かなざくらの古屋敷

中岡いち

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第十一部「粉雪」第3話

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 波瑠はるの母親────栄子えいこがその宗教団体に入信したのは、波瑠はる絵留えるに出会う二年ほど前のこと。
 新興宗教団体〝風光会ふうこうかい〟────その当時は信者が一〇名ほどの小さな組織に過ぎなかった。
 教祖は元々敬虔なクリスチャンだった新堂春子しんどうはるこ。洗礼名としてヘレナという名も持っていた。
 宗教団体とは言っても、ほとんどその組織体系はコミュニティーといったほうが正しいだろう。春子はるこのマンションの一室に信者が集まり、聖書の意味を信者同士で読み解いていく。それ以外にこれといった活動はない。聖書の理解を深めること。それ自体が団体の教義だった。時には春子はるこが以前に通っていた教会にみんなで赴き、神父からの言葉を聞き、聖書の教えを神父と共に話し合う。
 聖書に書かれている言葉の一つ一つをみんなで意見を交わしながら理解を深めていく。そして神の言葉にみんなで耳を傾けた。
 お布施も無い。
 栄子えいこ自身も元々キリスト教徒。同じクリスチャンだった夫に先立たれたばかりの栄子えいこにとっては、小さなコミュニティーのようなその団体は心の拠り所でもあった。そして娘である波瑠はるもキリスト教徒ではあったが、栄子えいこが無理に団体に入るように勧めたことはない。栄子えいことしては急ぐことではないとも思ったし、同時に波瑠はる自身が自分で決めることだと考えていた。別の宗教から改宗するわけでもないものだ。キリスト教の勉強会のようなコミュニティー。
 波瑠はるが団体に入ったのは栄子えいこの一年ほど後のこと。栄子えいこももちろん歓迎した。キリスト教とは言っても狂信的な信者は一人もいなかった。全員が普通の人々だ。ただ神の言葉を聞き、人としての正しい道を模索していただけ。栄子えいこのように元からキリスト教徒だった者もいれば、それまで宗教というものに興味のなかった者もいる。特別勧誘というものもしたことはなかった。口伝てで少しずつ増え、それでも波瑠はるを入れても十二名。特別大きくしようともしていない。総ては意味を持って成されていくだけ。そして受け入れるだけ。
 波瑠はるはキリスト教徒とは言ってもそれほど聖書に対して詳しいわけではない。もちろんまだ年齢的にも幼い。そんな波瑠はるにとっても勉強の出来るいい機会だった。
「私は別にキリスト教徒ってわけじゃないんだけどさ」
 波瑠はるの説明を聞いた絵留えるは、そう言って続けた。
「仏教でもないし…………でも興味があるんだよね」
 そう言うと絵留えるは周りに目を配った。
 そこは小学部の校舎と中学部の校舎を繋ぐ渡り廊下の一階。外側から廊下の手すりに寄りかかりながら、絵留えるは出来るだけさりげなく視線を配っている。自分が目立つ存在であることは理解していた。学校では一種の有名人。周りから誰かに声を掛けられても面倒だと思った。
 ここに移動したのは廊下の手すりの脇に水道があるからだった。絵留えるに促されながら、波瑠はるが膝の泥を洗い流す。明らかに擦りむいているそこには血も滲んでいた。波瑠はるは濡れた白いハンカチを膝に押し当てると、顔を僅かに歪めた。
 絵留えるは水道で自分のピンクのハンカチを軽く湿らせると、波瑠はる土埃つちぼこりに塗れた制服を拭き始めた。
「え⁉︎ そんな……絵留える様…………」
 みんながそう呼んでいた。
 まるでそれは畏敬の念を込めた表現だった。心酔する生徒たちは、絵留えるをそう呼ぶことで絵留えるの神格化されたイメージを自らの中で膨らませていく。生徒たちが神秘性を求めて呼び始めたその呼び方は、大人である教師たちにはやはり薄気味悪いものでしかない。
「気にしないでよ」
 絵留えるはそう応えながら、波瑠はるの制服を拭き続ける。
 そして続けた。
「…………そこ…………紹介してよ……」
 絵留えるの手の感触が、制服を通して波瑠はるの体に伝わった。
 いつの間にか、胸が高鳴っていた。
 自分でも分かるくらいに鼓動が早い。
 体の線をなぞるような絵留えるの手の動きに、波瑠はるは体の力が少しずつ抜けていくようなそんな感覚を味わった。
「……い…………いい……ですよ…………」
 波瑠はるはやっと言葉を絞り出していた。
「そう…………じゃあ……私も約束を守らないとね…………」
「……約束…………」
 そう呟くように返した波瑠はるの耳元に、絵留えるの吐息がかかる。
 波瑠はるの体が痺れるように反応すると、その柔らかい吐息は、やがて小さな声に変わった。
「さっきの三人…………私の〝友達〟をイジメるなんて…………私が許すわけないじゃない…………」
「……友達…………」
 その言葉に波瑠はるが過剰に反応したのは事実。
 そしてその言葉は、波瑠はる絵留えるを〝受け入れる〟には充分過ぎるものでもあった。
 いつの間にか、波瑠はるは両足の間に入り込んだ絵留えるの手を受け入れていた。
 重ねられた唇も、波瑠はるは全身で受け入れる。
 その日の夜、波瑠はるをイジメていた三人の内の一人が学校の近くの川に浮かぶ。二人目は自宅マンションの屋上から飛び降り、三人目は車に轢かれて事故死。
 いずれも警察が動き、翌日の学校は大騒ぎとなった。
 波瑠はるはその現実におそおののきながらも、気持ちが高揚する自分を感じていた。
 色々な意味で引き返せなくなっている自分がいる。

