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第十二部「幻の舟」第3話(第十二部最終話)
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翌日。
吉原藤一郎の家族が正式に病院を告訴したことで、警察が動いた。
朝。
西沙が事務所の扉をいつもより早目に開けると、すぐに聞こえてきたのは杏奈の声。
そして入ってすぐの事務机に座り、眉間に皺を寄せてパソコンのモニターを見つめるのは事務員の久保田美由紀。西沙とは同じ年齢で高校の同級生。西沙の唯一の親友で同時に唯一の理解者。あまり社会に溶け込めるようなタイプではない。美由紀にとっても西沙は貴重で大事な存在だった。
その美由紀が朝から西沙を睨みつける。
西沙が僅かに作った笑顔を浮かべると、最初に口を開いたのは美由紀だった。
「誰なの? 人を泊めるなら昨日の内に連絡くらいしてよ。私が来た時にはもう電話してるし…………事態が全く飲み込めないんだけど」
そう言って美由紀が杏奈に顔を向けると、その長いストレートの明るい髪が緩く揺れる。
杏奈はソファーに向かってスマートフォンを片手に話し続けていた。そのソファーの横には大き目の液晶テレビ。映し出されているのはホスピスが正式に告訴されたニュース。誰かと電話で話を続ける杏奈の表情は硬かった。
「……お願い…………難しいことは分かってる…………でも裏が欲しいの…………そっちの〝対象〟を教えて…………もう動いてたんでしょ?」
西沙に視線を戻した美由紀が続けた。
「あの事件絡み? どうしたの? あんな分かりやすいくらいのマスコミの人間を連れ込むなんて…………」
確かに美由紀の言うことも最もで、マスコミ関係の典型的な動きやすい服装に無駄に大きな鞄。決して若い女性の好むスタイルではない。歩くことの多い外向きのマスコミ関係者であることを表すような歩きやすいスニーカー。
「連れ込むだなんて…………」
微妙な笑顔を浮かべながら西沙が続ける。
「そういう趣味はないんだけどね」
「あっても困るよ。私も無いし。〝例の事件〟?」
「まあね……お母さんの絡みもあるし…………知らないフリは出来ないからさ…………」
「でも、どうしてあの人?」
「〝見えた〟から」
「ああ、そういうこと…………」
西沙が杏奈を選んだ理由は、決して杏奈が母親と接触したからというだけではない。
それは言葉で説明出来ることではなかった。
そう感じたから────しかもそれは、毎日のように一緒にいる美由紀にとっては初めてのことではない。美由紀に西沙のような能力があったわけではないが、高校からの西沙を見ている。西沙がいわゆる普通の人と違うことで人生を翻弄された姿も見てきていた。
だったら西沙を信じるしかない────それが美由紀の考え方だった。
杏奈がメモ用紙にボールペンを走らせながら電話を続ける。
「…………やっぱり……この二人で間違いないのね…………分かった。こっちも何か掴んだら連絡するから」
杏奈は電話を切ると、すぐに顔を上げた。
「ごめんなさい…………」
そう言う杏奈に近付きながら、西沙が向かいのソファーに腰を降ろす。
「いいよ…………警察でしょ? やっぱりもう動いてた?」
「はい…………警察がチェックしてるのも…………やっぱり同じ二人でした…………」
杏奈はメモ用紙を西沙に見せながら続ける。
そこには、昨夜の西沙のメモと同じ〝浅間美津子〟と〝吉原美優〟の名前。
「確証の無い部分が多くて動きづらいみたいです…………それにマスコミが言ってる死亡率の高さも嘘みたいで…………」
「そうだよねえ…………そもそもがホスピスだし。体調が良くなって退院する患者の率は通常の病院よりはるかに低いはず…………ほとんど無いくらいにね…………それにあの二人も犯罪を犯したわけじゃないから警察も切り口を作りにくいんだろうね…………」
──…………?
西沙が続けた。
「吉原美優には会えそうにないよね…………告訴した側の家族だし、どうせマスコミのせいで家からは出られないだろうし…………」
「じゃあ…………もう一人の…………」
「浅間美津子…………吉原藤一郎が亡くなった直後に退職してるはずだよ…………職員のリストってマスコミは掴んでないの?」
「掴んでます────」
杏奈は再びスマートフォンを手に取る。
☆
美津子のアパートは街の郊外。
周囲には田畑も多い。
病院からは少し距離があった。
雨樋が所々外れかけているような、そんな古いアパート。壁の色も変わってしまったのだろう。暗く燻んだ印象が二階建ての建物全体から漂う。
「部屋は?」
アパートの二階を見上げながら西沙がそう聞くと、隣の杏奈も同じく二階を見上げていた。
そして応える。
「そこの階段を登って…………一番奥の部屋です」
そして、先頭に立って階段を登り始める。
「────ここに引っ越したのは一年くらい前…………何も変わっていなければ独身のはずです…………」
完全に錆びついた階段は、杏奈のスニーカーでも大きく空気を揺らした。それ自体も不安定にグラつく。そのまま繋がった二階の手摺りも、すでに元の色すら分からない。おそらく今は触る人もいないのだろう。微かに積もった塵がそれを物語っていた。二階の廊下にもそれは目立つ。その塵を見る限り、周囲に足跡は多くない。一階、二階共に三部屋ずつ。満室ではなさそうだ。二階で玄関の前に足跡があるのは────一番奥の、美津子の部屋だけ。
表面が何箇所もヒビ割れ、角から錆びついたドア。
呼び鈴は無かった。
杏奈は迷わずドアをノックする。
玄関の郵便受けにはチラシが詰め込まれていた。
──……いるのかな…………
ドアの奥からは何も聞こえない。
独特の嫌な時間が過ぎていく。
途方もない長い時間に感じられた。
杏奈は自分で自分のことが不思議だった。
なぜか、自分の中に他人の感情が入り込んでくるかのような感覚。
西沙ではない。
自分以外の誰かの気持ち。
──……………………だれ?
