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27 廷臣五百八十八卿列参事件 (ヴィルヘルム12世視点)
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その朝の目覚めの不快さといったらなかったものだ。息子の起こした不始末で、あるいは帝国の歴史が終わるかもしれないのだから。
昨日、家臣から報告を受けて、すぐにディートハルトを呼び出した。その時点ですでに余は、頭痛を感じていた。このあいだの講義で、ディートハルトはなにもわかっていなかったのだ。
エリーゼ嬢との婚約を破棄するなど、馬鹿げている。彼女の実家であるアードルング公爵家に、どれほどの貸しをつくることになるか、ぞっとするほどだ。東方諸侯は派閥にあまり頓着しないとはいえ、アードルング家は東方の名家だ。かりにアードルング派というまとめかたをするなら、20家ほどが付き従うだろう。アードルング公には、決して敵意をもたれてはならないのだ。
それだというのに、あのバカ者め━━1時間ほどかかって内裏にやってきたディートハルトを、怒鳴りつけてやろうかと思ったそのときだ。余は息子の顔を見るなり気勢をそがれた。
ディートハルトは余が叱責するまでもなく、青ざめ、小刻みに震え、泣き出しそうな表情をしていた。
「陛下、も、申し訳ございません…」
「はあっ…なにがあったのだ」
すでにことの重大さを理解し、反省しているものをこれ以上叱責してもしかたない。余は率直にディートハルトに問うた。
ディートハルトの答えは、予想の最悪を極めた。
「カーマクゥラを、敵に回しました」
「な、んだと…」
「エリーゼは、カーマクゥラの御前の、友人だったのです」
「そ、それで」
「御前は怒り狂っておりました。そして━━皇族がカーマクゥラに逆らうということがどういう意味か、わかっているのかと問われました」
ああ━━強い目眩がした。余は胃に不快感を覚えてハンカチーフで口元をおさえた。わずかにえづいて吐き出したハンカチーフに視線を落とすと、べっとりと血に濡れていた。強い心理的負荷に耐えかねて、わずか数十秒のあいだに胃に穴が空いたのだろう。
あたりまえだ。ここから先の対応をひとつ間違えるだけで、700年続いた帝国の歴史を、余の代で終わらせることになるかもしれないのだから。
身体をおおう苦痛は尋常ではなかったが、ここで余が倒れるわけにはいかない。すぐに侍従長を呼び、命令する。
「いますぐアードルング家に見舞いの品を贈るのだ。ひとまず目録でいい、国庫を空にしてもかまわん!」
「見舞い、ですか?それもアードルング家に?」
不思議そうにしているディートハルトに苛立ちを覚える。ことの順序もわからないのか。カーマクゥラに謝罪するのは、アードルング家の次だ。ディートハルトが迷惑をかけたのは、エリーゼ嬢に対してなのだから。エリーゼ嬢に対する姿勢をこそ御前は見ているだろう。
余はディートハルトを無視して侍従長に命じる。
「エリーゼ嬢に、皇帝の名で、心痛を察していると伝言せよ。それから非公式にだが、エリーゼ嬢を皇太子妃として迎える準備があることを匂わせるのだ!」
「こ、皇太子妃殿下は、すでにおわしますが…」
「エリーゼ嬢にその地位を望む気持ちがあるなら、いまの皇太子妃は廃妃する」
侍従長が唖然とした。だがこの処置は妥当だ。皇太子妃とはいえ、もとはいち貴族令嬢。カーマクゥラと敵対するくらいなら、いくらでも切り捨てる。国家の存亡がかかっているのだ。天秤はなんとでも釣り合う。
