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雪下の出会い
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許されるならば…
また、貴方にお仕えしたかった。
それは、突然にやってきた機会。
大切に思っていた小姓が
いなくなった。
急に…
何の前触れもなく。
まるで、煙みたいに。
ふぅっと消えた。
「身も心も、捧げます。」
そう言って、我が身を粉にして働いてきた奴が。
何故、いない?
いや、待て。本当にいなくなったのか。
屋敷中を探した。
奴の部屋も、全部
全部だ。
それでも、やっぱり彼はいなかった。
唖然として、意味がわからないし途方に暮れていた。
あんなにも、いつもそばに居たのに、理解できなかった。
一体何が不満だったのか。
辿り着いたのは、この疑問。
心に、決めていたのか?
去る事を。
何故?突然に
いなくなってしまった。
訳を聞かせてくれ。
自分の中の時間が、止まってしまった気がした。
あんなに色鮮やかに映っていた世界は
昨日までで。
今日から、空は
灰色に見えた。
いつも一緒に仰いだ空は
しばらく見たくなかった。
「そうか、嘘つきだったか。」
哀しくも無い。
けど、あまりにも綺麗に
去るものだから
なんだか気持ちをどう整理したらいいのかも分からなかった。
きっと、何をしていても
彼を想うだろう。
星を探すように。
花を愛でるように。
温もりでさえ、分かち合った彼を。
何が彼を覚えている?
この手が、目が
耳が…心地よい声、
健気な眼差し。
忘れなどしないから。
ずっと、ずっと焦がれて
密かに育てた恋情は
色褪せない。
だって、そうだろう?
まだ…こんなにも全てで
求めている。
どこかで、また
逢える気がしてならない。
妄言なんかじゃない。
私と彼が、二度と逢えないなんて事の方が考えられない。
痛い。暗い、冷たい寒い恐い。
僕は、今何をしていたのか。
頭が痛すぎる。
無意識に手を伸ばして後頭部を触る。
あぁ。血で大変なことになっていた。
嫌だ。見たくない、信じたくない。
『いたたた…っ、』
全身がばらばらになった
気さえした。
多分、高い所から落ちたんだろう。
起き上がるのも恐いし
立てなさそうだ。
『あんた、どうしたんだ?』
声を掛けてきたのは、近くの村の人だろうか。
動けない僕を見るなり
慌てて駆けて来てくれたようだ。
『頭、血ぃ出てるぞ!』
『大丈夫です…話せますし。』
血相を変えた青年は、頭の傷をおそるおそる確認している。
『頭、こう…ごちーん、ってしたんだろな。そんなに酷くは無えみたいだ。』
青年は、腰に下げていた手ぬぐいを僕の頭に縛り付けた。
『俺ん所、とりあえず運ぶから…さ、背負ってくぞ。』
人の良さそうな笑顔で青年は彼に背を向ける。
くらくらする頭を我慢しながら、僕は青年に背負われた。
『ぁ…』
くらり、と来て落ちないように青年にしがみ付く。
『ぐぁ…っ』
『すみません、つい。』
『いや、大丈夫か?やっぱり頭に血が上手く巡らなくなったか?』
青年は、不安げに呟くと足取りを早めた。
青年の暮らす家は、暖を取っていた最中らしく温かかった。
『さ、横になれ。』
ゆっくりと布団に寝させられる。
『ありがとうございます。親切に…』
『寒くねえか?』
『平気です。』
『お前、目が見えてるか?』
『…ぁ。』
そうだ、実はさっきから目が見えなくなっている。
一時的なものだと思いたい。
『頭、打ったからかもしれねぇ…しばらくは様子見るしか無いな。』
『少し、怖いですね。』
『だな。でも、そばについてるから…何かあったら言ってくれや。』
青年は、ぱきっ、と小枝を囲炉裏に放る。
『ありがとう。』
自然と涙があふれて来た。
見ず知らずの自分を
こんなに手厚く世話をしてくれる。
『⁈な、何泣いてんだ、男が…』
『だって、見ず知らずなのに。』
『…だな、じゃあ名前くらい聞いとくか。』
照れくさそうに鼻の下を指で擦る青年が、彼をながめる。
『…名前、?僕の名前…』
『おいおい、まさか忘れちまったのか?』
青年の言葉に、彼は怯える。
『名前を…忘れた?』
まさか、まさかそんな…
自分の名前だぞ?
いや、でも思い出せない。
哀しくとも事実だった。
彼の瞳は、細かに震えた。
『そっか…じゃあ、思い出すまでの名前を付けさせてくれないか?』
『家も、分からない。』
彼は両手で顔を隠して泣く。
あまりに、酷い話だった。
青年は、今のやりとりで 彼が平穏な生活を暮らせていなかったのではないかと
心を痛めた。
『雪音、はどうだろう?』
『!そんな綺麗な名前を…僕に?なんだかもったいないです。』
『まさか。そんなことは無い。うちの村に伝わる小さな神様の名前が、雪音と言うんだ。その神様は、冬と雪の使者で…心に温かな幸せも連れてくると言う言い伝えなんだ。』
『僕は、自分が誰かさえわからないのに…。ゆきね…いい名前をありがとう。あなたの名前は?』
『俺は、泉。』
『せん、さんですね。いい名前。こちらには泉さん一人ですか?』
『あぁ、親もいない。許嫁もいたけどな…流行病でアッチに行っちまった。』
あまりにも、さらりと潔く話してくれる泉に、雪音が申し訳なさそうに
泉に手を伸ばす。
『⁈雪音、どこに手やってんだ…火傷する。俺はこっちだ。』
きゅ、と泉が雪音の手を掴む。
『びっくりした。でも、泉さんは温かい。』
ふふっ、と自然に笑みが込み上げる。
『頭、血は止まってるみたいだな。良かった。止まらなかったらどうしようかと思った。』
安堵して笑う泉の声を感じながら雪音は思う。
『見たかったです、泉さんのお顔。優しいんだろうなぁ…。』
『やめとけ、やめとけ。情けない面だから。』
『そんな事ありませんよ、僕は人を見る目は確かなんです。』
『大丈夫、心配すんなって。落ち着いたらまた見れるらようになるって。』
『はい。』
『しばらく、ここに居たらいい。せめて名前を思い出すまでは…な。』
泉が、目元を綻ばせながら
優しく雪音の頬を撫でた。
「泉さん、起きて…起きて、お願いです。」
ゆさゆさと、雪音が泉の肩を揺する。
真冬の朝顔、まだ空は薄暗い。
『あんだぁ?まだ、眠たい…寒いってよぉ』
ぶるぶる震えて、仕方なく起きた泉は、上体を起こす。
囲炉裏の火は、起きた雪音が起こしてくれたため
周りは温かい。
「泉さん。私を…助けてくれてありがとう。約束の日が来てしまいました。」
『?何のことだ、雪音。』
ごしごしと、泉が目をこする。
これは、現実なんだろうか?
