かなざくらの古屋敷

中岡いち

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第五部「望郷の鏡の中へ」第1話

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     逃げていた
     背を向けていた
     目を背けていた
     そして
     過去も現実も夢の中へ





 夢と現実の境目はどこだろう。
 目の覚めた瞬間というのがどこなのか、いつも分からない。
 それはいつも夢から一気にフェードアウトする感覚に近い。
 気が付くと現実。
 夢は終わっている。
 いつも通りの朝、のはずだった。

 ──…………?

 部屋の匂いが違う。
 視界に見える天井の違和感。

 ──……こんな色だった?

 しかし、それほど天井を意識して眺めたことはない。
 それでも、何か変な感覚に包まれる。
 視界の右から入り込んできたカーテンの黄色。

 ──……私の部屋のカーテンは青い…………

 しかも左側だったはずなのに、どう見ても陽が入り込んでいるのは右側。

 ──…………ここは、どこ?

 視線を足元の方へ。
 少しずつ、部屋が見えてきた。
 壁の色。
 壁にかかるカレンダー。
 小さな机と椅子。
 散らかってはいない。むしろ綺麗に整頓された部屋だ。
 自分に布団がかけられていることは分かる。手足も動く。
 両腕の肘を使い、上半身に力を入れる。
 起き上がってみても、やはり分からない。

 ──……ここは……どこなの?

 着ているパジャマも初めて見る物だ。
 ネイルが消えていた。最近塗ったばかりのネイルがついていない。
 手そのものにも違和感があった。まるで自分の手とは思えない。
 手を見るために頭を下げた直後、両耳を何かが塞ぐ。突然の感覚に一瞬鳥肌が立った。それは耳から肩、腕へと流れ落ちた。
 明るい色のストレートな髪。
 再び、全身を鳥肌が埋め尽くした。

 ──……私の髪…………こんなに長くないよ…………

 いつも、どんなに長くても首が隠れる程度の髪の長さだった。
 布団から足を出し、床に素足をつけた。
 初めての床。
 スリッパがあった。やはり見覚えは無い。
 それでもスリッパを履き、腰を上げる。

 ──……なに……これ…………低いの…………?

 いつもよりも視界が低い。
 自分は女性としては高い身長だったはず。一七三センチ。それが自慢だったはずなのに、その視界は明らかに低い。
 目眩がした。平衡感覚を奪われたかのような全身のザワつきに、足を一歩踏み出すのも怖い。
 フラフラと足を前に出すと、視界の右側に何かが動いた。
 反射的に振り返った視線の先には、一人の女性。
 長い髪の女性が立っていた。腰上までのストレートにパジャマ姿。
 じっとこっちを見つめている。

 ──…………だれ……?
 ──……パジャマ…………?

 反射的に視線を落としていた。

 ──……同じパジャマ…………

 視線をゆっくり上げると、向かいの女性もゆっくりと顔を上げる。
 姿見の鏡。
 理解が追いつかない。
 その姿見の鏡に映っているのは、見知らぬ女性。

 ──……だれ……………………?
 ──…………私……じゃないよ………………

 目の前には鏡があり、その中の女性は自分と同じ動きをする。
 もはや鏡であることは疑いようがない。

 ──……昨日の夜は普通に寝たはず…………
 ──…………日曜日だった……どこにも出かけてはいない…………

 懸命に昨夜のことを回想していた。

 ──…………夢だ…………そうじゃなきゃおかしい…………

 そして、部屋の外から足音がする。
 階段を登るような足音。
 思わず身構える。

 ──どこかに隠れなきゃ…………!

 そして、ドアがノックされた。
 鼓動が早まるのが自分でも分かった。

 ──……どうしよう……どうしよう……怖いよ…………

「……沙耶香さやかちゃん? …………おはよう。起きてる?」
 見知らぬ女性の声。
「……あの…………朝ご飯出来てるから…………いつでもいいからね…………」
 その声は、決して高圧的なものではない。
 むしろ、やけに不安気な印象だった。
 そして足音が去っていく。

 ──……沙耶香さやか…………?
 ──…………ここには……もう一人別の人がいるの…………?
 ──……その人は……どこにいったの?
 ──…………違う…………私は沙耶香さやかじゃない…………
 ──……私は…………元蔵もとくら……麻美まみ……………………
 ──…………沙耶香さやかじゃない……………………

 パジャマ姿のまま、部屋のドアをそっと開いた。
 頭を回す度に長い髪が首にまとわりつく。
 廊下があった。ドアの数だけでいったら隣に一部屋。廊下を挟んだ向かいに二部屋。短い廊下の先に下に降りる階段が見える。上に登る階段はない。
 どうやら最上階らしい。
 階段から下を伺うと、その先には玄関らしい扉が見えた。

 ──……普通の家?