 ──……私は絵留える様に必要とされてる…………〝身も心も〟求められている…………

「ねえ…………今日これからって、いいかな」
 最後の授業が終わると、教室の外で待っていた絵留える波瑠はるに声を掛ける。
 断る理由など無い。
 断りたくなどなかった。
「…………はい……」
 波瑠はるは目を伏せたまま、絵留えるの制服のそでを指で摘んでいた。
 周りの視線など気にならなかった。
 体の芯が熱くなる。
 そのまま波瑠はるは〝風光会ふうこうかい〟へ絵留えるを案内した。もちろん昨夜の内に母親には伝え、母親から春子はるこへは連絡済みだった。
 春子はるこのマンションは決して真新しい建物ではない。壁の修繕部分も目立つくらいだ。
 春子はるこには身寄りがなかった。産まれた直後に教会の前に捨てられ、そのまま教会の神父に育てられた。その神父を病気で亡くしたのは一年ほど前。神父の助けで勉強会としての団体を立ち上げて二年ほどが経った頃だった。教会は後継者がいないままに次の赴任者を待っていたが、団体を立ち上げていた春子はるこも候補に入っていた。すでに洗礼名もある。団体を残したまま教会に赴任してもらう案が濃厚だった。事実、少しずつ準備も進んでいた。
 決して団体を大きくしようというつもりが春子はるこにあったわけではない。小規模のままで構わなかった。現在の教義のままに聖書への理解を深めていければよかった。
 そんなタイミングではあったが、まだ学生であったとはいえ、親子で入信してくれている波瑠はるが、興味があるという友達を連れて来てくれるのは嬉しかった。大事なことは団体へ入信してくれることではない。キリスト教への興味と理解を持ってくれること。しかもまだ若い。教会に通うようになってくれたら、それだけでも嬉しいと思った。
「キリスト教に興味があるんですか?」
 そう話を切り出した春子はるこの声は柔らかさに包まれたものだった。
 ソファーに座って向かい合い、そよ風がカーテンを揺らす中、並んで座る絵留える波瑠はるの目の前のハーブティーの湯気が優しく揺れる。
 僅かに傾いていた陽の光が、二人の目の前の春子はるこの顔の影を濃くしていた。
 その春子はるこの丸みのある声に、絵留えるが臆さずに応えていく。
「はい。元々仏教というわけではありませんし…………死んだ母はお寺でお葬式をしましたが…………そもそも日本人はあまり宗教にこだわりがありません。なんとなく仏教式な葬式をしているだけです」
「お父様は────」
「母を殺して逮捕されました」
 即答した絵留えるのその言葉に、さすがの春子はるこも驚いた。しかも絵留えるの表情は変わらない。それでも春子はるこは姿勢を崩さなかった。信者の中には辛い過去を持った者も多い。その拠り所を春子はるこに求めている者もいる。
 春子はるこが返した。
「そうですか…………辛い経験をされましたね…………私たちはどんな方でも受け入れますよ…………人々は誰もが弱いものです。だからこそ助け合わなければなりません。そして、私たちは聖書にその道筋が示されていると考えているのです。私たちがあなたに求めるものは一つだけ…………共に神の言葉を聞くつもりがあるかどうかだけです」
 絵留えるは黙ってその言葉を聞いていた。
 身動き一つしなかった。
 しかし、なぜかその目に春子はるこは釘付けとなる。視線を離すことが出来ない。
 次に口を開いたのは、その絵留える
「いくつかお聞きしてもよろしいですか?」
「どうぞ」
「団体は全員で一二名とお聞きました。どのくらいまで大きくしていくおつもりなのか、聞かせていただけますか?」
 その隣で、途端に不安な表情を浮かべたのは波瑠はるだった。絵留えるが団体に入ったとして、自分との関係が続くのか、波瑠はるにとっては不安要素でしかない。しかし同時に、絵留えるにはもちろん団体に入って欲しかった。絵留えるに自分自身を理解して欲しかった。しかも、それは絵留えるとの時間がこれまで以上に増えることを意味していた。そうすれば絵留えるは自分をさらに求めてくれるに違いない。波瑠はるはそう思っていた。
 そう思いたかった。
 しかし今自分の隣で春子はるこにまっすぐな目で言葉を返していく絵留えるは、やはり自分とは明らかに別世界の人間。学校で多くの生徒たちから求められている別格の生徒。
 波瑠はるとは違い過ぎた。

