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ブラック・バニーズ かけら(3)
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その日、ブラック・バニーズに出勤してきた早霧を見て、バックヤードにいた全員ははっと息を飲んだ。
いつもは涼しい顔をしてかわいらしく微笑んでいる早霧の目は、見たこともないほど真っ赤に腫れていた。
思い当たることは幾つかありそうだが、それはすべて一人の男のせいになりそうだ。
従業員同士の恋愛禁止
誰かが不用意に口にすると、そっと見守っている二人のどちらか、あるいは両方がクビになるかもしれない。
スタッフは全員、口をつぐんだ。
しかし、そのままでは今日の勤務は不可能だ。
「早霧ったら、お仕事前に泣ける映画見てきちゃだめでしょ」
シンシアとkeiが早霧の目を冷やしたり温めたりして、一生懸命腫れを取ろうとしてくれた。
が、早霧の気が緩むとふっと涙がふくれてこぼれてしまう。
あまりに美しい泣き顔についつい見惚れてしまいそうになるのに気をつけながら、皆思うことは同じだった。
長谷川、許さない!
結局、すぐに優也に見つかってしまい、他のスタッフはフロアに出された。
残された早霧に優也がどんな魔法を使ったのか、15分遅れでフロアに現れた早霧は、目元をほんのり赤くした儚げな黒うさぎ姫だった。
健気な姫は一生懸命接客をしたが、いつもと違う様子に早霧を心配する客はあとを絶たなかった。
今日、長谷川は休みで、カウンターでは高橋チーフと穂積がドリンクを作っていた。
もし長谷川が出勤だったら、早霧は持っていなかっただろう。
ようやくその日の業務を終えた誰もがそう思った。
帰り支度を済ませた早霧に声をかけたのは優也だった。
翌日の予定を確認すると、優也は早霧と並んでブラック・バニーズを出た。
人が動く気配を感じて、早霧は目を覚ました。
同じベッドでぐっすり眠っている優也を起こさないようにベッドから滑り下り、ゲストルームを出ると息が止まりそうだった。
「やあ、おはよう」
そこには早霧たちバニーズが畏敬の念を払う桐谷が、コーヒーメーカーで落としたコーヒーをマグカップに注いでいる姿があった。
優也と桐谷が一緒に暮らしているのは聞いていた。
しかし、実際に目にするとインパクトがまったく違う。
「早霧もコーヒーでいいかい?
それとも紅茶?
いるなら冷蔵庫に水とグレープフルーツジュースがあったはずだけど」
ブラック・バニーズ以外で桐谷に会うのは初めてだ。
生活感あふれる姿もそう。
早霧は呆然と立っていた。
「ああ、優也のパジャマを借りたんだね。
それもかわいいよ」
さらりとした誉め言葉にはっと意識を戻す。
「桐谷様…」
「おいおい、やめてくれよ、ここはブラック・バニーズじゃない」
「桐谷……さん?」
「まぁ、そんなところだな」
桐谷はマイペースでコーヒーを飲みながら朝食の準備をする。
「君も食べるだろう?
スクランブルエッグでいいかい?」
「あ、はい。
お手伝いします」
こうして20分後、二人は向かい合ってトーストをかじっていた。
桐谷の作ったスクランブルエッグはふわふわとろとろして、早霧は顔をほころばせた。
「すっごくおいしいです、桐谷様…あ、桐谷さん」
「そ?
ありがとう」
桐谷は薄く笑いながら、黙々と食べた。
早霧も静かに食べた。
朝食の片付けも終わり、いつもなら桐谷はソファに座って朝刊を読むのだが今日は違った。
ソファの横にパジャマ姿の早霧を座らせている。
早霧はすでに私服を着ている桐谷の横で、緊張して小さくなって座っている。
着替えたいと思ったが、昨日着ていた服は優也がどこかにやったのか見当たらないし、桐谷にそんなことを頼むのも気が引ける。
「優也がベッドに帰ってこなかったのは、君がいたからなんだね」
朝から生々しいことを聞かされ、早霧はくらりとした。
桐谷と優也が同じベッドで眠っている姿を想像するが、それが抱き合っているのか、それとも全裸でむつみ合っているのか。
「それで、どうしたの?」
早霧は桐谷を黙ったまま見た。
桐谷は早霧の顎に指をかけ、少し上を向かせた。
「寝てる?
食べてる?
