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第十一部「粉雪」第4話
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出生前診断の結果が出たのは妊娠四ヶ月くらいの頃。
その結果は染色体の異常。ダウン症の疑いが濃厚というものだった。もちろん一〇〇%というものではない。しかしその結果は、出産を諦めたとしても誰にも責められるものではない。
まだ胎児は小さい。
しかし靖子はその〝命〟を感じていた。
自分のお腹の中に、自分ではない〝命〟がいる。
そして繋がっているのは体だけではない。気持ちのどこか深いところでの繋がりを感じていた。
靖子にとっては二人目の妊娠。
絵留は元気に育っている。
きっとこの子も元気に育ってくれる…………なぜかそう思えた。
しかし太一には、靖子の感じているその気持ちが〝考え〟にしか思えない。まるで取り憑かれたように現実に中絶の理由を求めていた。医者からの説明を聞いた上で、ダウン症の子供を育てていくことの難しさが肩にのしかかる。一般的には平均寿命も短い。産まれたからという理由だけで簡単に育てていけるものではない。
お互いに、綺麗事だけで決断すべきでないことは理解していた。
そして、何が正しいのかの答えが見付からない。
診断の結果が出てからの家の中の空気は重かった。しかも暗い。考えないようになど出来るはずもないままに、意見が交わることはなかった。
太一も決して靖子の意見を聞かなかったわけではない。何とか靖子の気持ちを理解出来ないかと、積極的に言葉を聞いた。しかししだいに感情的になっていく靖子の声は、いつも太一を苛立たせる。いつの間にか、太一も自分の意見や感情を押し付けるようになっていた。家に帰ることすら疲れる毎日に、ただただ神経をすり減らしていく。
しかしそれは靖子も同じだった。母親が父親の考えるそれとは別の次元で我が子と繋がっている感覚は、決して性別の壁を超えることはない。それでも例え無駄に思えてもそれを問いていくしかないジレンマに、毎日を積み重ねていく。
やがて、意見のぶつけ合いに疲れた二人が辿り着いたのは、とある神社だった。
もしかしたら、お互いにただ第三者の意見を聞きたかっただけなのかもしれない。太一の何気ない提案に、靖子もそれを受け入れた。
心底、疲弊していたのだろう。
広い参道を歩くだけで、不思議と心が安らいだ。
理由は分からない。
ただ、そこに来たことを間違ったこととは思えなかった。
お互いの感情をぶつけ合う度に離れた気持ちが、目の前の本殿が近付くのに合わせて少しだけ近付いていく。
それでも、現実の重みは変わらない。
本殿の裏に通された。裏とは言っても祭壇のある広い板間。障子を通して陽の光が室内を照らすが、まるでそれは間接照明のように並んで座る二人の影を際立たせた。二人の気落ちは厚い座布団が心細いままに繋ぐだけ。
やがて、板間から続く廊下の奥に、人影が一つ。
白と朱色の巫女服。
床を擦る足袋と袴の音だけが辺りに広がっていく。
二人の前に正座する巫女のその立ち振る舞いの美しさに、太一と靖子はしばし見惚れた。
それは、まだ神社の代表になったばかりの、咲の姿だった。
そしてその咲は、節目がちに、ゆっくりと口を開き始める。
「お待たせ致しました…………当神社を任せられております…………御陵院……咲と申します」
目の前で深々と頭を下げる咲に、慌てて二人も頭を下げた。
そして最初に応えたのは太一。
「お忙しいところ……無理にお願いしまして…………」
「いえ、とんでもございません。急いだのはむしろこちらのほうです…………急を要すると判断させて頂きました」
「……そうですか…………それで、電話で話した通りなんですが…………もう、どうしたらいいのか悩んでいまして…………」
「結論から申し上げます…………」
その咲の声に、二人が同時に顔を上げる。
それに気付いたかのように、咲が続けた
「……信じられるかどうかは分かりかねますが…………このままお子さんを御出産されるのは…………おやめになられたほうがよろしいかと…………」
「────そんな…………」
思わずそう声を漏らしたのは靖子。
その靖子が反射的に顔を伏せた時、咲が続ける。
「念の為…………出生前診断の結果のお話ではありません…………ここへいらしたのも偶然ではないはず…………わざわざこんな遠くまで…………近くにも神社はいくつもあるはずです…………お子様は…………どうやら私に会いにいらしたようですね…………」
