文学

空川億里

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1話完結

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 日曜の朝。私はいつものようにホロテレビを観ながら家事ロボットが作った朝食を食べた。私は今75歳だ。後5年で定年だった。22世紀初頭の現在、日本では80歳で定年が一般的だ。昔と違って80過ぎても元気な人が多かったが、私と同じ年齢だった妻は5年前に尊厳死を選択し、薬物注射で亡くなっている。
 女房は若い頃から病気がちで、心臓は人工臓器に交換したが、それでも病魔には逆らえず亡くなったのだ。ホロテレビはニュース番組の立体映像を映しだしていた。
 ラグランジュ・ポイントに新たなスペースコロニーが造られた事、冥王星に宇宙基地が建設され実際に人が住み、運用を開始した件などが報じられている。朝食が終わり、汚れた食器は家事ロボットが回収した。私はロボットが淹れたコーヒーを飲みながら、読みかけの本を読む事にする。
 私は自分の個室に行き、ソファーに腰を下ろし、テーブルの上にあったトロード・メットを頭にかぶる。同じくテーブルの上にあったリモコンを操作して、深尾学(ふかお まなぶ)の新作を読む事にした。深尾は純文学の大家で、新作を出せば必ず売れるベストセラー作家である。
 彼の新作をリモコンで選択してクリックすると、トロード・メットを通じて作品の活字が脳内に浮かび、流れこむ。
 舞台は、現代の東京。スペース・プレーンのパイロットになるのを夢見る貧しい青年が、スペース・コロニーに住む大富豪の令嬢に恋をするという物語だ。登場人物が生き生きと描かれた傑作だった。これぞ、純文学という良作である。
 無我夢中でむさぼるように読んでいたが途中でトイレに行きたくなり、私は小説の配信をリモコンで一旦停止し、トロード・メットを頭から脱ぐ。トイレに行って用を済ませて部屋に戻ろうとすると、ダイニングルームに息子の姿があった。
 私と違って、彼は日曜は遅く起きてくる。息子の文男(ふみお)は50歳だったが、男のくせにホロメイクをしてシミやシワを隠しているので、実年齢より若く見える。いつものように文男は大麻タバコを吸いながら、家事ロボットの作った料理を食べていた。現代の日本では大麻は合法化されているのだ。
 文男も読書は好きなのだが、私と違ってSFばかり読んでいた。私はSFが嫌いである。何より人間が描けていない。
「父さん、おはよう。深尾学の新作読んでるの」
「まあな。お前の好きなSFと違って人間がちゃんと描けてるよ」
 私は文男の向かいの椅子に座って話した。
「俺も、読んだよ。確かに、人間が描けてる。でも、この本で書かれた22世紀の僕達がいる現代って、かつてはサイエンス・フィクションの中にしかなかったよね。スペース・コロニーもスペース・プレーンも」
「確かにそうだな。予言の書としての先見性はあったかもしれない」
 私はそう答えたが、自分でも口調が硬いのがわかる。SFに美質がある事を少しでも認めたくはなかったのだ。
「父さんはよく、SFは純文学に比べて人間が描けてないって言うけど、純文学には1冊も駄作はないの。そういう言葉は全ての純文学と全てのサイエンス・フィクションを読んでないと言えないはずだけど。俺はたくさんSFを読んでるけど有名な作品は、人間もちゃんと書けてるけどね」
 私は言葉に詰まってしまう。確かに私はそもそもSFをあまり読まない。自分が知らないだけで、実は登場人物がいきいきと描かれた作品だってあるかもしれない。
「父さんは、純文学の作家が書いたサイエンス・フィクションもキャラが描けてないって言うの。例えば三島由紀夫、カズオ・イシグロ、大江健三郎、安倍公房、井上ひさしもSFを書いてるけど」
「そりゃあ無論純文学出身の作家が書いたSFは、よく書けてるよ」
 実は私は、文男の挙げた作家達の書いたサイエンス・フィクションを読んだ事がない。そもそもかれらはせっかく純文学の大家として出世しながら、何でまたよりによってSFなんぞを書いたのか。さっぱり理解できなかった。
「父さんの話、矛盾してるね。いつも『SFは人間が描けてない』って言うから、今挙げた人達の著作も当然『人間が描けてない』って主張するかと思ったよ。ぼくが質問したら、突然例外が生まれるんだね」
 私は怒りと恥ずかしさのあまり、思わず顔が熱くなった。亡くなった母親に似て、口先だけは達者な男だ。
「ちなみに父さん深尾学が、あるSF作家の作品を絶賛してるって知ってるかな」
 文男は作家名と作品名を私に告げる。
「深尾さん曰く、人間のきちんと描けた傑作だそうだよ。深尾さん自身も、未来を舞台にした初のSF小説を、今度発表するんだって。俺も深尾さんが絶賛する作品を読んだけど、よくできてた。父さんも、読んでみなよ。まあ読んで傑作だったら悔しいから読まないだろうけど」
 私は無言のまま、自室に戻った。トロード・メットをかぶってネットで調べると、文男の話は事実だと判明する。
 私は深尾が絶賛するSF小説を呼びだして、読んでみた。舞台は今よりも未来の23世紀だったが、確かに登場人物が、よく描けていた。悔しかったが面白く、社会についても考えさせられる重厚な作品で、つい最後まで完読したのだ。読書が終わり、私がトイレに行こうとすると、文男と廊下ですれ違う。
「どうだった? 部屋で熱心にトロード・メットで読書してたみたいだけど、深尾学が絶賛のSF小説読んでくれたの?」
「ああ、読んだよ。確かに素晴らしかった。人間も、よく書けてるし。あんな傑作は単にSFと呼んでいい代物じゃないな」

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