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第三章 王子の秘密
ヒラソル宮
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土曜日。エルネストは母のいるヒラソル宮へ来ていた。学園からは馬車で五分ほど。すぐ近所にもかかわらず、入学以来ここへ来るのは初めてだった。
「ご無沙汰して申し訳ありませんでした。母上」
エルネストの謝罪に対し、言葉の話せない母のフアナ王女は、それでも「ふぇる」とか「える」というような声をあげる。エルネストの名を呼ぼうとしているのだろう。
エルネストがいるのは、ヒラソル宮で最も広い部屋、フアナが来客を迎えるための広間だった。部屋の一辺に、十人ほどのフアナ付きの女官たちが静かに侍っている。エリオはここにはいない。フアナへの面会はできるだけ人数を絞る必要があるため別室で待機している。
「少し、外に出ませんか。今日は天気が良いので、きっと気持ちいいですよ」
広間のすぐ外にはテラスがあり、その先には緑豊かな庭が広がっている。エルネストは母を誘って庭へと出た。女官たちも二人に付き従う。
広大な庭は庭師たちによって綺麗に手入れされていた。一面の緑の中にアイリスがいくつも藍色の花を咲かせ、その花々の間をを蝶が飛び回っていた。中央には魔力を利用した噴水があり、その水は庭の外周の堀へと注いでいた。
「先月、久しぶりにフェリペに会いました。ペドロ伯父様の息子の。もう九歳になりましたので、堅信礼でウルフィラに来ていたのです」
フアナには言葉を返すことはできないけれど、母に逢ったときはこうしてエルネストの方から色々と語りかけるのが習慣だった。フアナはエルネストの方へ優しく微笑みかけながら、時々うなずいたりしている。あくまで話せないだけで理解はしているのだ。
こうして母と語らうのがエルネストは好きだった。ここにはエリオを含めた他人がいない。いるのは彼自身と母と、母の世話に生涯を捧げヒラソル宮の外へ出ることのない女官たちだけだ。ここでならいくら弱音を吐いても、ヒラソル宮の外へ漏れることはない。泣き言はここに置き捨ててしまって、帰ってからはまた気丈な自分を保つことができる。
「フェリペは私を慕ってくれています。ですが私は自分が尊敬されるに足る人物かどうか自信がありません。彼を失望させないように、学業も実技もすべてに優れていなければ。特にもうじき行われるフェンシング大会。一番得意なフェンシングだけは、必ず優勝しなければ。組分けであまり強豪のいないAブロックになりましたし、万一ブロック内優勝すらできなかったら、私には誇れるものが何もなくなってしまう」
フアナは自分より背の高い息子の赤髪にそっと触れると、優しく撫でた。エルネストを苦しめていたプレッシャーがほんの少しだけ軽くなる。
だが彼が抱える重圧の一番の原因は母親にも言えない。彼が優れた人間でなければならないと思うのは、なによりも母の名誉を守るためだ。その孤独な奮闘への義務感は、フアナといるときも消えはしない。
話しながら、エルネストとフアナは庭の外周の堀のあたりまで歩いて来ていた。堀の外側は生け垣が作られ、その更に向こうには樫などの樹が植樹されて林のようになっている。林も含めてヒラソル宮の敷地で、周囲からヒラソル宮内部が見えないための目隠しの役目を果たしている。
「……母上」
学園に入って初めての負けられない戦いを前に、いつも以上の鬱積を抱えていると、今まで母にさえ言わなかった悩みを、吐露したい気持ちを抑えられなくなる。
「母上」
母子二人と女官たち以外は誰もいない庭の隅という、内緒話にうってつけの場所であることも手伝って、ついにエルネストはそう切り出した。
「母上。私は熾天使の祝福を受けた、万事において優れた人間です。その事実が、母上が処女懐胎の奇跡を賜ったという名誉の証明となる。ですが、もしも大会で芳しくない成績をあげたら……怖いのです。優れた人間ではない、熾天使の祝福など受けていないと思われることで、母上の名誉を傷つけてしまうのが」
エルネストに熾天使の祝福がなく、フアナが処女懐胎ではないとしたら、フアナは婚姻もせずに何者かとの不貞行為によりエルネストを身籠ったことになる。ヒラソル宮の中だけで生涯を過ごさなければならないだけでも不幸なのに、母にそんな汚名を着せたくない。
エルネストが心中を打ち明けたちょうどその時、林の樫の木の蔭に、ちらりと人影のようなものが動いた。
「誰だ!」
エルネストはそう叫んで、林の中へと駆け出した。あんな場所に人がいるとすれば、間違いなく不法侵入者だ。警備の者を呼ばずに自分で捕えようと思ったのは、悩みを立ち聞きされた気恥ずかしさからもあった。体術の心得もあるから、大抵の輩なら自分で拘束できる。
エルネストが向かってくるのを見て、木陰から逃げ出す者がいた。やはり不審者だ。それも二人いる。
「警備の者を呼んでくれ!」
女官たちにそう指示しながらも、エルネストは不審者の追跡を続けた。二人とも女性のようだし、自分だけで立ち向かっても危険はないだろう。
ほどなく不審者たちに追いついて、その片方、栗色の髪の方の肩を掴んで引き止めた。
「止まれ! どこから入った!?」
連れが捕まったと見ると、金髪の方も逃走をやめた。よく見ると、二人の不審者たちは、エルネストの知っている人物だった。