「どういう……ことでしょうか…………?」
その太一の言葉に、咲は少し間を開けてから応えた。
「……お電話を頂いた時に分かりました…………因縁でしょう…………奥様のお腹の中の者と…………私は以前に会っています…………」
「仰っている意味が…………」
「無理もございません…………奥様は…………お子様を御出産されたいのですね…………」
すると、潤んだ目を上げて靖子が応える。
「もちろんです」
震えたその声に、咲はあっさりと即答した。
「お子様は五体満足で御産まれになるでしょう」
「ホントですか⁉︎」
高い声を上げる靖子を制するように太一が返す。
「さっき産まないほうがいいって────」
しかしそれを咲が遮る。
「──お子様に産まれてほしくない〝力〟がいるのです」
「ちから…………?」
「…………私には、その〝力〟を持った者が見えません…………もう一人…………娘さんがいらっしゃるとのことでしたが…………」
「はい…………七才になります…………」
「…………そうですか……」
すると、太一が腰を僅かに浮かせて声を荒げた。
「何ですか⁉︎ 娘がどうしたっていうんです⁉︎」
「娘さんは…………」
小さくそう言った咲は太一を見上げると、その目を見ながら続ける。
「────勘の鋭いお子さんではありませんか?」
「それは…………はい…………そうですが…………」
太一は浮かせていた腰を落とすと、目を伏せた。
そして咲が返す。
「近い内に、娘さんを連れて来て頂けないでしょうか? 祈祷料は今回もその時も頂かなくて結構…………これは私の問題でもあります…………」
「しかし…………」
「今日は奥様のお腹の中の命を守るべきです…………そのための祈祷をしなければ…………〝あの者〟には勝てません…………」
咲が見ていた者とは、以前に京子と対峙していた〝蛇〟に他ならない。
その蛇が目の前にいる。
咲の神経が高ぶっていた。
──……〝あの蛇〟を、払わなければ…………
咲がこれからすべきことはそれだけ。
しかし、なぜ自分が関わることになるのか、それだけは分からないままだった。
☆
「…………どうするの?」
萌江の目の前にボトルセットの新しい氷を出しながら、咲恵は不安気に続けた。
「……宗教団体ってこと…………分かってたの?」
杏奈が帰った後、萌江は受け取った資料に目を配り続けていた。ボトルの減っていくスピードがいつもより早い。
──……よくない時の飲み方だ…………
咲恵にはそれが分かっていた。
長い付き合い。しかしもちろん萌江との関係は時間だけではない。その深みから分かる萌江の感情が、痛いほどに咲恵には伝わっていた。
その萌江が応える。
「…………そこまでは分からなかった…………正直、驚いたよ…………」
萌江はグラスのブランデーを飲み干すと、不安気な表情を浮かべる咲恵と目を合わせた。適当にその場限りの応え方をしてはいけないのが分かっていた。新興宗教の代表の家に産まれ、人生を翻弄された咲恵に、今更の中途半端な言葉はむしろ失礼だとも思った。
「ねえ……咲恵…………」
萌江は、ゆっくりと言葉を選ぶように続ける。
「……ごめんね…………巻き込んじゃった…………でも、今回は私だけでやらせて」
「今回はって…………別に誰かからの依頼じゃないし、ちょっかい出してきただけのそんな子供なんか────」
咲恵が手元に置いたグラスの音が激しく空気を揺らす。
その音も含めて、萌江が遮る。
「それだけじゃないことは気付いてるでしょ…………お母さんに関係のあることだから…………無視は出来ないよ…………だから、今回は私だけで────」
それを今度は咲恵が遮る。
「尚のこと一人なんかダメだよ────私の中にだって…………」
言葉を詰まらせた咲恵を、萌江が掬い上げた。
「…………咲恵は…………いざとなったらさ…………命を掛けても私を守る気なんでしょ?」
それを聞いた咲恵が、目を細める。
その複雑な心情を意識してか、萌江が言葉を繋いだ。
「私を守りたいのは…………咲恵? それとも……………………〝京子〟?」
咲恵が、今度は目を見開く。
そしてその目を伏せた。
自分の中に〝京子〟がいる。それは少し前から分かっていた。自覚もある。しかし、京子の存在が無かったら今の時間が存在するのか────それは咲恵も自問自答を繰り返していたことだ。もしも今までの萌江との時間が〝京子〟の存在ありきのものだったとしたなら、自分が自分の気持ちだと思っていたものは、本当に咲恵のものなのか────その答えを知ることが、咲恵は怖かった。
その咲恵が言葉を返せないままに、時間だけが過ぎていく。
──……私は…………誰…………?
