空と傷

Kyrie

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第8話

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「ちょっと寄りたいところがあるんだ」と、カヤはルーポにまだ歩けるか尋ねた。
ルーポが「大丈夫です」と答えると、カヤはうなずき歩き始めた。

リノとジュリアスの家からそう遠くないところにある下宿屋にカヤは入った。
ルーポは初めて王都に来た時のことを少し思い出し、懐かしくなった。
カヤについてある部屋に入った。
ベッドと小さなチェストがあるだけの狭い部屋だった。

「ここで暮らしているんだ。
たまに遊びに来い」

カヤはそう言うとチェストから小さな布袋を取り出し、中の金貨を確認すると、その中の1枚をルーポに渡した。

「お守りだと思って持っておけ。
少しはおまえを助けてくれるかもしれない」

そして残りを懐に仕舞い込んだ。

「そんな、いただけません」

ルーポが手のひらに乗せられた金貨を握り込まないようにしたまま、おどおどと焦っている。

「じゃあ、出世払いで返してくれ。
じゃあ、出るぞ」

それだけ言うとカヤは部屋を出ていこうとした。
ルーポは金貨の処理をどうしたらいいのかわからず困ってしまったが、このまま置いていかれるのも困る。
仕方なくルーポはズボンのポケットの内側にある小さな隠しポケットの中にそれをしまい込み、急いでカヤの後を追った。



自分の前を歩くカヤの背中を見ながら、ルーポは不思議に思った。
アルベルトのいる大きな屋敷がカヤの実家で、あそこにはカヤの部屋もまだ残されており、このままするりと生活してもなんの支障もなさそうだ。
それなのに、なぜカヤはこんなに窮屈なところに住んでいるんだろう。

ルーポは疑問に思ったが、なぜか尋ねる気になれなかった。
なんだか、相手の中に踏み込みすぎる気がした。



「おまえはいいのか?」

不意にカヤがルーポに聞いた。

「一昨日、出会ってからそのまま連れてきてしまったからな。
ルーポは自分の家に戻らなくてもいいのか?」

あ、と小さな声を上げ、ルーポは戻りたいと言った。



二人はお互いが出会ったベンチのそばにある廃墟へと向かった。
屋根も崩れ落ち、これで風雨をしのいでいたのかと思うと胸が苦しくなる思いで、カヤはルーポが廃墟に入るのを見ていた。
かろうじて「棚」と思われるところからルーポは大事そうに何かを取り出した。
それはぼろぼろの布に包まれた簡易の上皿天秤と乾燥させた薬草だった。

「おまえの商売道具だな」

ルーポは力強くうなずいた。


仕立屋に行ったとき、店主から基本の薬草を入れた薬袋を携えるのが薬師の正装なのだと教わった。
この中に何を入れるのかは、その薬師の気に入りであり、得意とする薬草なのだと聞いた。
ルーポが所持していた薬草は種類は少なかった。

「ここは前王の薬草園だったところだと聞いています。
前の内乱で攻撃されてこんなふうになったけど、あっちのほうにはまだ薬草が生えていて、ありがたいです」

ルーポが示したところは草ぼうぼうで、カヤにはどれが雑草でどれが薬草なのかも見当がつかなかったが、ルーポは頬を緩めてそこを見ていた。

ひとしきり辺りを見回すと「ありがとうございます。帰りましょう」とルーポは天秤と薬草を持って言った。
カヤはうなずき、二人は帰路についた。




屋敷に戻るとさっそくアルベルトが二人を浴室に押し込んだ。
今回は驚くことなく二人は素直にそれに従い、手早く服を脱ぎ、身体と髪を洗い、湯船につかった。
ヴェルミオンが渡してくれた目の粗い櫛のお陰で、ルーポの細く繊細な髪は絡まることが少なくなった。

「やっぱり短くなったなぁ」

カヤはまたルーポの首の後ろから後頭部にかけて撫で上げた。
ルーポはくすぐったくて、少し身をよじったが、それだけで止まっていた。

「カヤ様の髪は長いですね」

髪を洗うため結び紐が解かれ、滝のように流れる真っすぐな黒髪をルーポは眺める。
そして、右肩のピンクの花のタトゥーをまじまじと見た。
カヤは器用に長い髪をまとめて左の肩にかけ、右肩が露わになるようにしてやった。
散り砕ける水しぶきや花弁一枚一枚への細かい彩色、そして右頬の深い傷痕までよく見えるようになった。
ルーポは不躾にタトゥーを凝視する。