 ──……どうして…………私なんかを…………

 波瑠はるの中に嫌な想像が膨らんでいく。
 その波瑠はるを無視するかのように、絵留える春子はるこの会話が続いた。
「少なくとも今は…………団体を特別大きくしていくつもりはありません。もちろん私たちの理念に賛同して参加してもらえる人々が増えるのは喜ばしいことです。しかし、もしかしたら教会も任されることになるかもしれませんし…………私はその教会と共に教義を広めていけたらと…………そう考えているだけですよ」
 元々春子はるこは若い時に立ち上げたNPO団体の代表でもあった。その団体は貧困層のシングルマザーへの慈善活動を中心としたもの。春子自身は四〇代半ばの今まで結婚も出産も経験してはいない。しかしやはりその生い立ちからだろうか、自分がなぜ親に捨てられることになったのか、そのことが原動力になったことは事実。その活動の中でキリスト教に傾倒した女性もいる。しかし春子はるこは決して強制したことはない。海外からやってきて日本で永住している熱心なイスラム教徒の女性とも接してきたが、それでも宗教の壁を乗り越えてその女性を助けてきた。
「そうですか…………」
 絵留えるは小さくそう応えると、声のトーンを落として続ける。
「少し…………考えさせてください…………」
 それから一週間。
 放課後。
 そして土日の日中。
 波瑠はるは何度も絵留えるに体を求められた。
 そして、嬉しかった。求められる度にお互いの気持ちが重なるような気持ちになれた。自分自身が絵留えるに求められている。他の生徒たちにはなし得なかったこと。自分だけが絵留えるに求められている高揚感。

 ──……どうして…………私なんかを…………

 そして、絵留えるは正式に〝風光会ふうこうかい〟に入信した。
 同時に春子はるこが正式に教会を任される。いずれ別の神父が赴任する可能性は残されたが、暫定的に春子はるこがシスターとして赴任した。NPO団体も風光会ふうこうかいも存在としては残り、どちらも教会を中心としての活動が許された。それに合わせて春子はるこは住居をその教会へと移していた。
 絵留えるは週に一度は教会に通った。しかも波瑠はると二人。その仲の良さは春子はるこにとっては微笑ましいものだった。
 しかし、三ヶ月ほどが過ぎようとしていた頃、春子はるこは初めて絵留えるに会った時の感覚を思い出す。それは、あの時の〝目〟だった。
 いつの間にか、春子はるこの目は絵留えるから離せないままに震える。
「どうしたんですか?」
 感情があるとは思えない冷たい表情でそう言葉を投げかける絵留えるに、いつも春子はるこはおざなりに返すだけ。
「……あ……いえ…………ごめんなさい…………」
 いつも、まるで吸い込まれるように目を離すことが出来なくなる。鋭いとも柔らかいとも、どちらとも表現のしようのないその目は、いつしか春子はるこの中にそれまで感じたことのない感覚を生み出していく。
 それが〝嫌悪感〟というものであることに気が付くのには時間が必要だった。それまで春子はるこは人に対してそんな感情を抱いたことはなかったからだ。しかしその感覚は瞬く間に春子はるこの意識を埋め尽くしていく。
 その感覚に気が付くと、絵留えるはただの子供には見えなくなっていた。しかしその存在が何者なのかまでは分からない。そして、それをどう捉えればいいのか春子はるこ自身が戸惑っていた。

 ──…………どうして…………あの子が怖いの…………?