「私は、色々思い出したのです。私は雪音ではありません。帰らなければ…なりませんね。さようなら。」
冷たい表情ながらも、最後に見せてくれた微笑みだけは、目に焼き付いた。
『雪音‼︎』
手を伸ばす、届け…
早く。
いなくなるなんて、そんな筈が無いと。
泉は、どこかで雪音が
このまま何も思い出さずにいてくれたなら。
そんな事を願っていた。
「んっ…どうしました?せんさん…」
横に寝て居た雪音が
眠たい声で、問う。
しまった。
夢か…。それにしても、なんだか本当にありそうな話で怖い。
『悪い…起こしちまったか。』
「私を夢で呼ぶなんて、悲しい夢でも見てしまいましたか?」
ぎゅっと雪音が泉を抱き締める。
いくらか泉よりかは
か細く映る雪音だったが
内なる包容力があり、
泉を上手に慰める事ができる。
『大丈夫。大丈夫…私は泉さんを一人にしませんよ。』
「お前みたいな器量よし、もう俺の人生には二度と現れないだろな。」
『大袈裟ですよ、泉さん。…ん、寒い。』
「もっと、くっつくか。ほら、手もしまえ。握ってれば温まるはずだ。」
雪音の両手を、泉が握る。
『なんか、照れくさいけど…離れられませんね。不思議。』
こんな間近で、抱き合って。
「目は、また見えてるか?」
『えぇ。泉さんの顔を見られたのは、昨晩で。まさかこんな事になるとは。』
「乱暴じゃなかったか?…そういやぁ、すんなり事は運んだよな。」
泉の言葉に、雪音が頬を赤く染める。
『少しは、辛かったですよ。けど、喜びがそれ以上にあって。』
泉は、雪音の腰を引き寄せる。腰骨をゆっくりと手のひらで撫で回す。
「俺には、気持ち良さそうに見えたな。」
『ねぇ、泉さん。本当に…私と一緒にいて平気ですか?』
ごく真面目に、雪音が泉を見据える。
何が言いたいのか、
なんて…
だいたい、見当はついていた。
「平気じゃあない、お前みたいに気になる奴といて平気な訳が無い。」
『私は、何か…昔を思い出したとしましょう。そうしたなら、あなたは僕から消えてしまったりしないですよね?私は、そんな事ばかり頭によぎって苦しい。泉さんが私にしてくれた事、ずっと大切に。忘れたくなんかありませんから。』
「雪音が、覚えてたいってだけで俺は充分だ。たとえお前が忘れたとしてもな、俺が忘れないし…覚えてる。どちらの事も、できれば覚えてて欲しいけどな。」
いつ、思い出すのかなんて誰にも分からない。
こればっかりは、時が経つのに身を委ねるばかりだ。
失った記憶の向こう側に、
雪音を愛する人がいようとは二人は夢にも思わなかった。
『私の命の恩人です。一生忘れない。』
「なぁ、雪音。前に言っていた雪音っていう神様はな…俺は好きだが、春になると消えてしまう神様なんだよ。」
『え…?なんで消えてしまうんですか。』
雪音は、雪音という自分の名前の由来になった神様に
どこか、感情移入をしていた。
「それはな、春の暖かさで雪音の神様は解けてしまうからだ。心の綺麗な正直者を幸せにする優しい神様なんだが…俺は、この消えてしまうっていうのが、な。お前も、いつかいなくなってしまうような気がするから。」
『泉さんに、追い出されでもしない限り…一緒に居たいです。春を通り越して、夏になっても秋を過ぎて、また冬を迎えてもあなたの隣に居られたら。』
雪音のささやかな願いを聞いた泉は、尚一層
雪音を強く抱き締めた。
「お前は、こうして抱いても消えない。それだけで安心する。」
しんしんと
雪が降り積もる。
私の想いの数だけ
大地を真白に染めていく。
泉が、雪音に
焦がれた分だけ。
閉ざされた世界の中で
二人の想いはより強く
ほどけない。
縁の糸が、二人の間で
もつれていこうとは。
この時は、まだ
知る由もない。
『まだ、見つからないのか?』
お前は、本当に
どこに行ったんだ。
捜せども、一向に小姓の所在が分からなかった。
ふと、まさかの考えが
頭をかすめた。
生きて、いるのか?