それはたとえば、息子の命であっても。
命令を受けてあわてて走り去る侍従長を見送ったあと、余はディートハルトの目をまっすぐに見すえた。かわいい息子だ。目に入れても痛くない、大事な皇子だ。それでも。
「ディートハルト、成り行き次第では、そなたに死んでもらうことになる」
涙を浮かべた余の顔を見て、ディートハルトは一瞬目を伏せて、すぐに余の顔を見つめ直した。
「…陛下、ご迷惑をおかけしました。臣の命はいかようにもお使いください」
非情な父を許せ━━口には出せないが、余は内心でディートハルトに詫びた。多額の見舞金と皇太子妃の地位。それで済むなら良いのだが…。
余の不安は、的中した。
アードルング家に使者を出したが、エリーゼ嬢は屋敷に帰っておらず、不機嫌なアードルング公は「エリーゼはカーマクゥラに預けております」と答えた。使者はそのまま、カーマクゥラの屋敷に向かったが、そこで門前払いを受けたという。
「御前の望みはなんなのだ」
余が問うと、使者の男はひどく屈辱的な表情で言った。
「陛下ご自身がアードルング家の門前で、3日間、裸足で断食と謝罪を続けること、でございます。陛下に対し奉り、無礼にもほどがある!」
「そ、それは━━」
無礼だとはいまさら思わないが、実際には不可能なことだ。そのようなことを実行したら、皇帝の権威が地に落ちる。結果的に帝国は滅ぶだろう。なんとか譲歩を引き出せないか、余は何度もカーマクゥラに使者を送ったが、御前にもエリーゼ嬢にも会うことができなかった。私は眠れぬ一夜を過ごし、明け方に少しだけ横になっただけで、不快な朝を迎えた。
そして━━帝国の終わりがはじまった。
その行列は帝城の塔からもよく見えた。
きらびやかな衣装を身にまとった貴族たちが、列をなして城の門前に殺到する。彼らは口々に叫んだ。
「ディートハルト皇子を処罰せよ!」
「エリーゼ嬢の名誉を守れ!」
「皇帝陛下はご温情をさずけられよ!」
帝国の歴史上、これほどの危機はなかった。800諸侯の7割にもなる貴族が、一致して帝室のあり方に批判を加えているのだ。588名にもおよぶその貴族たちは、皇帝ではなくカーマクゥラの御前に忠誠を誓っている。御前の命令があれば、かれらは帝国に反旗をひるがえすだろう。そのことが満天下に示された。
この事件の意味するところは━━すなわち、帝国の終焉だった。
「ははは、帝国は終わったわ…」
余は不覚にも床にひざまずき、先祖の霊に詫びた。自然に涙がこぼれおちる━━いったい何が悪かったのだろう。ディートハルトへの教育を怠ったことか。大貴族の派閥政治を見過ごしたことか。貧窮した伯爵家に手を差し伸べなかったことか。余が諸侯に対してもっと慈悲深く接していれば、皇帝に対する彼らの忠誠心を喚起できたのであろうか。
数百年来、皇帝の権力など有名無実化していた。だから余ははじめから諦めた気持ちで、帝国に対してなにもやってこなかった。ラングハイム公が権力を極めたときも、無害な皇帝を演出して嵐がすぎるのを待つばかりだった。その結果がこれだ。ことなかれ主義がもたらした、いずれきたるべき終わりが、この事件なのだ。
「余は帝国最後の皇帝になるのか…」
ひとりごちたそのつぶやきに、どこからか答える声がある。
「まだ終わってもらっては困る」
「…誰だ!」
「カーマクゥラ四天王、『全知』のフリッツ」
カーマクゥラの使者…!
