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第5話 檻への逃避行
しおりを挟む送信ボタンを押した指が、画面の上で震えていた。
『助けて』
たった三文字。それ以外、何も打てなかった。
すぐに既読がついた。だが、返信はない。
やがて画面の光が消え、再び個室の中に重苦しい沈黙が落ちてくる。
「う、ぅ……」
下腹部の奥が、ぎゅう、と雑巾を絞るように痛む。そのたびに熱いものが溢れ出す感覚。鮮明に脳に刻まれる。汚れていく。僕が、僕でなくなっていく。鉄の匂いが充満するこの狭い空間で、僕は世界の終わりを待望していた。
どれくらい時間が経っただろう。
数分だったのか、数十分だったのか。
カツ、カツ、カツ。
不意に、廊下から硬質な足音が響いた。先生の重い足音じゃない。規則正しく、迷いのない、ローファーの音。
(え……まさか……ここ、男子トイレだよ?)
足音は入り口で止まることなく、そのままタイルを踏み鳴らして入ってきた。僕が閉じこもっている個室の前で、ピタリと止まる。
「日高。開けて」
低く、だけどよく通る声。
狩野さんだ。本当に、来てくれたんだ。
安堵で涙腺が緩むと同時に、男子トイレに彼女を引き入れてしまった背徳感に襲われる。
「か、狩野さん……でも、ここ……」
「いいから。早く」
有無を言わせない命令。
僕は震える手で鍵を回し、少しだけ扉を開けた。
隙間から、彼女の涼しげな顔が覗く。
彼女の視線は僕の顔、次に赤く汚れた太ももと、床に落ちた血の染みに移る。口元をわずかに歪めた。嫌悪ではない。待ち望んだ実験結果を得た科学者のような、残酷な笑み。
「……やっぱり。始まったのね」
彼女は躊躇なく個室に足を踏み入れ、内側から鍵をかけた。狭い。彼女の纏う石鹸のような香りが血の匂いと混ざり合う。
「授業、どうしたの……?」
「保健室に行くって言って出てきた。生理痛が酷くて辛い、ってね」
彼女は鞄からカーディガンを取り出しながら、さらりと言った。
「先生も男子も、その言葉を出せば何も言えなくなる。いまの君なら、その意味がよく分かるでしょ?」
「っ……」
言葉も出ない僕に、彼女は持っていたカーディガンを差し出した。
「腰に巻きなさい。汚れ、隠せるでしょ」
「あ、ありがとう……」
「それと、これ」
次に手渡されたのは、小さなポーチ。中身を見るまでもない。それが女子にとっての必需品であり、いまの僕にとって唯一の救命具であることを、知識も本能も理解していた。
「正しい使い方はあとで教えてあげる。とりあえず当てて、下着を上げなさい。ここから出るわよ」
言われるがままに処理をし、腰に彼女のカーディガンを巻く。彼女の匂いに包まれる。
ゆっくりと歩いて廊下に出ると、幸い誰の姿もなかった。狩野さんは僕の手首を掴み、足早に歩き出す。教室には戻らない。昇降口へ直行するルートだ。
「学校、抜けるの……?」
「当たり前でしょ。そんな身体で授業なんて受けられない」
彼女は振り返らずに言った。
「私の家に行く。親もいないし、必要なものも揃ってる」
「……え」
「なに。文句あるの」
家。首を振りながら、その言葉の響きに僕は言い知れぬ予感を覚えた。
一度足を踏み入れたら、もう二度と、男としての日高ひよりとして戻ってこられないような、予感がしたのだ。
甘美な檻への招待状。
校門を出る時、背中の校舎がひどく遠く感じた。 太陽が眩しい。なのに僕の手を引く狩野さんの手は冷たく、その冷たさだけが、今の僕を現実に繋ぎ止める唯一の鎖だったのだ。
タクシーを拾い、彼女が告げた行き先は、市内でも有数の高級マンションだった。
シートの奥に沈み込みながら、僕は横目で彼女を見る。窓の外を流れる景色を眺めている。その横顔は美しく、そしてどこか楽しげで。鼻歌が聞こえるような気がした。
僕の絶望は、彼女にとっての希望なのだ。
そんな、歪な関係性。支配と、被支配。
なのに、いまの僕にはそれがどうしようもなく心地よかったのだ。
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