いや。生きているさ、
そうでも思わないと
辛すぎる。
自分で自分を励ます他ない。
『睦月…お前は、生きているよな?また、私をたしなめてくれ。』
すっかり生きる気力を失いかけた主は、屋敷にて
ふせって居た。
可愛がっていた存在がいない。
毎日が長くて長くて
つまらない。
全てが、億劫だった。
それを見兼ねた配下の者が
忍びを雇った。
とにかく、一日も早く
睦月の所在を掴め。
『何?忍びを雇った…?』
主は、ぼんやりとした
頭で考えを巡らせている。
『そうか、そんな者を雇ったなら見つかるに違いない。期待している。』
主は、嬉嬉とした。
そうか。
また、逢えるかもしれない。
それだけで、主の心は
ゆっくり満たされようとした。
そんな期待を胸に
主は焦がれ続けていた。
だが、主には
時間が多く残されては
いなかった。
それは、ゆっくりゆっくりと…確実に主の体を
むしばんで行く。
『最後の、わがままになるかもしれない。』
既に、主の半身程を病魔は
冒し始めて居た。
『睦月…お前に、一目』
ここ何日か、立て続けに
睦月の夢ばかり見ていた。
手が届かない。
届いたかと思えば、
目が覚めて現実に引き戻される。
いつしか、睦月は
主にとって手が届かない存在になってしまった。
何故、帰って来ない?
何故…いなくなった、
こんなにも、深い想いを
抱かせて。
あの柔らかな笑顔が
見たい。
この名を呼んで欲しい。
肺に染み渡る、冷え切った冬の空気は苦手だった。
雪だって、嫌いだ。
だが、睦月は冬の寒さも
雪景色も好きだった。
春を迎えるまでの間、
この厳しい季節を生き抜く
たくましさがある、と。
だから、病魔になど負けないで一緒に春を迎えましょう。
そういって、間も無く
睦月は主の前から消えた。
まだ、手が感覚を覚えている。
姿形、気配、匂い…
お前の事だったら、この俺が一番解っていた。
そう、思って居た。
だが…違ったのだろうか、
不意に自信が無くなった。
「泉さん、私の着物はまだ取ってありますか?」
雪音は、泉に発見された際に着ていた着物を探していた。
『あるけどな、仕舞ってある。今下ろしてくるから、待っててくれ。』
つづらに、入れてあった着物を持って来た泉が、雪音に渡す。
『単衣なんか、寒いだろうに。着る訳でもなさそうだな?』
雪音は、くん、と
単衣の匂いを嗅いだ。
『…何か、思い出しそうなのか、まさか。』
まだ、はっきりとしたものでは無い。
が、こうして過去を遡る事は大事な気がしていた。
「まだ、何とも。けど…私は意味があって、この山に来たのです。それが分かれば。」
生来、人のいい泉も
静かに雪音の言葉に頷く。
『手掛かりが、確かに少ないよな。しかも、怪我までしてたんだ。あの崖の近くには、沢山薬草が採れるっていう話は昔から聞いた事があるな。もしかして、雪音も薬草を探しに来てたんじゃないのか?』
分からない。
「私、薬草を手にしていましたか?」
『いや、持って無かったな、途中で落ちたのかもしれないが。とにかく、俺は頭から血が出てたもんだから生きてっかも危うそうだと思ってたから。』
いまだ、一片の記憶も取り戻せないでいる雪音は
少しずつ焦りのようなものを感じ始めていた。
「私は、一人ぼっちだったのですかね?」
雪音は、今にも泣き出しそうな瞳で泉を見つめる。
『まさか、なぁ…雪音。例えお前が一人ぼっちだったとしても今は俺がいるだろう。だから、そんな寂しそうな顔で笑うな。』
自分を失った気持ちにすらなっていた雪音を、泉は
支えたかった。
こんなにも近くにいるのに、雪音が心から救われていない事実に
泉も、いささか動揺した。
「私は、いつかどこかに帰らなければいけなかった。そんな風に考えて、記憶に結びつかないかと思うのです。」
それでも、雪音は
泉を置いて違う地に帰るなんて事は、できないんだろうと自覚していた。
『雪音、考え過ぎだ。こっちに来て一緒に飯にしよう。温かい物を食べて、少し落ち着くはずだ。』
言えなかった。
誰かに、呼ばれている気がするなんて。
誰かも分からないのに。
「…私は、あなたに出会わなければ命を落としていました。」
『分かった。雪音、明日起きて晴れていたら崖に行こう。近くまでならなんとか行けるだろ。かんじきを用意しておく。』
いまだに、気にしてしまう気持ちを泉も理解していた。
当たり前だ、と。
もしかしたら、雪音には家族がいるかもしれないし。
あらゆる記憶が無くなっているという事は、思う以上に本当は辛い事なんじゃないかと泉は眼を伏せた。
「はい。ごめんなさい、我儘を言って。」
『気にするな、それくらいは付き合うさ。雪音は、家族も同然なんだ。』
「…ありがとうございます。泉さん。」
翌日、朝からよく晴れたいい天気だった。外は、地面や日陰が凍っていた。
青空が高い。
『これなら、行けそうだな。転ぶなよ?雪音。』
わらぐつに、かんじきを履いて雪の中を歩く。
見渡す一面が、白銀の世界で目に痛い程に輝いている。
「綺麗。」
『少し歩けばあったかくなってくるかな。』
雪音が、落下した崖に到着すると
雪は足をとって歩きにくい、
その頃には、暑くて汗をかく程に体力を使っていた。
「はぁ…、はぁ…。」
『?え、誰か居る』
ふと、泉が崖の上に目をやると誰かと目があった。
一体、こんな場所に誰が?
