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第七部「猫の目」第5話(第七部最終話)
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「え? そうなの?」
萌江は咲恵とホテルのカフェにいた。
電話の相手は杏奈。
『そりゃそうですよ。あんな情報、現地じゃなきゃ無理ですって。幸いこっちの新聞社に知り合いもいたし…………』
「やっぱり使えるねえ…………報酬は私の体で払ってもいい?」
少し間を開けて聞こえて来た声は背後から。
「咲恵さんの隣で何言ってるんですか」
二人が振り返るとそこには杏奈の姿。
その杏奈に応えたのは咲恵だった。
「大丈夫よ。私が後でお仕置きしとくから…………おつかれ」
「お二人もお疲れ様です」
そう応えて杏奈は二人の向かいに腰を下ろして続けた。
「そもそも二人だけなのになんで隣同士で座ってるんですか?」
「いつも萌江の側にいたいから」
平然とした顔でそう言う咲恵に杏奈が笑顔で返した。
「結構、咲恵さんってサラッとそういうこと言いますよねえ」
「そう?」
「そうですよ」
「で?」
そう言って二人に挟まった萌江が続ける。
「今朝の事件でマスコミは盛り上がってるみたいだけど…………何か裏情報は?」
「そうですねえ」
そう言って前のめりになった杏奈が続けた。
「警察は分かりませんけど、マスコミは当然のように縁恨説一色です。元々集落の地上げに地元の暴力団が関わってたことまでオープンに全国ネットで話題になってます。あの県議会議員の過去も根掘り葉掘りと出て来てるので、もう止められない感じですね。暗黙の了解だった県警も動かざるを得なくなるんじゃないですか。このままじゃ自分たちの信頼にも関わりますし、今のネット社会じゃ昔のようにはいきませんよ」
すると、萌江も前のめりになって聞き返す。
「昨日もらった杏奈ちゃんからの情報って、マスコミと警察はどこまで?」
「私がかき集めてまとめたものですけど、なんとなく疑ってる人はいるかもですよ。地元の人たちがたむろするような居酒屋とかも行きましたけど、結構みんな話に乗って来てたんで」
「へえ…………結構お金かかったんじゃないの?」
萌江はそう言うと、テーブルの上で小さく折り畳んだ数枚のお札を杏奈の前に滑らせて続ける。
「じゃあ、ここの美味しいコーヒーご馳走するから、もう一つ調べてくれない?」
テーブルの上のお札を素早くジャケットの内ポケットに入れた杏奈が応える。
「報酬が体じゃないならいくらでも」
☆
西沙はホテルのミーティングルームを押さえていた。
小ぶりな部屋だったが充分な広さはある。
そこに夕方の四時から押し込められていたのは志筑一人。コーヒーの追加要求もないままに時間だけが過ぎた。
元住民の五人がホテルの裏口にこっそりと到着したのは夜の七時。
同じ頃、西沙の声がけでロビーには数人の私服警官が集まっていた。
ミーティングルームには志筑と元住民の五人。テーブルを挟んで向かい合う形で萌江、咲恵、西沙。三人の前には何枚もの紙の束が並ぶ。
真ん中に座った咲恵が最初に口を開いた。
「今日は改めて皆さんにお集まり頂きましたが、最初に結論から…………今夜でこの事件は解決させて頂きます」
向かいの五人がザワつき出す。
咲恵が続けた。
「今回の事件の首謀者は…………仁暮志筑さん…………お一人です」
五人全員が一番端に座る志筑に顔を向ける。
それを無視するかにように咲恵は続けた。
「ええ……分かってますよ。おかしいですよね────実行犯の皆さん…………犠牲となった六人を殺したのはあなたたち五人です」
五人はそれぞれ視線を落とし、落ち着かない。
その内、洋三が声を荒げた。
「茶番なら…………帰らしてもらう!」
「今朝のさあ」
椅子に片足を乗せて膝を立てた萌江だった。
その萌江が続ける。
「六人目の犠牲者……二階敦彦…………殺したのはあなた?」
萌江は鋭い目を洋三に向けていた。
洋三は僅かに体を震わせながら再び声を荒げる。
「やめないか! こんな侮辱はマスコミからだってないぞ!」
「自殺した奥さんの…………息子さん…………」
そして室内の空気が凍り付いた。
「……そんな……バカな…………」
その低くなった洋三の声を、萌江が拾い上げる。
「あの議員の妾だったってことは遺書で知っていたんでしょ? でも息子が誰なのかまでは書いていなかった。そりゃそうよ。息子を産んですぐに引き離されちゃったからね。奥さんは一度も会っていない…………これはあの家の元使用人からの情報。仕入れ先は私たちの情報屋。あなたはその人物も地上げに加担していたと思っていた。でもなぜそう思ったのか、が、今回の問題の核になる」
萌江は小さく息を吐くと、西沙に視線を送って続ける。
「少し話を戻そうか」
すると西沙が立ち上がってホワイトボードに向かう。
犠牲者六人の名前を順番に書いて、六人目────〝二階敦彦〟にバツ印をつけた。
そこに萌江の声が重なる。
「六人目はさっき言った通り。例え勘違いでも殺害の理由は想像出来た…………二人目の吉田春子…………だいぶひどくやられたみたいね、郁夫さん」
萌江が顔を振るが、郁夫は下を向いたまま。
「あの職場の従業員からいくつも証言が出てる。吉田春子からの〝イジメ〟はかなり陰湿だったみたいね…………辞める原因の一件も濡れ衣でしょ?」
西沙が〝吉田春子〟の横にバツ印。
そして萌江が続けた。
「そして三人目の銀行員の奥田秀一が地上げのために頼ったのが四人目の二階睦夫…………暴力団を動かせたからね…………そしてその二階睦夫の起こした交通事故の巻き添えで亡くなった秀一さんと幸恵さんの一人息子を、ただの被害者からその被害割合を下げたのが五番目の警察官の小林豊…………地上げとか暴力団っては確かに酷いけど、そもそも祠とは全員が関係ない。〝猫神様の呪い〟と結びつけるには無理があるよ」
誰も何も応えない中、六人中五人にバツ印。ペンを置いた西沙が椅子に戻った。
次は萌江が立ち上がって続ける。
「どうしても最後まで分からなかったのはこの人────久宝隆史」