栗色の方はローゼンブルク公国の公女ヴィルデローゼ。金髪の方はエチェバルリア公爵令嬢のリディアだった。
「ご無沙汰して申し訳ありませんでした。母上」
エルネストの謝罪に対し、言葉の話せない母のフアナ王女は、それでも「ふぇる」とか「える」というような声をあげる。エルネストの名を呼ぼうとしているのだろう。
エルネストがいるのは、ヒラソル宮で最も広い部屋、フアナが来客を迎えるための広間だった。部屋の一辺に、十人ほどのフアナ付きの女官たちが静かに侍っている。エリオはここにはいない。フアナへの面会はできるだけ人数を絞る必要があるため別室で待機している。
「少し、外に出ませんか。今日は天気が良いので、きっと気持ちいいですよ」
広間のすぐ外にはテラスがあり、その先には緑豊かな庭が広がっている。エルネストは母を誘って庭へと出た。女官たちも二人に付き従う。
広大な庭は庭師たちによって綺麗に手入れされていた。一面の緑の中にアイリスがいくつも藍色の花を咲かせ、その花々の間をを蝶が飛び回っていた。中央には魔力を利用した噴水があり、その水は庭の外周の堀へと注いでいた。
「先月、久しぶりにフェリペに会いました。ペドロ伯父様の息子の。もう九歳になりましたので、堅信礼でウルフィラに来ていたのです」
フアナには言葉を返すことはできないけれど、母に逢ったときはこうしてエルネストの方から色々と語りかけるのが習慣だった。フアナはエルネストの方へ優しく微笑みかけながら、時々うなずいたりしている。あくまで話せないだけで理解はしているのだ。
こうして母と語らうのがエルネストは好きだった。ここにはエリオを含めた他人がいない。いるのは彼自身と母と、母の世話に生涯を捧げヒラソル宮の外へ出ることのない女官たちだけだ。ここでならいくら弱音を吐いても、ヒラソル宮の外へ漏れることはない。泣き言はここに置き捨ててしまって、帰ってからはまた気丈な自分を保つことができる。
「フェリペは私を慕ってくれています。ですが私は自分が尊敬されるに足る人物かどうか自信がありません。彼を失望させないように、学業も実技もすべてに優れていなければ。特にもうじき行われるフェンシング大会。一番得意なフェンシングだけは、必ず優勝しなければ。組分けであまり強豪のいないAブロックになりましたし、万一ブロック内優勝すらできなかったら、私には誇れるものが何もなくなってしまう」
フアナは自分より背の高い息子の赤髪にそっと触れると、優しく撫でた。エルネストを苦しめていたプレッシャーがほんの少しだけ軽くなる。
だが彼が抱える重圧の一番の原因は母親にも言えない。彼が優れた人間でなければならないと思うのは、なによりも母の名誉を守るためだ。その孤独な奮闘への義務感は、フアナといるときも消えはしない。
話しながら、エルネストとフアナは庭の外周の堀のあたりまで歩いて来ていた。堀の外側は生け垣が作られ、その更に向こうには樫などの樹が植樹されて林のようになっている。林も含めてヒラソル宮の敷地で、周囲からヒラソル宮内部が見えないための目隠しの役目を果たしている。
「……母上」
学園に入って初めての負けられない戦いを前に、いつも以上の鬱積を抱えていると、今まで母にさえ言わなかった悩みを、吐露したい気持ちを抑えられなくなる。
「母上」
母子二人と女官たち以外は誰もいない庭の隅という、内緒話にうってつけの場所であることも手伝って、ついにエルネストはそう切り出した。
「母上。私は熾天使の祝福を受けた、万事において優れた人間です。その事実が、母上が処女懐胎の奇跡を賜ったという名誉の証明となる。ですが、もしも大会で芳しくない成績をあげたら……怖いのです。優れた人間ではない、熾天使の祝福など受けていないと思われることで、母上の名誉を傷つけてしまうのが」
エルネストに熾天使の祝福がなく、フアナが処女懐胎ではないとしたら、フアナは婚姻もせずに何者かとの不貞行為によりエルネストを身籠ったことになる。ヒラソル宮の中だけで生涯を過ごさなければならないだけでも不幸なのに、母にそんな汚名を着せたくない。
エルネストが心中を打ち明けたちょうどその時、林の樫の木の蔭に、ちらりと人影のようなものが動いた。
「誰だ!」
エルネストはそう叫んで、林の中へと駆け出した。あんな場所に人がいるとすれば、間違いなく不法侵入者だ。警備の者を呼ばずに自分で捕えようと思ったのは、悩みを立ち聞きされた気恥ずかしさからもあった。体術の心得もあるから、大抵の輩なら自分で拘束できる。
エルネストが向かってくるのを見て、木陰から逃げ出す者がいた。やはり不審者だ。それも二人いる。
「警備の者を呼んでくれ!」
女官たちにそう指示しながらも、エルネストは不審者の追跡を続けた。二人とも女性のようだし、自分だけで立ち向かっても危険はないだろう。
ほどなく不審者たちに追いついて、その片方、栗色の髪の方の肩を掴んで引き止めた。
「止まれ! どこから入った!?」
連れが捕まったと見ると、金髪の方も逃走をやめた。よく見ると、二人の不審者たちは、エルネストの知っている人物だった。
栗色の方はローゼンブルク公国の公女ヴィルデローゼ。金髪の方はエチェバルリア公爵令嬢のリディアだった。
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