 見た目は普通の中学生の女の子。
 しかしその中身が人間であるのかすら春子はるこには判断しかねた。

 その絵留えるが初めて一人で教会を訪れたのは、春子はるこがその絵留えるのことを教区を束ねる協会に相談するべきか迷っていた頃。
 土曜日の夜。
 すでに九時を過ぎていた。
 街の外れの小さな教会。周囲に民家が全く無いというわけではなかったが、それでもやはり距離がある。しかも教会の周囲には林があるためか、夜は静けさだけがまとわりつく。
 そんな場所のせいか、土曜日とはいえ、そんな時間に訪ねてくる者はいない。
 すでに明日のミサの準備を終え、後は寝る準備をしようとしていた頃、絵留えるが訪ねてくる。
「すいません…………こんな時間に…………」
 いつもの絵留えるの声にしては随分と覇気が無い。最近感じていたような〝威圧感〟も無い。
 春子はるこは驚くと同時にやはり恐怖心が浮かんだ。絵留えるの目的が想像出来ないまま、でもやはり……と思い、春子はるこ絵留えるを聖堂へと招き入れる。
「…………いいんですよ……何かあったんですね…………」
 何か無ければこんな時間に一人で来るというのもおかしい。今まで一人で来たこともなければ、もちろんこんな時間に来たこともない。
 絵留えるが黙って長椅子の通路側に座ると、その通路を挟んで隣の長椅子に春子はるこが腰を降ろした。すぐに春子はるこは胸の前で両手を組み、静かに目を閉じた。そして小さく口を開く。
「……お話しください…………」
 高い天井。その春子はるこの小さな声ですら柔らかくはあるが空気を広く振るわせた。
 その振動に春子はるこは震えを滲ませる。

 ──……見透かされてはいけない…………

 小さな恐怖心が思考の奥でうごめいていた。
 絵留えるが何を考えているのかなど、もちろん春子はるこには分からない。しかしもしも〝人ならざるもの〟の影響を受けているとしたら、

 ──……救わなくては…………

「…………教会と…………団体のことについて…………この先のことです…………」
 その絵留えるの言葉は、春子はるこの予想には無いものだった。
「……先……のこととは…………」
「協会からの支援金と信者の援助だけではこの教会を維持出来るとは思えません」
「NPO団体の助成金も────」
「外部からの持ち込みに頼ってどうするんですか」
 いつの間にか、絵留えるの言葉にいつもの重みが増え始める。

 ──……どういうこと…………?

 言葉を返せずにいる春子はるこに、絵留えるの言葉が続いた。
「この教会……もしくは風光会ふうこうかいとの共存でやっていくなら…………お布施を取るべきです。独立した組織として運営をしていかなければ────」
「────風光会ふうこうかいは聖書の勉強会のような…………」

 ──……私は冷静を欠いている…………

 そして、その春子はるこの隙間に、絵留えるが入り込む。
「────生ぬるい……」

 ──…………え?