その感情が、ドアから零れた。
「…………はい…………なんでしょうか…………」
目を伏せたままの、やつれた顔がドアの隙間から覗く。
強い影が、その顔の大半を隠す。
杏奈は、あまり意識せずに口を開いていた。
「……浅間……美津子さんですね…………」
ドアの奥の影────美津子はさらに深く目を伏せる。
その表情に、杏奈は慎重に言葉を選んだ。
「…………病院でのこと…………お話を、伺えませんか? ご迷惑はお掛けしません…………」
「────…………すいません……………………」
小さく低い声と共にドアが閉まり始め、錆の匂いがした時、そのドアは隙間に差し込まれた杏奈のスニーカーに遮られる。
──……今を逃したらもう助けられない…………
──…………助けられない……?
美津子がドアノブを握る手に力を入れた直後、杏奈が続けていた。
「────本当のことを知りたいんです…………」
それに続くのは、杏奈の背後の西沙。
「あなたは何もしてない!」
杏奈は驚きのあまり、咄嗟に振り返っていた。
そこには、予想だにしなかった、両目を潤ませた西沙。
「あなたには何の罪もない! あなたを守らせて! 美優さんのことも…………」
そして、ドアが開く。
☆
その日の夜。
杏奈と西沙は御陵院神社にいた。
西沙の実家でもあるためか、祭壇の前で西沙が落ち着かない姿なのが杏奈には気になった。
座布団で正座をする杏奈とは対照的に、西沙はあぐらをかいて片膝の上で肘を立てる。
「安心しなさい。姉たちはいませんよ」
二人の前に姿を表した咲は、目の前の西沙の姿を見るなり、そう言って腰を降ろした。
「──別に…………」
小さく呟いた西沙に、咲はすぐに返す。
「二人は今夜は出張です。面倒な依頼でしたので…………まだしばらくは帰らないでしょう」
そして咲は、杏奈に向けた視線を西沙に戻し、続けた。
「どうしてあなたが関わっているのですか? 電話の時に少々お話はしましたが…………あなたにどうこうして欲しいと伝えたつもりはありませんよ」
「私も頼まれたからやってるわけじゃないよ。〝見えちゃった〟ものは仕方ないでしょ」
強気に応える西沙の口調に、杏奈は二人の関係性が少しだけ見えた気がした。
──…………色々ありそうだなあ…………
「では…………水月さん────」
咲は気持ちを切り替えるように杏奈に視線を戻して続ける。
「今回の御用向きは…………」
そして、杏奈は語り始める。
「はい…………病院の、元職員の方と話してきました…………あの一件のすぐ後に退職された方です。そして、今回の問題の中心にいました」
咲は一度も口を開かないまま、杏奈の話を聞き続けていた。
決して短い話ではない。
しかも、西沙も口を挟まない。
俯いたまま、目の前の板間を見つめ続ける。
杏奈の話が終わる。
やっと咲は視線を杏奈から外した。
そして小さく息を吐く。
杏奈は話し疲れた様子もないまま、そんな咲の姿を目で追っていた。
そして、次に口を開いたのはその咲だった。
「面白い話…………と言ったら不謹慎でしょうが、珍しい方ですね…………マスコミ的にはこんな結論は求めていないはずでしょうに…………」
「娘さんのお陰です」
杏奈は咲の寂しげにも見える目を見ながら応える。
それに咲はすぐに返した。
「しかしもう一人…………裏を取らなければ…………誰も信用してはくれないでしょう…………どうするおつもりですか? なにせ病院を訴えている側…………代表の田原さんが動いたとて無駄なこと…………」
すると、杏奈が僅かに身を乗り出して応える。
「…………お願いできませんか?」
「……私ですか…………」
「娘さんでは目立ち過ぎます」
すかさず西沙。
「失礼ね」
しかし杏奈は言葉を続ける。
「神社という後ろ盾があれば接触はしやすいはずです。マスコミの報道でもこちらの神社にバックアップされている事実は出ていません。何か適当な理由をつけて────」
「難しいでしょうね…………それ相当の理由がなければ…………私までマスコミに追われることになり兼ねません…………そっちは娘にお願いしますよ」
「でも目の前に本当のことがあるのに────」
「どうにかして…………真実を伝えて下さいませんか…………私は田原さんのほうが心配です…………」
そして、床に置いてあったスマートフォンが音を立てる。
咲の物だ。
西沙が顔を上げる。
その西沙は咲が手を伸ばすより早く口を開いた。
「────来た────」
西沙には何かが見えていた。
その目が大きく開かれている。
モニターを見た咲が目を開くと、杏奈の中で何かが疼く。
それは、嫌な感覚だった。
「失礼」
立ち上がった咲は、部屋から続く広い廊下へと足を滑らせる。ドアは無い。微かに聞こえる咲の声に、杏奈と西沙は無意識の内に耳を側立てていた。
二人の元に小さく届く咲の声は、西沙の予想通り、動揺を隠せてはいない。
「…………いつですか…………そうですか…………分かりました…………すぐに…………」