そう思った泉が目を凝らす。
箕を掛けていて
顔なんかも見えにくい。
ただ、その人物は確かに
雪音を見ていた気がした。
「なんだか、こっちを見ていませんか?」
高さは、あるから降りては来ないだろう。
二人は、そう思っていた。
しかし、躊躇いもせずその人物は崖に身を投じて
身軽そうな身のこなしで下まで降りて来た。
『…無茶するなぁ、おい。大丈夫か?』
「驚きました。怪我はありませんか?」
歩きにくそうに、近寄ってくる人物の顔を見て
雪音が目を見開く。
『おい、冗談はよせ。俺が分からないのか?睦月!』
雪音に、くってかかる青年を泉が止めに入る。
引き離させて、泉が青年を見据えた。
『こいつは、雪音だ。睦月って名前じゃない。』
「私の名前…は、そうです。雪音です。貴方は、どこの誰ですか?」
すっかり恐怖した表情に、泉が困惑しだす。
『なんだ、知り合いなのか?だいたいアンタは、雪音を知ってるのか。』
埒が明かないから、と泉が家に招く事にした。
箕を脱ぎ、顔もよく見えるようになった。
青年は、囲炉裏に三人で落ち着くとようやく
自らの名前を明かした。
『まぁ…俺は本来だったら名前を明かすのも、いけないんだが。今回は、主に時間が無いから。』
落ち着き払った様子の青年の名前は、朧と名乗った。
「朧…さん?」
どうにも、記憶喪失の雪音はピンと来ないらしく
首を傾げていた。
『朧さん、悪いが雪音は…忘れちまってんだよ。さっきアンタが居た、崖から落っこちてたんだ。それを通りすがりの俺が家に連れ帰って介抱して。何かを思い出すまで、家に置いてやろうって思ってな。』
黙ってその話を朧は聞いていた。
「もしかして、私は…睦月という名前で、誰かに探されているのですか?」
行儀良く、正座をして
背筋の伸びた雪音が切り込む。
『あぁ、端的に言えば。そうだ、俺の雇い主がお前の主だったんだよ。急にお前がいなくなって、主は…もう時間が無い。意味は、分かるだろう?』
複雑な心境で、泉は朧と雪音のやりとりを聞いている。
「まさか…私の仕えて居た方が、そんな…っ」
『睦月、お前には主も持病の事を話していた。そこで、お前は…これは、推測なんだけどな、薬草を摘みに先程の場所に行ったんじゃないか?そこで、足を滑らせて落下し記憶喪失になったと。』
ちらっ、と泉が雪音を見やると
雪音は、今にも泣き出しそうになって居た。
両手で顔を覆い、下を向き
震えている。
「そんな…っ」
『なぁ、睦月。思い出せてなくて構わない。だから、一刻も早く主にお前の顔を見せてやってくれないか?あの人は…睦月を愛してるよ、今でも。』
「あの、朧さんは私の友人とかですか?」
『いや、俺は、睦月と同じ家で育った兄弟のようなものだ。』
「私に、そんな人が…」
『雪音、良かったな。お前にはちゃんと帰る場所があるじゃないか。』
「…泉さん。でも、私はまだ泉さんに、恩返しもできていません。」
義理堅い、真面目な雪音の性格が今は泉を、苦しめる。
『帰ってやれよ。主には雪音が…いや、睦月が必要なんだ。』
『睦月…主は、雨月は春までもたない。』
「…ごめんなさい、ごめんなさい…時間を少しだけ下さい。私には、突然すぎて何が何だか。一晩考えさせて下さい。朧さん。」
やっと顔を上げた睦月の目は、光が消えていた。
泉は、その事に
気が付かなかった。
『いいだろう、ひとまず報告は雨月にさせて貰う。明日また、来る。昼までに答えを出してくれ。』
「承知しました。」
帰り支度をする、朧を横目で見て泉は話し掛けた。
『断ったら、睦月はどうなるんだ?』
『アンタもろとも…ここに居られなくなるな。』
『⁉︎』
フッ、と朧が笑みを浮かべた。
『いや、それは大袈裟だったか。そうだな、分からない。何せ雨月次第なんだから。』
自分より、少し背の低い朧に箕を着せてやる。
なんだろう、一緒に育ったせいか?
朧は、どことなく睦月に
似ていた。
じっ、と朧に見入ると
目を逸らされてしまった。
『俺は、睦月とは似ていない。』
『あ、すまん。そんなつもりは無かった。』
その二人の雰囲気を、少し離れた土間で
睦月は見ていた。
「………。」
『朧…気を付けてな。』
『ありがとう。突然邪魔したな、それと…睦月を救ってくれて本当にありがとう。睦月は、俺の弟みたいな存在なんだ。俺もしばらく、心配でな、睦月が。』
朧の、優しさに触れた瞬間だった。
「さぁ、わらぐつとかんじきも用意が出来たよ。」
『ありがとう。睦月…雨月を支えてやって欲しい。』
そう、睦月に朧は告げて
泉の家を後にした。
なんだか、二人で居て楽しかった空間が睦月には
全く今朝までとは違って思えた。
「泉さん…私は、」
『雨月さんは、睦月を待ってる。』
「ですが…、」
『睦月、嘘でも良いから最後まで隣に居て貰いたいはずだよ。俺が、同じ立場だったら…そう願う。』
「私が…、愛してるのは泉さ『記憶、戻っているとかじゃないんだ。兎に角、顔を見せて安心させてあげたらどうだ?』」
「泉さん…、好きです。」
『俺もだよ、でも雪音はもう居ない。そもそも、雪音なんて人は居なかった。睦月、お前は雨月さんの大切な存在だったんだ。それなのに、俺は、知らず知らずお前に想いを寄せてしまっていた。お前が、全てを忘れているのをいい事に。』
「そんな…泉さん。」
『ありがとう。睦月、俺は一人は慣れている。だから、また雨月さんの側に居てくれ。これは、最初から約束だったのかもしれないな。』
何かを見出したような
大らかな心を
泉に見せられてしまって
もう、戻れない事を知った。
「泉さん。ありがとう…きっとこの想いは消えない!けど、いいかな?」
『あぁ、構わない。俺もしばらくは忘れられそうにもない。』
君と出逢い、別れるまでにいくつ胸が高鳴り
いくつ想いを重ねて
過ごしてきただろう。
それは、天からの贈り物だったのだろう。
淡く優しい笑みが、今でも脳裏に焼き付いている。
雪音、
お前が幸せであるように。
そう願った。
別れの夜は、
互いを抱き締めて眠りについた。
この瞬間さえも、本当ならば凍らせてしまいたい。
残酷な時間という
呪縛から逃れたい。
それでも、さよならなんだ。
身一つで、やって来た
美しい青年睦月は
淡雪が降る中、泉の家に迎えに来た朧に連れられて
自分の主がいる屋敷へと帰って行った。
おしまい。
また、貴方にお仕えしたかった。
それは、突然にやってきた機会。
大切に思っていた小姓が
いなくなった。
急に…
何の前触れもなく。
まるで、煙みたいに。
ふぅっと消えた。
「身も心も、捧げます。」
そう言って、我が身を粉にして働いてきた奴が。
何故、いない?
