旧作の空と新作の空

藤也いらいち

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旧作の空と新作の空

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「明日午前零時より、さそり座の空を施行します」

 携帯端末から落ち着いた男の声が流れた。

 時間を確認する、十八時五十六分。空が替わるまであと約五時間。あまり時間はない。高鳴る鼓動をどうにか落ち着かせようとタクトは深呼吸をした。はやる気持ちをおさえて出掛ける準備をして自室から出る。国民放送のアナウンスは母も聞いていたようで、タクトの顔を見て心配そうな顔をした。

「行くの?」

「うん、行ってくるよ」

 タクトは用意したヘルメットを見せながら母を安心させるように笑う。

「この日を待ってたんだ、てんびん座の空が落ちる日を」

 タクトの表情を見た母は観念したように息をつくとタクトの肩に優しく触れた。

「気を付けてね」

 母の言葉にうなずいて外に出る。まだ少し明るい空にそっと吹く風がほほを撫でた。今の時間、風は北から吹く。

 世界各地で起こった異常気象から引き起こされた大飢饉による人口減少。それを発端に起こった世界情勢の混乱。結果として地上の生活に耐えきれなくなった人間が地底に住むようになって六十年がたった。人工的に作られた太陽で照らされた地底は、管理された気候と気温で地上より安定した食物生産を実現している。地上に残ったほとんどの人間が地底に移住し、飢えの心配がなくなったことに安堵した。生活基盤も整い、地底で暮らす為の技術もどんどん研究が進み人々は地上にいた頃と何らかわりない生活を取り戻すことに成功したのだ。

 唯一、空を除いて。

 人々は星空を見ることを夢見た。青空を渇望した。
 そして研究者達はこぞって空の再現方法を研究しはじめる。

 研究結果はタクトの頭上に煌々と輝いていた。

 空の再現に成功したのは今から四十二年前、しかし完璧な再現とはいかず、六年に一度交換が必要なものだった。六年間人々を見守ってきた空、通称てんびん座の空は今日役目を終えて剥がれ落ちる。


「オレの星座と同じてんびん座の空が落ちるんだ。その欠片がほしい」


 タクトがそう言い出したのは、四年前の十月十三日、タクトの八歳の誕生日だった。

 昔、一回目に空が落ちたときは、文字通り星が降る光景に人々は熱狂したという。しかし回数を重ねるごとに人々は落ちる空に興味を失う。空の欠片は道端の石となんら変わりがないものになった。

 八歳の子供の言うことを、周囲の大人はすぐに忘れるだろうとまともに取り合うことはなかった。しかし、タクトは本気だったのだ。

 十一歳の誕生日の夜にすこし緊張した顔で、来年の六月二十一日、てんびん座の空が落ちる日の計画を両親に打ち明けた。

 空が落ちるのは夜、七時頃からすこしづつ空がひび割れ、空がふわふわと降り始める、そして日付が変わる頃には完全に崩れ落ちるのだ。九時を過ぎた辺りから換気が強くなり激しい風が吹いて、落ちた空は完全に地上に排出される。手で触れられるサイズの欠片はそう落ちてこない。しかしそれは人の住む区画の話であり、街の外の農村部の、さらに外周の換気口があり天井に近くなる森には、手にできる欠片が落ちるのは有名な話であった。そこなら欠片を手に入れられる。ただ、空が落ちる間の強風は森が一番危険だ。父はそこまで聞いて大きく息をはいた。

「欠片を取りに行くのは危険なことだとわかっているんだろう、それでも行くのか?」

 問いかける父の目はとても厳しいもので、タクトは自分のできる精一杯の勇気で父を見た。

「行く、行きたいんだ」

 父はタクトの顔をみて、目を細めた。小さくうなずくと椅子から立ち上がり、タクトの肩に軽く触れる。触れられた右肩からじんわりと体温が伝わって、タクトは自分の体温が下がっていたことに気がつく。

「そうか、わかった」

 そう言って父はそのまま部屋を出て行く。その背中を目で追いながらタクトは人生初の冒険に小さな不安と大きな期待を感じていた。



 それから約七ヶ月が過ぎて、今日、六月二十一日が来た。夏至にあたる日、この地底の外では一年で一番昼が長い日。

 都市区画はバスが通っている。それを使って街の外れまで出るとそこから先は農村部だ。普段であれば自転車を使うが、夜の暗い道そして強風の中で自転車は危ない。徒歩で行くしかなかった。
 都市区画の東の端、農村部との境のバス停で下りるとそこには父が立っていた。

「父さん?」

「冒険に仲間は必須だろう。入れてくれ」

 今朝出かけた時のスーツではなく動きやすそうなジャージに長袖のTシャツ、スニーカー姿の父は、職場で服を着替えてきたと言ってリュックサックから大人サイズのヘルメットを取り出して笑った。その笑顔がタクトはなんだかいたずらに成功した時の友人のように感じて、思わず声を上げて笑ってしまった。