萌江はホワイトボードに書かれた一番上の名前────〝久宝隆史〟の名前をペンで指す。
すると、僅かに顔を上げたのは恵美だった。
そこに萌江の声。
「最初のターゲットとするには丁度良かった? まだ力の弱い子供だしね。でもどんな個人的な恨みがあってターゲットにされたのか…………その理由を知っていたのは、家に誰もいない時間を知っていた人…………進入経路を割り出せた人…………子供の実の母親だった恵美さんだけ」
すると、郁夫が微かに顔を上げて恵美の横顔を見る。
恵美の体は小刻みに震え始めた。
ついで大粒の涙を流し始めた恵美が声を荒げる。
「────仕方なかったんです! 血を絶つためなんです! 全部終わったら…………あとは私が死ねば…………」
「そうだよね…………」
そう言って続ける萌江の声は柔らかい。
「幸恵さんから聞いたんでしょ? 恵美さんは村を捨てた一族の血を引いてると…………幸恵さん自身もね…………その血が残っている限りは呪いは続くと教えられて、そのために血を絶やそうと考えた…………幸恵さん」
その声に幸恵が思わず顔を上げる。
「あなたの隣に座ってる仁暮志筑からその話を聞いたのはいつ? あなたと恵美さんが一族の血を引いてると聞かされたのはいつ?」
幸恵は視線を落としながら、ゆっくりと、言葉を捻り出した。
「…………祠が……壊されてすぐ…………」
「仁暮志筑と会ったことがある人は幸恵さんだけね…………分かった…………」
萌江は椅子に腰を降ろして続ける。
「カラクリを説明する。まず基本的な部分として、あなたたち五人と仁暮志筑の目的は同じ。壊された〝祠の再建〟。ただこれだけ。だからこそあなたたちは工事の事故が多いことを理由に〝猫神様の呪い〟だと騒ぎ立てた。確かに祠を粗末にした行政に訴えるには丁度いい。でもそもそもの大規模な公共事業。実際は動員された作業員の人数だけを見ても、その犠牲者はそれほど多い数字じゃない。でも〝猫神様の呪い〟の小さな報道に黙っていられなかったのが霊能力者の仁暮志筑…………あの集落を捨てた一族の末裔…………」
志筑は微動だにしない。
ただ、目の前の冷めたコーヒーを見つめるだけ。
そして萌江の言葉が続いた。
「負い目もあったんでしょうね…………何気に行政に嘆願書まで作って出してる。もちろん遠くの一般人の訴えなんて、目の前の公共事業に鼻の下を伸ばした連中が聞いてくれるはずもない。そして、五人の訴えていた〝猫神様の呪い〟を利用しようと考えた。自分で動ければ良かったけど、タイミング悪く地元のテレビ局からのお誘いがかかったみたいね。それであなたは自分の能力を最大限に利用した。あなたとは薄いとは言っても血の繋がりのある幸恵さんと恵美さんの存在を知り、意思をコントロールしてね…………そこから五人全員に催眠を掛け、それぞれの恨みの念を増幅させた…………犠牲者は誰でも良かった。猟奇連続殺人事件であれば。両目はドライバー……喉はカミソリを四つ並べて固定すれば凶器は作れる…………警察の発表でもカミソリのような物とある…………よく考えたものね…………」
しばらく静寂が続く。
それを破ったのは咲恵だった。
「志筑さん…………私は手で触れた人の過去や感情を読み取ることが出来る…………だからあなたに肩を触れられた時、あなたの過去も見えた…………自分で恨みを晴らす勇気がないから五人を利用するなんて先祖と同じようにズルいだけ…………誰かに自分の責任を押し付けて、自分で成し遂げようとしないなんて…………あなたは自分のために五人を殺人者に仕立てた。祠が再建されたら、死ぬ気だったんでしょ? でも残された五人はどうするの? あなたのために刑務所に入るの…………あなたの先祖が村を逃げたために〝呪い〟の責任を押し付けられた村人たちのように…………みんなそれぞれに恨みはあった。でも殺人を犯すなんて普通の人間には出来ない。みんなそんなことの出来る人たちじゃない。あなたが焚き付けなければ、誰も殺人者にはなっていない」
僅かに咲恵の声が震える。
それを察した萌江が咲恵の肩に手を置いて繋げた。
「あんたは死なせない…………あんたが一人で罪を背負って生きていけ。自分の力をそんなことにしか使えないなんて…………私はあんたみたいな身勝手な奴が大っ嫌いだ」
そして萌江が立ち上がる。
咲恵が続き、西沙も続いた。
そして萌江。
「西沙…………仁暮志筑をロビーに…………五人の記憶は私が消す」
すると、静かに志筑が立ち上がった。
そして口を開く。
「…………あなたは…………何者……ですか?」
顔を上げ、その不思議な色の目を向けた志筑に萌江が返す。
「私は99.9%呪いも祟りも信じない能力者。だから私たちに催眠は効かないよ。普通の人間じゃないからね。もう諦めて……警察に何を言っても催眠なんか信じてもらえるわけがない。これは私たちじゃなきゃ辿り着けなかった真実だ。警察には自分がやったと自供して…………綺麗な終わらせ方じゃないのは分かってる…………でも、あなたに責任があるのは変わらない」
西沙が志筑をドアに促した。
ドアまで歩く志筑に声をかける。
「警察の人には、アイマスクをかけさせるように──目を見ないように言ってあるから…………さ、行こう…………」
ドアが開いた直後、志筑の背後から萌江の声がする。
「志筑さん…………祠は私が責任を持って再建する…………信じて…………だから最後に聞かせて…………あの蔵で聞いた声…………あれは誰? あなたも誰かに促されてこんなことしたんじゃないの⁉︎」
志筑は黙ったまま、横顔のまま何も応えない。
──……やっぱり……分かってるんだ…………
そして小さく、頷く。
それだけが志筑の答え。
そして、ドアが閉まった。
それでもいいのかもしれないと、萌江は思えた。
──……あとは……あの人の物語…………
萌江はネックレスを外すと、チェーンを持って水晶を五人の目の前にぶら下げる。
「この水晶を見てて…………あなたたちは人を殺せるような人たちじゃない…………私を信じて…………凶器も靴もただのゴミ…………すぐに捨てて…………あなたたちは誰も殺してなんかいない…………あななたたちは殺人者じゃないの…………静かに生きてっていいんだよ…………」