いや、待て。本当にいなくなったのか。
屋敷中を探した。
奴の部屋も、全部
全部だ。
それでも、やっぱり彼はいなかった。
唖然として、意味がわからないし途方に暮れていた。
あんなにも、いつもそばに居たのに、理解できなかった。
一体何が不満だったのか。
辿り着いたのは、この疑問。
心に、決めていたのか?
去る事を。
何故?突然に
いなくなってしまった。
訳を聞かせてくれ。
自分の中の時間が、止まってしまった気がした。
あんなに色鮮やかに映っていた世界は
昨日までで。
今日から、空は
灰色に見えた。
いつも一緒に仰いだ空は
しばらく見たくなかった。
「そうか、嘘つきだったか。」
哀しくも無い。
けど、あまりにも綺麗に
去るものだから
なんだか気持ちをどう整理したらいいのかも分からなかった。
きっと、何をしていても
彼を想うだろう。
星を探すように。
花を愛でるように。
温もりでさえ、分かち合った彼を。
何が彼を覚えている?
この手が、目が
耳が…心地よい声、
健気な眼差し。
忘れなどしないから。
ずっと、ずっと焦がれて
密かに育てた恋情は
色褪せない。
だって、そうだろう?
まだ…こんなにも全てで
求めている。
どこかで、また
逢える気がしてならない。
妄言なんかじゃない。
私と彼が、二度と逢えないなんて事の方が考えられない。
痛い。暗い、冷たい寒い恐い。
僕は、今何をしていたのか。
頭が痛すぎる。
無意識に手を伸ばして後頭部を触る。
あぁ。血で大変なことになっていた。
嫌だ。見たくない、信じたくない。
『いたたた…っ、』
全身がばらばらになった
気さえした。
多分、高い所から落ちたんだろう。
起き上がるのも恐いし
立てなさそうだ。
『あんた、どうしたんだ?』
声を掛けてきたのは、近くの村の人だろうか。
動けない僕を見るなり
慌てて駆けて来てくれたようだ。
『頭、血ぃ出てるぞ!』
『大丈夫です…話せますし。』
血相を変えた青年は、頭の傷をおそるおそる確認している。
『頭、こう…ごちーん、ってしたんだろな。そんなに酷くは無えみたいだ。』
青年は、腰に下げていた手ぬぐいを僕の頭に縛り付けた。
『俺ん所、とりあえず運ぶから…さ、背負ってくぞ。』
人の良さそうな笑顔で青年は彼に背を向ける。
くらくらする頭を我慢しながら、僕は青年に背負われた。
『ぁ…』
くらり、と来て落ちないように青年にしがみ付く。
『ぐぁ…っ』
『すみません、つい。』
『いや、大丈夫か?やっぱり頭に血が上手く巡らなくなったか?』
青年は、不安げに呟くと足取りを早めた。
青年の暮らす家は、暖を取っていた最中らしく温かかった。
『さ、横になれ。』
ゆっくりと布団に寝させられる。
『ありがとうございます。親切に…』
『寒くねえか?』
『平気です。』
『お前、目が見えてるか?』
『…ぁ。』
そうだ、実はさっきから目が見えなくなっている。
一時的なものだと思いたい。
『頭、打ったからかもしれねぇ…しばらくは様子見るしか無いな。』
『少し、怖いですね。』
『だな。でも、そばについてるから…何かあったら言ってくれや。』
青年は、ぱきっ、と小枝を囲炉裏に放る。
『ありがとう。』
自然と涙があふれて来た。
見ず知らずの自分を
こんなに手厚く世話をしてくれる。
『⁈な、何泣いてんだ、男が…』
『だって、見ず知らずなのに。』
『…だな、じゃあ名前くらい聞いとくか。』
照れくさそうに鼻の下を指で擦る青年が、彼をながめる。
『…名前、?僕の名前…』
『おいおい、まさか忘れちまったのか?』
青年の言葉に、彼は怯える。
『名前を…忘れた?』
まさか、まさかそんな…
自分の名前だぞ?
いや、でも思い出せない。
哀しくとも事実だった。
彼の瞳は、細かに震えた。
『そっか…じゃあ、思い出すまでの名前を付けさせてくれないか?』
『家も、分からない。』
彼は両手で顔を隠して泣く。
あまりに、酷い話だった。
青年は、今のやりとりで 彼が平穏な生活を暮らせていなかったのではないかと
心を痛めた。
『雪音、はどうだろう?』
『!そんな綺麗な名前を…僕に?なんだかもったいないです。』
『まさか。そんなことは無い。うちの村に伝わる小さな神様の名前が、雪音と言うんだ。その神様は、冬と雪の使者で…心に温かな幸せも連れてくると言う言い伝えなんだ。』
『僕は、自分が誰かさえわからないのに…。ゆきね…いい名前をありがとう。あなたの名前は?』
『俺は、泉。』
『せん、さんですね。いい名前。こちらには泉さん一人ですか?』
『あぁ、親もいない。許嫁もいたけどな…流行病でアッチに行っちまった。』
あまりにも、さらりと潔く話してくれる泉に、雪音が申し訳なさそうに
泉に手を伸ばす。
『⁈雪音、どこに手やってんだ…火傷する。俺はこっちだ。』
きゅ、と泉が雪音の手を掴む。
『びっくりした。でも、泉さんは温かい。』
ふふっ、と自然に笑みが込み上げる。
『頭、血は止まってるみたいだな。良かった。止まらなかったらどうしようかと思った。』
安堵して笑う泉の声を感じながら雪音は思う。
『見たかったです、泉さんのお顔。優しいんだろうなぁ…。』
『やめとけ、やめとけ。情けない面だから。』
『そんな事ありませんよ、僕は人を見る目は確かなんです。』
『大丈夫、心配すんなって。落ち着いたらまた見れるらようになるって。』
『はい。』
『しばらく、ここに居たらいい。せめて名前を思い出すまでは…な。』
泉が、目元を綻ばせながら
優しく雪音の頬を撫でた。
「泉さん、起きて…起きて、お願いです。」
ゆさゆさと、雪音が泉の肩を揺する。
真冬の朝顔、まだ空は薄暗い。
『あんだぁ?まだ、眠たい…寒いってよぉ』
ぶるぶる震えて、仕方なく起きた泉は、上体を起こす。
囲炉裏の火は、起きた雪音が起こしてくれたため
周りは温かい。
「泉さん。私を…助けてくれてありがとう。約束の日が来てしまいました。」
『?何のことだ、雪音。』
ごしごしと、泉が目をこする。
これは、現実なんだろうか?
