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47 10年後(エリーゼ視点)

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 台所に立ち、慎重に包丁を手に取る。包丁は危険なのだ。無造作につかむと、簡単に指を切ってしまう。私は10年におよぶ料理歴から、そのことを学んでいた。包丁は切れる。

 ニンジンのヘタを切り落とす。慎重に。だけどこれは必要な作業だ。ヘタを切らないで煮込むと、食感が悪い。私は上段に包丁をかまえ、呼吸を整えて、猿叫とともに包丁を振りおろした。

「きえぇえぇッ」

 達人の技というべきだろう。見事にニンジンのヘタが切り落とされている。自分の仕事に満足した私は、ヘタを落としたニンジンを鍋に放り込む。同じ調子で3本、ニンジンを処理すると、今度はジャガイモだ。

 ジャガイモは皮をむく。これが恐るべき難易度なのだ。私はこの10年間、散々ジャガイモに悪戦苦闘し、見かねたハンナがピーラーなる発明品を私のために作ってくれた。ピーラーは全世界で驚異的な売り上げを記録し、カーマクゥラに莫大な利益をもたらした。怪我の功名とはこのことだろう。

 私は軍手をはめると、ジャガイモを手に取りピーラーをあてがう。ピーラーは一見安全に見えるが、手を滑らせると腕の皮までむいてしまう悪魔の道具だ。勢いをつけてはいけない。ゆっくりと皮をむいていく。一個のジャガイモを処理し終えるまで、およそ1時間かかる。ハンナが帰ってくるまでのタイムリミットを考えると、3個処理できたら上出来だ。気合を入れて、私は時間と闘う。

 ジャガイモを3つ、鍋に放り込んだのと、ハンナが帰ってきたのが同時だった。私はあわてて鍋の中に塩を入れて、玄関へと駆け出した。

「おかえりなさい、ハンナ」

「ただいま…むぐっ」

 返事をするハンナに口づけをして、私は彼女の手を引いた。ハンナはお風呂より先に食事をとる。だからチャノマにハンナを連れて行く。

「お仕事、どうでした」

「いやあ、アルフォンスの野郎がねえ。あいつも懲りないんだから、困ったモンだよ」

「あら、まだカーマクゥラに逆らってるんですか。無駄なこと…」

「アルフォンスは小頭こがしらが良いモンだから、案外、あいつに従う貴族もいるんだよ。ラングハイム派の復権さね」

 難しいことはわからないけれど、中央集権的支配を目指すハンナと、領地での権力維持をはかる貴族との間で、かなりモメているらしい。

「ぼちぼち封建制を終わらせとかないと、アタシが生きているうちに立憲君主制までたどり着かないよ」

「よくわからないけれど、ハンナが正しいに決まっていますわ。…ところで、今日のお夕飯はポトフをつくりましたの」

「ああ、そうかい」

 なんだかげんなりしたような顔で、ハンナがユカータに着替える。その様子を私はじっと見つめる。ハンナの体型は、この10年で1ミリも変化していない。背丈も胸も、出会った頃のままだ。それは私にとって好ましいことなのだけれど、どうやらハンナはお気に召さないらしい。10代のうちに大きくふくれあがった私の胸に顔をうずめて、ときどき唸っていることがある。