「余の使者を門前払いにしておいて、いまさらなんの用だ」
滅びが決まってしまっているから、余はむしろ開き直った気持ちで、姿の見えないフリッツとやらに問う。するとフリッツはクスクスと笑った。
「御前さまはうぬに慈悲を与えられた。明日の午後、カーマクゥラ屋敷に参れ。エリーゼ嬢に謝罪する機会を与える」
「それは、ヴァイデンライヒ帝家をご赦免くださるということか…?」
余は自然に敬語を用いていた。皇帝が敬うべきは神以外にはありえない。にも関わらず、敬語を使ってしまった。それはすなわち、余の中ですでに帝国が滅んでしまったからなのだろう。
フリッツがどこからか笑った。
「それはうぬの態度次第というところだ。帝国を滅ぼしたくなければ、せいぜい心して参じるがいい」
フリッツの気配が消えた。それでも消えない緊張感のなか、余は胃のあたりをさすった。帝国の危機は、いまなお終わっていない。
昨日、家臣から報告を受けて、すぐにディートハルトを呼び出した。その時点ですでに余は、頭痛を感じていた。このあいだの講義で、ディートハルトはなにもわかっていなかったのだ。
エリーゼ嬢との婚約を破棄するなど、馬鹿げている。彼女の実家であるアードルング公爵家に、どれほどの貸しをつくることになるか、ぞっとするほどだ。東方諸侯は派閥にあまり頓着しないとはいえ、アードルング家は東方の名家だ。かりにアードルング派というまとめかたをするなら、20家ほどが付き従うだろう。アードルング公には、決して敵意をもたれてはならないのだ。
それだというのに、あのバカ者め━━1時間ほどかかって内裏にやってきたディートハルトを、怒鳴りつけてやろうかと思ったそのときだ。余は息子の顔を見るなり気勢をそがれた。
ディートハルトは余が叱責するまでもなく、青ざめ、小刻みに震え、泣き出しそうな表情をしていた。
「陛下、も、申し訳ございません…」
「はあっ…なにがあったのだ」
すでにことの重大さを理解し、反省しているものをこれ以上叱責してもしかたない。余は率直にディートハルトに問うた。
ディートハルトの答えは、予想の最悪を極めた。
「カーマクゥラを、敵に回しました」
「な、んだと…」
「エリーゼは、カーマクゥラの御前の、友人だったのです」
「そ、それで」
「御前は怒り狂っておりました。そして━━皇族がカーマクゥラに逆らうということがどういう意味か、わかっているのかと問われました」
ああ━━強い目眩がした。余は胃に不快感を覚えてハンカチーフで口元をおさえた。わずかにえづいて吐き出したハンカチーフに視線を落とすと、べっとりと血に濡れていた。強い心理的負荷に耐えかねて、わずか数十秒のあいだに胃に穴が空いたのだろう。
あたりまえだ。ここから先の対応をひとつ間違えるだけで、700年続いた帝国の歴史を、余の代で終わらせることになるかもしれないのだから。
身体をおおう苦痛は尋常ではなかったが、ここで余が倒れるわけにはいかない。すぐに侍従長を呼び、命令する。
「いますぐアードルング家に見舞いの品を贈るのだ。ひとまず目録でいい、国庫を空にしてもかまわん!」
「見舞い、ですか?それもアードルング家に?」
不思議そうにしているディートハルトに苛立ちを覚える。ことの順序もわからないのか。カーマクゥラに謝罪するのは、アードルング家の次だ。ディートハルトが迷惑をかけたのは、エリーゼ嬢に対してなのだから。エリーゼ嬢に対する姿勢をこそ御前は見ているだろう。
余はディートハルトを無視して侍従長に命じる。
「エリーゼ嬢に、皇帝の名で、心痛を察していると伝言せよ。それから非公式にだが、エリーゼ嬢を皇太子妃として迎える準備があることを匂わせるのだ!」
「こ、皇太子妃殿下は、すでにおわしますが…」
「エリーゼ嬢にその地位を望む気持ちがあるなら、いまの皇太子妃は廃妃する」
侍従長が唖然とした。だがこの処置は妥当だ。皇太子妃とはいえ、もとはいち貴族令嬢。カーマクゥラと敵対するくらいなら、いくらでも切り捨てる。国家の存亡がかかっているのだ。天秤はなんとでも釣り合う。
それはたとえば、息子の命であっても。
命令を受けてあわてて走り去る侍従長を見送ったあと、余はディートハルトの目をまっすぐに見すえた。かわいい息子だ。目に入れても痛くない、大事な皇子だ。それでも。