「私は、色々思い出したのです。私は雪音ではありません。帰らなければ…なりませんね。さようなら。」
冷たい表情ながらも、最後に見せてくれた微笑みだけは、目に焼き付いた。
『雪音‼︎』
手を伸ばす、届け…
早く。
いなくなるなんて、そんな筈が無いと。
泉は、どこかで雪音が
このまま何も思い出さずにいてくれたなら。
そんな事を願っていた。
「んっ…どうしました?せんさん…」
横に寝て居た雪音が
眠たい声で、問う。
しまった。
夢か…。それにしても、なんだか本当にありそうな話で怖い。
『悪い…起こしちまったか。』
「私を夢で呼ぶなんて、悲しい夢でも見てしまいましたか?」
ぎゅっと雪音が泉を抱き締める。
いくらか泉よりかは
か細く映る雪音だったが
内なる包容力があり、
泉を上手に慰める事ができる。
『大丈夫。大丈夫…私は泉さんを一人にしませんよ。』
「お前みたいな器量よし、もう俺の人生には二度と現れないだろな。」
『大袈裟ですよ、泉さん。…ん、寒い。』
「もっと、くっつくか。ほら、手もしまえ。握ってれば温まるはずだ。」
雪音の両手を、泉が握る。
『なんか、照れくさいけど…離れられませんね。不思議。』
こんな間近で、抱き合って。
「目は、また見えてるか?」
『えぇ。泉さんの顔を見られたのは、昨晩で。まさかこんな事になるとは。』
「乱暴じゃなかったか?…そういやぁ、すんなり事は運んだよな。」
泉の言葉に、雪音が頬を赤く染める。
『少しは、辛かったですよ。けど、喜びがそれ以上にあって。』
泉は、雪音の腰を引き寄せる。腰骨をゆっくりと手のひらで撫で回す。
「俺には、気持ち良さそうに見えたな。」
『ねぇ、泉さん。本当に…私と一緒にいて平気ですか?』
ごく真面目に、雪音が泉を見据える。
何が言いたいのか、
なんて…
だいたい、見当はついていた。
「平気じゃあない、お前みたいに気になる奴といて平気な訳が無い。」
『私は、何か…昔を思い出したとしましょう。そうしたなら、あなたは僕から消えてしまったりしないですよね?私は、そんな事ばかり頭によぎって苦しい。泉さんが私にしてくれた事、ずっと大切に。忘れたくなんかありませんから。』
「雪音が、覚えてたいってだけで俺は充分だ。たとえお前が忘れたとしてもな、俺が忘れないし…覚えてる。どちらの事も、できれば覚えてて欲しいけどな。」
いつ、思い出すのかなんて誰にも分からない。
こればっかりは、時が経つのに身を委ねるばかりだ。
失った記憶の向こう側に、
雪音を愛する人がいようとは二人は夢にも思わなかった。
『私の命の恩人です。一生忘れない。』
「なぁ、雪音。前に言っていた雪音っていう神様はな…俺は好きだが、春になると消えてしまう神様なんだよ。」
『え…?なんで消えてしまうんですか。』
雪音は、雪音という自分の名前の由来になった神様に
どこか、感情移入をしていた。
「それはな、春の暖かさで雪音の神様は解けてしまうからだ。心の綺麗な正直者を幸せにする優しい神様なんだが…俺は、この消えてしまうっていうのが、な。お前も、いつかいなくなってしまうような気がするから。」
『泉さんに、追い出されでもしない限り…一緒に居たいです。春を通り越して、夏になっても秋を過ぎて、また冬を迎えてもあなたの隣に居られたら。』
雪音のささやかな願いを聞いた泉は、尚一層
雪音を強く抱き締めた。
「お前は、こうして抱いても消えない。それだけで安心する。」
しんしんと
雪が降り積もる。
私の想いの数だけ
大地を真白に染めていく。
泉が、雪音に
焦がれた分だけ。
閉ざされた世界の中で
二人の想いはより強く
ほどけない。
縁の糸が、二人の間で
もつれていこうとは。
この時は、まだ
知る由もない。
『まだ、見つからないのか?』
お前は、本当に
どこに行ったんだ。
捜せども、一向に小姓の所在が分からなかった。
ふと、まさかの考えが
頭をかすめた。
生きて、いるのか?
いや。生きているさ、
そうでも思わないと
辛すぎる。
自分で自分を励ます他ない。
『睦月…お前は、生きているよな?また、私をたしなめてくれ。』
すっかり生きる気力を失いかけた主は、屋敷にて
ふせって居た。
可愛がっていた存在がいない。
毎日が長くて長くて
つまらない。
全てが、億劫だった。
それを見兼ねた配下の者が
忍びを雇った。
とにかく、一日も早く
睦月の所在を掴め。
『何?忍びを雇った…?』
主は、ぼんやりとした
頭で考えを巡らせている。
『そうか、そんな者を雇ったなら見つかるに違いない。期待している。』
主は、嬉嬉とした。
そうか。
また、逢えるかもしれない。
それだけで、主の心は
ゆっくり満たされようとした。
そんな期待を胸に
主は焦がれ続けていた。
だが、主には
時間が多く残されては
いなかった。
それは、ゆっくりゆっくりと…確実に主の体を
むしばんで行く。
『最後の、わがままになるかもしれない。』
既に、主の半身程を病魔は
冒し始めて居た。
『睦月…お前に、一目』
ここ何日か、立て続けに
睦月の夢ばかり見ていた。
手が届かない。
届いたかと思えば、
目が覚めて現実に引き戻される。
いつしか、睦月は
主にとって手が届かない存在になってしまった。
何故、帰って来ない?