萌江は水晶を再び首にかけると、言葉を繋いだ。
「今夜はありがとうございました。お陰で事件は解決です。祠も近い内に再建されることを保証します」
五人は呆然と萌江を見続けているだけ。
そして萌江はドアに向かって叫ぶ。
「杏奈ちゃん!」
ドアを開けて入ってきた杏奈に続けた。
「裏にタクシー二台……札束掴ませて待たせてるけど、もうマスコミが嗅ぎつけてる可能性がある。こちらの五名を確実にタクシーで送り出してあげて」
杏奈も部屋の外で話を総て聞いていた。
──……とんでもない人たちに関わっちゃったのかもね…………
その杏奈は、大きく頷いて応える。
「分かりました」
☆
「早いんだよねマスコミの人間ってさ」
萌江と咲恵の部屋に報告に戻った西沙がいきなり愚痴をこぼしていた。
「あの人を警察の二人が連れて行こうとしたら、どっかから突然現れてさ…………」
それに応えたのは萌江。
「いつもそんな目立つゴスロリファッションだからじゃないの?」
「私のスタイルなんだからいいでしょ。それよりあの五人は大丈夫だった?」
ベッドの上でキャリーバッグに荷物を詰め込んでいた咲恵が応える。
「そう思って杏奈ちゃんに任せたから大丈夫よ。立ち回りの上手い子だから」
「って、あれ? もう帰るの? 今夜はせっかくなんだからお祝いしようよ」
それに返したのは萌江だった。
「人一人刑務所に送って何がお祝いよ。それに…………もっと早ければ最後の一人は救えたかもしれない…………」
その萌江の目は重い。
解決はした。
しかし良くも悪くも予測した通り。綺麗な終わり方ではなかった。
「…………ごめん」
西沙が肩をすくめ、ベッドに腰を落とす。
すかさず萌江が返した。
「最後の一人は私の責任…………」
その萌江に西沙が顔を向ける。
「どうして…………洋三さんは奥さんの息子さんを殺したの?」
「もちろん殺人事件を継続させることで行政とマスコミを動かしたかったっていうのはあるだろうけど、多分、洋三さんの中にある奥さんの記憶から、その存在が恐喝をしていた次男と重なったか…………殺意を増幅させられたとは言っても、その相手を決めたのは自分たちだからね…………もしくは奥さんの過去への嫉妬か……それが増幅されたほうがしっくりくるか…………増幅された殺意が間違いを生んだんだ……今となれば幸恵さんと恵美さんが本当に志筑さんと血の繋がりがあったのかも分からない。そこまでは私も咲恵も見えてない。やっぱり綺麗な終わり方じゃなかった……六人目は必要のなかった犠牲者だよ…………」
「……大丈夫かな…………みんな…………」
「大丈夫だよ。もう呪いは終わった…………それに、言ったでしょ? 我が家にも〝猫神様〟がいるんだってば。早く帰らないと祟られちゃうから」
萌江の目が、少しだけ軽くなった。
まるでそれに応えるように、返す西沙の声も変化する。
「そういえば、そんな話してたっけ」
「それとこれ、頼むよ」
そう言って萌江は分厚い封筒を西沙に渡して続ける。
「明日神社にお願い。祠を壊したことに抗議した神社に持っていけば、再建してくれるはず」
「あ、そっか」
「私たちの取り分も足せば結構な金額になるんじゃない? 新しい祠を作ってもらって」
すると封筒を覗いた西沙が目を丸くして応える。
「いや……これだけでも…………」
「いいから……足しといて」
「……うん…………分かった」
「みんなに約束したからね…………問題は場所じゃないよ。大事なのはその人たちの〝想い〟。西沙なら分かるでしょ。それで工事の事故も減るから」
「やっぱり、事故にも呪いが関係してるの?」
「さあね、あるとしたら、かつてあの村に暮らしてたたくさんの人たちの〝念〟みたいなものじゃないかな。〝呪い〟は人が作るもの…………変わるものもあれば、変わらないからいいものもあるんだよ」
そう呟くように言った萌江は、キャリーバッグを閉じた。
☆
思えば、おかしな家だった。
俗世からは完全に隔離された世界。
世の中のことなど何も知らない。
知らないからこそ、何も疑問になど思わない。
家族は両親だけ。
それが仁暮志筑。
仁暮家がお金持ちの家であることは、小学校までの車から見える世界の景色でなんとなく分かってはいた。他は家も小さく、服装もどことなく自分や両親とも違う。仁暮家は特別な家なのだろうと感じていた。
そのためか、中学に通うようになっても学校で会話をしていいのは教師だけ。
小学校も中学校も小さな学校だった。生徒は志筑の他は五人だけ。誰ももちろん友達ではない。そもそも友達という概念を志筑は持っていない。
ずっと、与えられる情報は両親からだけ。
中学を卒業してからは、家庭教師の男性だけが志筑の世界を作っていった。
家庭教師だけが、志筑の世界を作る、たった一人の存在。
以前は学校で教師をしていたという。志筑よりはだいぶ年上だったが、それでも志筑はその優しい笑顔が好きだった。
家庭教師はことあるごとに、志筑の世間知らずな様に驚いた様子だった。無理もない。しかも家庭教師は、常々そんな志筑を「かわいそう」だと言う。志筑自身は自分をそんな風に感じたことはない。今の生活が当たり前だったからだ。何も疑問は無いし不満も無い。
確かにその家庭教師は志筑から見たらそれまで出会ったことのある人々とは違った。いつもやけに音のうるさいおかしな形の車でやってくる。志筑はそんな形の車を見たことがなかった。
「先生のお車は、だいぶ変わった形をされているんですね」
そう聞いたことがあった。
「ああ、私は車が好きでしてね。しかも古い外車に目がない。最近の車とは違って味があって…………まあ、周りからは変わり者扱いですよ」
そう言って笑顔を見せる家庭教師に、志筑が応える。
「周り…………ご家族ですか?」
「家族もですが、友達にも笑われますよ」
「……友達…………」
この頃には、志筑も様々な本を読んでいた。多くは文豪と呼ばれるような作家の古い物ばかりだったが、それでもその中にはたくさんの世界があった。志筑の知らないことで溢れていた。
そして、自分には〝友達〟という存在がいないことを知っていた。
「……友達ですか…………私にはよく分かりません…………」
