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26 炎上(フリッツ視点)

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 カーマクゥラ屋敷の使用人に、エリーゼさまを預けたあと、御前さまはオザーシキと呼ばれる部屋に入った。他には誰も室内にいないが、とうぜん、影である俺は付き従っている。

 上座に座られた御前さまが、キョーソクに肘をついて言う。

「言い訳があるなら聞いてやろうか」

 それはディートハルトの企みを察知できなかったことに対する詰問だった。俺はすでに死ぬ覚悟ができていた。いや、今回ばかりではない。俺は御前さまのためならば、いつでも死ぬ覚悟ができている。

「言い訳のしようもございません。処罰は謹んでお受けいたします」

「まったく、『全知』の二つ名が聞いてあきれるよ。処罰はしないけどね、あらためて申しつけておこう。エリーゼの安全はコンラートと同じ、最優先事項だ。アタシの命よりも優先しな」

 2人目の最優先護衛対象━━いや、もちろん我々が最優先にしているのは御前さまの安全だ。御前さまの命よりも優先されるものなど、あろうはずがない。だがそれでも、すでに最優先護衛対象となっている御前さまの兄君、コンラートさまは、常に護衛をはりつけて安全を確保している。この指定を新たに受けるとは━━エリーゼさまは、いったい何者なのだ。

 だが俺は疑問を口にすることはしない。「かしこまりました」と頭を下げる。すると御前さまは、さらに指示を下される。

「フーゴを呼んできな」

「はっ」

 カーマクゥラ四天王、『手配師』フーゴ・クレッチェマン━━カーマクゥラが支配する諸侯の調整役、人事差配を一手に引き受ける男だ。私は疑問を抱くことなく、部下に命じてフーゴどのに使いを送った。

 フーゴどのがカーマクゥラに到着したのは、それから1時間後のことだ。相変わらず線の細い身体に、洒脱な衣装を身につけている。

「御前さまにおかれましては、ご健勝のこと、お慶び申しあげます。それにしても、お会いするたびにお美しくなられますな。あたかも春風に飛ばされる綿毛のように、可憐で繊細な━━」

「世辞はいい」

 御前さまが呆れたようにあしらった。フーゴどのらしいふるまいだ。いつもならこの調子の良さで、交渉相手を丸め込んでしまうのだが、御前さまには通用しない。

「それよりもだ、いまカーマクゥラが管理している諸侯のうち、どれだけが帝都に滞在している?」

「さて、600近くは滞在していると思われますが」

 諸侯が常に帝都の屋敷で暮らしているとは限らない。自分の領地に戻っていることもある。カーマクゥラの支配下にある723家のうち、600家近くというなら、かなりの数字だろう。

「明日の朝だ━━その全員に招集をかけな」

「あ、明日ですか」

 無茶な話だ。貴族にもそれぞれ都合があるだろう。調整をつけるフーゴどのの苦労がしのばれた。それがわかっているのだろう、御前さまは付け加える。

「金はいくらでも使っていい。恩着せがましく迫ってもいい。ただし、脅しはするな。脅して言うことをきかせるのは、3流のやることさね」

「い、いったいなにをさせるおつもりですか」

 フーゴどのの疑問はもっともだった。御前さまが笑う。

だけさ。貴族街の大通りを、帝城の正門まで━━600人の貴族に行進させる」

 フーゴどのの口が開いたままふさがらなくなった。気持ちはわかる。そんなことをすれば、とんでもないことになる。皇帝の首すら飛ばせるほどの━━これは威圧行為にほかならないからだ。

 震えながらフーゴどのが問いかける。

「ついに、カーマクゥラがヴァイデンライヒに成りかわるのですか…?」

「そうじゃない、くだらない皇帝の座なんかどうだっていいのさ。それよりもエリーゼだ」

「エリーゼ?」

「第3皇子のディートハルトが、アードルング家のエリーゼに婚約破棄を突きつけた。理由もなしにだ。帝室が諸侯をないがしろにするなんざ、許せないだろ?」

「はあ…」

 実権力をともなわないヴァイデンライヒ帝家は、つねに諸侯の顔色をうかがわなければならない。横暴にふるまって敬慕を失えば、それはすなわち、帝室の求心力を失わしめる結果となるからだ。なるほど、たしかにディートハルトのやったことは、途方もなく愚かしい。

 その愚かしさを、御前さまはようとしているのだ。

「招集する諸侯にも、第3皇子の横暴を充分に周知させておきな。これは抗議のデモ行進なんだよ」

 なるほど━━御前さまがフーゴどのを呼んだ理由がよくわかった。この種の強制力を発揮する動員は、どちらかというと『辣腕』クラウスどのに向いた交渉だと思ったが…。この場合はフーゴどのが適任だろう。

 哀れなエリーゼさま。非道なディートハルト皇子。ヴァイデンライヒ帝家の横暴。いまこそ立ち上がれと、諸侯のプライドを刺激する。フーゴどのなら、夫人の涙を誘い、貴族の正義感を燃やす檄文げきぶんを見事に書き上げて、諸侯に送るだろう。手紙では足らないとみれば、みずから足を運んで説得し、それでも足らなければ金を積む。そのあたりの判断、機微が優れていればこそ、フーゴどのはカーマクゥラの幹部なのだ。

 それにしても、本当に哀れなのは皇帝だ。息子の不始末がこれほど祟るとは、思いもしないだろう。ディートハルトは火薬庫のそばで火遊びを楽しむ子どもだった。ほかの火事とは種類が違う。ことが火薬の場合、燃え移ったとわかったときには、もう遅いのだから。
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