 春子はるこが振り返った時、そこにあったのは春子はるこに顔を向けた絵留えるの〝目〟。
 その〝目〟は、すでに今までの絵留えるの物ではない。
「…………私によこせ…………」
 春子はるこに、すでに自らの意思は無かった。
 そこからの記憶も無い。
 翌日には風光会ふうこうかいの後継として絵留えるを指名することを年齢を偽って協会に通達。新しい方針も作られ、少しずつ信者が増えていく。
 元々の信者からはお布施に対して反論がなかったわけではない。それによって離れた信者もいる。しかしほとんどの信者には受け入れられた。拠点が教会に移ったことで、それが後押しになった側面もあるのだろう。新しい信者にとっては珍しくもないことだ。金額は決められていない。月に一回。収められるくらいで良かった。
 それから数ヶ月、年明け早々に養護施設に戻らずに行方不明となった絵留えるは教会にいた。
 学校から絵留えるのことを聞いた波瑠はるが教会に辿り着いた時は、辺りはすでに薄暗い。
 波瑠はる自身しばらく絵留えるには会えていなかった。学校で自殺騒ぎが続いた直後。波瑠はるには不安の連続だった。この頃にはすでに絵留えると心の拠り所以上の関係になっていたにも関わらず、絵留えるが突然姿を消したことは波瑠はるにとって〝恐怖〟でしかない。母親にも何も言わないまま、自然と足は教会に向かっていた。
 聖堂の扉を開いた先にあるのは、それまでとは僅かに違う光景。
 薄暗く、間接照明が空間の奥行きを深めていた。
 そこに外の風が、空から舞う粉雪を聖堂に招き入れる。
 その先。
 キリスト像が無い。
 十字架に貼り付けにされ、まるでこの世の苦悩を総て背負ったかのようなキリスト像が、今夜は波瑠はるの視界に入らない。
 そこにいるのは、祭壇の段差に座る絵留えるの姿。
 扉からの冷たい風に、その絵留えるの顔が小さく上がる。
 扉から祭壇までの距離を感じさせないその〝目〟の力に、波瑠はるの体は硬直した。
 その硬さを和らげたのは絵留えるの声。
「……入ってよ」
 決して大きくはないその声は、空気を震わせながら波瑠はるに届いた。
 波瑠はるは言われるままに二歩足を進め、後ろ手で扉を閉める。波瑠はるの体にまとわりついていた緩やかで冷たい雪の粒が木製の扉に遮られる。そして新たに波瑠はるの感情を包み込むのは想像以上の静寂。
 意識とは別の何かが足を動かしていた。低めのヒールのローブーツが教会の硬い床で甲高い音を立てる。
 しだいに近付く絵留えるの目の前に、丸くうずくまるのは、人間のように見える。
 背中を丸め、絵留えるに向けた頭を大きく下げ、小さくまるまるその人間の素足の裏が波瑠に向いている。
 そのすぐ後ろまで行くと、その小さくなった体は微かに震えていた。
 そして波瑠はるは気が付いた。
 その黒い服は修道服。すその広いベール状の頭巾が大きく乱れている。
 その先に光る物が転がっているのが目に入った。
 波瑠はるが顔を上げて絵留えるを見ると、その目は鋭くも妖艶なまま。
 その目の下で、絵留えるの口角が上がる。
 そして、波瑠はる絵留えるに対しての初めての感情を抱いた。
 不安だった。
 会いたかった。
 すぐにでもその肌に触れたかった。
 でも今、波瑠はるのその気持ちを瞬時に覆い尽くしたのは〝恐怖心〟だけ。
 再び波瑠はるは動けなくなっていた。
 体だけではない。
 気持ちまで凍りついてしまったような、そんな状況で、波瑠はるは思考回路まで奪われる。
「……この人…………自分ではやれないみたい…………」
 まるで外の粉雪を思わせるようなその冷たい絵留えるの声に、波瑠はるは言葉を返せない。
 この教会で修道服を着ているのは────春子はるこだけ。
 波瑠はるがそのことに気付いた直後、絵留えるの言葉が続く。
「邪魔だから……自分で死んでって頼んだんだけど…………怖がっちゃって…………」
 その声に、波瑠はるは無意識に視線を落としていた。
 床に額をつけた春子はるこの頭のそばにある物────その光る物は、小さな刃物。
 点々と黒い液体のような物も辺りに散らばっている。
「……やっぱり…………果物ナイフじゃ難しいのかなあ…………」
 その場に似つかわしくない絵留えるの言葉が続いた。
「…………手伝ってあげてよ…………」
 その声に、うずくまっていた春子はるこの体が動いた。
 ひるがえされたその体は大きく開き、後ろに仰け反る。
 怯え切った両眼が、波瑠はるを見上げた。
 その左の手首には何本もの迷い傷。そこから流れる物は、決して多くはない。
 そして、この空間に響き渡るのは絵留えるの声だけ。
「…………ね……〝私のために〟…………手伝ってくれるでしょ…………?」
 その後の波瑠はるの行動に自我があったのか、それは波瑠はる自身にも分からない。
 ただ、床から果物ナイフを持ち上げた波瑠はるは表情を変えなかった。
 ナイフについた液体が波瑠はるの指の間に滑る。