その寂しげな声に、家庭教師は気持ちのどこかを揺らされたのだろう。もっと志筑に世の中を見せてあげたいと思うようになっていった。
世の中にはもっと楽しいことや美しいものが溢れている。
それを見せてあげたかった。
志筑が二〇才の時。
両親から仁暮家の過去を聞かされる。
仁暮家の人間は、二〇才でその歴史を継承するのだという。
それは仁暮家の〝罪の歴史〟だった。
志筑もいずれ、自分の子供へと継承しなければならない。
志筑が初めて知る暗い歴史。多くの人の犠牲の上で成り立つ歴史。それは決して許されるものとは思えなかった。
「なぜ……継承しなければ…………誰も知らなければいいことではありませんか…………」
両親に対し、志筑は言葉を投げ返していた。
そんな過去のこと、誰も知らなければいい。知らなければ忘れられる。そう思えたからだ。
しかし母の答えは違った。
「……先代の母上は……私に継承することを拒みました…………しかし両親とも毎晩悪夢にうなされたそうです…………そして母上は気がおかしくなり……自ら命を絶ちました…………恐れた父上が私に歴史を継承したのです…………これは……〝呪い〟なのですよ…………我が仁暮家が背負う〝罪〟なのです…………」
何か、大きなものに縛られているかのようだった。
逃れられない。
自分の子供以外には口外してはならない。
自由に生きるなど、夢でしかない。
しかし、家庭教師の男性は明らかに違った。
志筑とは明らかに違う世界を生きている。
自由だった。
そして志筑は禁忌に踏み込む。家庭教師に総てを曝け出していた。
そうまでして守るものがなんなのか、それは家庭教師には到底理解の及ぶものではない。しかしあまりにも残酷すぎるその現実に、気持ちが揺さぶられた。どうしてそんな〝過去の罪〟に囚われなければならないのか。
ある日、家庭教師は志筑を連れ出した。
そのまま、仁暮家の屋敷に火を付ける。
燃える屋敷を車の助手席で見ていた志筑の頭に、声が聞こえた。
〝……血を絶て……終わらせろ…………〟
誰の声かも分からないまま、それでも志筑の頭からその声は離れない。
無意識の内に、志筑は他人を操っていたのだろう。
屋敷が全焼。両親が死亡。志筑が行方不明となれば、警察が志筑を探さないわけがない。しかし志筑にも家庭教師にも捜査の手は伸びなかった。事あるごとに志筑は他人の意識を操作し、やがて明確にその〝力〟を認識するようになる。
そして、自分が普通の人間ではないことを知った。
家庭教師と共に細々と暮らした。
裕福ではなかったが、決して志筑は不幸ではなかった。
かつて家庭教師だった夫は、常に優しかった。
志筑も能力を生かして自宅で心霊相談を受け始める。
やがて、子供が出来た。
しかし、二度目の流産で二人は子供を諦める。
〝……血を絶て……終わらせろ…………〟
──……私は……仁暮家の血を終わらせるために産まれてきたの…………?
そして、四〇を過ぎた頃、テレビのニュースに釘付けになった。
〝猫神様の祠〟。
涙が出た。
止まらなかった。
──…………祠を…………再建しなければ…………
そして、夫と共に、総てを終わらせることを誓った。
──……仁暮家は……私が終わらせる…………
ホテルのロビーで刑事に腕を掴まれた時、志筑の頭に浮かんだのは、夫のことだけだった。
☆
新幹線が駅に到着したのは、すでに深夜近く。
木曜日から金曜日へと日付が変わろうとしていた。
二人は咲恵の車で山の中の萌江の自宅へ向かっていた。
駅を出た時から、やけにピリピリとした寒さが空気を包んでいた。
二人の中に不安が過ぎる。仕事を終わらせた開放感よりも、気になるのは家に住み着いていた猫のことばかり。何日も家を開けたままでは縁側の下は寒いままだろうと予測は出来た。
自然と咲恵もスピードを上げていた。
山道に入った頃から、小さな雪が舞い始める。
「今シーズン最初の雪を二人で見れるのはいいけど、何もこんな時じゃなくても…………」
咲恵が運転をしながら思わず愚痴をこぼしていた。
駐車場に車が停まった途端に萌江は助手席を飛び出した。
まだ縁側に立て掛けていた段ボールはそのまま。萌江はその段ボールの側に膝をつき、ゆっくりと中を覗いた。
その姿を追いかけた咲恵に萌江が顔を向ける。
萌江は口に人差し指を当てて、再び覗き込む。
「……良かった…………頑張ったね…………」
そう囁く萌江の隣から咲恵が覗き込むと、そこには体を丸めてこちらを伺う黒猫と、その体に包まれる小さな命が二つ。
小さく咲恵が声を上げた。
「……そっか…………だから動かなかったんだ…………」
萌江は家の中からバラしていなかった新しい段ボールを出し、バスタオルを数枚入れ、横にして猫の前に置いた。リビングの薪ストーブに火をつけ、縁側の窓を少しだけ開ける。微かに段ボールの上だけが見えた。
萌江と咲恵はソファーでタオルケットに包まりながら窓の隙間を見つめ続ける。
「来るかな…………」
咲恵が呟いた。
「ご飯は無くなってた……多分大丈夫…………」
萌江はすぐに返す。
薪ストーブからの熱と、窓の隙間からの冷たい風。でもそれはなぜか嫌に感じない。
萌江が再び呟いた。
「……寒い中で……一人で頑張ったんだね…………暖かい部屋で休ませてあげたいけど…………」
その時、段ボールが小さく揺れる。
萌江が頭を上げる。しかしまだ様子を見ていた。
更に段ボールが揺れ続け、やがて動きが止まる。
萌江は四つん這いになって静かに縁側に出た。ゆっくりと段ボールを持ち上げると、そこには母猫と子猫が二匹。
小さく母猫が鳴き声を上げる。
「……いらっしゃい…………」
萌江がそのまま後退りをして部屋に入ったところで、いつの間にか隣に来ていた咲恵が静かに窓を閉めた。萌江が笑顔で見上げると、そこには咲恵の優しい笑顔。
段ボールをそのまま部屋の隅に置くと、萌江は念の為と、キャットフードと豆乳を段ボールの前に置いた。
不思議とお酒の気分ではなかった。
色々な思いが頭を巡る中、二人はコーヒーを飲みながら、なぜか言葉少なに寄り添うだけ。
外の雪はしだいに大きな粒となり、外を白く染めていく。
しかし冷たかったその雪が、なぜか暖かく感じられた。
二人は丸くなる猫を見ながら、言葉のいらない時間を過ごし続けた。
