うつろな果実

硯羽未

文字の大きさ
上 下
1 / 16
1 古民家カフェの優男

1-1

しおりを挟む
 大学の授業が終わると、小野田おのだ珠雨しゅうはバスで五分の場所にある古民家カフェ・ヒトエに向かう。
 その日は朝から小雨が降っていたが、なんとなく歩きたい気分だった。無個性な透明の傘を差し、ワイヤレスイヤホンでバンドネオンの音色を聴きながら、煉瓦の歩道を一人歩く。
 先日梅雨入りした。その季節を嫌う人も少なくはないだろう。けれど重たい雨雲の空は嫌いではない。珠雨は小さい頃から雨が好きだった。
 ヒトエに付く頃には、小雨の所為で少し服が湿り気を帯びていた。

「帰りましたぁ」
 古民家を改造したこのカフェにやってきたのは、客としてではない。ここは珠雨の居候先であり、アルバイト先でもあった。
 奥の席で店主の浅見あざみ禅一ぜんいちが暇そうに本を読んでいたが、珠雨の姿を認め笑顔を見せる。カフェの名称であるヒトエというのは禅の字の訓読みで、禅一の名前から取ったものだ。
「結構濡れてるなあ。歩いてきたの?」
 禅一は線の細い優男で、大抵白シャツに黒のスキニーパンツというような、シンプルな服装を好んでいるようだった。華奢だが背は結構高い。楕円形の眼鏡と、針の沢山ついた腕時計を身につけている。年の頃は三十前後。
 いい感じにくたびれたこの家を禅一が買い取り、自宅兼カフェに作り直したのは三年ほど前になるらしい。これ一本で果たして生活には困らないのか、若干心配になる程度の集客率だ。
 店内に流れる音楽と、外から聞こえる雨音に、禅一のページをめくる乾いた音が混じり合う。
 静かだ。
 珠雨はこの静けさが好きだった。
「すぐ着替えてきます」
 禅一の横を通り過ぎ、間借りしている二階の部屋へ向かう前に、店内を見回したがやはり客の姿はない。あるいはたまたまこの時間に誰もいなかっただけかもしれないが、いつ人員削減されても不思議ではなかった。
 カフェと言っても、チェーン店などとは違い決まった制服はない。バイトの都度服を選ぶのが面倒だった珠雨は、仕事用の服を何着か自分で決めている。古民家カフェに堅苦しい恰好は合わない。禅一に倣ったわけではないが、白シャツにデニムパンツ。普段の珠雨と大して代わり映えもしないが、小綺麗に見える物を選んでいた。
「う……ベタつく」
 髪が湿気に負けて、ヘアワックスが役に立たなくなっていた。少し癖のあるショートの髪をドライヤーで乾かしながら、板間になっている部屋をなんとなく眺める。
 床は張り替えていないようで、年月を感じさせる木材はよく手入れされ黒光りしていた。天井も恐らく元のままで、じっと見つめていると人の顔に見えてくる木目がある。
 吊り下げタイプの照明はステンドグラス風で、ぶら下がった紐状のスイッチがドライヤーの風で揺れていた。多分これは禅一が取り替えたと思われる。
 それほど時間をかけず客の前に出られる姿にはなったが、肝心の客がいないのであまり意味もなかった。


「禅一さん、お待たせしました」
 声を掛けると、またしても本に視線を落としていた禅一が振り向く。本当に暇そうだ。
「コーヒーでも飲む?」
「あ、じゃあやります」
「いや大丈夫……一つも二つも一緒だから。──珠雨、ここに来てどれくらい経つんだっけ」
 禅一が立ち上がり、サーバーにコーヒーを落とし始める。
「三ヶ月目ですね」
 この春から大学に通う為に、居候を始めた。珠雨の実家は大学に通うには少し遠かったので、元々アパートでも借りようかと考えてはいたが、母が知人である禅一に口を利いてくれた。家賃代わりのアルバイトだ。
しおりを挟む

処理中です...