 ──…………〝絵留える様〟が……………………
 ──………………私を求めている……………………

 その後は、春子はるこの悲鳴のような小さな声だけが聖堂に響き渡った。
 やがて聖堂が静かになった時、顔を上げた波瑠はるの視界に映るのは、床に倒れたキリスト像。
 その顔を、なぜか波瑠はるは見続けていた。
 絵留えるに腕を掴まれるままに波瑠はるは立ち上がった。
 そのまま絵留えるに促され、教会奥のシャワールームまで、返り血で重くなった体を運ぶ。
 服を脱がされ、暖かいシャワーを浴びながら、波瑠はるはいつの間にか絵留えるの体を求めていた。
 背後から波瑠はるの体に吸い付くような絵留えるの腕に、身を任せてゆく。
 まるで、絵留えると一つになれたような気がした。
 波瑠はるはそのまま何度も絵留えるに包まれていく。
 翌日、波瑠はるのことを心配した母親の栄子えいこが、数名の信者と共に教会に集まった。
 すでに綺麗にされた聖堂に、もちろん春子はるこの姿はない。
「今日から、私が新しい教祖として指名されました」
 絵留えるは祭壇の段差に腰を降ろしたまま、その声を聖堂に響かせる。冬の乾いた空気が小刻みに震えていく。
 各々長椅子に腰を降ろした信者たちが感じるのは〝凄み〟だけ。
 絵留えるの一段低い所に腰を降ろした波瑠はるは、絵留えるの太ももに擦り寄るように頬を押し付け、手をいとおしそうにその足の上で滑らせる。
 その光の無い目に恐怖を感じたのは母親の栄子えいこだけではない。しかし栄子えいこが知っていたのは二人が友達だったということだけ。絵留えるが〝絵留える様〟と呼ばれていたことも知らない。
 そして、栄子えいこは受け入れるしかない現実に気付く。
 無意識に、その目から涙が溢れていた。
 感情とは別の何かが涙腺を刺激する。
 そして、その場の全員が自我を失っていく。
 そこに入り込む絵留えるの声。
「信者を増やしなさい…………〝私のために〟」
 そしてそれから数ヶ月。少しずつではあったが風光会ふうこうかいの信者は増え続けた。
 しかしその拡大は、組織内の反対勢力を〝力〟で抑圧しながら維持されているものに過ぎなかった。そしてそれは、いつも別人のようになった波瑠はるを中心に行われていく。
 絵留えるには目的があった。
 それは決して、ローカルな宗教団体を大きくすることではない。
 探さなければならなかった。
 そのための組織。
 そのためなら、誰の命も惜しくはない。
 ある日、テレビの画面の端にその人物を見付けた絵留えるは、信者に指示を出した。
「〝恵元萌江えもともえ〟と〝黒井咲恵くろいさきえ〟を探しなさい」
 絵留えるが画面から感じ取れたのは名前だけ。
 ニュース画面の端に一瞬映っていただけ。
 しかし、その中に〝何者〟がいるのか、それだけは確信を持っていた。

 ──……今度こそ…………





 西沙せいさの事務所に来たのは珍しい客だった。
 年に一度くらいしか顔を見せない。もっとも西沙せいさのほうから出向くことが多いことを考えると当然とも言えるだろう。
 そもそも西沙せいさの母────さきが私服で出歩くこと自体も珍しいことだ。滅多に神社を出ることのない生活だ。仕事で出かけるとしても巫女服以外で出かけることはない。日々の買い物は神社を継いだ娘たちである西沙せいさの二人の姉がしてくれる。
 事務所の扉を開けたさきの印象は、扉横の事務机の前に座る美由紀みゆきには派手に見えた。若く見える顔立ちとはいえ、五〇を過ぎた女性としては派手なほうだろう。
 全身の印象は黒。黒いレースを重ねたフリルのロングスカートに、丈の短いジャケットにも所々に黒いレースがあしらわれ、まるでベールのような黒いレースを下げたツバの広い帽子。
 何度か美由紀みゆきも会ったことはあったが、その度に同じことを思う。