「かなざくらの古屋敷」
~ 第七部「猫の目」終 ~
萌江は咲恵とホテルのカフェにいた。
電話の相手は杏奈。
『そりゃそうですよ。あんな情報、現地じゃなきゃ無理ですって。幸いこっちの新聞社に知り合いもいたし…………』
「やっぱり使えるねえ…………報酬は私の体で払ってもいい?」
少し間を開けて聞こえて来た声は背後から。
「咲恵さんの隣で何言ってるんですか」
二人が振り返るとそこには杏奈の姿。
その杏奈に応えたのは咲恵だった。
「大丈夫よ。私が後でお仕置きしとくから…………おつかれ」
「お二人もお疲れ様です」
そう応えて杏奈は二人の向かいに腰を下ろして続けた。
「そもそも二人だけなのになんで隣同士で座ってるんですか?」
「いつも萌江の側にいたいから」
平然とした顔でそう言う咲恵に杏奈が笑顔で返した。
「結構、咲恵さんってサラッとそういうこと言いますよねえ」
「そう?」
「そうですよ」
「で?」
そう言って二人に挟まった萌江が続ける。
「今朝の事件でマスコミは盛り上がってるみたいだけど…………何か裏情報は?」
「そうですねえ」
そう言って前のめりになった杏奈が続けた。
「警察は分かりませんけど、マスコミは当然のように縁恨説一色です。元々集落の地上げに地元の暴力団が関わってたことまでオープンに全国ネットで話題になってます。あの県議会議員の過去も根掘り葉掘りと出て来てるので、もう止められない感じですね。暗黙の了解だった県警も動かざるを得なくなるんじゃないですか。このままじゃ自分たちの信頼にも関わりますし、今のネット社会じゃ昔のようにはいきませんよ」
すると、萌江も前のめりになって聞き返す。
「昨日もらった杏奈ちゃんからの情報って、マスコミと警察はどこまで?」
「私がかき集めてまとめたものですけど、なんとなく疑ってる人はいるかもですよ。地元の人たちがたむろするような居酒屋とかも行きましたけど、結構みんな話に乗って来てたんで」
「へえ…………結構お金かかったんじゃないの?」
萌江はそう言うと、テーブルの上で小さく折り畳んだ数枚のお札を杏奈の前に滑らせて続ける。
「じゃあ、ここの美味しいコーヒーご馳走するから、もう一つ調べてくれない?」
テーブルの上のお札を素早くジャケットの内ポケットに入れた杏奈が応える。
「報酬が体じゃないならいくらでも」
☆
西沙はホテルのミーティングルームを押さえていた。
小ぶりな部屋だったが充分な広さはある。
そこに夕方の四時から押し込められていたのは志筑一人。コーヒーの追加要求もないままに時間だけが過ぎた。
元住民の五人がホテルの裏口にこっそりと到着したのは夜の七時。
同じ頃、西沙の声がけでロビーには数人の私服警官が集まっていた。
ミーティングルームには志筑と元住民の五人。テーブルを挟んで向かい合う形で萌江、咲恵、西沙。三人の前には何枚もの紙の束が並ぶ。
真ん中に座った咲恵が最初に口を開いた。
「今日は改めて皆さんにお集まり頂きましたが、最初に結論から…………今夜でこの事件は解決させて頂きます」
向かいの五人がザワつき出す。
咲恵が続けた。
「今回の事件の首謀者は…………仁暮志筑さん…………お一人です」
五人全員が一番端に座る志筑に顔を向ける。
それを無視するかにように咲恵は続けた。
「ええ……分かってますよ。おかしいですよね────実行犯の皆さん…………犠牲となった六人を殺したのはあなたたち五人です」
五人はそれぞれ視線を落とし、落ち着かない。
その内、洋三が声を荒げた。
「茶番なら…………帰らしてもらう!」
「今朝のさあ」
椅子に片足を乗せて膝を立てた萌江だった。
その萌江が続ける。
「六人目の犠牲者……二階敦彦…………殺したのはあなた?」
萌江は鋭い目を洋三に向けていた。
洋三は僅かに体を震わせながら再び声を荒げる。
「やめないか! こんな侮辱はマスコミからだってないぞ!」
「自殺した奥さんの…………息子さん…………」
そして室内の空気が凍り付いた。
「……そんな……バカな…………」
その低くなった洋三の声を、萌江が拾い上げる。
「あの議員の妾だったってことは遺書で知っていたんでしょ? でも息子が誰なのかまでは書いていなかった。そりゃそうよ。息子を産んですぐに引き離されちゃったからね。奥さんは一度も会っていない…………これはあの家の元使用人からの情報。仕入れ先は私たちの情報屋。あなたはその人物も地上げに加担していたと思っていた。でもなぜそう思ったのか、が、今回の問題の核になる」
萌江は小さく息を吐くと、西沙に視線を送って続ける。
「少し話を戻そうか」
すると西沙が立ち上がってホワイトボードに向かう。
犠牲者六人の名前を順番に書いて、六人目────〝二階敦彦〟にバツ印をつけた。
そこに萌江の声が重なる。
「六人目はさっき言った通り。例え勘違いでも殺害の理由は想像出来た…………二人目の吉田春子…………だいぶひどくやられたみたいね、郁夫さん」
萌江が顔を振るが、郁夫は下を向いたまま。
「あの職場の従業員からいくつも証言が出てる。吉田春子からの〝イジメ〟はかなり陰湿だったみたいね…………辞める原因の一件も濡れ衣でしょ?」
西沙が〝吉田春子〟の横にバツ印。
そして萌江が続けた。
「そして三人目の銀行員の奥田秀一が地上げのために頼ったのが四人目の二階睦夫…………暴力団を動かせたからね…………そしてその二階睦夫の起こした交通事故の巻き添えで亡くなった秀一さんと幸恵さんの一人息子を、ただの被害者からその被害割合を下げたのが五番目の警察官の小林豊…………地上げとか暴力団っては確かに酷いけど、そもそも祠とは全員が関係ない。〝猫神様の呪い〟と結びつけるには無理があるよ」
誰も何も応えない中、六人中五人にバツ印。ペンを置いた西沙が椅子に戻った。
次は萌江が立ち上がって続ける。
「どうしても最後まで分からなかったのはこの人────久宝隆史」
萌江はホワイトボードに書かれた一番上の名前────〝久宝隆史〟の名前をペンで指す。
すると、僅かに顔を上げたのは恵美だった。
そこに萌江の声。