やがて、口を開いたのは萌江だった。
「…………嫌だね…………こんなの……………………ごめん…………」
「……やめてよ…………」
咲恵の消え入るような声を聞きながら、萌江は資料の束を自分のサッチェルバッグにしまうと、そのままバッグを持ち上げ、同時に椅子から腰を浮かせる。
萌江のハイカットのスニーカーが、床で優しい音を立てた。
決して響くような音ではない。
それなのに、咲恵の耳にはそれが大きく届く。
萌江は数歩だけ歩き、視界から咲恵が消えたところで再び口を開いた。
「…………まだ…………ボトルは……残しておいてよね…………」
その夜は、なぜかドアの鈴の音が小さい。
そして、まだ咲恵は顔を上げることが出来なかった。
☆
「靖子と胎児を殺せ」
まだ小学生の娘に言われるがまま、どうして太一がそんなことをしたのか、それは太一自身にも理解の出来ることではなかった。
しかし、気が付いた時、辺りには血が溢れていた。
血塗れの靖子に馬乗りになり、横には首を切り落とされた血だらけの胎児の形をしたもの。
太一にはそれが〝命〟には見えなかった。
目の前の光景に、太一が抱いたものは恐怖ではない。
あるものは、総てから解放された安堵感。
何もかもが終わりを告げたかのようだった。
その背後から、小さく床が軋む音が聞こえる。
太一はゆっくりと振り返った。
そこにいるのは無表情なままの絵留。
太一には、何の感情も浮かばなかった。
家に帰ってきて、絵留の目を見てからの記憶があやふやだった。しかし太一は、絵留の言う通りに実行した。
ただ、それだけ。
そうしなければいけないと、そう思った。
そして、何も後悔はしていない。
解放感だけが残っていた。
やがて、絵留の表情が動く。
口角が上がった。
「よくやった…………お前は〝私のために京子を殺した〟」
──…………京子……?
もちろん太一には意味が理解出来ない。
さらに絵留が続ける。
「警察には自分で電話をしろ────お前はもう〝用済み〟だ」
太一が立ち上がると、全身が重かった。体の至る所から血が零れ落ちる。
その時、一瞬だけ、太一の中に疼いたものがあった。
しかし、太一がそれが何かを知ることは、その先もないまま。
やがてやってきた警察に、太一は逮捕され、絵留は怯えた表情で自分の部屋にいるところを保護された。
時が過ぎ、留置場の中で少しずつ太一は自我を取り戻していた。
しかし、毎晩夢の中に現れる絵留の姿に恐怖し、ノイローゼ気味になっていく。
絵留を恐れる日々が続いた。
親族の誰も面会に来ることはなかった。事件の直後に太一は親族から縁を切られていたからだ。元々良くは思われなかった結婚。しかも妻を殺した殺人者となれば、当然と言えば当然だった。
会話を許されない刑務所の中で、恐怖に震えながら時間だけが過ぎていく。
夜が怖い。
眠りにつくのが怖かった。
しだいに睡眠時間も減っていく。
日々痩せ細っていく姿に刑務官が不信感を抱き、医者の診察を受けたことで、処方された睡眠薬を就寝前に飲まされるようになると、結果として精神的に追い詰められていく。
絵留が行方不明になったことを聞かされた時、すでに太一の中で何かが壊れ掛けていた。
絵留が自分の前にやってくるかもしれない恐怖。
あの〝目〟を見るのが怖かった。
あの時の解放感が、懐かしくさえ感じる。
終わらせたかった。
〝解放〟されたかった。
就寝時間前。
いつものように刑務官に睡眠薬を飲まされた太一は、遠くなった足音を耳に、暗闇の中で布団から起き上がる。
何の迷いもなかった。
ただ、自分の総ての力を使って、目の前の壁に額を打ちつける。
迷いの無くなった人間の力は強い。
まるでそれは、靖子を殺した時のように、何の抵抗感も無い。
☆
教会の場所は資料の住所で分かった。
それでも初めての地。
公安の目があるとすれば、下手に駅からタクシーを使うことも出来ない。
萌江は慣れない道をひたすらに歩いた。気温は暖かいほどだ。寒くて冷え切った空気よりは歩く分にはありがたい。
街中を抜け、しだいに周囲の建物が少なくなっていく。
最後だろうと思われたコンビニで飲み物を買って、それからは先を急いだ。
