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真子の容態に異常が見られなかったため、彼女は生命維持装置が並ぶ特別病棟から、一般病棟の静かな一室へと移された。
母親の美由は、ひとまず安心した様子で家へ戻っており、残された真子は担当看護師の横峰から、新しい病室の設備について説明を受けていた。
「それじゃあ、真子ちゃん。何か体調が悪くなったら、そこのナースコールを押して呼んでね」
横峰が優しい笑みを浮かべながら、ベッド脇のリモコンのような装置を指さした。
「へぇ‥‥これがナースコールなんですね」
真子は興味津々で機器を手に取り、親指をボタンの上でちょんちょんと躍らせる。「なんか、押したくなっちゃいます」
そんな真子を見て、横峰はくすっと笑った。
「冗談で押しちゃダメよ。こう見えても、私たち結構忙しいんだから」
「はーい」
真子はいたずらっぽく笑いながら答えた。
もっとも、ナースコールを押さずとも、病室に設置された各種センサーが患者の異常を感知し、ナースステーションや看護師の携帯端末に即座に通知される仕組みになっている。だが、そんなことはさておき、横峰と真子の間には、短い時間で自然な親しみが生まれていた。
横峰はベッドのシーツを手際よく整えながら、ふと真子に話しかけた。
「今日は三日ぶりに起きたり、診察を受けたりして疲れたでしょう?」
「うん‥‥ちょっと足腰が弱ってるなって、実感しました」
真子は小さくため息をつき、老人のようにゆっくりと椅子に腰掛けた。その仕草に、横峰は思わず微笑む。
「今日はゆっくり休んでね。でも、本当に覚えてないの? 鼻血を出して倒れたこととか」
「うん‥‥今日、お母さんから聞くまで、自分がネットしてたことすら忘れてた‥‥」
真子は肩を落としながら、寂しそうに笑った。
横峰はそっとベッドの端に腰を下ろし、優しく言葉を続ける。
「そうなの‥‥。まぁ、私も真子ちゃんくらいの歳のころ、ネットばかりしてお母さんに怒られたことがあるから、あんまり強くは言えないけどね。ネットはほどほどにね」
真子はくすっと笑い、手を挙げて元気に応えた。
「は~~い」
少しほっとしたような空気が流れる。
そんな中、真子はふと思い出したように声を上げた。
「そういえば、横峰さん。猫のことなんですけど‥‥」
「真子ちゃんが目を覚ましたときにいたっていう猫?」
「はい。もしかして、横峰さんも見たんじゃないかなって」
真子は期待するように横峰を見つめた。だが、横峰は首を傾げながら答えた。
「うーん‥‥私は真子ちゃんが目を覚ましたことにびっくりして、周りなんて見てる余裕なかったからなあ‥‥。それより、真子ちゃん、もうベッドに入っていいわよ」
そう言って、整えたばかりのベッドに手招きする。
真子はゆっくりとベッドに体を滑り込ませ、横峰は手際よく布団を掛けてやった。
「病院の駐車場で、たまに野良猫がうろついてるのは見たことあるけど‥‥さすがに病院の中には入ってこないと思うよ。警備もしっかりしてるし」
「ですよねぇ‥‥」
真子はちょっと残念そうにうなだれた。
あの猫は夢だったのか、それとも――。そんな曖昧な気持ちを胸に抱えながら、布団に身を沈めた。
「真子ちゃんが言ってた通り、寝惚けてたんだよ。きっと」
横峰は柔らかく笑いかける。
「んー‥‥そうだと思うんですけど。でも、なんか‥‥重さを感じたような‥‥」
真子はぼそりと呟いた。
「それは、真子ちゃん自身がまだ体力戻ってないからよ。重く感じても不思議じゃないわ」
横峰はそう言うと、軽やかにナースステーションへ戻ろうと病室のドアに向かった。
だが、ドアに手をかけたところで、ふと立ち止まり、振り返る。
「‥‥もしかして、真子ちゃんが見た猫って、お化けの猫ちゃんだったりして」
「えっ‥‥?」
真子はぎょっと目を見開いた。
その表情に、横峰はおどけたように笑う。
「ほら、ここ病院でしょう? 場所柄、そういうのが集まりやすいっていうし」
「や、やめてくださいよぉ‥‥私、怖い話とか本当にダメなんですってば!」
思わず声が上ずり、布団をぎゅっと握りしめる真子。
そんな彼女を見て、横峰は愉快そうに笑った。
「ふふ、冗談よ。私は“まだ”見たことないし、大丈夫、大丈夫。それじゃあ、おやすみ、真子ちゃん!」
ぱたんと扉が閉まる音。
急にしんと静まりかえった病室で、真子はひとり取り残された。
そして――。
(え‥‥今、なんて言った‥‥? "まだ"?)
