「帳簿から輪が見えたのか」
カールの指が肘掛けの上で一つ叩いた。
あの輪は、帳簿を一冊見ただけでは分からないように組んである。複数の商会の記録を突き合わせて、金の流れを追わなければ見えない。それを、辺境の令嬢がやった。
「続けろ」
「摘発を受けて、財務卿が二つの命令を出しています。一つは主要商会への一斉営業停止命令。もう一つは辺境への公金輸送命令です」
「一斉停止?」
カールの声が変わった。
「目的は」
「帳簿の回収です。証拠隠滅のために——」
「証拠隠滅」
カールが繰り返した。低い声だった。
あの男に市場の構造が見えていたとは思えない。本当に証拠を消したかっただけだろう。だが結果として、あれは正しいカードだった。循環取引が潰されたなら、残る手は一斉停止しかない。強制的に取引を止めれば信用が一気に剥がれ、体力のある商会も巻き込まれて倒れる。焼け野原になる。焼け野原の後に入るのが、最も安い。
動機は間違っていたが、手だけは正しかった。
「阻止されたと言ったな」
「はい。停止命令が出る前に、健全な商会の取引記録が監査院に提出されており——」
「出る前に?」
カールが初めて体を起こした。
「同じ令嬢か」
「はい」
停止が来ることを読んでいた。循環取引の構造を見抜いた上で、次の手まで予測した。
「……この令嬢、ブルクハルト商会の件もそうか」
ベッカーが一瞬間を置いた。手元の報告書を確認している。
「城壁修繕事業の中抜きを発覚させたのも、同じ令嬢です」
ブルクハルト商会。公共事業を経由して公金を抜く、別の収穫ルートだった。あの駒が潰された報告は受けていた。だが誰に潰されたかまでは追っていなかった。
循環取引と中抜き。別々に走らせていた仕組みが、同じ人間の手で剥がされている。帳簿から構造を読み取り、監査院に持ち込む。手口が一貫している。
単独では何もできない。だが放置すれば、同じことを繰り返す。
「公金輸送の方は」
「辺境に偽の補助金を送り、受領時の金額不足で横領に見せかける手口でしたが、輸送記録と重量の不整合を——」
「あの手口を使ったのか」
カールが遮った。ベッカーの声が止まった。
ヴィクトールが財務卿になる前のことだ。近衛にいた騎士が上官の不正を報告して、始末に困っていた。カールが手口を教えた。封印金庫、受領署名、重量の調整。ヴィクトールは言われた通りに実行し、騎士は消えた。あの一件がきっかけで、ヴィクトールはカールを信頼するようになった。以来、王国側の窓口として使ってきた。
あれは貸しを作るための道具だった。勝手に持ち出して、しかも失敗した。
「指示は出していない。独断だな」
「そのようです」
カールは窓の外に目を向けた。帝国の街並みが午後の光に沈んでいる。
道具の使い方を教えただけの人間に、判断まで任せるべきではなかった。あの男を使い続けたのは、財務卿の椅子に座っているという一点に価値があったからだ。その椅子を自分で蹴り飛ばした。
「処遇ですが、救出の手配を——」
「あの男からはもう引き出せるものがない。放置しろ」
ベッカーが一瞬黙った。カールは気づかなかった。
***
「現在の王国の市場はどうなっている」
「循環取引の摘発後、不安定な状態が続いています。信用が収縮し、中小商会を中心に経営が悪化しています」
焼け野原にはならなかった。一斉停止が阻止されたから、市場はゆっくりしぼんでいる。体力のない商会から順に苦しくなる。劇的ではないが、隙はある。
「弱っている商会に、融資の形で入れ。条件は雛型の通りでいい。最初の半年は返せる額にしておけ。焦ると警戒される」
「王都だけでよろしいですか」
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「後続の商会が参入済みです。周囲への浸透は順調です」
「アーレン領の名前が最近よく出てくる。流通拠点として育っていると聞いている」
「軟膏の加工事業を軸に、周辺からの流入が増えているようです」
「接触しろ。あの令嬢の足元だ。目の届く距離に入っておけ」
ベッカーが頷いた。
「財務卿の後任は」
「まだ決まっていません」
「候補が固まる前に接触しろ。決まってからでは遅い。決まる前に貸しを作れ」
ベッカーが一礼して退室した。
一人になった。
椅子から立ち上がり、窓際に歩いた。
この世界に来て三年になる。目が覚めた時、最初に気づいたのは法の不在だった。利息の上限がない。返済不能に陥った者を保護する仕組みがない。融資条件の開示義務がない。貸す側を縛る法が、ほとんど存在しない。
前の世界では規制の網を潜るのが仕事だった。ここには潜るべき網がない。
机に戻った。引き出しから書類の束を出した。王国だけではない。周辺の六つの国と地域の名前が並んでいる。それぞれに進捗と数字が記されている。
王国は七つの取引先のうちの一つに過ぎない。駒が一つ消えた程度で、計画は揺るがない。
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