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奏でられる記憶。

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楽しそうに、生きている自分が許せない。
彼を喪った人生のどこに、一体楽しさなんてものが残されているだろう。
考えてなくとも、分かると思っていた。

貼りつけた笑顔の後に、必ず罪悪感が襲う。
仕事だけは、ちゃんとしていよう。とだけ思いながら、ずっと
店舗経営を務めていたら、いつの間にか店長になっていた。
究極的に、抑えた心を長年続けていて。心がついにこの春、
新人さんである、篠原くんの出現によって緩んでしまったのかもしれない。

深夜過ぎに、家に帰って。お風呂に入る。住人が少ないから出来る事だった。
この後は、泥のように眠る。ご飯は、目覚めてから自炊。
生活をするしかないだけの日々とはいえ、食事に関しては親からの口出しがうるさいのだ。
過去に、連勤続きで過労と、栄養失調で倒れた事があり。
実家の親が、せめて独り身でもいいから生活を成り立たせなさい。と言って来たのだ。

元をたどれば、連勤になり過ぎないようにしなくてはいけない。
シフトをカバーできるスタッフが必要。
その為には、やっぱり平素から会話をやり取りしたり、信頼関係が不可欠だった。
入院してる間に、僕は今までのツケが回って来たことを身に染みて痛感していた。
このままでは、いけない。
もっと、人に関わらないと駄目だ。

過去の事は、心の奥にしまおう。
心に鍵をかけて、仕事上の人間関係を築く為に
努力しよう。それから、2.3年の月日が流れて
篠原くんが、来てくれて。
やっと、何かしらの変化が目に見えるようになった気がしたのだ。

翌日、出勤してから気づいた事があった。
篠原くんのネームプレートを作っている際に
『あれ?笹…、じゃないんだな。』
篠原くんの苗字が「ささはら」と読む事に気づいた。
ぱっと見、分かりにくい。
僕の名前も、よく似ていた。

幸来、と書いて「さら」と読む。ほとんどの人は、「こうき」と僕を呼ぶ。
でも、さらと間違わずに読んだ相手は、今までにたった一人。
彼だけだった。

篠原くんは、週に4回シフトに入ってくれる。
学生さんだし、本当ならば学業に力を入れた方が、きっと良いのだろうけど。
社会経験としても、バイトをしておくのは少なからず自分の将来を考える上では、
プラスに働く事もあるだろう。

今日は、篠原くんはシフトに入っていない。だからと言って、何か。と言えば、
別段何にもないのだけれど。
一、スタッフと僕が少しだけ楽しく会話を交わしただけだというのに。
自分を見失ってはいけない。
心は、光を見つめてはいない。
ずっとずっと、底にある浮上しないままでいいのだ。
何も変わらなくていい。もう、傷つくのは御免だ。

店に立てば、ほらいつもの表情で。誰にも心を明け渡さずに。
僕は、これでも生きて行かなきゃいけない。
何のために?分からない。
彼より、一日を、一年を多く重ねていく事に何の意味があるのだろう。
例え、もう二度と逢えないとしても。
僕は、君の事を嘘つきだなんて思わない。

最後に、優しい嘘を僕の為についてくれたのだと、大人になった今では、理解している。
最初で、最後のキスをして。遠い旅に出た彼は安らかな寝顔で
僕を迎えてくれた。僕は、涙で目の前が見えなくなる程泣いて、泣いて
親に、どれだけの心配をかけただろう。
目を真っ赤に腫らして、目蓋が涙でしみて痛くて、また泣いていた。
僕は、自分の体が空腹を覚えた事に、愕然としたのだった。

彼がいないのに、生きて…いたいのか?とさえ思った。
喉は、気持ちで塞がっている。
こんな思いをしているのに…それでもまだ生の欲求とやらは現実を見つめていた。
一人にならないで、と親がうるさい。
人は生まれる時も最後の時も、一人である。
生意気を言って、家族を悲しませてもしょうがないから。

僕は、心配する母親に背中を撫でられて気づいた。

彼は、僕一人の哀しみでは無かったと。

味噌汁が、上手く喉を通らなくてむせる。
せき込む。生きている事は、なんて無様だろうとさえ感じた。
言葉には、しなかったけど。僕の表情を見ればきっと伝わっていたのだろう。

でも、生きていかなきゃね。

母親の言葉は、僕の心に溶けて消えた。
こんな時に食べるおにぎりが、辛くて、苦しくて、どうしようもない。
何だかここまで来たら、笑えて来た。
2日程で、日常に放り出された僕は心のないただの肉体として生きていく決意を固めていた。

彼の両親を見た時、本当に僕はどうかしていた。
泣きながら、ただただ、縋るように名前を呼んでいたのだ。
「学校には、行くよ。学校は彼との思い出がたくさんあって、…まだ、彼がいる気がするから。」
僕は、彼の何かを探しに通学を続けた。
担任の先生も、しばらくは僕に気に掛けてくれたけど。
すぐに受験シーズンになったから、皆それどころではなくなったのだ。

僕が中学を卒業してから、高校に進学して親友は居なかったけど、友人は数人できた。
でも、深い会話をする事のない、あくまで表面的な関係だった。
その内の一人に、彼の事を誰かから聞いた子がいて

『お前って、アレなの?男が好き…とか?』
と、あまりにもダイレクトに聞かれてしまって。
僕は、笑えた。
「男が好きなんじゃない。彼が、特別だっただけ。」
本心だった。もし、僕の半身がこの世に存在するとしたら、きっと彼に
間違いないだろうという確信を感じていたから。