「いいよ。父さん。一緒に行こう」

 父と並んで街を抜けると、急に建物が少なくなった。都市部から一番近くの森林は東へ歩いて二時間、一人で歩くと思っていた道のりも仲間がいれば心強い。

 空を見上げると、ひび割れ出したてんびん座の空の隙間から小さな欠片が煌めきながら綿毛のように舞っていた。

「タクトはなんで欠片が欲しいんだ?」

 父に聞かれてタクトは空を舞う欠片を眺めながら口を開く。

「二年生のころ、学校で習ったんだ。空は消耗品だって。青空の下で走り回るためには時々交換しないといけないって」

「そうだな」

「でも、オレの見ているこの空のさらに上には取り替える必要のない空が広がってるんだってさ。父さん見たことある?」

 父は首を振る。タクトはそれを見て頷いた。

「きっとオレたちは、それを見ることはないんだと思う」

 タクトの言葉に父は言葉を詰まらせた。タクトの父も生まれた時から地底に暮らしている。人々が焦がれたという空を実際に見たことはない。

「空は取り替えるものだ。でも、オレは新しい空を見たときに今までの空も忘れたくないんだ。オレが見ている空が偽物だって知った時の欠片が欲しいんだ」

 タクトは笑う。それを見て父は空に視線を向けた。見ることは叶わない本物の空に焦がれる心と、今の空を愛する気持ち。その両方を抱えて、タクトは今日を迎えていた。今を生きる大多数の人々は空に、地上の大地に、諦めのような感情を抱いている。いつか戻ると心に決めた本物の空を人々はとうの昔に子どもの夢物語にしてしまった。

「欠片、手に入るといいな」

 ありきたりな言葉しか出てこないと父が渋い顔をしたのが、タクトはなんだかおかしくて笑った。

「風、強くなってきたな」

 誤魔化す父の言葉にタクトは頷くと、持ってきていた目を守るためのゴーグルをつける。
 舗装された道が砂利に変わり、草が繁りはじめる。草がタクトの膝に擦れるくらいになったときには周囲にも木が増えていた。ここから
は壁に近づくにつれて平坦な道から斜面に変わっていく。

 平常時は人も多く訪れる穏やかな森。しかし、風の強い夜は表情が全く違った。
 時々飛ばされてくるものに注意しながら、木々のうめき声を聞く。

 タクトの背後、風上から流れてきた細かい欠片が木々の間を抜けていく。ひび割れからこちらを覗く新作の空の星の光が、役目を終えた旧作の空の欠片をきらめかせていた。小さな宝石のような欠片が先導者となって道を照らしてくれる。

「父さん、早く行こう」

 タクトは次々と自分を追い越していく欠片に背中を押されるように進める足がどんどん早くなっていく。タクトは父を急かして、少し大きく歩幅を取ったその時、タクトは父に強く腕を引かれた。直後に響く大きな音と衝撃。

「え……」

 大人の背丈ほどもある枝が、タクトの立っていた場所に落ちていた。直撃していたら怪我をしていたであろう大きさに、タクトは血の気が引くのを感じた。

「大丈夫か、タクト」

「……うん」

 首を大袈裟に縦に振って恐怖を振り払う。

 一際強い風が吹き始めた。そろそろ大きな欠片が落ちる時間が近い。
 葉の他に小枝も舞うようになって、風が痛く感じる。顔に当たらないようにタオルを口の周りを覆うようにしながら首に巻いた。
 風の中一歩また一歩進んでいく。歩数にして五十歩、段々と木が少なくなって開けた場所に出た。

 そこが今回の目的地だった。

 森の最奥、小高い丘の頂上。空と地平線がつながる場所。
 空気が抜ける轟音に頭上を見上げると少し高い位置にある細長い排気口が無慈悲に欠片を吸い込んでいる。

「排気口じゃなくて空、ほら」

 初めて間近で見る排気口が稼動する様子に気を取られていたタクトは父に言われて、壁に背を向けて空を見上げる。瞬間、息をのんだ。
 頭上に広がる空のひび割れは先ほどよりも広くなって、端から指の隙間から落ちる砂のように筋を作りながら白く光り落ちている。古い空の残りと新しい空一面に散らばった小さな光の粒たちが、折り重なって二重に輝いていた。時折、格段に大きい光が一直線に伸びているのが見える。

「流れ星だ」

 タクトの言葉は風の轟音に掻き消されて父の耳には届かなかったが、ゴーグル越しに見えるタクトの目の輝きは父の目にしっかりと焼き付いたようだった。

 ただでさえタクトがいつも都市部で見ている星空は街灯で少なくなっている。去年の夏、キャンプに行ったときに見た満天の星空はタクトに強烈な印象を残していたが、そんなもの比にならなかった。これほど神秘的で美しいものはないとタクトは感じた。

 見惚れていると、一筋の光がタクトの方に一直線に流れてきた。

 光は瞬きをするより速くタクトの足元に落ちると、すぐに輝きが弱くなっていく。タクトはすかさず、その光の粒を拾い上げた。

「空の欠片……」

 タクトはそれを大事に握りしめると、また空を見上げる。大きい光の数が増えて、てんびん座の空はもうほとんど残っていない。

「そろそろ帰ろう」

 一層強くなった風の中、タクトが欠片を手にしたことを確認した父が言う。タクトは頷いた。そして落ちきってしまう直前の空を目に焼き付けるように見つめた。

「さよなら、そして、これからもよろしく」

 強風の中呟いたタクトの言葉は手の中の欠片だけが知っている。
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