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1 古民家カフェの優男
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大学の授業が終わると、小野田珠雨はバスで五分の場所にある古民家カフェ・ヒトエに向かう。
その日は朝から小雨が降っていたが、なんとなく歩きたい気分だった。無個性な透明の傘を差し、ワイヤレスイヤホンでバンドネオンの音色を聴きながら、煉瓦の歩道を一人歩く。
先日梅雨入りした。その季節を嫌う人も少なくはないだろう。けれど重たい雨雲の空は嫌いではない。珠雨は小さい頃から雨が好きだった。
ヒトエに付く頃には、小雨の所為で少し服が湿り気を帯びていた。
「帰りましたぁ」
古民家を改造したこのカフェにやってきたのは、客としてではない。ここは珠雨の居候先であり、アルバイト先でもあった。
奥の席で店主の浅見禅一が暇そうに本を読んでいたが、珠雨の姿を認め笑顔を見せる。カフェの名称であるヒトエというのは禅の字の訓読みで、禅一の名前から取ったものだ。
「結構濡れてるなあ。歩いてきたの?」
禅一は線の細い優男で、大抵白シャツに黒のスキニーパンツというような、シンプルな服装を好んでいるようだった。華奢だが背は結構高い。楕円形の眼鏡と、針の沢山ついた腕時計を身につけている。年の頃は三十前後。
いい感じにくたびれたこの家を禅一が買い取り、自宅兼カフェに作り直したのは三年ほど前になるらしい。これ一本で果たして生活には困らないのか、若干心配になる程度の集客率だ。
店内に流れる音楽と、外から聞こえる雨音に、禅一のページをめくる乾いた音が混じり合う。
静かだ。
珠雨はこの静けさが好きだった。
「すぐ着替えてきます」
禅一の横を通り過ぎ、間借りしている二階の部屋へ向かう前に、店内を見回したがやはり客の姿はない。あるいはたまたまこの時間に誰もいなかっただけかもしれないが、いつ人員削減されても不思議ではなかった。
カフェと言っても、チェーン店などとは違い決まった制服はない。バイトの都度服を選ぶのが面倒だった珠雨は、仕事用の服を何着か自分で決めている。古民家カフェに堅苦しい恰好は合わない。禅一に倣ったわけではないが、白シャツにデニムパンツ。普段の珠雨と大して代わり映えもしないが、小綺麗に見える物を選んでいた。
「う……ベタつく」
髪が湿気に負けて、ヘアワックスが役に立たなくなっていた。少し癖のあるショートの髪をドライヤーで乾かしながら、板間になっている部屋をなんとなく眺める。
床は張り替えていないようで、年月を感じさせる木材はよく手入れされ黒光りしていた。天井も恐らく元のままで、じっと見つめていると人の顔に見えてくる木目がある。
吊り下げタイプの照明はステンドグラス風で、ぶら下がった紐状のスイッチがドライヤーの風で揺れていた。多分これは禅一が取り替えたと思われる。
それほど時間をかけず客の前に出られる姿にはなったが、肝心の客がいないのであまり意味もなかった。
「禅一さん、お待たせしました」
声を掛けると、またしても本に視線を落としていた禅一が振り向く。本当に暇そうだ。
「コーヒーでも飲む?」
「あ、じゃあやります」
「いや大丈夫……一つも二つも一緒だから。──珠雨、ここに来てどれくらい経つんだっけ」
禅一が立ち上がり、サーバーにコーヒーを落とし始める。
「三ヶ月目ですね」
この春から大学に通う為に、居候を始めた。珠雨の実家は大学に通うには少し遠かったので、元々アパートでも借りようかと考えてはいたが、母が知人である禅一に口を利いてくれた。家賃代わりのアルバイトだ。
その日は朝から小雨が降っていたが、なんとなく歩きたい気分だった。無個性な透明の傘を差し、ワイヤレスイヤホンでバンドネオンの音色を聴きながら、煉瓦の歩道を一人歩く。
先日梅雨入りした。その季節を嫌う人も少なくはないだろう。けれど重たい雨雲の空は嫌いではない。珠雨は小さい頃から雨が好きだった。
ヒトエに付く頃には、小雨の所為で少し服が湿り気を帯びていた。
「帰りましたぁ」
古民家を改造したこのカフェにやってきたのは、客としてではない。ここは珠雨の居候先であり、アルバイト先でもあった。
奥の席で店主の浅見禅一が暇そうに本を読んでいたが、珠雨の姿を認め笑顔を見せる。カフェの名称であるヒトエというのは禅の字の訓読みで、禅一の名前から取ったものだ。
「結構濡れてるなあ。歩いてきたの?」
禅一は線の細い優男で、大抵白シャツに黒のスキニーパンツというような、シンプルな服装を好んでいるようだった。華奢だが背は結構高い。楕円形の眼鏡と、針の沢山ついた腕時計を身につけている。年の頃は三十前後。
いい感じにくたびれたこの家を禅一が買い取り、自宅兼カフェに作り直したのは三年ほど前になるらしい。これ一本で果たして生活には困らないのか、若干心配になる程度の集客率だ。
店内に流れる音楽と、外から聞こえる雨音に、禅一のページをめくる乾いた音が混じり合う。
静かだ。
珠雨はこの静けさが好きだった。
「すぐ着替えてきます」
禅一の横を通り過ぎ、間借りしている二階の部屋へ向かう前に、店内を見回したがやはり客の姿はない。あるいはたまたまこの時間に誰もいなかっただけかもしれないが、いつ人員削減されても不思議ではなかった。
カフェと言っても、チェーン店などとは違い決まった制服はない。バイトの都度服を選ぶのが面倒だった珠雨は、仕事用の服を何着か自分で決めている。古民家カフェに堅苦しい恰好は合わない。禅一に倣ったわけではないが、白シャツにデニムパンツ。普段の珠雨と大して代わり映えもしないが、小綺麗に見える物を選んでいた。
「う……ベタつく」
髪が湿気に負けて、ヘアワックスが役に立たなくなっていた。少し癖のあるショートの髪をドライヤーで乾かしながら、板間になっている部屋をなんとなく眺める。
床は張り替えていないようで、年月を感じさせる木材はよく手入れされ黒光りしていた。天井も恐らく元のままで、じっと見つめていると人の顔に見えてくる木目がある。
吊り下げタイプの照明はステンドグラス風で、ぶら下がった紐状のスイッチがドライヤーの風で揺れていた。多分これは禅一が取り替えたと思われる。
それほど時間をかけず客の前に出られる姿にはなったが、肝心の客がいないのであまり意味もなかった。
「禅一さん、お待たせしました」
声を掛けると、またしても本に視線を落としていた禅一が振り向く。本当に暇そうだ。
「コーヒーでも飲む?」
「あ、じゃあやります」
「いや大丈夫……一つも二つも一緒だから。──珠雨、ここに来てどれくらい経つんだっけ」
禅一が立ち上がり、サーバーにコーヒーを落とし始める。
「三ヶ月目ですね」
この春から大学に通う為に、居候を始めた。珠雨の実家は大学に通うには少し遠かったので、元々アパートでも借りようかと考えてはいたが、母が知人である禅一に口を利いてくれた。家賃代わりのアルバイトだ。
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