少し見ない間にやつれたね」
そう。
早霧の目に涙がみるみるうちに盛り上がっていく。
会いたかった。
しばらくブラック・バニーズに来店しない桐谷にとてもとても会いたかった。
「桐谷…さ…ま…」
早霧は涙を流した。
それはあとからあとから流れていった。
「泣いてる姿も綺麗だね、早霧」
その言葉を聞くと早霧はたまらなくなって、桐谷の胸にすがりつきわんわんと泣いた。
桐谷は自分の服が濡れるのは構わず、早霧を抱き寄せ背中をなでた。
もしかしてこのことで声を上げて泣いたのは、初めてかもしれない。
早霧はしばらくそうしていたが、少しずつ泣き止んだ。
その間もずっと桐谷は早霧の背中をなでていた。
そして頃合いを見計らって言った。
「長谷川となにかあったの?」
ずばり聞いてくる桐谷に、思わず涙が止まった。
早霧はうなずき、ぽつぽつと話し出した。
内容は、「秘めた恋」への苦しさだった。
内緒の関係。
すれ違う生活。
嫉妬。
言い出せない不安。
そのことで長谷川と意見が合わなかったらしい。
しばらくは黙って聞いていた桐谷だったが、咎めるわけでも諭すわけでもなく早霧に静かに言った。
「いつまで守られたばかりいるクィーンでいるの?」
早霧が細い首をくっと上げ、桐谷を見た。
「チェスのクィーンを知ってる?
クィーンも戦えるでしょ?
私は最強のクィーンに会ったことがあるよ」
桐谷は面白そうに言う。
「それって、優也さんのことですか?」
「さあね。
ただ逃げきれなかったらしいよ、哀れなキングは」
早霧はこの二人のことを言っているのだと確信した。
「店にバレるのがそんなにだめなの?」
「だめです!
長谷川さんはブラック・バニーズでカクテルを作るのがとっても好きなんです。
俺とのことでクビになるようなことがあったら、俺、店を辞めます」
「それでもいいんじゃない?
早霧が店を辞めたら、従業員同士じゃなくなる」
そこは、早霧の我儘だった。
落ち着いたライティングのカウンターの向こうに立つ長谷川を明るいフロアからそっと見るのが、早霧は好きだった。
その姿が一番格好いい長谷川だと思っていた。
20170415
いつもは涼しい顔をしてかわいらしく微笑んでいる早霧の目は、見たこともないほど真っ赤に腫れていた。
思い当たることは幾つかありそうだが、それはすべて一人の男のせいになりそうだ。
従業員同士の恋愛禁止
誰かが不用意に口にすると、そっと見守っている二人のどちらか、あるいは両方がクビになるかもしれない。
スタッフは全員、口をつぐんだ。
しかし、そのままでは今日の勤務は不可能だ。
「早霧ったら、お仕事前に泣ける映画見てきちゃだめでしょ」
シンシアとkeiが早霧の目を冷やしたり温めたりして、一生懸命腫れを取ろうとしてくれた。
が、早霧の気が緩むとふっと涙がふくれてこぼれてしまう。
あまりに美しい泣き顔についつい見惚れてしまいそうになるのに気をつけながら、皆思うことは同じだった。
長谷川、許さない!
結局、すぐに優也に見つかってしまい、他のスタッフはフロアに出された。
残された早霧に優也がどんな魔法を使ったのか、15分遅れでフロアに現れた早霧は、目元をほんのり赤くした儚げな黒うさぎ姫だった。
健気な姫は一生懸命接客をしたが、いつもと違う様子に早霧を心配する客はあとを絶たなかった。
今日、長谷川は休みで、カウンターでは高橋チーフと穂積がドリンクを作っていた。
もし長谷川が出勤だったら、早霧は持っていなかっただろう。
ようやくその日の業務を終えた誰もがそう思った。
帰り支度を済ませた早霧に声をかけたのは優也だった。
翌日の予定を確認すると、優也は早霧と並んでブラック・バニーズを出た。
人が動く気配を感じて、早霧は目を覚ました。
同じベッドでぐっすり眠っている優也を起こさないようにベッドから滑り下り、ゲストルームを出ると息が止まりそうだった。
「やあ、おはよう」
そこには早霧たちバニーズが畏敬の念を払う桐谷が、コーヒーメーカーで落としたコーヒーをマグカップに注いでいる姿があった。
優也と桐谷が一緒に暮らしているのは聞いていた。
しかし、実際に目にするとインパクトがまったく違う。
「早霧もコーヒーでいいかい?