辿り着いた先で何が起こるかなど分からない。しかし、萌江は出来るだけ自分の痕跡は残せないと感じていた。そうでなければタクシーを利用しただろう。今回は何故か明確な未来が見えなかった。
誰かに邪魔をされているのか、咲恵がいないからか────それは萌江にも分からなかったが、嫌な感覚が一歩ずつ膨れ上がってくるのは事実。
それでも私的な問題だ。
宗教団体だからということもあったが、今回はやはり咲恵を巻き込みたくなかった。そのくらいに危険な匂いだけが鼻をつく。
しかも、何より怖いのは未来が見えないことだ。
やはり、普通ではない。
そして資料を見る限り、どう考えても牧田絵留と〝京子〟に関わりがあるようには見えなかった。ならばなぜあの時〝京子の姿〟を見せられたのか────そして、どうして絵留は自分に会いたがっているのか。
──……直接、聞くしかないね…………
その気持ちだけが、萌江の足を動かしていた。
持ち物は財布とスマートフォンだけ。
やがて片手に持ったペットボトルですら重く感じられた時、その教会は目の前に姿を表した。
手入れのされた印象ではなかった。もしかしたらかつては美しい印象を与えていたのかもしれない。しかし今は周囲の雑草さえそのまま。周りの空間から教会の建物を覆い隠すような林の木々も背が高い。
まるでそれまでの道のりとは別世界のようなその雰囲気に、萌江は小さく息を吐く。
「……どうやら…………向こうも、もう気が付いてるみたいだね…………」
そして道路に面した門に手をかけた。
錆びついた甲高い音が、周囲に木霊する。
「かなざくらの古屋敷」
~ 第十一部「粉雪」第5話(第十一部最終話)へつづく ~
その結果は染色体の異常。ダウン症の疑いが濃厚というものだった。もちろん一〇〇%というものではない。しかしその結果は、出産を諦めたとしても誰にも責められるものではない。
まだ胎児は小さい。
しかし靖子はその〝命〟を感じていた。
自分のお腹の中に、自分ではない〝命〟がいる。
そして繋がっているのは体だけではない。気持ちのどこか深いところでの繋がりを感じていた。
靖子にとっては二人目の妊娠。
絵留は元気に育っている。
きっとこの子も元気に育ってくれる…………なぜかそう思えた。
しかし太一には、靖子の感じているその気持ちが〝考え〟にしか思えない。まるで取り憑かれたように現実に中絶の理由を求めていた。医者からの説明を聞いた上で、ダウン症の子供を育てていくことの難しさが肩にのしかかる。一般的には平均寿命も短い。産まれたからという理由だけで簡単に育てていけるものではない。
お互いに、綺麗事だけで決断すべきでないことは理解していた。
そして、何が正しいのかの答えが見付からない。
診断の結果が出てからの家の中の空気は重かった。しかも暗い。考えないようになど出来るはずもないままに、意見が交わることはなかった。
太一も決して靖子の意見を聞かなかったわけではない。何とか靖子の気持ちを理解出来ないかと、積極的に言葉を聞いた。しかししだいに感情的になっていく靖子の声は、いつも太一を苛立たせる。いつの間にか、太一も自分の意見や感情を押し付けるようになっていた。家に帰ることすら疲れる毎日に、ただただ神経をすり減らしていく。
しかしそれは靖子も同じだった。母親が父親の考えるそれとは別の次元で我が子と繋がっている感覚は、決して性別の壁を超えることはない。それでも例え無駄に思えてもそれを問いていくしかないジレンマに、毎日を積み重ねていく。
やがて、意見のぶつけ合いに疲れた二人が辿り着いたのは、とある神社だった。
もしかしたら、お互いにただ第三者の意見を聞きたかっただけなのかもしれない。太一の何気ない提案に、靖子もそれを受け入れた。
心底、疲弊していたのだろう。
広い参道を歩くだけで、不思議と心が安らいだ。
理由は分からない。
ただ、そこに来たことを間違ったこととは思えなかった。
お互いの感情をぶつけ合う度に離れた気持ちが、目の前の本殿が近付くのに合わせて少しだけ近付いていく。
それでも、現実の重みは変わらない。