「最初のターゲットとするには丁度良かった? まだ力の弱い子供だしね。でもどんな個人的な恨みがあってターゲットにされたのか…………その理由を知っていたのは、家に誰もいない時間を知っていた人…………進入経路を割り出せた人…………子供の実の母親だった恵美さんだけ」
すると、郁夫が微かに顔を上げて恵美の横顔を見る。
恵美の体は小刻みに震え始めた。
ついで大粒の涙を流し始めた恵美が声を荒げる。
「────仕方なかったんです! 血を絶つためなんです! 全部終わったら…………あとは私が死ねば…………」
「そうだよね…………」
そう言って続ける萌江の声は柔らかい。
「幸恵さんから聞いたんでしょ? 恵美さんは村を捨てた一族の血を引いてると…………幸恵さん自身もね…………その血が残っている限りは呪いは続くと教えられて、そのために血を絶やそうと考えた…………幸恵さん」
その声に幸恵が思わず顔を上げる。
「あなたの隣に座ってる仁暮志筑からその話を聞いたのはいつ? あなたと恵美さんが一族の血を引いてると聞かされたのはいつ?」
幸恵は視線を落としながら、ゆっくりと、言葉を捻り出した。
「…………祠が……壊されてすぐ…………」
「仁暮志筑と会ったことがある人は幸恵さんだけね…………分かった…………」
萌江は椅子に腰を降ろして続ける。
「カラクリを説明する。まず基本的な部分として、あなたたち五人と仁暮志筑の目的は同じ。壊された〝祠の再建〟。ただこれだけ。だからこそあなたたちは工事の事故が多いことを理由に〝猫神様の呪い〟だと騒ぎ立てた。確かに祠を粗末にした行政に訴えるには丁度いい。でもそもそもの大規模な公共事業。実際は動員された作業員の人数だけを見ても、その犠牲者はそれほど多い数字じゃない。でも〝猫神様の呪い〟の小さな報道に黙っていられなかったのが霊能力者の仁暮志筑…………あの集落を捨てた一族の末裔…………」
志筑は微動だにしない。
ただ、目の前の冷めたコーヒーを見つめるだけ。
そして萌江の言葉が続いた。
「負い目もあったんでしょうね…………何気に行政に嘆願書まで作って出してる。もちろん遠くの一般人の訴えなんて、目の前の公共事業に鼻の下を伸ばした連中が聞いてくれるはずもない。そして、五人の訴えていた〝猫神様の呪い〟を利用しようと考えた。自分で動ければ良かったけど、タイミング悪く地元のテレビ局からのお誘いがかかったみたいね。それであなたは自分の能力を最大限に利用した。あなたとは薄いとは言っても血の繋がりのある幸恵さんと恵美さんの存在を知り、意思をコントロールしてね…………そこから五人全員に催眠を掛け、それぞれの恨みの念を増幅させた…………犠牲者は誰でも良かった。猟奇連続殺人事件であれば。両目はドライバー……喉はカミソリを四つ並べて固定すれば凶器は作れる…………警察の発表でもカミソリのような物とある…………よく考えたものね…………」
しばらく静寂が続く。
それを破ったのは咲恵だった。
「志筑さん…………私は手で触れた人の過去や感情を読み取ることが出来る…………だからあなたに肩を触れられた時、あなたの過去も見えた…………自分で恨みを晴らす勇気がないから五人を利用するなんて先祖と同じようにズルいだけ…………誰かに自分の責任を押し付けて、自分で成し遂げようとしないなんて…………あなたは自分のために五人を殺人者に仕立てた。祠が再建されたら、死ぬ気だったんでしょ? でも残された五人はどうするの? あなたのために刑務所に入るの…………あなたの先祖が村を逃げたために〝呪い〟の責任を押し付けられた村人たちのように…………みんなそれぞれに恨みはあった。でも殺人を犯すなんて普通の人間には出来ない。みんなそんなことの出来る人たちじゃない。あなたが焚き付けなければ、誰も殺人者にはなっていない」
僅かに咲恵の声が震える。
それを察した萌江が咲恵の肩に手を置いて繋げた。
「あんたは死なせない…………あんたが一人で罪を背負って生きていけ。自分の力をそんなことにしか使えないなんて…………私はあんたみたいな身勝手な奴が大っ嫌いだ」
そして萌江が立ち上がる。
咲恵が続き、西沙も続いた。
そして萌江。
「西沙…………仁暮志筑をロビーに…………五人の記憶は私が消す」
すると、静かに志筑が立ち上がった。
そして口を開く。
「…………あなたは…………何者……ですか?」
顔を上げ、その不思議な色の目を向けた志筑に萌江が返す。
「私は99.9%呪いも祟りも信じない能力者。だから私たちに催眠は効かないよ。普通の人間じゃないからね。もう諦めて……警察に何を言っても催眠なんか信じてもらえるわけがない。これは私たちじゃなきゃ辿り着けなかった真実だ。警察には自分がやったと自供して…………綺麗な終わらせ方じゃないのは分かってる…………でも、あなたに責任があるのは変わらない」
西沙が志筑をドアに促した。
ドアまで歩く志筑に声をかける。
「警察の人には、アイマスクをかけさせるように──目を見ないように言ってあるから…………さ、行こう…………」
ドアが開いた直後、志筑の背後から萌江の声がする。
「志筑さん…………祠は私が責任を持って再建する…………信じて…………だから最後に聞かせて…………あの蔵で聞いた声…………あれは誰? あなたも誰かに促されてこんなことしたんじゃないの⁉︎」
志筑は黙ったまま、横顔のまま何も応えない。
──……やっぱり……分かってるんだ…………
そして小さく、頷く。
それだけが志筑の答え。
そして、ドアが閉まった。
それでもいいのかもしれないと、萌江は思えた。
──……あとは……あの人の物語…………
萌江はネックレスを外すと、チェーンを持って水晶を五人の目の前にぶら下げる。
「この水晶を見てて…………あなたたちは人を殺せるような人たちじゃない…………私を信じて…………凶器も靴もただのゴミ…………すぐに捨てて…………あなたたちは誰も殺してなんかいない…………あななたたちは殺人者じゃないの…………静かに生きてっていいんだよ…………」
萌江は水晶を再び首にかけると、言葉を繋いだ。
「今夜はありがとうございました。お陰で事件は解決です。祠も近い内に再建されることを保証します」
五人は呆然と萌江を見続けているだけ。
そして萌江はドアに向かって叫ぶ。