「ディートハルト、成り行き次第では、そなたに死んでもらうことになる」
涙を浮かべた余の顔を見て、ディートハルトは一瞬目を伏せて、すぐに余の顔を見つめ直した。
「…陛下、ご迷惑をおかけしました。臣の命はいかようにもお使いください」
非情な父を許せ━━口には出せないが、余は内心でディートハルトに詫びた。多額の見舞金と皇太子妃の地位。それで済むなら良いのだが…。
余の不安は、的中した。
アードルング家に使者を出したが、エリーゼ嬢は屋敷に帰っておらず、不機嫌なアードルング公は「エリーゼはカーマクゥラに預けております」と答えた。使者はそのまま、カーマクゥラの屋敷に向かったが、そこで門前払いを受けたという。
「御前の望みはなんなのだ」
余が問うと、使者の男はひどく屈辱的な表情で言った。
「陛下ご自身がアードルング家の門前で、3日間、裸足で断食と謝罪を続けること、でございます。陛下に対し奉り、無礼にもほどがある!」
「そ、それは━━」
無礼だとはいまさら思わないが、実際には不可能なことだ。そのようなことを実行したら、皇帝の権威が地に落ちる。結果的に帝国は滅ぶだろう。なんとか譲歩を引き出せないか、余は何度もカーマクゥラに使者を送ったが、御前にもエリーゼ嬢にも会うことができなかった。私は眠れぬ一夜を過ごし、明け方に少しだけ横になっただけで、不快な朝を迎えた。
そして━━帝国の終わりがはじまった。
その行列は帝城の塔からもよく見えた。
きらびやかな衣装を身にまとった貴族たちが、列をなして城の門前に殺到する。彼らは口々に叫んだ。
「ディートハルト皇子を処罰せよ!」
「エリーゼ嬢の名誉を守れ!」
「皇帝陛下はご温情をさずけられよ!」
帝国の歴史上、これほどの危機はなかった。800諸侯の7割にもなる貴族が、一致して帝室のあり方に批判を加えているのだ。588名にもおよぶその貴族たちは、皇帝ではなくカーマクゥラの御前に忠誠を誓っている。御前の命令があれば、かれらは帝国に反旗をひるがえすだろう。そのことが満天下に示された。
この事件の意味するところは━━すなわち、帝国の終焉だった。
「ははは、帝国は終わったわ…」
余は不覚にも床にひざまずき、先祖の霊に詫びた。自然に涙がこぼれおちる━━いったい何が悪かったのだろう。ディートハルトへの教育を怠ったことか。大貴族の派閥政治を見過ごしたことか。貧窮した伯爵家に手を差し伸べなかったことか。余が諸侯に対してもっと慈悲深く接していれば、皇帝に対する彼らの忠誠心を喚起できたのであろうか。
数百年来、皇帝の権力など有名無実化していた。だから余ははじめから諦めた気持ちで、帝国に対してなにもやってこなかった。ラングハイム公が権力を極めたときも、無害な皇帝を演出して嵐がすぎるのを待つばかりだった。その結果がこれだ。ことなかれ主義がもたらした、いずれきたるべき終わりが、この事件なのだ。
「余は帝国最後の皇帝になるのか…」
ひとりごちたそのつぶやきに、どこからか答える声がある。
「まだ終わってもらっては困る」
「…誰だ!」
「カーマクゥラ四天王、『全知』のフリッツ」
カーマクゥラの使者…!
「余の使者を門前払いにしておいて、いまさらなんの用だ」
滅びが決まってしまっているから、余はむしろ開き直った気持ちで、姿の見えないフリッツとやらに問う。するとフリッツはクスクスと笑った。
「御前さまはうぬに慈悲を与えられた。明日の午後、カーマクゥラ屋敷に参れ。エリーゼ嬢に謝罪する機会を与える」
「それは、ヴァイデンライヒ帝家をご赦免くださるということか…?」
余は自然に敬語を用いていた。皇帝が敬うべきは神以外にはありえない。にも関わらず、敬語を使ってしまった。それはすなわち、余の中ですでに帝国が滅んでしまったからなのだろう。
フリッツがどこからか笑った。
「それはうぬの態度次第というところだ。帝国を滅ぼしたくなければ、せいぜい心して参じるがいい」
フリッツの気配が消えた。それでも消えない緊張感のなか、余は胃のあたりをさすった。帝国の危機は、いまなお終わっていない。
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