上 下
5 / 17
過去篇

そして少年は男の懐に潜り込む 4

しおりを挟む
「やっと、名前」
 涙交じりの微笑みに、慶太は猛省した。

 仕事柄、一般的な社会人に比べて不遇な人間を目にする機会は多い。
 傷つけられた者、奪われた者、捨てられた者。
 
 そのすべてに心を砕くことができない以上、特定の誰かに入れ込むことはしない。
 それが警察事務官として生きるための、自分なりのルールだった。

 自分が強くないことを知っている。
 だからこそ、慶太は自分の見た目を利用し、必要以上に人との距離を詰めないよう心掛けてきた。

 けれど、昴に対して一貫してそのような態度を取れていたかというと自信がない。
 はじめから、一人にするとどこかに行ってしまいそうな昴の存在感に不安を覚えていた。

 桐岡の無茶ぶりを断らなかったのも、昴の行く末を案じてのことだ。

「昴」

 もっと早く名前を呼んでやればよかった。
 虚勢を張っていることくらいわかっていた。
 どんなに背伸びして人を食ったような発言をしても、昴は庇護されるべき子供だ。

 それなのに自分は。

 慶太は昴に気付かれないよう、ゆっくりとため息を吐いた。
 ベッドで寝ることを拒む昴に苛立ち、表に出してしまった。
 大人気ない自分が嫌になる。

「うっ……く」
 無理に泣き止むことをやめ、腕の中で静かに泣く昴の背を上下に撫でる。

 腰の位置まで触れた時、椅子に座ったまま90度近く体を捻る昴の姿勢がとても窮屈に思えた。
 慶太自身も、フローリングに膝立ちしているのはあと数分が限度かもしれない。

「ちょっと動かすぞ」
 声をかけると、昴の指先がワイシャツに食い込む。
 咄嗟の抵抗に、慶太の眉が下がった。

「大丈夫だから」
 昴の体を自分の方へ傾け、全体重を受け止める。
「えっ、待って」

 戸惑いの声を聞き流し、椅子を肘で押し遠ざけると、慶太は昴ごとその場に座り込んだ。
 膝を立てた慶太の脚が昴を囲う形になり、さきほどまでよりも密着した姿勢になる。

「こうした方が、オレが楽なんだ」
「はい……」

 逃げられる前に先手を打つと、昴は甘えるように慶太の首元に額を押し付け頷いた。

 冷房の効いた部屋で、床は冷たく心地いい。
 必死に熱を放つ昴の体を抱き締めていると、安らぎに似た感情が湧いてくる。
 “生き物からしか得られないもの”という昴の言葉そのままだ。

 昴も同じように感じているだろうか。
 そう願いながら、いつもより高い天井を見上げる。

 不思議な気分だった。
 私的な時間のほとんどを過ごすこの家が、今は違う場所のように感じる。
 まるで子どもの頃に戻ったように懐かしい。

 小刻みな呼吸は、いつしか穏やかな寝息に変わっていた。
 こうなることは予測できていたが、わかっていて何もしなかった自分に呆れる。

 慶太は腕の中で眠る昴を気遣いながら、ゆっくりと立ち上がった。

 小柄な昴をベッドまで運ぶのは容易く、大股で歩けば十歩もいらない。
 足で戸を開け寝室に入ると、リビングから差し込む光を頼りに昴をベッドへ降ろす。

 が、懸命にしがみ付く昴の手がほどけない。

「里崎さん」
 うっすらと目を開け、昴は慶太を見上げた。
 夢とうつつを行き来しているようで、その視点は定まらない。

 慶太は息を潜めて暗闇に紛れようとしたが、零れそうなくらい潤んだ瞳はそれを許さなかった。

「ぼくはまだ、気が済んでない……」
「そうだろうな」

 慶太は心の中で盛大に白旗を上げた。
 慶太が隣に寝転がると、昴は満足げに目を閉じる。
 安心しきった昴の表情につられて、慶太の口元も綻んだ。
しおりを挟む

処理中です...