 数人の話し声。
 小さな物音。
 知らない家。
 知らない廊下。
 何も怖い印象は無い。それでも初めての場所。
 曇りガラスのドア。
 そこに人影。
 ドアが開くと同時に、反射的に身を隠す。
「……あら、沙耶香さやかちゃん……ご飯出来てるわよ…………どうしたの?」
 さっきの女性の声。
 その女性が階段を登りかけたところで、ゆっくり顔を出すしかなかった。
 四〇代くらいだろうか。典型的な一般家庭の〝母親〟の姿。
「どうしたの? お父さんも和也かずやもいるわよ。いらっしゃい」

 ──……お父さん…………?

 自然と口が開いていた。
「……あの…………」
「今朝はフレンチトーストにしたの。沙耶香さやかちゃんも好きでしょ?」

 ──……ちがう…………沙耶香さやかじゃない…………麻美まみ…………
 ──…………私の、お母さんはどこ…………?

 促されるようにリビングへ。
 綺麗な家の綺麗なリビングダイニング。
 朝食を準備する母親。
 コーヒーを飲みながら新聞を広げる父親。
 朝食を食べる高校の制服姿の弟。
 絵に描いたような理想的な家族の光景。
「おはよう沙耶香さやか
「おはよう姉ちゃん」
「コーヒーで良かった?」
 理想的な家族。
 まるで作られたかのような、そんな空間がそこにあった。
「…………あ…………あの…………」
 思わず口から漏れた言葉が宙に浮く。

 ──……私は…………麻美まみ……………………





 安斎沙耶香あんざいさやか
 二〇才。
 年齢は麻美まみと同じ。
 麻美まみはもう少しで二〇才の誕生日だった。
 財布には運転免許証があった。沙耶香さやかのほうが誕生日が一ヶ月程早い。
 麻美まみは大学に通っていた。実家と同じ県内ではあったが少し距離があったためにアパートを借りて一人暮らし。
 しかし、何の問題もなかった日々が、ある時目を覚ますと、突然他人の人生に入れ替わっていた。全く見知らぬ世界。安斎沙耶香あんざいさやかなる人物をもちろん麻美まみは知らなかったし、その過去など知るはずもない。
 沙耶香さやかが大学を辞めたということだけは家族の会話から分かった。
 ここは麻美まみの暮らしていた所からは遠い場所だった。二つも隣の県。もちろん来たことなどない。
 スマートフォンの電話帳には自分の他に家族、他は見知らぬ数人。
 自分である麻美まみの番号はもちろん無い。
 一度、自分の番号にかけてみようと思ったが、すぐにやめた。

 ──……誰が出るんだろう…………

 そう思うと怖かった。
 唯一、自分の世界と繋がっているのは日付だけ。

 ──……本当の私の世界は…………?

 何が起きているのか、総ては想像の世界。
 中身が入れ替わるなど、現実で起こり得るはずがないことは麻美まみにも分かる。
 しかしどうやって説明すればいいのか分からない。
 日に何度も夢なら覚めて欲しいと思いながら、何度眠りから覚めても同じ世界。
 作られた家族と適当に話を合わせる毎日。
 大学を辞めているとは言っても、働けと言われるわけでもない。
 常に部屋に篭っていた。
 部屋の中の物は当然麻美まみの物ではない。他人の物というのは触るのが憚られるもの。沙耶香さやかが買ってきたであろう雑誌を何となくめくってみるが、その中身に集中する気にもなれないまま。他人の物だと思うとあまり雑にも扱えない。

 ──……沙耶香さやかって人は、どんな人だったのかな…………

 鏡で沙耶香さやかの顔を見ながらそんなことを思った。

 ──……綺麗な顔だな……身長は私より低いけどスタイルもいい…………

 麻美まみは同性愛者だった。高校くらいからなんとなく自覚はあったが、大学に入った頃には明確に意識していた。
 好きになる相手はいつも女性ばかり。
 そしてそれは、周囲には秘密にしてきた。

 ──…………秘密……?