やがて、その咲が杏奈と西沙の元に戻る。
二人は咲の言葉を待った。
空気が澱む。
嫌な時間。
そして、ゆっくりと口を開いた咲の表情が曇る。
「つい先ほど…………代表の田原さんが亡くなりました…………」
電話と同時に予想出来ていた西沙。
嫌な感覚を感じながらも、何も見えていなかった杏奈。
二人は共に、口を開かなかった。
咲が続ける。
「…………ご自宅で…………自ら命を絶ったところを…………奥様が見付けられたとのことです…………」
「…………どうするの?」
そう小さく返したのは西沙。
そして続ける。
「病院に運ばれたんでしょ? …………奥さんもそこにいるなら…………」
そこに挟まったのは杏奈の声。
「────どうせ…………マスコミが病院を囲ってる…………」
「……遺書があったということです…………」
そう返す咲が、ゆっくりと続けた。
「水月さん…………病院までお願い出来ますか? 私と一緒に…………あなたに真実を見て欲しい…………」
それだけ言うと、咲は立ち上がった。
☆
病院の前には何台ものマスコミの車両と、無数のマスコミ関係者がひしめき合っていた。
それはまるで、暴動の群衆かと思うように殺気立って見える。
その熱気のせいか、今夜は寒さを感じない。
杏奈は少し離れた道路の脇に車を停めた。もっとも、人集りのせいでそれ以上は進めなかった。周囲には歩道に乗り上げたマスコミの車が何台も並び、皮肉にも世間の注目の高さを際立たせた。
そして、マスコミの照明が周囲を明るく照らしている。
──……どうせ……来月にはみんな忘れてるニュースなのに…………
杏奈は不意にそんなことを思いながら、運転席で口を開いた。
「どうやって入り込みます? その格好じゃ目立ちますよね…………」
振り返った後部座席には、巫女姿のままの咲。
慌てていたからなのか、杏奈もここに来るまで咲の服装のことまで意識を向けることが出来なかった。
しかし助手席の西沙は平然と口を挟む。
「まあ大丈夫でしょ。だよねお母さん」
「…………ええ、問題はありません」
咲はそれだけ応えると、ずっと下げたままだった顔を上げ、ドアを開けた。
「──いや……でも」
慌てて運転席を降りる杏奈のそんな声も無視するかのように、咲はアスファルトに下駄の音を響かせる。そしてその後ろを着いていく西沙にも迷いがあるようには見えない。
群衆のザワつきに掻き消える下駄の音を追いかけるように、杏奈も着いていくしかなかった。
周囲にバラけているマスコミの人間たちが、しだいに咲に視線を向け始める。
どう考えても場違いな服装だ。
僧侶ではなく、巫女が病院の入り口を目指している。
そしてその巫女姿の咲が群衆に辿り着いた。
──……無理だよ……入れない…………
杏奈がそう思った時、咲と西沙の足が同時に止まる。
少しずつその存在が周囲に広がり、少しずつ辺りが静かになった。
気が付いた時には、ほとんどの群衆が咲を見て呆然とした表情を晒し、次の咲の言葉に目を見開いていた。
「……道を開けなさい…………真実を見ようとしない者に……用はありません…………」
決して大きな声ではない。
それなのに、咲の言葉はその場を掌握していた。
咲は片手を胸の辺りにかざすと、そのまま何かを払うように、その手を真横へ。
すると、まるで大きな手で払われたかのように、群衆が動き、道が出来た。
西沙は軽く振り向き、呆然とその光景を見ていた杏奈に目配せをする。
そして咲を先頭に、三人は病院の中へ。
病院の入り口からはマスコミは入ることが出来ない。警備員が何人もいるだけでなく、病院の許可なく勝手に立ち入ることは出来ないからだ。
「田原様の奥様に……私が来たとお伝え下さい」
咲はそう言って警備員に自分の名刺を見せた。
すぐに入り口が開かれる。
そして自動ドアを通った先、総合受付のベンチに、初老の女性。
咲の姿を見るなり駆け寄った。
「──警察の方たちが…………司法解剖をしたいと…………」
田原の妻────貴子であろうことは容易に想像がついた。その貴子は泣き疲れて腫れた瞼のまま、足元もおぼつかない。
咲はそんな貴子を再びベンチに座らせると、自らもその隣に腰を降ろして口を開く。
それはついさっき群衆を黙らせた声とは違う。まるでそれはその場を包み込むかのような柔らかい口調だった。
「……致し方ないことなのでしょう…………でも、すぐに奥様の元に帰られますよ…………」
すると貴子は、慌てたようにハンドバッグから数枚の紙を取り出す。
何度か折り畳まれたかのように、少し皺が目立つそれを咲に渡して言った。
「…………主人の遺書です…………本物は警察にありますが、御陵院さんに見せたいからと言ったらコピーをしてくれました…………」
──……つまり…………警察は中身を見ても問題ないと…………
──…………警察の予想通りだったってこと…………?
──……どうやって真実に辿り着いてたの…………?