彼は、近くて遠いどこかに居て。きっと今だって僕の事を見ているんだと思う。
だから、僕はかろうじて踏みとどまって生きていることが出来るのだ。
彼が、この世から居なくなってから10年の月日が流れたある時、
僕は、母からホワイトレーベルのCDを貰った。

何も、聞けなくて。ただ、答えはきっとこのCDの中にあると思った僕は
プレーヤーで聴いてみる事にしたんだ。
数秒の間があってから、すぐに鳥肌が立った。
何度も、イヤホンの奥から聞こえて来たクラシック。

「主よ、人の望みよ喜びよ」
彼は中学生の感性で、クラシックばかり聴いているのだと言っていた。
僕は、彼がどこか少し皆と違って思えたのは
こういった趣向からも、あったのかもしれないと思っていた。
ただ、一度聴きだすと不思議な高揚感と、満足感が心に残った。

彼の世界は美しく彩られたまま永遠となったのだ。
あの頃のCDを、きっと彼の両親から譲り受けていて
僕が、落ち着いて来たであろう10年を境目に、手渡してくれたのか。

僕の彼は、永遠に在り思い出の中にも色褪せずに居る。
放課後の音楽室で、彼に付き合いピアノ演奏を隣で聴いていた。
軽やかな指先、僕は視線で追うぐらいしかできずに、ただ彼の止まらない
感性の熱に圧倒されていた。

彼の手が愛おしい。触れたいのだと…。
僕は、何の勇気も覚悟も無い人間だからきっと彼を困らせた事だろう。
戸惑いもしない彼は、僕が触れている手を見つめて
『幸来も、俺の手がすき?それとも…』
「手だけじゃないよ…分からないけど、きっと全部だから。」
僕の答えを満足そうに聞いた彼は、嬉しそうに笑っていた。

『ありがとう。幸来』

僕は、スマホに入れた彼の曲のリストを聴きながら心を空っぽにしている。
彼が愛した世界を、少しでも脳に馴染ませたい。
頭に立つ鳥肌がすごい。
記憶と絡んで、ここに彼の匂いまでもが加われば
僕は、抜け出せずにいるだろう。

思考だけのトリップが終わる頃、現実での仕事も終わろうとしていた。
今日は、一人で閉店作業を行っていた。
そこへ、僕のスマホの着信が鳴った。
慌てて、応答すると『お疲れ様です、店長。』篠原くんの声だった。

「こんばんは、篠原くん?どうしたの。次のシフトの事かな」
デスクの上のタブレットを開いて、勤怠管理システムを開くと
『ぁ、違うんです。実は店に忘れ物が無いかなぁって…』
「忘れ物…?何だろう。探してみるよ。どんなもの?」

篠原くんは、少し躊躇った雰囲気で
『リストバンドなんですけどね。どこかで、落としたみたいで』
「…それなら、今日の早番の掃除をしてた子が拾ってくれてたよ。預かってる。」
『良かった。有難うございます。あるのが分かったんで安心しました。遅くにすみません。』
「ちょっと、汚れてたけど大丈夫?多分、洗濯すれば落ちるとは思うんだけど。…篠原くんって、大学で
スポーツとかしてるの。」
『俺、文系ですよ。そっか、店長は俺の履歴書あんまり見てないんですね。』

しまった。また、無関心の悪い癖が出てしまってる。
「今は、プライバシーの観点もあるし。人の履歴書はそんなにも見ないよ。」
『…店長の無関心な所、俺は気楽でいいですけどね。では、お疲れ様です。』
「ぁ、うん。お疲れ様です。」

電話の声って、どうしてこうも緊張するのかと思いながら
店を出る準備をした。
文系で、リストバンドだなんて、何に使うんだろう?
バイト中は、着けてもいなかったし。
もしかして、腱鞘炎なのかな?

あんまり、また無関心だといけないとは分かっているのに。
僕のスマホに、すんなりと電話を掛けてくれた事がなんとなく嬉しい。
相手は、フラットに接してくれている。
なのに、思わず身構えてしまう。
篠原くんを逃したら、いけない気がする。
仕事の覚えも早いし、愛想もよく…極めつきはそう

顔貌がいい。(らしい)
女性スタッフが騒いでいたので、間違いないとは思う。
僕が感じた、第一印象は爽やか。
クールな雰囲気で、目元が切れ長だった。
あまり、じっと顔は見ていないけど所謂、整った顔。

篠原くんが、店に来てくれてから
僕の、ぼんやりと夢想する時間が減ってしまった。
きっと、良い事なんだろうけど。
少しずつ、僕はまた現実を生きている。
僕もそろそろ、ゆっくりでも歩き出さなければいけない。

後日、篠原くんと同じシフトになった時に僕は
リストバンドを彼に帰した。
「汚れたままで、ごめんね。勝手に持って帰って洗うのもどうかと思って…」
『気にしないで下さい、店長。それに、これはちょっと伸びると困るんで』
「やっぱり?」
『ま、緩んでちゃ用をなしませんから』
「腱鞘炎とか…に使うよね。」
『俺の場合は、趣味で使うんですよ。』
「何だろう」
うーん、と考え込んでいると、篠原くんが笑っている。
『ね、店長。相手の事知りたいって…これで少しは、思うでしょ。』

僕は、ぽかんとして心の中で頷いた。
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