 沙耶香さやかの家族の態度はどこかよそよそしい。
 まるで腫れ物にでも触れるような印象だった。
 日中、やたらと母親は外に連れ出したがったが、素っ気なく断る毎日。

 ──……私は…………どこかで生きているの…………?
 ──…………会いに行かなきゃ…………





 咲恵さきえが初めてその店を訪れたのは、働いていたスナックのママに連れて行かれた夜だった。
 少し前にママが常連客と同伴で訪れたらしい。
 ママ曰く〝落ち着いていてオシャレで朝まで営業している〟ということだった。咲恵さきえたちのような夜の世界の人間にとってはありがたい店だ。しかも落ち着いているというのが良かった。仕事柄、賑やかなのは働いている時間だけでいい。ママと探す店はそういう店が多かった。
 最近新しい店を開拓していなかったせいか、ママの誘いに咲恵さきえはすぐに乗っていた。
 お互いに仕事中にシラフでいることのほうが珍しい。その夜もいくらかアルコールに浸かってはいたが、仕事が終わってからのお酒は別。すでに店のナンバー2となっていた咲恵さきえのママとの時間は楽しみの一つでもあった。
 取り立てて趣味もないまま、気が付くと三二才。
 なんの希望もないままに風俗の世界で生きてきた咲恵さきえすくい上げてくれたのが今のママだった。なんの過去も聞こうとはせず、今の咲恵さきえだけを見てくれた。話せない過去のある咲恵さきえにとってはそれが何より嬉しかった。何度もママには総てを話そうと思った。でもその度に躊躇ちゅうちょした。
 自分の過去を話すということは、自分がどういう人間なのかを説明しなくてはならない。
 それでママが離れてしまわないかと思うと怖かった。
 自分の能力が嫌いだった。
 他人の過去も、それまでの感情も、触れるだけで総てを見ることが出来た。
 軽く触れるだけだと少しだけ。体を合わせるようになると総て。でもどのくらい見えているかは、相手にはもちろん分からない。もちろんそれを知られたら怖がられるだけだ。
 誰しも、赤の他人に内側を見られたいと思う者はいない。
 自分で自分の能力をコントロール出来たらどれだけ楽だろうと思いながら生きてきた。
 おかげで言い寄ってくる客のあしらい方はだいぶ上手くなった。
 誰とも共有の出来ない想い。
 一人で生きることを選ぶしかなかった。
 初めての店。
 ママと飲み歩く時はいつもだったが、ある場合は最初は出来るだけボックス席を好んだ。お店の全体を見渡せるからだ。
 時間はすでに深夜の二時を回っている。時間的にも客は同じ職業の人たちが多いようだ。
 平日の夜。それほど混んでいるわけではない。
 カウンターの椅子は一〇席程。ボックス席は咲恵さきえとママが座っている席を入れて三カ所。程よい広さとオシャレな雰囲気が咲恵さきえの気持ちを高めていった。
「いいとこね、ママ」
 咲恵さきえが思わず口にすると、ママは向かい側で満面の笑みを浮かべて口を開いた。
「そうでしょ。早い時間の雰囲気は分からないけど、この時間の雰囲気をじっくり味わえるのは私たちの特権よね」
 ママは四十代半ば。二十代後半から独立して現在の店を切り盛りしてきた。若い頃のアルバイト以外ではこの世界しか知らない。それでも様々な職業の客と接する世界。深入りはしないまでも、それなりに多くのことに明るい。客との距離の取り方も上手いためか、長い付き合いになる常連客もしっかりと掴んできた。
 咲恵さきえも多くのことを学んだ。風俗業で働いた経験しかなく世間知らずだった咲恵さきえに、ママは生き方を教えてくれた。咲恵さきえが初めて信じようと思えた人だった。
 水の入ったグラスを運んできた女性店員がそんなママに話しかける。
「先週も確か…………いらっしゃいましたよね」
 ママの顔色が瞬時に明るくなる。
「あら、覚えててくれたの? 嬉しいわ」
 夜の世界の挨拶のようなものだ。一見や何年ぶりとかでない限り、客の顔を覚えるのが売り上げに直結する世界。それでも客の立場で言われるのは嫌な気はしない。
 ママも気に入った店だからか、本気で喜んでいるのが咲恵さきえにも分かった。
「いいお店だったから今日は店の女の子連れてきちゃった」
「やっぱり……どこかのお店のママさんかなーって思ってました。綺麗な人の顔は忘れませんので」
「あら、嬉しいこと言うじゃない。でもこの子も綺麗でしょ?」
 そう言って話を振られた咲恵さきえが返す。
「もう……女の子って歳じゃないでしょママ」
 そして次の瞬間、咲恵さきえはその店員の目に視線を奪われた。
 妖艶ようえんにも見える美しさ。
 透き通るような奥行き。
 歳は自分とそう変わらないように見える。
 大人っぽさと幼さが同居した、
 無意識の内に、咲恵さきえはその瞳を見つめ続けていた。
「あら?」
 ママのその声に、咲恵さきえは我に帰り、目線を外した。
「あらら~?」
 軽く視線を上げると、そこにはニヤニヤと笑顔を向けるママ。
「いいのよ。そういうのいいと思う。客からはモテモテなのに浮ついた噂がないと思ったらそういうことなのね。いいと思ういいと思う」
「ママ…………店員さんが困るでしょ……」
 すると、店員に顔を戻したママが返した。
「あ……そうよね…………困らせちゃった」
 しかし、店員の短い髪から僅かに覗く耳が赤く染まっているのが咲恵さきえには見えていた。
 咲恵さきえの胸の鼓動が速くなる。
 ママが続けた。
「でも二人で結構な時間見つめ合ってたけど…………」
「もう…………ママさん。店の女の子困らせちゃダメでしょ」
 そう言った店員が伝票ホルダーとボールペンを取り出す。

