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演奏家の正体は重要ではない。それよりもゆかりさんの好みのお茶はどれだ?
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滝川から送られてきた課題には驚かされた。
全体的にクオリティは高いがミックスバランスが悪いのが惜しい。タイトルすらつけないという学生は非常に珍しく、他人になにかを伝えるつもりのない自己との対話という印象だった。
ピアノとチェロで構成された曲はどちらも打ち込みではなく生演奏。その性格からして本人の演奏以外ありえない。特にこのチェリストは素晴らしい腕前で自分の作品にも使いたいと思えるだけの素質があった。
首の動きが小さく低いポジションで左肘が下がる、頭と楽器の距離が小さい豊かな響き。自己との対話を積み重ね、練習を欠かさない真摯さを感じる。
男性奏者に多い特徴を備えているが、この演奏は間違いなく【和音】を騒がせているシリアルのものである。
滝川は正体を隠すつもりがないのか、単に不用心なだけなのか。
少し考えればわかってしまう。
滝川がいつも使っているトートバッグはコーンフレークの宣伝キャラクターが描かれているし、普段はチェロケースまで持ち歩いている。
その時点で予測は出来ていた。
唯一想定外だった事実は、滝川遙が女子学生であった点だ。
人を見た目で判断するのはよくない。しかし、彼女は男性的な装いをしている。つまり、普段着ているシャツが紳士服であったり、女性にしては平均よりも背が高い。それにぼそぼそと自信がなさそうに話す。
いや、全て鷲一の思い込みが招いた失敗だ。
やや強引ではあったが滝川をゼミ生として引き受けることには成功し、彼女の正体は隠す方針で合意した。
しかしあがり症を治すにはかなり時間がかかりそうだ。
なにより、一番重要な答えが手に入っていない。
「鷲尾先生、ありがとうございます」
目の前のソファーで微笑むゆかりさん。
散々悩んでフルーツフレーバーの紅茶を出したがこれで正解だっただろうか?
「いえ、才能ある学生をサポートするのは私の役目ですので」
実際、滝川遙の才能自体は素晴らしい。手を貸したいと思わせるだけの才能がある。
「滝川さん、演奏だけでなく作曲も素晴らしいですね。鷲尾先生のゼミで更に伸びると思うと楽しみです」
「ええ、ええ! 勿論! 卒業制作ではそれは素晴らしい大作を仕上げられるように指導します!」
しっかりと握るつもりだった手が、いつの間にかするりと逃げている。
つれない。
しかしそんなところも魅力的だ。
「あ、そろそろ午後のレッスンがありますので、私はこれで」
「え? あ……あの、よければお土産に紅茶を」
「あ、ごめんなさい。紅茶は苦手で……」
なんだと。
鷲一は硬直する。
散々ティーバッグを取り寄せいろいろ評判を確認したのに肝心のゆかりさんは紅茶が苦手?
いつの間にか立ち去ってしまったゆかりさんと入れ替わり、課題を出していた滝川が現れる。
「えっと……先生、どうかしましたか?」
「……いえ……ゆかりさ……三波先生が紅茶が苦手だと知らずにフルーツティーを出してしまいまして……」
「あー、三波先生いっつもオレンジジュースですもんね」
「え?」
なぜそんな情報を滝川が知っているのか。
「水筒に、毎朝自家製のオレンジジュースを持って来ているそうです。一度分けて貰ったことがあります」
羨ましい。
それと同時に、滝川を使えると思ってしまう。
ゆかりさんが気にかけている学生なのだ。ゆかりさんの情報を手に入れられるに違いない。
「滝川さん、期待していますよ」
「へ?」
どうやら鷲一の発言を警戒したらしい。滝川は背筋を伸ばし、それから課題の評価に怯えながら待機するような姿勢を見せた。
全体的にクオリティは高いがミックスバランスが悪いのが惜しい。タイトルすらつけないという学生は非常に珍しく、他人になにかを伝えるつもりのない自己との対話という印象だった。
ピアノとチェロで構成された曲はどちらも打ち込みではなく生演奏。その性格からして本人の演奏以外ありえない。特にこのチェリストは素晴らしい腕前で自分の作品にも使いたいと思えるだけの素質があった。
首の動きが小さく低いポジションで左肘が下がる、頭と楽器の距離が小さい豊かな響き。自己との対話を積み重ね、練習を欠かさない真摯さを感じる。
男性奏者に多い特徴を備えているが、この演奏は間違いなく【和音】を騒がせているシリアルのものである。
滝川は正体を隠すつもりがないのか、単に不用心なだけなのか。
少し考えればわかってしまう。
滝川がいつも使っているトートバッグはコーンフレークの宣伝キャラクターが描かれているし、普段はチェロケースまで持ち歩いている。
その時点で予測は出来ていた。
唯一想定外だった事実は、滝川遙が女子学生であった点だ。
人を見た目で判断するのはよくない。しかし、彼女は男性的な装いをしている。つまり、普段着ているシャツが紳士服であったり、女性にしては平均よりも背が高い。それにぼそぼそと自信がなさそうに話す。
いや、全て鷲一の思い込みが招いた失敗だ。
やや強引ではあったが滝川をゼミ生として引き受けることには成功し、彼女の正体は隠す方針で合意した。
しかしあがり症を治すにはかなり時間がかかりそうだ。
なにより、一番重要な答えが手に入っていない。
「鷲尾先生、ありがとうございます」
目の前のソファーで微笑むゆかりさん。
散々悩んでフルーツフレーバーの紅茶を出したがこれで正解だっただろうか?
「いえ、才能ある学生をサポートするのは私の役目ですので」
実際、滝川遙の才能自体は素晴らしい。手を貸したいと思わせるだけの才能がある。
「滝川さん、演奏だけでなく作曲も素晴らしいですね。鷲尾先生のゼミで更に伸びると思うと楽しみです」
「ええ、ええ! 勿論! 卒業制作ではそれは素晴らしい大作を仕上げられるように指導します!」
しっかりと握るつもりだった手が、いつの間にかするりと逃げている。
つれない。
しかしそんなところも魅力的だ。
「あ、そろそろ午後のレッスンがありますので、私はこれで」
「え? あ……あの、よければお土産に紅茶を」
「あ、ごめんなさい。紅茶は苦手で……」
なんだと。
鷲一は硬直する。
散々ティーバッグを取り寄せいろいろ評判を確認したのに肝心のゆかりさんは紅茶が苦手?
いつの間にか立ち去ってしまったゆかりさんと入れ替わり、課題を出していた滝川が現れる。
「えっと……先生、どうかしましたか?」
「……いえ……ゆかりさ……三波先生が紅茶が苦手だと知らずにフルーツティーを出してしまいまして……」
「あー、三波先生いっつもオレンジジュースですもんね」
「え?」
なぜそんな情報を滝川が知っているのか。
「水筒に、毎朝自家製のオレンジジュースを持って来ているそうです。一度分けて貰ったことがあります」
羨ましい。
それと同時に、滝川を使えると思ってしまう。
ゆかりさんが気にかけている学生なのだ。ゆかりさんの情報を手に入れられるに違いない。
「滝川さん、期待していますよ」
「へ?」
どうやら鷲一の発言を警戒したらしい。滝川は背筋を伸ばし、それから課題の評価に怯えながら待機するような姿勢を見せた。
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