──…………あの二人からすでに話を聞いてたんだ…………
そう思った杏奈の目の前で、言葉を返したのは咲。
「そうでしたか…………」
その声が続く。
「……総て…………奥様の元に帰りますよ…………」
『
このような結論を選んだことをお許し下さい。
私は神波会の信者の皆様、及び病院の職員、さらには患者の皆様にも多大なご迷惑をおかけ致しました。
総ては私の不徳の致すところであり、同時に私の未熟さが招いたことと痛感しております。
御陵院様を初め、私は多くの方々から助けていただき、愛されてきました。
とりわけ家族の存在は何よりも掛け替えのない存在でした。
しかし私の力が至らないばかりに、世間様を騒がせ、多くの方々に御迷惑をかけてしまいました。
私は総てを語りたいと思います。
当初マスコミの方々に語った時、残念なことに私の言葉は違った形で伝わってしまったようで誠に残念でした。その時分は私も真実を知ってもらいたい一心でした。総ては私の力不足です。
ですがこの文章なら、そのまま伝わってくれるものと信じています。
真実の中心には二人の女性がおられます。
しかし、決してそのお二人を責めないでいただきたいのです。
お二人は何も悪いことはしておりません。
患者の吉原藤一郎様を苦しみから解放してあげたい一心だったはずです。
終末期医療の世界を追及したかった私と同じなのです。
』
☆
医療法人ホスピス医院────安寧病院が田原によって作られてからすでに二〇年以上が経っていた。
田原は元々宗教法人〝神波会〟の代表だったが、元々はホスピス医院を作ることが目標だった。
神波会のベースは日本に古来から存在してきた神道。田原自身が神道に傾倒し、そこに癒しを感じていたことが終末期医療への興味に繋がった。
その関係もあって御陵院家も宗教法人の設立そのものから関わった。当初からホスピスの話があり、そこに一番共感出来たからでもある。御陵院家で担当となったのが、神社の代表となる直前の咲だった。
宗教法人の設立というものはすぐに出来るものではない。組織としての活動の実績、拠点となる施設、活動年数等、もちろん御陵院家がその総てに於いてバックアップをし、法人設立と同時のホスピスの開業を目指した。
そのためか、無事にホスピスが開業してからも咲は相談役として関わっていた。
しかし病院自体は決して宗教色を強調した施設ではない。病院の職員の中にも数名は信者がいたが、ほとんどは神波会とは無関係の職員。患者も同じだった。むしろ熱心なキリスト教信者の患者すらいた。
しかし法人としては何らそこに問題はないとの判断のまま。
押し付けずに、受け入れる。
総ては終末期医療のため。
人生の最後を看取ることに神道としての教義を重ねていただけ。
あくまで「最後の時を穏やかに過ごして欲しい」という想いだけだった。
その精神に共感を受けて働いていた職員の中に、浅間美津子がいた。
美津子には他人と関わることを極端に避けるようなところがあったが、田原からは違って見えていた。
人と関わるのが苦手なのに、人と直接触れ合う世界で働いている…………本当の気持ちはもっと複雑なのだろうと、田原は思っていた。過去に何かがあったのだろうとは想像が出来たが、美津子が語ろうとしないだけでなく田原も特別聞き出そうとはしなかった。田原にとっては、面接の時にホスピス設立の理念を話しただけで涙ぐんだ美津子のその気持ちだけで充分だった。
元々介護の様々な分野で働いてきた美津子は、ホスピスでもよく働いた。誰から見ても真面目な印象だった。
田原が嬉しかったのは、少しずつ、美津子に笑顔が増えてきたこと。
田原はホスピスを運営していく中で、患者だけでなく職員のことも助けることが出来ているのなら、それが一番だと思えた。
吉原藤一郎がホスピスに入所してきたのは、そんな頃だった。
病気は後天性血友病。
少なく見積もっても五〇万人に一人と言われる難病。未だに発症原因は見つかっていない。
吉原は現在八五才。後天性血友病を発症したのは八四才の時。
元々八〇才で甲状腺癌を患い、高齢でもあることから癌の治療ですら難しく、延命治療を行っていたに過ぎなかった。後天性血友病が発症した時点で認知症は見受けられず、本人と家族の意向で延命治療を拒否する。
そしてホスピスにやってきた。
医師でもある院長の田原から見ても、痛みを和らげ、血友病の症状である出血を抑えていくしかないと判断した。
美津子が介護の担当となったが、高齢者と長く接してきたとはいえ、血友病特有の症状である内出血から来る全身のアザのような皮膚を見た時は驚いた。
そんな美津子は血友病を調べていく。難病となると、施設の看護師でも医学書でしか見たことがないという。
施設では初めての病例を持つ患者ということで綿密なカンファレンスが行われたが、美津子は休日を返上して図書館にも通っていた。
もちろん目的は〝治療〟ではない。
どうやって〝苦しみを和らげる〟ことが出来るか。
ホスピスに来ることを選ぶ患者とその家族のほとんどは、もちろんある程度は〝死〟というものを受け入れている。ホスピスとはそういう所だ。しかし現実を許容したからといって怖くないということではない。
誰もが〝安らかな死〟を求める。
それを求めてホスピスにやってくる。
決して意識の無い状態で人工的に心臓を動かしてほしいと願っているわけではない。
図書館やインターネットで集めた資料をカンファレンスで吟味しながら、美津子は当然のように吉原家とも関わりを深めていく。
そして病院に毎日のように顔を見せていたのは孫の美優だった。孫と言っても二八才。病室以外でも会話が増えていく。それがお互いの過去を語るようになると、いつの間にか美津子にとって美優は妹のような存在になっていた。
美優も決して順風満帆な人生ではなかったが、それがかえって美津子との関係性を強くしていったのかもしれない。
そして美津子は、関わり過ぎた。
ある日、病室のドアをノックすると、聞こえてきたのは美優の声。
「美津子さん? どうぞ」
いつの間にか、お互いを下の名前で呼び合う仲になっていた。
美津子は部屋に入ると、その光景に足を止めた。
吉原は昨夜日付が変わった頃に痛みを訴えていた。看護師と施設長との教義の末に鎮痛剤を処方していたが、この日の朝はまだその薬の効果か目を覚ましてはいなかったようだ。
静かにベッドに横になる吉原には、布団が掛けられていない。
そしてパジャマの上着が大きくたくし上げられ、腹部から胸部にかけて、痩せ細って赤黒いアザだらけの肌が露出していた。血友病の関係で外傷は望ましくない。その危険性を作らないため、ボタン付きの服も避けられていた。
その腹部をベッド脇から覗き込むようにしながら美優が立っている。
吉原の肌に、美優が指を這わせる。
「…………美優……さん…………?」
無意識の内に美津子がそう言葉を漏らすと、美優が振り返る。
その目は真剣だった。
そして口を開く。
「大丈夫…………こうすると〝悪魔〟は静かになるの」
それは、美津子にとってはまるで想像だにしていない言葉だった。
──…………〝悪魔〟…………?