 そしてこれが、黒井咲恵くろいさきえと、恵元萌江えもともえの出会いだった。





 それから何度か、咲恵さきえはママと一緒に萌江もえのいる店を訪れた。
 別の店に連れて行かれた時に、少し寂しがっている自分を感じながら日々が過ぎていった。
 萌江もえは店では大体カウンターの中にいた。社交性は高いようだ。カウンターに座る客との会話もスマートに見える。
 その萌江もえに度々視線を送る咲恵さきえに、ママも気付いていたことだろう。咲恵さきえもそれには薄々感づいていた。しかしママも決して深入りし過ぎないタイプだ。その距離感が咲恵さきえも好きだった。
「このお店なら一人でも来れるね」
 そんなことを言うママの気遣いが嬉しい。
「そう……ですね」
 何気なく、でもその言葉に感情が溢れる。
 最初の反応から、もしかしたら自分と同じ同性愛者かもしれないとは思っていた。しかし確証はない。違った場合は相手に対して失礼だとも思った。

 ──……でも…………ダメだよ…………

 一目惚れをした自覚はある。
 でも何か、惹かれる理由はそれだけでもない気がしていた。
 しかし、そう言う感情を持ってはいけないと思って生きてきた。

 ──……受け入れられるわけがない…………
 ──…………私は人に受け入れてもらえる人間じゃない…………

 しかしある夜、ママは常連客と同伴。
 こういう夜は咲恵さきえはいつもまっすぐマンションに帰っていた。
 いつも通り、そうするつもりだった。
 体がうずく。

 ──……会いたいの?
 ──…………会っても無駄でしょ?

 例え我慢して一時の快楽だけを求めても、嫌な想いをするだけ。

 ──……後悔するのは分かってる…………

 いつの間にか、その扉を開けていた。
 二時間近く街を歩きながら考え続け、結局ここに辿り着いた。
 すでに時間は四時近く。
 店内は静か。
 客はいない。
「いらっしゃ……あ…………お姉さん…………どうぞ」
 振り返ってそう言った途端に笑顔になる萌江もえに、気持ちのどこかが揺さぶられる。
 ドアのそばで目を泳がせる咲恵さきえを、萌江もえはカウンターに促した。
「お一人ですか? 今日はボックス席なんて言いませんよね」
 萌江もえは柔らかい笑顔を浮かべながら、カウンターにコースターを置いた。
 すでに店員も他にはいないようだ。

 ──……私は何かを期待してる…………

 椅子に座ると、なぜか咲恵さきえの鼓動が速くなった。
「どこかで飲んできた帰りですか?」
「え……あ……はい…………そんな感じ…………」
「いつもママさんの前だったから、名刺渡すのも遠慮してたんですよ……よかったら…………」
 渡された名刺を見て、咲恵さきえが小さく口を開いた。
「……恵元えもと…………萌江もえ……さん……」
「上から読んでも下から読んでも〝えもともえ〟。覚えやすいでしょ?」
 そう言って萌江もえは笑顔を浮かべた。
「あ…………私も…………」
 慌てて咲恵さきえは自分の名刺を取り出すと萌江もえに手渡す。自分でその様が新人のOLのようで、急に恥ずかしさが込み上げる。

