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第32話【隠し事】
しおりを挟む話が終わると、文は部屋を出ていった。
幸は、文の助言どおり匠に話をしなくてはと思い、携帯を手に取る。
しかし、どう切り出せばいいのか迷い、水沢匠と表示された名前を前に指が止まってしまう。
けれど、こうしていても時間が過ぎていくだけで、何ひとつ前には進まない。
幸は意を決し、通話ボタンを押した。
なんと返事をされるのか――不安で、心臓の鼓動はどんどん早くなる。
三回目のコールで、匠が電話に出た。
「もしもし、西村幸ですが……」
緊張のせいで、その声はかすかに強張っていた。
幸とは対照的に、
「どうした?」
と、匠の柔らかな声が返ってきた。
その柔らかな声に、幸の心は不思議とすっと落ち着きを取り戻す。
「あの……雇用の件で、匠さんに話しておかなければいけないことがあって……」
「雇用の件というのは、幸さんが俺の秘書として働くという話ですか?」
「そうです。匠さんの会社で働こうと思ったのには理由があるんです。
だから、その理由をちゃんと話しておかなきゃいけないと思い、お電話させていただきました」
「理由……なるほど。話が長くなりそうだね。幸さん、今夜、時間はある? あるなら、会って話そうか」
「いいんですか? 私は大丈夫ですが、匠さんは忙しくないですか?」
「大丈夫。時間は調整するから。それじゃ、午後七時に迎えに行く。準備して待ってて」
「わかりました。準備して待ってます」
「それじゃ、後で」
そう言って、電話は切れた。
電話が切れたと同時に、幸の緊張の糸もぷつりと切れ、「ふぅ……」と大きく息を吐き出す。
――緊張した。
電話越しに聞こえた匠の声は、幸が想像していたものとは違い、驚くほど柔らかかった。
それでも、その奥に潜む圧だけは、受話器越しでもはっきりと伝わってきた。
落ち着いた話し方。
いつでも冷静沈着。
動揺する姿がまるで想像できない。
それが、今の幸が抱いている水沢匠という人物のイメージだった。
*****
幸の部屋を出た文は、勝造がいる書斎へと向かった。
ドアを開けて中に入ると、勝造はソファに腰を下ろし、コーヒーを飲んでいた。
文の姿に気づくなり、勝造が口を開く。
「幸は、なんて言っていた?」
文はにこやかな笑顔を浮かべながら近づき、向かいのソファへと腰を下ろす。
「今のところ、なかなかいい感じです」
「そうか。それなら、すぐに正式な顔合わせをしようか」
「あなたったら、そんなに急いだら、うまくいくものも、うまくいかなくなりますよ。
今の若い人は、そっと見守っているほうが順調に進むんですから。今は放っておきましょう。
匠さんのことですから、幸ちゃんをちゃんと手中に収めてくれると思いますよ」
「そうだな。急ぎすぎると、幸が嫌がるかもしれないな。綾乃みたいに拒絶されて、家を出て行かれても寂しいし」
文はくすりと笑い、
「あなたったら、綾乃にも、寂しいと素直におっしゃればいいのに」
と、穏やかな眼差しを向ける。
「そんなこと言えるか。威厳があってこそ父親だ」
「よくわからないプライドですね。……まぁ、綾乃のことは置いておいて。
幸ちゃんに関しては、匠さんに任せておきましょう。ここからは、私たち年寄りの出る幕じゃありませんからね」
「そうか、そうだな。匠に任せておけば、大丈夫だろう。
……それはそうと、幸の養子縁組は早急にした方がいいんじゃないか?」
「それも、幸ちゃんと相談しながら時期を決めればいいと思いますよ」
「わかった。若い人の気持ちはよくわからんから、幸のことはお前に任せるよ」
勝造はそう言い、コーヒーを口に運んだ。
勝造が幸のことを任せてくれたことで、隠し事を抱える文は、胸の内でそっと安堵の息をついた。
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