それとも紅茶?
いるなら冷蔵庫に水とグレープフルーツジュースがあったはずだけど」
ブラック・バニーズ以外で桐谷に会うのは初めてだ。
生活感あふれる姿もそう。
早霧は呆然と立っていた。
「ああ、優也のパジャマを借りたんだね。
それもかわいいよ」
さらりとした誉め言葉にはっと意識を戻す。
「桐谷様…」
「おいおい、やめてくれよ、ここはブラック・バニーズじゃない」
「桐谷……さん?」
「まぁ、そんなところだな」
桐谷はマイペースでコーヒーを飲みながら朝食の準備をする。
「君も食べるだろう?
スクランブルエッグでいいかい?」
「あ、はい。
お手伝いします」
こうして20分後、二人は向かい合ってトーストをかじっていた。
桐谷の作ったスクランブルエッグはふわふわとろとろして、早霧は顔をほころばせた。
「すっごくおいしいです、桐谷様…あ、桐谷さん」
「そ?
ありがとう」
桐谷は薄く笑いながら、黙々と食べた。
早霧も静かに食べた。
朝食の片付けも終わり、いつもなら桐谷はソファに座って朝刊を読むのだが今日は違った。
ソファの横にパジャマ姿の早霧を座らせている。
早霧はすでに私服を着ている桐谷の横で、緊張して小さくなって座っている。
着替えたいと思ったが、昨日着ていた服は優也がどこかにやったのか見当たらないし、桐谷にそんなことを頼むのも気が引ける。
「優也がベッドに帰ってこなかったのは、君がいたからなんだね」
朝から生々しいことを聞かされ、早霧はくらりとした。
桐谷と優也が同じベッドで眠っている姿を想像するが、それが抱き合っているのか、それとも全裸でむつみ合っているのか。
「それで、どうしたの?」
早霧は桐谷を黙ったまま見た。
桐谷は早霧の顎に指をかけ、少し上を向かせた。
「寝てる?
食べてる?
少し見ない間にやつれたね」
そう。
早霧の目に涙がみるみるうちに盛り上がっていく。
会いたかった。
しばらくブラック・バニーズに来店しない桐谷にとてもとても会いたかった。
「桐谷…さ…ま…」
早霧は涙を流した。
それはあとからあとから流れていった。
「泣いてる姿も綺麗だね、早霧」
その言葉を聞くと早霧はたまらなくなって、桐谷の胸にすがりつきわんわんと泣いた。
桐谷は自分の服が濡れるのは構わず、早霧を抱き寄せ背中をなでた。
もしかしてこのことで声を上げて泣いたのは、初めてかもしれない。
早霧はしばらくそうしていたが、少しずつ泣き止んだ。
その間もずっと桐谷は早霧の背中をなでていた。
そして頃合いを見計らって言った。
「長谷川となにかあったの?」
ずばり聞いてくる桐谷に、思わず涙が止まった。
早霧はうなずき、ぽつぽつと話し出した。
内容は、「秘めた恋」への苦しさだった。
内緒の関係。
すれ違う生活。
嫉妬。
言い出せない不安。
そのことで長谷川と意見が合わなかったらしい。
しばらくは黙って聞いていた桐谷だったが、咎めるわけでも諭すわけでもなく早霧に静かに言った。
「いつまで守られたばかりいるクィーンでいるの?」
早霧が細い首をくっと上げ、桐谷を見た。
「チェスのクィーンを知ってる?
クィーンも戦えるでしょ?
私は最強のクィーンに会ったことがあるよ」
桐谷は面白そうに言う。
「それって、優也さんのことですか?」
「さあね。
ただ逃げきれなかったらしいよ、哀れなキングは」
早霧はこの二人のことを言っているのだと確信した。
「店にバレるのがそんなにだめなの?」
「だめです!
長谷川さんはブラック・バニーズでカクテルを作るのがとっても好きなんです。
俺とのことでクビになるようなことがあったら、俺、店を辞めます」
「それでもいいんじゃない?
早霧が店を辞めたら、従業員同士じゃなくなる」
そこは、早霧の我儘だった。
落ち着いたライティングのカウンターの向こうに立つ長谷川を明るいフロアからそっと見るのが、早霧は好きだった。
その姿が一番格好いい長谷川だと思っていた。
20170415
応援ありがとうございます!
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