 ──……新人じゃないんだから…………

「……咲恵さきえ……さん…………」
「……咲恵さきえ……で…………」

 ──……何言ってるのよ私は…………

「じゃ、私も…………萌江もえって呼んで…………いつもの?」
「え? ……あ……はい」
 萌江もえはカクテルグラスとシェーカーを取り出すと、慣れた手つきでいつも咲恵さきえが注文していたマティーニを作り始めた。
 自然とその姿を目で追っていた。
 細くしなやかな指に意識を奪われる。

 ──……今夜は……名前を聞けただけで…………
 ──…………近くで顔を見れたら…………それだけで…………

「どうぞ」
 咲恵さきえの目の前に置かれたグラスから、ジンに混ざって微かに香るベルモット。ベルモットが気持ち多めのシェイクスタイルのマティーニがいつもの咲恵さきえのお気に入りだった。
「今日は私も飲んじゃおっかな……」
 萌江もえがロックグラスに氷を入れた。その音が咲恵さきえの神経を揺さぶる。
 注がれたウィスキーの香りが咲恵さきえにまで届いた。

 ──……いい歳して何でこんな敏感に…………

「緊張してるの?」
 萌江もえがそう言ってカウンターに肘をついて顔を近付けた。
 咲恵さきえの緊張が一気に高まる。
「…………いえ……」
 萌江もえの透明感のある瞳から目を離せないまま、咲恵さきえが続ける。
「…………一人で来たの…………初めてだから…………」
「私は待ってた」
「え?」

 ──……だめ…………期待しちゃダメ…………

「ごめんね」
 萌江もえはそう言うと体を起こして続ける。
…………言うね…………私たち……………………」

 ──……どうして…………

「ごめん…………初めて会った時に気付いてた…………」

 ──……せっかく勇気を振り絞って…………

「自分でも……嫌な力だと思ってる…………分かっちゃうんだよね…………」
「…………私のこと…………分かるの…………?」
「……能力者だってことはね」

 ──……来なきゃ…………よかった…………

「ごめんなさい」
 咲恵さきえは椅子から降りると、財布から千円札を数枚取り出してカウンターに置いた。
 そしてドアまでヒールを響かせる。
 その音に混ざるローヒールの音が近付く。

 ──……来ないで…………

 ドアノブにかけた咲恵さきえの手を、萌江もえの手が包んだ。
 萌江もえは自分の体で咲恵さきえをドアに押し付けていた。
 萌江もえの感情が、ゆっくりと咲恵さきえに染み込む。

 ──……やめて……お願い…………

 萌江もえの声が咲恵さきえの耳元で響いた。
「……私は…………に……あらがう気はないの…………」

 ──…………未来…………?

 咲恵さきえは、自分の気持ちが抵抗出来なくなっていることに気付いていた。
 自分で体の向きを変えると、自ら萌江もえの唇を求めた。

 ──……こんなことしたら…………

 萌江もえが流れ込んでくる。
 分かっていた。

 ──……何が見えてもいい…………

 そしてその感情に、無意識に咲恵さきえは涙を流していた。
 唇を最初に離したのは咲恵さきえだった。
 その咲恵さきえの瞳を見た萌江もえが口を開く。
「…………帰らないで……」
 すぐに店を閉め、二人はいつの間にか交差点で手を繋いでいた。
 改めて並ぶと、咲恵さきえのほうが少しだけ身長が高い。
 先に口を開いたのは咲恵さきえだった。
「タクシー?」
 繋いだ手からは相変わらず萌江もえの感情が入り込む。
 それは、咲恵さきえを求めていた。

 ──……もう……どうなってもいい…………

「うん……ちょっと遠いけど…………」
「私のマンションのほうが近いかも」
 咲恵さきえはそう言って、乗り込んだタクシーに自分の住所を告げる。
 咲恵さきえの部屋に入るまで、二人が手を離すことはなかった。
 萌江もえは靴を脱ぎながら、玄関先で咲恵さきえを押し倒していた。
 唇を奪われながらも、咲恵さきえは言葉を絞り出す。
「ここじゃ…………寒いよ……」
「…………暖かいよ…………咲恵さきえの体…………」
 その言葉に、咲恵さきえ萌江もえの体を求めた。

 ──……萌江もえが…………入ってくる…………

 やがて、耳元からの萌江もえの言葉が何かを刺激した。
「見えてるんでしょ?」

 ──…………え?