「来て美津子さん」
そう言う美優に促されるまま、美津子はベッドに近付く。
美優は片手に小さな瓶を持っていた。それを美津子に見せながら言葉を繋げる。
「これは聖水…………悪魔が嫌うの」
「──悪魔って…………」
思考の追いつかない美津子にとっては、そう返すのが精一杯だった。
「おじいちゃんは悪魔に蝕まれてる…………私の息子も血友病で死んだ…………親戚も何人か同じ血友病で死んでる…………今度はおじいちゃんまで…………私の一族は悪魔に取り憑かれてる…………」
──……キリスト教…………
美津子の頭に、以前の美優との会話が思い出されていた。
美優は未だキリスト教信者のまま。それがなぜかは分からなかったが、現在でも改宗はしていないとのことだった。
美優は〝悪魔〟の存在を信じていた。
吉原の枕の横には古めかしい聖書。表紙の擦り切れ方を見る限り、美優が愛用していた物なのかもしれない。少なくとも美津子にはそう見えた。
──……だから…………毎日のようにお見舞いに…………
しかし、決して吉原を苦しめているようには見えない。
今までも、事実として気が付かなかった。
例えそれが〝悪魔祓い〟というものだったとしても、美津子には実害があるようには感じられなかった。
──…………それで美優さんが納得出来るなら……………………
美津子は誰にも話さなかった。
知っていたのは美津子だけ。
美優と二人だけの秘密の共有が始まる。
しかしそれからの美津子の中には、不思議な感覚があったのかもしれない。
仲のいい〝本当の友達〟と秘密を共有する独特の緊張感。
なぜかそれは、いつの間にか世間に対しての優越感にも似ていた。
そして、美津子は〝悪魔祓い〟に協力するようになる。
ある時は美優が聖水を吉原の体に振りかける背後で聖書を読み上げ、またある時は背後で美優が聖書を読み上げるのを聞きながら聖水を指で振り撒いた。
「前より……おじいちゃんが苦しむ頻度が減ってきたでしょ? 悪魔の力が弱くなってる証拠…………」
美優はそう説明した。
もちろんそれは過度な投薬を止めて〝病に立ち向かう〟ことから〝痛みを和らげる〟方向へとシフトしたからに他ならない。
それでもその頃の美津子には〝本当の友達〟の言葉が嘘とは思えなかった。
そして、
その日は美津子が聖水の瓶を持っていた。
背後には聖書を持った美優。
時間はもう暗くなり始めていた。
夕食の後。
美津子が聖水を指で吉原のアザに塗る。
しかし高齢者の乾燥した肌はその水をただ弾くだけ。
背後でドアが開いた時、美津子と美優は驚いて同時に顔を向けていた。
そこには美優の両親。
二人は目を見開いて、やがて目の前の光景に、眉間に皺を寄せた。
最初に口を開いたのは母親の優子。
「……美優…………あなたはまだそんなこと…………」
「だっておじいちゃんが────」
反射的にそう返した美優の言葉を遮ったのは、美津子。
「────これは…………」
しかし父親の憲一が更にその声を遮る。
「浅間さんも一体何をしてるんですか⁉︎」
「…………私は…………治療を………………」
「馬鹿な! こんな治療があってたまるか!」
「神聖な儀式なんです! 美優さんは何も悪くありません!」
その美津子の声に憲一の感情も更に刺激される。
「じゃあなんですか浅間さん! ここでは怪しげな〝悪魔祓い〟なんかしてるんですか⁉︎」
「いえ…………違います…………」
消え入るような美津子の声は、震えていた。
憲一の大きな声に、周囲の職員が集まり出す。
やがて田原が病室に入った時には、すでに興奮と熱気が室内を包み込んでいた。
そしてそれは、憲一の声として廊下にも溢れる。
「やっぱりここは怪しい宗教だったんだな! 娘まで巻き込んで! 職員も狂ってる!」
それに応えようとする田原の言葉は宙に浮くだけ。
やがて、吉原家が転院の手続きに入った翌日、吉原藤一郎は亡くなった。
転院の手続きの裏ですでに準備が進められていたのか、その日の内に、吉原家はマスコミに病院での一件をリークする。夜にはテレビでもニュースが流れた。
その夜の内に美津子から退職届を出された田原は、なんとか美津子を引き止めようと説得するが、結局は守りきれないまま。
翌日には日中のワイドショーでの格好のネタとなり、咲への相談の結果、田原は家から出ることすら出来なくなった。
そして、病院も、田原の家も、マスコミが周囲に張り付く。
☆
最初に口を開いたのは咲だった。
「…………どうやら……私にも責任の一端があるようです…………」
しかし、それに貴子が食いつく。
「何を言ってるんですか⁉︎ 御陵院さんがいてくださって私たちは感謝しているんです…………夫も……御陵院さんに合わせる顔がないと…………」
そして貴子は泣き崩れた。
動いたのは杏奈だった。
コピー用紙を覗き込んでいた体を上げ、マスコミの照明が入り込むガラスの自動ドアに体を向けると、その口を開く。
「────記者会見の準備に入ります…………咲さん…………一緒に出てくれますか? このまま終わらせるわけにはいかない…………」
杏奈の降ろした両手が強く握られているのを見ながら、咲が応えた。
「…………分かりました……」
「ダメだよ」
そう言って挟まったのは西沙。
その西沙が続ける。
「お母さんはマスコミ向きじゃない。それに巫女さんが出てきたらまた怪しく思われるよ。私が出る…………私なら神社とは関係ないしね」
「しかし西沙…………」
咲のその声を西沙が遮る。
「任せてよお母さん…………私の凄さは……お母さんが一番知ってるでしょ。それに、お母さんがマスコミの餌食にされるのだけはイヤ…………」
その夜の内に、杏奈は雑誌社編集長である岡崎を経由して記者会見の場所を押さえた。場所は駅前のホテルの催事場。