本殿の裏に通された。裏とは言っても祭壇のある広い板間。障子を通して陽の光が室内を照らすが、まるでそれは間接照明のように並んで座る二人の影を際立たせた。二人の気落ちは厚い座布団が心細いままに繋ぐだけ。
やがて、板間から続く廊下の奥に、人影が一つ。
白と朱色の巫女服。
床を擦る足袋と袴の音だけが辺りに広がっていく。
二人の前に正座する巫女のその立ち振る舞いの美しさに、太一と靖子はしばし見惚れた。
それは、まだ神社の代表になったばかりの、咲の姿だった。
そしてその咲は、節目がちに、ゆっくりと口を開き始める。
「お待たせ致しました…………当神社を任せられております…………御陵院……咲と申します」
目の前で深々と頭を下げる咲に、慌てて二人も頭を下げた。
そして最初に応えたのは太一。
「お忙しいところ……無理にお願いしまして…………」
「いえ、とんでもございません。急いだのはむしろこちらのほうです…………急を要すると判断させて頂きました」
「……そうですか…………それで、電話で話した通りなんですが…………もう、どうしたらいいのか悩んでいまして…………」
「結論から申し上げます…………」
その咲の声に、二人が同時に顔を上げる。
それに気付いたかのように、咲が続けた
「……信じられるかどうかは分かりかねますが…………このままお子さんを御出産されるのは…………おやめになられたほうがよろしいかと…………」
「────そんな…………」
思わずそう声を漏らしたのは靖子。
その靖子が反射的に顔を伏せた時、咲が続ける。
「念の為…………出生前診断の結果のお話ではありません…………ここへいらしたのも偶然ではないはず…………わざわざこんな遠くまで…………近くにも神社はいくつもあるはずです…………お子様は…………どうやら私に会いにいらしたようですね…………」
「どういう……ことでしょうか…………?」
その太一の言葉に、咲は少し間を開けてから応えた。
「……お電話を頂いた時に分かりました…………因縁でしょう…………奥様のお腹の中の者と…………私は以前に会っています…………」
「仰っている意味が…………」
「無理もございません…………奥様は…………お子様を御出産されたいのですね…………」
すると、潤んだ目を上げて靖子が応える。
「もちろんです」
震えたその声に、咲はあっさりと即答した。
「お子様は五体満足で御産まれになるでしょう」
「ホントですか⁉︎」
高い声を上げる靖子を制するように太一が返す。
「さっき産まないほうがいいって────」
しかしそれを咲が遮る。
「──お子様に産まれてほしくない〝力〟がいるのです」
「ちから…………?」
「…………私には、その〝力〟を持った者が見えません…………もう一人…………娘さんがいらっしゃるとのことでしたが…………」
「はい…………七才になります…………」
「…………そうですか……」
すると、太一が腰を僅かに浮かせて声を荒げた。
「何ですか⁉︎ 娘がどうしたっていうんです⁉︎」
「娘さんは…………」
小さくそう言った咲は太一を見上げると、その目を見ながら続ける。
「────勘の鋭いお子さんではありませんか?」
「それは…………はい…………そうですが…………」
太一は浮かせていた腰を落とすと、目を伏せた。
そして咲が返す。
「近い内に、娘さんを連れて来て頂けないでしょうか? 祈祷料は今回もその時も頂かなくて結構…………これは私の問題でもあります…………」
「しかし…………」
「今日は奥様のお腹の中の命を守るべきです…………そのための祈祷をしなければ…………〝あの者〟には勝てません…………」
咲が見ていた者とは、以前に京子と対峙していた〝蛇〟に他ならない。
その蛇が目の前にいる。
咲の神経が高ぶっていた。
──……〝あの蛇〟を、払わなければ…………
咲がこれからすべきことはそれだけ。
しかし、なぜ自分が関わることになるのか、それだけは分からないままだった。
☆
「…………どうするの?」
萌江の目の前にボトルセットの新しい氷を出しながら、咲恵は不安気に続けた。
「……宗教団体ってこと…………分かってたの?」
杏奈が帰った後、萌江は受け取った資料に目を配り続けていた。ボトルの減っていくスピードがいつもより早い。