咲恵さきえになら…………何を見られてもいい…………」
 その言葉に、咲恵さきえは総てをさらけ出していた。





 眠りにつくまで、二人は話し続けた。
 そのほとんどは、お互いの能力について。
 そしてバラバラではあったが、咲恵さきえには萌江もえの過去の多くが見えていた。目を背けたくなる光景も見えた。何度も涙を流しながら、咲恵さきえ萌江もえに体を預けた。
「私は99.9%幽霊なんか信じていない能力者…………でも幽霊なんか信じてなくても…………未来は見える…………そこにある〝念〟も感じる。それは幽霊とか心霊現象とは違う」
 そして萌江もえが話した考え方は、咲恵さきえの考えを大きく変えた。
 今までの咲恵さきえの考え方とはあまりにも違い過ぎる。今まで自分が幽霊や心霊現象だと思っていたことは何だったのか、それが根底から覆されたような衝撃だった。

 ──……萌江もえは…………私のように……逃げてなんかいない…………

「でも、私に咲恵さきえのような能力はない…………どんな感じなのか教えて」
 それはただの興味本位からくる言葉ではなかった。
 萌江もえ咲恵さきえを理解しようとしていた。咲恵さきえにとってこれほど嬉しいことはない。しかし同時に、それが萌江もえを苦しめてしまわないかと、それを恐れた。
「誰でも、普通は見られたくない過去とかあるでしょ? そういうものまで見えちゃうから…………私も見たくないし…………でも、体の中に溶け込んでくる感じで……気持ち悪くて……だから、誰かに抱かれるのが怖かった…………」
「……辛かったね…………」
「…………うん……」
 まるで子供のように、咲恵さきえの目から大粒の涙がこぼれ落ちる。
 そして萌江もえが続けた。
「出来るだけシャットアウトする…………咲恵さきえのためなら、頑張れる…………頑張らなきゃ…………」
 萌江もえには未来が見えていた。
 しかし咲恵さきえにはその多くを語らなかった。





 その日から、二人は咲恵さきえのマンションで一緒に暮らすことを決めた。
 目を覚ますと、すぐに萌江もえは不動産屋に電話をして引っ越すことを伝える。荷物を出す都合で一週間後に引き払うことを決めた。とは言っても萌江もえの荷物は微々たるものだった。冷蔵庫や電子レンジなどはリサイクルショップに引き取ってもらい、残ったものは大きなボストンバッグ一つだけ。
 咲恵さきえにとっては、初めて自分を受け入れてくれた人。
 そしてそれは、萌江もえにとっても同じだった。
 お互いの仕事はそのままだったが、唯一変わったのは、萌江もえが休みの日に咲恵さきえの働くスナックに飲みに行くようになったこと。もちろん店のママ公認。ママが喜んでくれたのは咲恵さきえにとってもありがたいことだった。
 そんな日々が続く。
 お互いの能力はもちろんそのまま。しかし咲恵さきえは、萌江もえが自分を抱く度に神経を使ってくれているのが分かった。萌江もえがどこまで自分の能力をコントロール出来るのかは未知数だったが、明らかに最初の夜とは違ってきていた。その度に、自分がとんでもない人物に必要とされていることを感じた。二つ年下だったにも関わらず、咲恵さきえ萌江もえに心酔していたのは事実だった。
 初めて、誰かと肌を合わせることに喜びを感じることが出来た。
 そして、ある時、店の常連からこんな質問をされる。
「誰か…………おはらいとか出来る人、知らないかな」
 それは会計士をしている満田みつただった。
 正確には分からなかったが、おそらく六〇近い渋めの紳士だった。すでに孫も三人。
 カウンター越しに咲恵さきえ満田みつたと何気ない会話を楽しんでいた時、何かの拍子に出たその言葉が、萌江もえ咲恵さきえの人生を大きく変えることになる。
 神経を突かれたように何かを感じ取りながらも、咲恵さきえは冷静を装って口を開く。
満田みつたさん、どうしたの? 若い頃の女遊びのせいで呪われちゃったんじゃない?」
「それならいいんだけどね」

 ──良くはない

「取引先の会社の社長さんなんだけどね…………奥さんが呪われてるって言うんだよ。私もそんなバカなって最初は聞いてたんだが…………今までに何度も神社とかお寺でおはらいしたけどダメだったらしくてね…………」

 ──……ダメだった…………ってことは…………

「まさかとは思うけど霊能力者とか知り合いにいないかな」
「一人…………」
 咲恵さきえはそう言うと、自分のロックグラスを軽く口に運び、続けた。
「…………いなくもない……かな…………」




           「かなざくらの古屋敷」
      ~ 第五部「望郷の鏡の中へ」第2話へつづく ~
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