あれほど杏奈の取材姿勢に疑問を呈していた岡崎も、その動きは早かった。すでに次のネタが見付かっていたからだ。早々に今回のネタは終わらせかったのだろう。しかもネタとして解決させるのが自分の社の週刊誌となれば格好もつく。
「やっぱり、あの親父さんの娘だな」
岡崎はそう言って電話を切った。
杏奈は、その言葉の真意は分からなかったが、どう言われても構わないと思った。
──……これは私が決めたこと…………でも…………
──…………お父さんなら…………どうしたのかな…………
翌日の午前一〇時。
会場は多くのマスコミが押しかけ、改めて世間の関心の高さが伺われた。
控室には杏奈と西沙だけ。
「さすがに控室とはいっても、いいソファーよねえ」
そう言ってソファーに横になる西沙に、杏奈は眉間に皺を寄せて返した。
「それはいいですけど…………なんでそんな格好なんですか?」
「だって目立ったほうがいいでしょ? 第一印象は大事だよ」
「だからって…………」
杏奈の言うことももっともで、西沙はいわゆる黒いゴスロリファッションに身を包んでいた。
「前から着てみたかったんだよねえ。杏奈ももう少しオシャレしてきなさいよ。男だか女だかも分からないような服装ばっかりして…………彼氏出来ないよ」
「西沙さんだって────」
「お互いにさ…………顔売っておきたいじゃない…………仕事の中身は違っても、食べていかなきゃいけないし…………他の仕事なんか出来ない性分でしょ? 私も同じ…………」
会見場を埋め尽くすマスコミ関係者とカメラの台数に、その照明の強さもあるのか、杏奈は正直圧倒された。
そして会場のザワつきの元はやはりゴスロリ姿の西沙。一見するとお淑やかなその表情は、確かに注目を集めていた。
──…………さすが……
そう思いながら、杏奈は話し始めた。
「マスコミ各社の皆様……本日はお忙しいところお集まりいただきまして恐縮です。昨今騒がれておりました安寧病院の────いわゆる〝悪魔祓い〟騒動に関しまして、その真実が判明いたしましたのでご報告させていただきます。隣にいるのは────」
それを、西沙が遮るように口を開く。
「────私は……御陵院西沙と申します。宗教法人神波会の相談役としてその設立から団体を支えてきた御陵院神社代表────咲の娘です」
一気にカメラのシャッター音と大量のフラッシュが西沙に向けられる。
しかし、西沙は堂々と語り始めた。
「すでに報道でご存知かと存じますが、昨夜、法人の田原達夫代表が自ら命を絶たれました。本日皆様に発表するのは、その田原氏の遺書になります。最初に言っておきますが、今回の件に関して一切の事件性は存在しません」
そこにマスコミから言葉が飛んだ。
「悪魔祓いと殺人の関係はあるんですか⁉︎」
「ありません」
西沙のその言葉に、尚も別の記者が食い下がる。
「しかし遺書の証言だけじゃ────」
「ここに────証拠があります」
そう言って大き目の茶封筒を掲げたのは杏奈だった。
ザワつきの中で注目を浴びながら杏奈が続ける。
「これは、司法解剖の結果です。この後皆様にもコピーをお配りしますが、これは田原氏が以前勤めていた総合病院で行われたものです。死亡の原因に何ら不審な点は無く、ホスピスでのターミナル医療として真っ当な処置を施された結果という部分には何の疑問点もありません。非常に稀な難病であることに加え、御家族の希望、そしてマスコミへの御家族からのリークのためか…………早い段階から警察も関わっている正式な物です」
「どうして告訴前から警察が────」
その記者の質問を、再び杏奈が遮る。
「ごもっともなご質問ですね。本来ならあり得ないことです…………なぜ警察がそんなにも早く動いていたのか…………あくまで私の推測ですが、宗教法人が作った病院……というところが理由だったのではないかと感じています。警察がこの手の宗教絡みに神経質になっているのは報道機関の皆さんならご存知のはずです。非常に神経質にならざるを得ない部分があったと推察されます…………とは言っても、これ以上は警察側を追求していただくしかありません」
そして、西沙が杏奈の言葉を掬い上げる。
「しかし、その司法解剖の資料がここにあること…………そしてこれから読み上げる田原氏の遺書も本物です。この件に事件性がないことを警察が認めた……と判断していいかと思います。そして今回のトラブルの中心には二人の人物が関わっています。しかしまずは皆さんに知っておいていただきたいのは、この二人には何の悪意も無かったということです。善意しかなかったんです。二人は犯罪者ではありません。誰も殺してなんかいません。人を救いたかっただけです……」
その微かに震える西沙の声に、会見場のザワつきが消えた。
そして、ゆっくりと、杏奈が田原の遺書を開く。
その紙の音だけがマイクを通して周囲に響き、やがて杏奈が語り始めた。
「では、田原氏の遺書を…………読ませていただきます…………」
☆
真実が公表されたことで、世間もマスコミも掌を返したかのように態度を変える。
というより、関心を失った。
「気に入ったんですね。その衣装」
杏奈は西沙の事務所のソファーに腰を降ろすなりそう言った。
「まあね」
そう返した西沙はソファーの上で横にしていた体を起こして続ける。膝下までのゴスロリのスカートが空気を揺らす。
「毎日ってわけじゃないけど…………夏用もあるから年中これでいけるね」
「まあ……いいですけど…………仕事も増えたんじゃないですか?」
「お陰様で。杏奈もでしょ?」
「まあ……それなりには…………」
事実だった。ローカルな事件だったとはいえ、記者会見は全国放送のテレビでも取り上げられたほどだ。
杏奈が続ける。
「それでも……私はまだ少し引っかかってますけどね…………あの事件…………」
すると、すぐに西沙が目を細めて返した。
「何を? もう解決したじゃない…………そもそも事件でもなかった」