何故…いなくなった、
こんなにも、深い想いを
抱かせて。
あの柔らかな笑顔が
見たい。
この名を呼んで欲しい。
肺に染み渡る、冷え切った冬の空気は苦手だった。
雪だって、嫌いだ。
だが、睦月は冬の寒さも
雪景色も好きだった。
春を迎えるまでの間、
この厳しい季節を生き抜く
たくましさがある、と。
だから、病魔になど負けないで一緒に春を迎えましょう。
そういって、間も無く
睦月は主の前から消えた。
まだ、手が感覚を覚えている。
姿形、気配、匂い…
お前の事だったら、この俺が一番解っていた。
そう、思って居た。
だが…違ったのだろうか、
不意に自信が無くなった。
「泉さん、私の着物はまだ取ってありますか?」
雪音は、泉に発見された際に着ていた着物を探していた。
『あるけどな、仕舞ってある。今下ろしてくるから、待っててくれ。』
つづらに、入れてあった着物を持って来た泉が、雪音に渡す。
『単衣なんか、寒いだろうに。着る訳でもなさそうだな?』
雪音は、くん、と
単衣の匂いを嗅いだ。
『…何か、思い出しそうなのか、まさか。』
まだ、はっきりとしたものでは無い。
が、こうして過去を遡る事は大事な気がしていた。
「まだ、何とも。けど…私は意味があって、この山に来たのです。それが分かれば。」
生来、人のいい泉も
静かに雪音の言葉に頷く。
『手掛かりが、確かに少ないよな。しかも、怪我までしてたんだ。あの崖の近くには、沢山薬草が採れるっていう話は昔から聞いた事があるな。もしかして、雪音も薬草を探しに来てたんじゃないのか?』
分からない。
「私、薬草を手にしていましたか?」
『いや、持って無かったな、途中で落ちたのかもしれないが。とにかく、俺は頭から血が出てたもんだから生きてっかも危うそうだと思ってたから。』
いまだ、一片の記憶も取り戻せないでいる雪音は
少しずつ焦りのようなものを感じ始めていた。
「私は、一人ぼっちだったのですかね?」
雪音は、今にも泣き出しそうな瞳で泉を見つめる。
『まさか、なぁ…雪音。例えお前が一人ぼっちだったとしても今は俺がいるだろう。だから、そんな寂しそうな顔で笑うな。』
自分を失った気持ちにすらなっていた雪音を、泉は
支えたかった。
こんなにも近くにいるのに、雪音が心から救われていない事実に
泉も、いささか動揺した。
「私は、いつかどこかに帰らなければいけなかった。そんな風に考えて、記憶に結びつかないかと思うのです。」
それでも、雪音は
泉を置いて違う地に帰るなんて事は、できないんだろうと自覚していた。
『雪音、考え過ぎだ。こっちに来て一緒に飯にしよう。温かい物を食べて、少し落ち着くはずだ。』
言えなかった。
誰かに、呼ばれている気がするなんて。
誰かも分からないのに。
「…私は、あなたに出会わなければ命を落としていました。」
『分かった。雪音、明日起きて晴れていたら崖に行こう。近くまでならなんとか行けるだろ。かんじきを用意しておく。』
いまだに、気にしてしまう気持ちを泉も理解していた。
当たり前だ、と。
もしかしたら、雪音には家族がいるかもしれないし。
あらゆる記憶が無くなっているという事は、思う以上に本当は辛い事なんじゃないかと泉は眼を伏せた。
「はい。ごめんなさい、我儘を言って。」
『気にするな、それくらいは付き合うさ。雪音は、家族も同然なんだ。』
「…ありがとうございます。泉さん。」
翌日、朝からよく晴れたいい天気だった。外は、地面や日陰が凍っていた。
青空が高い。
『これなら、行けそうだな。転ぶなよ?雪音。』
わらぐつに、かんじきを履いて雪の中を歩く。
見渡す一面が、白銀の世界で目に痛い程に輝いている。
「綺麗。」
『少し歩けばあったかくなってくるかな。』
雪音が、落下した崖に到着すると
雪は足をとって歩きにくい、
その頃には、暑くて汗をかく程に体力を使っていた。
「はぁ…、はぁ…。」
『?え、誰か居る』
ふと、泉が崖の上に目をやると誰かと目があった。
一体、こんな場所に誰が?