小さな不安が、じわりと胸に広がっていくのを、真子はどうすることもできなかった
母親の美由は、ひとまず安心した様子で家へ戻っており、残された真子は担当看護師の横峰から、新しい病室の設備について説明を受けていた。
「それじゃあ、真子ちゃん。何か体調が悪くなったら、そこのナースコールを押して呼んでね」
横峰が優しい笑みを浮かべながら、ベッド脇のリモコンのような装置を指さした。
「へぇ‥‥これがナースコールなんですね」
真子は興味津々で機器を手に取り、親指をボタンの上でちょんちょんと躍らせる。「なんか、押したくなっちゃいます」
そんな真子を見て、横峰はくすっと笑った。
「冗談で押しちゃダメよ。こう見えても、私たち結構忙しいんだから」
「はーい」
真子はいたずらっぽく笑いながら答えた。
もっとも、ナースコールを押さずとも、病室に設置された各種センサーが患者の異常を感知し、ナースステーションや看護師の携帯端末に即座に通知される仕組みになっている。だが、そんなことはさておき、横峰と真子の間には、短い時間で自然な親しみが生まれていた。
横峰はベッドのシーツを手際よく整えながら、ふと真子に話しかけた。
「今日は三日ぶりに起きたり、診察を受けたりして疲れたでしょう?」
「うん‥‥ちょっと足腰が弱ってるなって、実感しました」
真子は小さくため息をつき、老人のようにゆっくりと椅子に腰掛けた。その仕草に、横峰は思わず微笑む。
「今日はゆっくり休んでね。でも、本当に覚えてないの? 鼻血を出して倒れたこととか」
「うん‥‥今日、お母さんから聞くまで、自分がネットしてたことすら忘れてた‥‥」
真子は肩を落としながら、寂しそうに笑った。
横峰はそっとベッドの端に腰を下ろし、優しく言葉を続ける。
「そうなの‥‥。まぁ、私も真子ちゃんくらいの歳のころ、ネットばかりしてお母さんに怒られたことがあるから、あんまり強くは言えないけどね。ネットはほどほどにね」
真子はくすっと笑い、手を挙げて元気に応えた。
「は~~い」
少しほっとしたような空気が流れる。
そんな中、真子はふと思い出したように声を上げた。
「そういえば、横峰さん。猫のことなんですけど‥‥」
「真子ちゃんが目を覚ましたときにいたっていう猫?」
「はい。もしかして、横峰さんも見たんじゃないかなって」
真子は期待するように横峰を見つめた。だが、横峰は首を傾げながら答えた。
「うーん‥‥私は真子ちゃんが目を覚ましたことにびっくりして、周りなんて見てる余裕なかったからなあ‥‥。それより、真子ちゃん、もうベッドに入っていいわよ」
そう言って、整えたばかりのベッドに手招きする。
真子はゆっくりとベッドに体を滑り込ませ、横峰は手際よく布団を掛けてやった。
「病院の駐車場で、たまに野良猫がうろついてるのは見たことあるけど‥‥さすがに病院の中には入ってこないと思うよ。警備もしっかりしてるし」
「ですよねぇ‥‥」
真子はちょっと残念そうにうなだれた。
あの猫は夢だったのか、それとも――。そんな曖昧な気持ちを胸に抱えながら、布団に身を沈めた。
「真子ちゃんが言ってた通り、寝惚けてたんだよ。きっと」
横峰は柔らかく笑いかける。
「んー‥‥そうだと思うんですけど。でも、なんか‥‥重さを感じたような‥‥」
真子はぼそりと呟いた。
「それは、真子ちゃん自身がまだ体力戻ってないからよ。重く感じても不思議じゃないわ」
横峰はそう言うと、軽やかにナースステーションへ戻ろうと病室のドアに向かった。
だが、ドアに手をかけたところで、ふと立ち止まり、振り返る。
「‥‥もしかして、真子ちゃんが見た猫って、お化けの猫ちゃんだったりして」
「えっ‥‥?」
真子はぎょっと目を見開いた。
その表情に、横峰はおどけたように笑う。
「ほら、ここ病院でしょう? 場所柄、そういうのが集まりやすいっていうし」
「や、やめてくださいよぉ‥‥私、怖い話とか本当にダメなんですってば!」
思わず声が上ずり、布団をぎゅっと握りしめる真子。
そんな彼女を見て、横峰は愉快そうに笑った。
「ふふ、冗談よ。私は“まだ”見たことないし、大丈夫、大丈夫。それじゃあ、おやすみ、真子ちゃん!」
ぱたんと扉が閉まる音。
急にしんと静まりかえった病室で、真子はひとり取り残された。
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