──……よくない時の飲み方だ…………
咲恵にはそれが分かっていた。
長い付き合い。しかしもちろん萌江との関係は時間だけではない。その深みから分かる萌江の感情が、痛いほどに咲恵には伝わっていた。
その萌江が応える。
「…………そこまでは分からなかった…………正直、驚いたよ…………」
萌江はグラスのブランデーを飲み干すと、不安気な表情を浮かべる咲恵と目を合わせた。適当にその場限りの応え方をしてはいけないのが分かっていた。新興宗教の代表の家に産まれ、人生を翻弄された咲恵に、今更の中途半端な言葉はむしろ失礼だとも思った。
「ねえ……咲恵…………」
萌江は、ゆっくりと言葉を選ぶように続ける。
「……ごめんね…………巻き込んじゃった…………でも、今回は私だけでやらせて」
「今回はって…………別に誰かからの依頼じゃないし、ちょっかい出してきただけのそんな子供なんか────」
咲恵が手元に置いたグラスの音が激しく空気を揺らす。
その音も含めて、萌江が遮る。
「それだけじゃないことは気付いてるでしょ…………お母さんに関係のあることだから…………無視は出来ないよ…………だから、今回は私だけで────」
それを今度は咲恵が遮る。
「尚のこと一人なんかダメだよ────私の中にだって…………」
言葉を詰まらせた咲恵を、萌江が掬い上げた。
「…………咲恵は…………いざとなったらさ…………命を掛けても私を守る気なんでしょ?」
それを聞いた咲恵が、目を細める。
その複雑な心情を意識してか、萌江が言葉を繋いだ。
「私を守りたいのは…………咲恵? それとも……………………〝京子〟?」
咲恵が、今度は目を見開く。
そしてその目を伏せた。
自分の中に〝京子〟がいる。それは少し前から分かっていた。自覚もある。しかし、京子の存在が無かったら今の時間が存在するのか────それは咲恵も自問自答を繰り返していたことだ。もしも今までの萌江との時間が〝京子〟の存在ありきのものだったとしたなら、自分が自分の気持ちだと思っていたものは、本当に咲恵のものなのか────その答えを知ることが、咲恵は怖かった。
その咲恵が言葉を返せないままに、時間だけが過ぎていく。
──……私は…………誰…………?
やがて、口を開いたのは萌江だった。
「…………嫌だね…………こんなの……………………ごめん…………」
「……やめてよ…………」
咲恵の消え入るような声を聞きながら、萌江は資料の束を自分のサッチェルバッグにしまうと、そのままバッグを持ち上げ、同時に椅子から腰を浮かせる。
萌江のハイカットのスニーカーが、床で優しい音を立てた。
決して響くような音ではない。
それなのに、咲恵の耳にはそれが大きく届く。
萌江は数歩だけ歩き、視界から咲恵が消えたところで再び口を開いた。
「…………まだ…………ボトルは……残しておいてよね…………」
その夜は、なぜかドアの鈴の音が小さい。
そして、まだ咲恵は顔を上げることが出来なかった。
☆
「靖子と胎児を殺せ」
まだ小学生の娘に言われるがまま、どうして太一がそんなことをしたのか、それは太一自身にも理解の出来ることではなかった。
しかし、気が付いた時、辺りには血が溢れていた。
血塗れの靖子に馬乗りになり、横には首を切り落とされた血だらけの胎児の形をしたもの。
太一にはそれが〝命〟には見えなかった。
目の前の光景に、太一が抱いたものは恐怖ではない。
あるものは、総てから解放された安堵感。
何もかもが終わりを告げたかのようだった。
その背後から、小さく床が軋む音が聞こえる。
太一はゆっくりと振り返った。
そこにいるのは無表情なままの絵留。
太一には、何の感情も浮かばなかった。
家に帰ってきて、絵留の目を見てからの記憶があやふやだった。しかし太一は、絵留の言う通りに実行した。
ただ、それだけ。
そうしなければいけないと、そう思った。
そして、何も後悔はしていない。
解放感だけが残っていた。
やがて、絵留の表情が動く。
口角が上がった。
「よくやった…………お前は〝私のために京子を殺した〟」
──…………京子……?