「杏奈ちゃん!」
ドアを開けて入ってきた杏奈に続けた。
「裏にタクシー二台……札束掴ませて待たせてるけど、もうマスコミが嗅ぎつけてる可能性がある。こちらの五名を確実にタクシーで送り出してあげて」
杏奈も部屋の外で話を総て聞いていた。
──……とんでもない人たちに関わっちゃったのかもね…………
その杏奈は、大きく頷いて応える。
「分かりました」
☆
「早いんだよねマスコミの人間ってさ」
萌江と咲恵の部屋に報告に戻った西沙がいきなり愚痴をこぼしていた。
「あの人を警察の二人が連れて行こうとしたら、どっかから突然現れてさ…………」
それに応えたのは萌江。
「いつもそんな目立つゴスロリファッションだからじゃないの?」
「私のスタイルなんだからいいでしょ。それよりあの五人は大丈夫だった?」
ベッドの上でキャリーバッグに荷物を詰め込んでいた咲恵が応える。
「そう思って杏奈ちゃんに任せたから大丈夫よ。立ち回りの上手い子だから」
「って、あれ? もう帰るの? 今夜はせっかくなんだからお祝いしようよ」
それに返したのは萌江だった。
「人一人刑務所に送って何がお祝いよ。それに…………もっと早ければ最後の一人は救えたかもしれない…………」
その萌江の目は重い。
解決はした。
しかし良くも悪くも予測した通り。綺麗な終わり方ではなかった。
「…………ごめん」
西沙が肩をすくめ、ベッドに腰を落とす。
すかさず萌江が返した。
「最後の一人は私の責任…………」
その萌江に西沙が顔を向ける。
「どうして…………洋三さんは奥さんの息子さんを殺したの?」
「もちろん殺人事件を継続させることで行政とマスコミを動かしたかったっていうのはあるだろうけど、多分、洋三さんの中にある奥さんの記憶から、その存在が恐喝をしていた次男と重なったか…………殺意を増幅させられたとは言っても、その相手を決めたのは自分たちだからね…………もしくは奥さんの過去への嫉妬か……それが増幅されたほうがしっくりくるか…………増幅された殺意が間違いを生んだんだ……今となれば幸恵さんと恵美さんが本当に志筑さんと血の繋がりがあったのかも分からない。そこまでは私も咲恵も見えてない。やっぱり綺麗な終わり方じゃなかった……六人目は必要のなかった犠牲者だよ…………」
「……大丈夫かな…………みんな…………」
「大丈夫だよ。もう呪いは終わった…………それに、言ったでしょ? 我が家にも〝猫神様〟がいるんだってば。早く帰らないと祟られちゃうから」
萌江の目が、少しだけ軽くなった。
まるでそれに応えるように、返す西沙の声も変化する。
「そういえば、そんな話してたっけ」
「それとこれ、頼むよ」
そう言って萌江は分厚い封筒を西沙に渡して続ける。
「明日神社にお願い。祠を壊したことに抗議した神社に持っていけば、再建してくれるはず」
「あ、そっか」
「私たちの取り分も足せば結構な金額になるんじゃない? 新しい祠を作ってもらって」
すると封筒を覗いた西沙が目を丸くして応える。
「いや……これだけでも…………」
「いいから……足しといて」
「……うん…………分かった」
「みんなに約束したからね…………問題は場所じゃないよ。大事なのはその人たちの〝想い〟。西沙なら分かるでしょ。それで工事の事故も減るから」
「やっぱり、事故にも呪いが関係してるの?」
「さあね、あるとしたら、かつてあの村に暮らしてたたくさんの人たちの〝念〟みたいなものじゃないかな。〝呪い〟は人が作るもの…………変わるものもあれば、変わらないからいいものもあるんだよ」
そう呟くように言った萌江は、キャリーバッグを閉じた。
☆
思えば、おかしな家だった。
俗世からは完全に隔離された世界。
世の中のことなど何も知らない。
知らないからこそ、何も疑問になど思わない。
家族は両親だけ。
それが仁暮志筑。
仁暮家がお金持ちの家であることは、小学校までの車から見える世界の景色でなんとなく分かってはいた。他は家も小さく、服装もどことなく自分や両親とも違う。仁暮家は特別な家なのだろうと感じていた。
そのためか、中学に通うようになっても学校で会話をしていいのは教師だけ。
小学校も中学校も小さな学校だった。生徒は志筑の他は五人だけ。誰ももちろん友達ではない。そもそも友達という概念を志筑は持っていない。
ずっと、与えられる情報は両親からだけ。
中学を卒業してからは、家庭教師の男性だけが志筑の世界を作っていった。
家庭教師だけが、志筑の世界を作る、たった一人の存在。
以前は学校で教師をしていたという。志筑よりはだいぶ年上だったが、それでも志筑はその優しい笑顔が好きだった。
家庭教師はことあるごとに、志筑の世間知らずな様に驚いた様子だった。無理もない。しかも家庭教師は、常々そんな志筑を「かわいそう」だと言う。志筑自身は自分をそんな風に感じたことはない。今の生活が当たり前だったからだ。何も疑問は無いし不満も無い。
確かにその家庭教師は志筑から見たらそれまで出会ったことのある人々とは違った。いつもやけに音のうるさいおかしな形の車でやってくる。志筑はそんな形の車を見たことがなかった。
「先生のお車は、だいぶ変わった形をされているんですね」
そう聞いたことがあった。
「ああ、私は車が好きでしてね。しかも古い外車に目がない。最近の車とは違って味があって…………まあ、周りからは変わり者扱いですよ」
そう言って笑顔を見せる家庭教師に、志筑が応える。
「周り…………ご家族ですか?」
「家族もですが、友達にも笑われますよ」
「……友達…………」
この頃には、志筑も様々な本を読んでいた。多くは文豪と呼ばれるような作家の古い物ばかりだったが、それでもその中にはたくさんの世界があった。志筑の知らないことで溢れていた。
そして、自分には〝友達〟という存在がいないことを知っていた。
「……友達ですか…………私にはよく分かりません…………」
その寂しげな声に、家庭教師は気持ちのどこかを揺らされたのだろう。もっと志筑に世の中を見せてあげたいと思うようになっていった。
世の中にはもっと楽しいことや美しいものが溢れている。
それを見せてあげたかった。
志筑が二〇才の時。