 ──……親子だなあ…………

 その姿を見た西沙せいさは、ソファーの上から立ち上がりもせずに声を上げる。
「派手よねえ…………そろそろ年齢的に────」
「何を言うのよ…………」
 帽子をゆっくりと脱ぎながらさきが続ける。
「仕事柄……今日はあまり目立たない服装にしてきたの」
「かなり目立つと思うけど」
 そう返す西沙せいさをよそに、美由紀みゆきが立ち上がって給湯室に向かう。
「あなたこそ相変わらず派手ね。そんなフリフリの服なんてどこで売ってるのかしら」
 そう言いながらさき西沙せいさの向かいのソファーに静かに腰を降ろした。その身のこなしは西沙せいさから見ても綺麗だった。西沙せいさは口にこそしなかったが、母親であるさきの無駄の無い立ち振る舞いが好きだった。仕事の度に意識するほどだ。しかし同時に叶わないとも感じている。
 その想いを照れ臭く感じるのか、つい口が悪くなってしまう自分が嫌だった。
「お母さんだってフリフリでしょ…………そんなレースだらけの服なんてどこで売ってるのかしら」
「オーダーメイドです」
「嘘でしょ⁉︎」
「ホントです────あなたも少しセンスを磨かないと…………いつまでも彼氏も作らないで…………」
「そういうのは私はちょっと…………」
「……まさか…………あなたも恵元えもとさんや黒井くろいさんのように────」
「違います」
 西沙せいさがそう即答すると、さきはお茶を運んできた美由紀みゆきに顔を上げる。
 すぐに美由紀みゆきが声を上げた。
「──私も違いますよ!」
「まったく…………」
 大きな溜息と共にそう呟くように声を絞った西沙せいさが続ける。
「反抗期になる子供の気持ちが分かったわ…………」
「私は母親としてあなたの身をいつも案じているんです」
 さきのそんな言葉が宙に浮く中、西沙せいさが面倒そうに声のトーンを落として返した。
「で? 今日は何? まさか暇だからって理由でそんなレースだらけのオーダーメイド服で遊びに来るほど暇じゃないでしょ?」
 さきはピンクのティーカップから登るハーブティーの香りを楽しむようにしてから、ゆっくりと少しだけ口に含む。
 それから口を開いた。
「…………少し前に…………女の子がここに来なかった? 一週間くらい前かしら…………」
 それを聞いた西沙せいさの口元が緩む。
 事務机に戻った美由紀みゆきが思わず声を上げた。
「……あ…………」
 それを西沙せいさすくう。
「さすがお母さん…………いつの間にか監視カメラでも取り付けてたの?」
「まさか…………」
 そう応えたさきは声のトーンを落として続けた。
「分かってるでしょ? あなたのエリアは私の〝管轄内〟です。一〇年以上探してた相手なの…………久しぶりだったから……私も記憶を整理するのに時間がかかったけど、今までどこに隠れていたのか…………」
「…………あの子…………何者?」
 まともな相手でないことは西沙せいさにも分かっていた。
 そして誰を探していたのかも分かっている。しかし相手の求めるものも分からないと同時に、その動きを予測することも難しかった。
 西沙せいさの中に蘇るのは、あの時の人間とは思えない不気味さだけ。正直、西沙せいさも恐怖を感じた。
「──探してたってどういうこと? 知ってるの?」
 少しだけ早口になり始めた西沙せいささきが制した。
「落ち着きなさい西沙せいさ…………あなたが負ける相手じゃない。大丈夫…………でも弱くはない。対峙したとしても、気持ちさえ引かなければ決して臆することはありません」
 そのさきの言葉に、小さく息を吐いた西沙せいさはソファーの背もたれに体を預ける。
 それに対して、決して姿勢を崩さないさきが続けた。
「私も直接会ったことはありません…………私が会ったのはあの子の両親と…………その母親のお腹の中のお子さんだけ…………」
「どういうことなのよ⁉︎ あの子…………萌江もえ咲恵さきえを探してたんだよ」
「分かっています…………これは、私の責任でもある…………私が見誤った…………あの子にもすでに素質はあった…………でも問題なのは…………あの子を操っている者の存在…………」
「待ってよ…………萌江もえ咲恵さきえもそんなこと信じない…………」
「私もそれは分かっています…………あのお二人の考え方には私も驚きましたが、同時に私も多くのことを学びました。でもあのお二人も…………すでに気が付いているはず…………」
「でもあの二人なら────」
「いえ────」
 西沙せいさの言葉を遮ったさきの声は強い。
 そのままの声が続く。
「……西沙せいさ…………黒井くろいさんを守りなさい…………」
咲恵さきえ…………?」
「……恵元えもとさんは、私が…………」




         「かなざくらの古屋敷」
      ~ 第十一部「粉雪」第4話へつづく ~
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