 チャノマに夕飯を運び、ハンナの前にお皿を並べる。それを見たハンナが、重いため息をついた。

「相変わらず、なんていうか、野生的な料理だね。ニンジンとイモが、まるごと入っていて食べごたえがありそうだ…」

「そうでしょう、そうでしょう」

 嬉しくなってじっとハンナを見つめたけれど、彼女はスプーンを手に取ることなく、じっとお皿のポトフに目を落としていた。

「エリーゼ、なんだか今日のポトフは、冷たそうだね?」

 言いながら、ハンナはようやくジャガイモをスプーンに乗せて、恐る恐るといった感じでひとくちかじった。シャリっと小気味のいい音が室内に響く。

「エリーゼ、これ、ホントに煮たのかい」

「あっ、そういえば━━」

 ジャガイモを鍋に放り込んだところでハンナが帰ってきたから、鍋を火にかけるのを忘れていた。だけどそれって、そんなに問題だろうか。

「塩水につけたイモとニンジンとソーセージ」

 ボソボソとハンナがつぶやいた。

「えっ、なあに?私の手料理が毎日食べられて幸せだって思うのかしら?いやあね、ハンナが望むから、私、頑張っているのよ」

「…エリーゼ、アタシが悪かった」

 ハンナが突然、涙目になった。

「あんたがこんなに不器用だとは思わなかったんだよ。まさか10年経っても少しも料理が上達しないだなんて━━予測不可能じゃないか!」

「ええ?上達、してますわよ」

「ああ、たしかに指を切り落とすこともなくなったし、煮え湯で大火傷を負うこともなくなったさ。あんたが無事でいてくれて、アタシゃホントにありがたいと思ってるよ。帰ってくるなり血溜まりのキッチンを見て青ざめることがないんだからね」

「ええ、もう死にかけることはなくなったでしょう?」

 とてつもない進歩を感じる。私はたぶん、料理の才能をもって生まれてきたのだ。

 ハンナが自信に満ちた私を見て、ハァハァと息を荒げた。

「ああ、もう遠回しに言ったって聞きやしないんだから、今日こそはハッキリ言わせてもらうよ。エリーゼ、あんたは料理がド下手くそだ!あんたの料理を毎日食べたいと言ったのは確かにアタシだけどね、もう食べたくないんだよ。茶の間に座ると吐き気を催すんだよ。水銀で味つけしたシチューを食わされたトラウマかねえ!」

「そんな…」

 ハンナがそんなふうに思っていただなんて。私はショックのあまり、知らず知らずのうちに涙を流していた。ハンナは私の料理を食べたくないって。もう私を愛していないって言ったわ。この世の終わりが訪れたことを、私は悟らざるをえなかった。

 優しいハンナは私の肩を抱いてなぐさめる。

「ああ、泣かないでおくれよ」

「だって━━ハンナが私と離婚するって」

「誰がそんなことを言った!」

「言ったじゃない。もう私を愛していないって…」

「愛してる、愛してるよエリーゼ。アタシが愛せないのは、あんたじゃなくて、あんたの料理さ」

「それじゃ、明日も私の料理を食べてくださる?」

「うっ」

 言葉を詰まらせたハンナを見て、私は恥も外聞もなく大声で泣きわめいた。泣いている私を、ハンナが慰める。優しく頭をなでてくれる。背中をさすってくれる。そのうち私は、だんだん興奮しはじめる。

 ハンナを押し倒し、その首筋に吸いつく。ハンナが小さく声を漏らした。甘い香りがする。すべすべした肌は触り心地がとても良い。痩せてはいても、ふにふにと柔らかい。私はハンナの全身を、あますところなくなでまわす。こうやって思うさま味わい尽くしているだけで、勝手にハンナはしまう。敏感なのだ。蕩けきった顔で、潤んだ瞳で、私をじっと見つめてくる。中途半端にはだけたユカータが艶めかしい。

 こうなったら、私はもう止まらない。私たちは夕飯をそっちのけで愛し合う。ハンナが気を失うまでずっと━━いや、気を失ったあとでさえも私は意識のないハンナの身体をいじめつくす。これはこれでたまらないのだ。身体だけは反応し続けるからいじらしい。本当に意識がないのか、ハンナに聞いてみたことがある。どうやら本当らしい。だからふだんは試せないような変態っぽいことを私はこの時間に試す。それでハンナの反応がよかったら、そのうち起きているときにも試すようになる。

 だいたい、意識があるのは最初の3時間くらいだろう。そこからさらに8時間ほど、私の責めはネチネチと続く。明け方になって、ようやく満足した私は眠りにつく。目覚めるとすでに時計の針は昼過ぎになっている。ハンナはとっくに仕事に出かけていて、私は使用人が用意した昼食を食べ、ハンナのために夕食の準備をはじめる。

「ええと、昨日ハンナはなんて言っていたんだっけ…」

 思い出そうとするけれど、記憶に残っているのはハンナの痴態だけだ。ああ、そういえば水銀のシチューが美味しかったと言っていたっけ。私は材料をそろえて、今日の調理を開始する。
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