両親から仁暮家の過去を聞かされる。
仁暮家の人間は、二〇才でその歴史を継承するのだという。
それは仁暮家の〝罪の歴史〟だった。
志筑もいずれ、自分の子供へと継承しなければならない。
志筑が初めて知る暗い歴史。多くの人の犠牲の上で成り立つ歴史。それは決して許されるものとは思えなかった。
「なぜ……継承しなければ…………誰も知らなければいいことではありませんか…………」
両親に対し、志筑は言葉を投げ返していた。
そんな過去のこと、誰も知らなければいい。知らなければ忘れられる。そう思えたからだ。
しかし母の答えは違った。
「……先代の母上は……私に継承することを拒みました…………しかし両親とも毎晩悪夢にうなされたそうです…………そして母上は気がおかしくなり……自ら命を絶ちました…………恐れた父上が私に歴史を継承したのです…………これは……〝呪い〟なのですよ…………我が仁暮家が背負う〝罪〟なのです…………」
何か、大きなものに縛られているかのようだった。
逃れられない。
自分の子供以外には口外してはならない。
自由に生きるなど、夢でしかない。
しかし、家庭教師の男性は明らかに違った。
志筑とは明らかに違う世界を生きている。
自由だった。
そして志筑は禁忌に踏み込む。家庭教師に総てを曝け出していた。
そうまでして守るものがなんなのか、それは家庭教師には到底理解の及ぶものではない。しかしあまりにも残酷すぎるその現実に、気持ちが揺さぶられた。どうしてそんな〝過去の罪〟に囚われなければならないのか。
ある日、家庭教師は志筑を連れ出した。
そのまま、仁暮家の屋敷に火を付ける。
燃える屋敷を車の助手席で見ていた志筑の頭に、声が聞こえた。
〝……血を絶て……終わらせろ…………〟
誰の声かも分からないまま、それでも志筑の頭からその声は離れない。
無意識の内に、志筑は他人を操っていたのだろう。
屋敷が全焼。両親が死亡。志筑が行方不明となれば、警察が志筑を探さないわけがない。しかし志筑にも家庭教師にも捜査の手は伸びなかった。事あるごとに志筑は他人の意識を操作し、やがて明確にその〝力〟を認識するようになる。
そして、自分が普通の人間ではないことを知った。
家庭教師と共に細々と暮らした。
裕福ではなかったが、決して志筑は不幸ではなかった。
かつて家庭教師だった夫は、常に優しかった。
志筑も能力を生かして自宅で心霊相談を受け始める。
やがて、子供が出来た。
しかし、二度目の流産で二人は子供を諦める。
〝……血を絶て……終わらせろ…………〟
──……私は……仁暮家の血を終わらせるために産まれてきたの…………?
そして、四〇を過ぎた頃、テレビのニュースに釘付けになった。
〝猫神様の祠〟。
涙が出た。
止まらなかった。
──…………祠を…………再建しなければ…………
そして、夫と共に、総てを終わらせることを誓った。
──……仁暮家は……私が終わらせる…………
ホテルのロビーで刑事に腕を掴まれた時、志筑の頭に浮かんだのは、夫のことだけだった。
☆
新幹線が駅に到着したのは、すでに深夜近く。
木曜日から金曜日へと日付が変わろうとしていた。
二人は咲恵の車で山の中の萌江の自宅へ向かっていた。
駅を出た時から、やけにピリピリとした寒さが空気を包んでいた。
二人の中に不安が過ぎる。仕事を終わらせた開放感よりも、気になるのは家に住み着いていた猫のことばかり。何日も家を開けたままでは縁側の下は寒いままだろうと予測は出来た。
自然と咲恵もスピードを上げていた。
山道に入った頃から、小さな雪が舞い始める。
「今シーズン最初の雪を二人で見れるのはいいけど、何もこんな時じゃなくても…………」
咲恵が運転をしながら思わず愚痴をこぼしていた。
駐車場に車が停まった途端に萌江は助手席を飛び出した。
まだ縁側に立て掛けていた段ボールはそのまま。萌江はその段ボールの側に膝をつき、ゆっくりと中を覗いた。
その姿を追いかけた咲恵に萌江が顔を向ける。
萌江は口に人差し指を当てて、再び覗き込む。
「……良かった…………頑張ったね…………」
そう囁く萌江の隣から咲恵が覗き込むと、そこには体を丸めてこちらを伺う黒猫と、その体に包まれる小さな命が二つ。
小さく咲恵が声を上げた。
「……そっか…………だから動かなかったんだ…………」
萌江は家の中からバラしていなかった新しい段ボールを出し、バスタオルを数枚入れ、横にして猫の前に置いた。リビングの薪ストーブに火をつけ、縁側の窓を少しだけ開ける。微かに段ボールの上だけが見えた。
萌江と咲恵はソファーでタオルケットに包まりながら窓の隙間を見つめ続ける。
「来るかな…………」
咲恵が呟いた。
「ご飯は無くなってた……多分大丈夫…………」
萌江はすぐに返す。
薪ストーブからの熱と、窓の隙間からの冷たい風。でもそれはなぜか嫌に感じない。
萌江が再び呟いた。
「……寒い中で……一人で頑張ったんだね…………暖かい部屋で休ませてあげたいけど…………」
その時、段ボールが小さく揺れる。
萌江が頭を上げる。しかしまだ様子を見ていた。
更に段ボールが揺れ続け、やがて動きが止まる。
萌江は四つん這いになって静かに縁側に出た。ゆっくりと段ボールを持ち上げると、そこには母猫と子猫が二匹。
小さく母猫が鳴き声を上げる。
「……いらっしゃい…………」
萌江がそのまま後退りをして部屋に入ったところで、いつの間にか隣に来ていた咲恵が静かに窓を閉めた。萌江が笑顔で見上げると、そこには咲恵の優しい笑顔。
段ボールをそのまま部屋の隅に置くと、萌江は念の為と、キャットフードと豆乳を段ボールの前に置いた。
不思議とお酒の気分ではなかった。
色々な思いが頭を巡る中、二人はコーヒーを飲みながら、なぜか言葉少なに寄り添うだけ。
外の雪はしだいに大きな粒となり、外を白く染めていく。
しかし冷たかったその雪が、なぜか暖かく感じられた。
二人は丸くなる猫を見ながら、言葉のいらない時間を過ごし続けた。
「かなざくらの古屋敷」
~ 第七部「猫の目」終 ~
応援ありがとうございます!
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