こんな鮮やかで繊細なタトゥーは見たことがない。
綺麗だなぁ。

そして、このような技を持つヤピリという国に関心がいった。

「カヤ様、ヤピリというのはどんなところですか?」

タトゥーに目を奪われたまま、ルーポが尋ねた。
おどおどしたところのない、無邪気な好奇心にカヤの頬がふわりと緩んだ。

「メリニャから随分遠い国だ。
たくさんの国も山も砂漠も越え、最後には海も越えなければならない」

「海?」

ルーポは心底驚いたような声を上げた。

「本当にあるのですか、メリニャよりも大きな水が?
大量にあるのに、飲むことができない不思議な水があるのですか?」

「ああ、あるぞ。
俺はこの目で見てきた」

言葉では知ってはいるが、「海」というものをルーポは想像できずにいた。

「小さな国なのに、いや、小さな国だからこそなのか、暑い季節もあるし、雪が降る寒い季節もある」

「雪!」

「海」に続いて、書物でしか目にしたことのない「雪」までも耳にするとはルーポは思ってもいなかった。
薬局やくきょく内にある小さな図書館には、もちろん薬草に関する本が多く収蔵されており、海辺に生える植物も雪の下に眠っているのを掘り起こして使う薬草も載っていたので、ルーポは知識として知っていた。

「メリニャより湿度が高くて、蒸し暑いのが難点だが、あとはいいところだった。
平和で人は勤勉で、そして飯が美味い」

カヤは微笑みながら続ける。

「空はいつも、おまえの目のように淡い青色をしていたよ。
雪の降る季節と蒸し暑い季節の間に、このピンクの花が一気に咲くんだ。
それが淡い青色に映えて、美しかった。
ルーポの目を見ると、花のことも一緒に思い出すよ」

カヤはルーポの目がよく見えるように後頭部に手を添えると、少し上を向かせた。
ルーポが大きな青い目でカヤを見た。

「懐かしいな」

「そんな遠いところに、カヤ様はなぜ行かれたのですか」

「……あ、ああ」

柔らかな表情をしていたカヤの顔が少し歪んだ。
ルーポは失敗した、と思った。
聞いてはいけないことを尋ねてしまったのだと察した。

「傭兵としてヤピリに行ったんだ」

「ようへい?」

「雇われ兵のことだ。
金をもらえれば、どんな国の兵士にもなる」

厳しい声の響きにルーポは身を縮めた。

立派な騎士様なのに、どうして雇われ兵なんて…

大きなカヤの手はまだルーポの後頭部に添えられたままで、ルーポはカヤの顔を見上げるしかできなかった。

「俺の父親は自分の後を俺に継がせようとしていた。
が、生憎、俺にはその才がなくてな。
勝手に騎士養成学校に入って、卒業すると同時に傭兵としてメリニャを出た」

確か騎士の養成学校の卒業は十五歳くらいだったはずだ。
それから単身、雇われ兵として生きてきたと聞き、ルーポは自分よりカヤのほうが大変だったのではないかと思い、自分が少し恥ずかしくなり、そして小さなカヤの身を案じた。

「そこまでするとやっと父は俺を諦め、今は弟が後を継ごうとしている。
あいつのほうが才がある。
試験に無事に合格するはずだ」

カヤはにやりと笑い、ルーポの頭から手を外した。

「いろんな国があった。
いろんな戦いに出た。
その中でもヤピリは、いい国だった」

そう言うと、カヤはざばりと湯船から立ち上がった。
ルーポも慌てて立ち上がる。
急すぎて軽く立ち眩みがした。
よろけたルーポの身体をカヤは難なく支えた。
一瞬、裸の胸に抱き込まれたようになった。

「す、すみません」

慌てるルーポをカヤは離さなかった。

「まだふらついている。
急ぐんじゃない」

ほんの少しの間、濡れた肌が密着した。
熱かった。

「いいか、ゆっくり動くんだぞ」

カヤの言葉に静かにうなずく。
そしてカヤに腕を支えられながら、ルーポは浴槽から出た。

「あ、ありがとうございます」

ルーポが礼を言っている間に、カヤも浴槽から上がった。

「気をつけろよ」

カヤはくしゅりとルーポの濡れた髪をなで、浴室から出ていった。
ルーポも、今度は慎重になりながらそれについていった。










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