「……浅間さんのことが……心配です…………確かに浅間さんの疑いは晴れた……何の事件性もそこには存在しなかった…………でも、田原さんの自殺に責任を感じてるんじゃないかって考えたら、ホントに真実を語ることが正しかったのかどうかも分からなくなってきて…………吉原さんの娘さんだって…………」
杏奈は項垂れたまま。
重い空気が流れた。
西沙はすぐには返さないまま、珍しく応えを頭の中で考えていた。頭の中は、西沙も同じだったからだ。
「……おかしいよね…………」
やっと口を開いた西沙が続ける。
「私たちは真実を暴きたくて動いてた……それで間違いなく救われる人がいると信じた…………でもその結果は必ずしもハッピーエンドってわけじゃない…………でも私たちの仕事はあそこまでだよ…………後はお母さんに任せて」
杏奈が反射的に顔を上げていた。
「咲さんが…………」
「うん……杏奈と同じこと言ってた。あの二人のカウンセリングを始めてるんだってさ。昨日電話で聞かされたけど、少し前から動いてたみたい」
途端に杏奈の顔に笑みが浮かぶ。
西沙が続けた。
「私はまだまだ甘かったみたい……正義のヒーローにでもなったつもりでいたよ…………だからさ、これからも色々と相談に乗ってもらえないかな。私って世間知らずだからさ」
はにかんだ西沙の笑顔に、杏奈は即答していた。
「もちろんです。私でよければ…………」
常に強気な態度を崩さなかった西沙の意外な一面を見たことで、杏奈は少しだけ西沙に近付けた気がした。自分には到底叶わないような能力者。完全に別世界の遠くの人だと思っていた。
しかしそんな西沙も、杏奈と同じ一人の人間だった。それが垣間見れただけでも杏奈は嬉しかった。
そんな杏奈が続ける。
「とは言っても……あの時の謝礼くらいはいい加減に受け取ってもらいたいですね」
「いらないって言ったでしょ」
西沙がいつもの調子に戻ってそう返すと、ちょうどそこにコーヒーを運んできた美由紀が西沙に釘を刺す。
「そんな言い方しなくたって…………せっかく言ってくれてるのに…………」
「美由紀にだってちゃんと給料払えるようになったでしょ」
「そうだけど。一応経理も担当してる身としては────」
食い下がる美由紀に西沙も負けじと返した。
「じゃあ下のコンビニで新作のスイーツでもどう?」
「まあ……それもいいかも…………」
しかし当然のように杏奈が挟まる。
「そんなんでいいんですか?」
すると身を乗り出した西沙が返した。
「昨日発売になったんだけど種類が多くて選べなくてね。どれから買うべきか美由紀と昨日ずっと議論してたのよ」
「じゃあ後で全部買ってきますよ」
軽い溜息混じりに杏奈が応えると、安心した笑顔で西沙がソファーの背もたれに体を預ける。
しかし、瞬時にその表情が変わった。
「……それにしても、相変わらずマスコミの謝罪はないか…………分かってたけど」
そう言う西沙の表情が寂し気なものに変わったのを、杏奈は見逃さなかった。
「……すいません…………」
思わず言葉が漏れていた。
自分もそんな風潮を当然のことのように感じていたマスコミの一部に過ぎない。フリーになったとは言っても、むしろその流れに飲まれそうな自分が顔を出す時が自分でも嫌だった。
「別に杏奈が悪いわけじゃないよ。それがマスコミでしょ」
そう突き放そうとする西沙の言葉は、なぜか杏奈には慰めのようにも感じる。
しかし杏奈にも納得のいかない感情はある。
「……でも、人が……死んでるんですよ…………宗教はマスコミの餌じゃないのに…………宗教って何なのか分からなくなりました…………」
「前に……お母さんがこんなこと言ってたよ…………宗教って〝舟〟みたいな物なんだって…………乗らなくてもいい人は自分で泳いで行けるけど、泳げない人とか、途中で疲れちゃった人がその舟に乗って…………乗らないと海を渡れない人もいるんだよね…………途中で溺れちゃう人もいる…………陸地まで辿り着きたかったはずなのに…………」
──……田原さんの舟は…………
「…………私はそんな人たちを相手に仕事してるけど…………そっちの世界に興味があったらいつでも連絡してよ。力にはなれると思うよ」
そう言って、西沙はまだあどけない笑顔を見せた。
すると、今度は杏奈が身を乗り出す。
「実は…………今日はそれもあって来たんですけどね…………最近オカルトライターも始めまして…………」
「へえ、面白そうじゃない」
「あのニュース見ました? 取り壊し中の古い洋館から見つかった白骨遺体の話…………元々は心霊スポットとしても有名な所だったんですけど…………」
☆
数年後。
杏奈は県警の資料室にいた。
「また宗教絡みか?」
そう話しかけてきたのは杏奈の知り合いの盗犯課の刑事────佐々岡亮一。
実際には現警視総監の孫。
そのためなのか、その立場を利用して警察の細かなところまで入り込むことが出来た。杏奈とは一年だけ付き合った過去があるが、現在は杏奈の情報屋として協力している。
当時から既婚であり、妻と小学生の娘が二人。杏奈とはいわゆる不倫関係だった過去がある。
「まあ、断れない相手でさ…………」
杏奈は資料から顔を上げずにスマートフォンで写真を撮り続けた。
「宗教絡みは嫌いだろ? あんな経験したのに…………」
「……うん……そうだね…………でも今回は資料だけ…………」
「ならいいが…………ここにお前を入れたことがバレるだけでも俺は降格扱いになるよ」
佐々岡はそう言いながら、ドアの側で廊下の音に意識を向けていた。
「警視総監の孫が何言ってるのよ…………こんな地方県警の盗犯課なんかで昼行灯を楽しんでるくせに」
「それを言うなよ…………今回は公安調査庁まで動いてる団体だ。さすがにマズい」
そして杏奈はスマートフォンをポケットに入れると、改めて資料に目を落とす。