そう思った泉が目を凝らす。
箕を掛けていて
顔なんかも見えにくい。
ただ、その人物は確かに
雪音を見ていた気がした。
「なんだか、こっちを見ていませんか?」
高さは、あるから降りては来ないだろう。
二人は、そう思っていた。
しかし、躊躇いもせずその人物は崖に身を投じて
身軽そうな身のこなしで下まで降りて来た。
『…無茶するなぁ、おい。大丈夫か?』
「驚きました。怪我はありませんか?」
歩きにくそうに、近寄ってくる人物の顔を見て
雪音が目を見開く。
『おい、冗談はよせ。俺が分からないのか?睦月!』
雪音に、くってかかる青年を泉が止めに入る。
引き離させて、泉が青年を見据えた。
『こいつは、雪音だ。睦月って名前じゃない。』
「私の名前…は、そうです。雪音です。貴方は、どこの誰ですか?」
すっかり恐怖した表情に、泉が困惑しだす。
『なんだ、知り合いなのか?だいたいアンタは、雪音を知ってるのか。』
埒が明かないから、と泉が家に招く事にした。
箕を脱ぎ、顔もよく見えるようになった。
青年は、囲炉裏に三人で落ち着くとようやく
自らの名前を明かした。
『まぁ…俺は本来だったら名前を明かすのも、いけないんだが。今回は、主に時間が無いから。』
落ち着き払った様子の青年の名前は、朧と名乗った。
「朧…さん?」
どうにも、記憶喪失の雪音はピンと来ないらしく
首を傾げていた。
『朧さん、悪いが雪音は…忘れちまってんだよ。さっきアンタが居た、崖から落っこちてたんだ。それを通りすがりの俺が家に連れ帰って介抱して。何かを思い出すまで、家に置いてやろうって思ってな。』
黙ってその話を朧は聞いていた。
「もしかして、私は…睦月という名前で、誰かに探されているのですか?」
行儀良く、正座をして
背筋の伸びた雪音が切り込む。
『あぁ、端的に言えば。そうだ、俺の雇い主がお前の主だったんだよ。急にお前がいなくなって、主は…もう時間が無い。意味は、分かるだろう?』
複雑な心境で、泉は朧と雪音のやりとりを聞いている。
「まさか…私の仕えて居た方が、そんな…っ」
『睦月、お前には主も持病の事を話していた。そこで、お前は…これは、推測なんだけどな、薬草を摘みに先程の場所に行ったんじゃないか?そこで、足を滑らせて落下し記憶喪失になったと。』
ちらっ、と泉が雪音を見やると
雪音は、今にも泣き出しそうになって居た。
両手で顔を覆い、下を向き
震えている。
「そんな…っ」
『なぁ、睦月。思い出せてなくて構わない。だから、一刻も早く主にお前の顔を見せてやってくれないか?あの人は…睦月を愛してるよ、今でも。』
「あの、朧さんは私の友人とかですか?」
『いや、俺は、睦月と同じ家で育った兄弟のようなものだ。』
「私に、そんな人が…」
『雪音、良かったな。お前にはちゃんと帰る場所があるじゃないか。』
「…泉さん。でも、私はまだ泉さんに、恩返しもできていません。」
義理堅い、真面目な雪音の性格が今は泉を、苦しめる。
『帰ってやれよ。主には雪音が…いや、睦月が必要なんだ。』
『睦月…主は、雨月は春までもたない。』
「…ごめんなさい、ごめんなさい…時間を少しだけ下さい。私には、突然すぎて何が何だか。一晩考えさせて下さい。朧さん。」
やっと顔を上げた睦月の目は、光が消えていた。
泉は、その事に
気が付かなかった。
『いいだろう、ひとまず報告は雨月にさせて貰う。明日また、来る。昼までに答えを出してくれ。』
「承知しました。」
帰り支度をする、朧を横目で見て泉は話し掛けた。
『断ったら、睦月はどうなるんだ?』
『アンタもろとも…ここに居られなくなるな。』
『⁉︎』
フッ、と朧が笑みを浮かべた。
『いや、それは大袈裟だったか。そうだな、分からない。何せ雨月次第なんだから。』
自分より、少し背の低い朧に箕を着せてやる。
なんだろう、一緒に育ったせいか?
朧は、どことなく睦月に
似ていた。
じっ、と朧に見入ると
目を逸らされてしまった。
『俺は、睦月とは似ていない。』
『あ、すまん。そんなつもりは無かった。』
その二人の雰囲気を、少し離れた土間で
睦月は見ていた。
「………。」
『朧…気を付けてな。』
『ありがとう。突然邪魔したな、それと…睦月を救ってくれて本当にありがとう。睦月は、俺の弟みたいな存在なんだ。俺もしばらく、心配でな、睦月が。』
朧の、優しさに触れた瞬間だった。
「さぁ、わらぐつとかんじきも用意が出来たよ。」
『ありがとう。睦月…雨月を支えてやって欲しい。』
そう、睦月に朧は告げて
泉の家を後にした。
なんだか、二人で居て楽しかった空間が睦月には
全く今朝までとは違って思えた。
「泉さん…私は、」
『雨月さんは、睦月を待ってる。』
「ですが…、」
『睦月、嘘でも良いから最後まで隣に居て貰いたいはずだよ。俺が、同じ立場だったら…そう願う。』
「私が…、愛してるのは泉さ『記憶、戻っているとかじゃないんだ。兎に角、顔を見せて安心させてあげたらどうだ?』」
「泉さん…、好きです。」
『俺もだよ、でも雪音はもう居ない。そもそも、雪音なんて人は居なかった。睦月、お前は雨月さんの大切な存在だったんだ。それなのに、俺は、知らず知らずお前に想いを寄せてしまっていた。お前が、全てを忘れているのをいい事に。』
「そんな…泉さん。」
『ありがとう。睦月、俺は一人は慣れている。だから、また雨月さんの側に居てくれ。これは、最初から約束だったのかもしれないな。』
何かを見出したような
大らかな心を
泉に見せられてしまって
もう、戻れない事を知った。
「泉さん。ありがとう…きっとこの想いは消えない!けど、いいかな?」
『あぁ、構わない。俺もしばらくは忘れられそうにもない。』
君と出逢い、別れるまでにいくつ胸が高鳴り
いくつ想いを重ねて
過ごしてきただろう。
それは、天からの贈り物だったのだろう。
淡く優しい笑みが、今でも脳裏に焼き付いている。
雪音、
お前が幸せであるように。
そう願った。
別れの夜は、
互いを抱き締めて眠りについた。
この瞬間さえも、本当ならば凍らせてしまいたい。
残酷な時間という
呪縛から逃れたい。
それでも、さよならなんだ。
身一つで、やって来た
美しい青年睦月は
淡雪が降る中、泉の家に迎えに来た朧に連れられて
自分の主がいる屋敷へと帰って行った。
おしまい。
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