もちろん太一には意味が理解出来ない。
さらに絵留が続ける。
「警察には自分で電話をしろ────お前はもう〝用済み〟だ」
太一が立ち上がると、全身が重かった。体の至る所から血が零れ落ちる。
その時、一瞬だけ、太一の中に疼いたものがあった。
しかし、太一がそれが何かを知ることは、その先もないまま。
やがてやってきた警察に、太一は逮捕され、絵留は怯えた表情で自分の部屋にいるところを保護された。
時が過ぎ、留置場の中で少しずつ太一は自我を取り戻していた。
しかし、毎晩夢の中に現れる絵留の姿に恐怖し、ノイローゼ気味になっていく。
絵留を恐れる日々が続いた。
親族の誰も面会に来ることはなかった。事件の直後に太一は親族から縁を切られていたからだ。元々良くは思われなかった結婚。しかも妻を殺した殺人者となれば、当然と言えば当然だった。
会話を許されない刑務所の中で、恐怖に震えながら時間だけが過ぎていく。
夜が怖い。
眠りにつくのが怖かった。
しだいに睡眠時間も減っていく。
日々痩せ細っていく姿に刑務官が不信感を抱き、医者の診察を受けたことで、処方された睡眠薬を就寝前に飲まされるようになると、結果として精神的に追い詰められていく。
絵留が行方不明になったことを聞かされた時、すでに太一の中で何かが壊れ掛けていた。
絵留が自分の前にやってくるかもしれない恐怖。
あの〝目〟を見るのが怖かった。
あの時の解放感が、懐かしくさえ感じる。
終わらせたかった。
〝解放〟されたかった。
就寝時間前。
いつものように刑務官に睡眠薬を飲まされた太一は、遠くなった足音を耳に、暗闇の中で布団から起き上がる。
何の迷いもなかった。
ただ、自分の総ての力を使って、目の前の壁に額を打ちつける。
迷いの無くなった人間の力は強い。
まるでそれは、靖子を殺した時のように、何の抵抗感も無い。
☆
教会の場所は資料の住所で分かった。
それでも初めての地。
公安の目があるとすれば、下手に駅からタクシーを使うことも出来ない。
萌江は慣れない道をひたすらに歩いた。気温は暖かいほどだ。寒くて冷え切った空気よりは歩く分にはありがたい。
街中を抜け、しだいに周囲の建物が少なくなっていく。
最後だろうと思われたコンビニで飲み物を買って、それからは先を急いだ。
辿り着いた先で何が起こるかなど分からない。しかし、萌江は出来るだけ自分の痕跡は残せないと感じていた。そうでなければタクシーを利用しただろう。今回は何故か明確な未来が見えなかった。
誰かに邪魔をされているのか、咲恵がいないからか────それは萌江にも分からなかったが、嫌な感覚が一歩ずつ膨れ上がってくるのは事実。
それでも私的な問題だ。
宗教団体だからということもあったが、今回はやはり咲恵を巻き込みたくなかった。そのくらいに危険な匂いだけが鼻をつく。
しかも、何より怖いのは未来が見えないことだ。
やはり、普通ではない。
そして資料を見る限り、どう考えても牧田絵留と〝京子〟に関わりがあるようには見えなかった。ならばなぜあの時〝京子の姿〟を見せられたのか────そして、どうして絵留は自分に会いたがっているのか。
──……直接、聞くしかないね…………
その気持ちだけが、萌江の足を動かしていた。
持ち物は財布とスマートフォンだけ。
やがて片手に持ったペットボトルですら重く感じられた時、その教会は目の前に姿を表した。
手入れのされた印象ではなかった。もしかしたらかつては美しい印象を与えていたのかもしれない。しかし今は周囲の雑草さえそのまま。周りの空間から教会の建物を覆い隠すような林の木々も背が高い。
まるでそれまでの道のりとは別世界のようなその雰囲気に、萌江は小さく息を吐く。
「……どうやら…………向こうも、もう気が付いてるみたいだね…………」
そして道路に面した門に手をかけた。
錆びついた甲高い音が、周囲に木霊する。
「かなざくらの古屋敷」
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