「うん……厄介かもね…………〝風光会〟か…………」
「かなざくらの古屋敷」
~ 第十二部「幻の舟」終 ~
吉原藤一郎の家族が正式に病院を告訴したことで、警察が動いた。
朝。
西沙が事務所の扉をいつもより早目に開けると、すぐに聞こえてきたのは杏奈の声。
そして入ってすぐの事務机に座り、眉間に皺を寄せてパソコンのモニターを見つめるのは事務員の久保田美由紀。西沙とは同じ年齢で高校の同級生。西沙の唯一の親友で同時に唯一の理解者。あまり社会に溶け込めるようなタイプではない。美由紀にとっても西沙は貴重で大事な存在だった。
その美由紀が朝から西沙を睨みつける。
西沙が僅かに作った笑顔を浮かべると、最初に口を開いたのは美由紀だった。
「誰なの? 人を泊めるなら昨日の内に連絡くらいしてよ。私が来た時にはもう電話してるし…………事態が全く飲み込めないんだけど」
そう言って美由紀が杏奈に顔を向けると、その長いストレートの明るい髪が緩く揺れる。
杏奈はソファーに向かってスマートフォンを片手に話し続けていた。そのソファーの横には大き目の液晶テレビ。映し出されているのはホスピスが正式に告訴されたニュース。誰かと電話で話を続ける杏奈の表情は硬かった。
「……お願い…………難しいことは分かってる…………でも裏が欲しいの…………そっちの〝対象〟を教えて…………もう動いてたんでしょ?」
西沙に視線を戻した美由紀が続けた。
「あの事件絡み? どうしたの? あんな分かりやすいくらいのマスコミの人間を連れ込むなんて…………」
確かに美由紀の言うことも最もで、マスコミ関係の典型的な動きやすい服装に無駄に大きな鞄。決して若い女性の好むスタイルではない。歩くことの多い外向きのマスコミ関係者であることを表すような歩きやすいスニーカー。
「連れ込むだなんて…………」
微妙な笑顔を浮かべながら西沙が続ける。
「そういう趣味はないんだけどね」
「あっても困るよ。私も無いし。〝例の事件〟?」
「まあね……お母さんの絡みもあるし…………知らないフリは出来ないからさ…………」
「でも、どうしてあの人?」
「〝見えた〟から」
「ああ、そういうこと…………」
西沙が杏奈を選んだ理由は、決して杏奈が母親と接触したからというだけではない。
それは言葉で説明出来ることではなかった。
そう感じたから────しかもそれは、毎日のように一緒にいる美由紀にとっては初めてのことではない。美由紀に西沙のような能力があったわけではないが、高校からの西沙を見ている。西沙がいわゆる普通の人と違うことで人生を翻弄された姿も見てきていた。
だったら西沙を信じるしかない────それが美由紀の考え方だった。
杏奈がメモ用紙にボールペンを走らせながら電話を続ける。
「…………やっぱり……この二人で間違いないのね…………分かった。こっちも何か掴んだら連絡するから」
杏奈は電話を切ると、すぐに顔を上げた。
「ごめんなさい…………」
そう言う杏奈に近付きながら、西沙が向かいのソファーに腰を降ろす。
「いいよ…………警察でしょ? やっぱりもう動いてた?」
「はい…………警察がチェックしてるのも…………やっぱり同じ二人でした…………」
杏奈はメモ用紙を西沙に見せながら続ける。
そこには、昨夜の西沙のメモと同じ〝浅間美津子〟と〝吉原美優〟の名前。
「確証の無い部分が多くて動きづらいみたいです…………それにマスコミが言ってる死亡率の高さも嘘みたいで…………」
「そうだよねえ…………そもそもがホスピスだし。体調が良くなって退院する患者の率は通常の病院よりはるかに低いはず…………ほとんど無いくらいにね…………それにあの二人も犯罪を犯したわけじゃないから警察も切り口を作りにくいんだろうね…………」
──…………?
西沙が続けた。
「吉原美優には会えそうにないよね…………告訴した側の家族だし、どうせマスコミのせいで家からは出られないだろうし…………」
「じゃあ…………もう一人の…………」
「浅間美津子…………吉原藤一郎が亡くなった直後に退職してるはずだよ…………職員のリストってマスコミは掴んでないの?」
「掴んでます────」
杏奈は再びスマートフォンを手に取る。
☆
美津子のアパートは街の郊外。
周囲には田畑も多い。
病院からは少し距離があった。
雨樋が所々外れかけているような、そんな古いアパート。壁の色も変わってしまったのだろう。暗く燻んだ印象が二階建ての建物全体から漂う。
「部屋は?」
アパートの二階を見上げながら西沙がそう聞くと、隣の杏奈も同じく二階を見上げていた。
そして応える。
「そこの階段を登って…………一番奥の部屋です」
そして、先頭に立って階段を登り始める。
「────ここに引っ越したのは一年くらい前…………何も変わっていなければ独身のはずです…………」
完全に錆びついた階段は、杏奈のスニーカーでも大きく空気を揺らした。それ自体も不安定にグラつく。そのまま繋がった二階の手摺りも、すでに元の色すら分からない。おそらく今は触る人もいないのだろう。微かに積もった塵がそれを物語っていた。二階の廊下にもそれは目立つ。その塵を見る限り、周囲に足跡は多くない。一階、二階共に三部屋ずつ。満室ではなさそうだ。二階で玄関の前に足跡があるのは────一番奥の、美津子の部屋だけ。
表面が何箇所もヒビ割れ、角から錆びついたドア。
呼び鈴は無かった。
杏奈は迷わずドアをノックする。
玄関の郵便受けにはチラシが詰め込まれていた。
──……いるのかな…………
ドアの奥からは何も聞こえない。
独特の嫌な時間が過ぎていく。
途方もない長い時間に感じられた。
杏奈は自分で自分のことが不思議だった。
なぜか、自分の中に他人の感情が入り込んでくるかのような感覚。
西沙ではない。
自分以外の誰かの気持ち。
──……………………だれ?
その感情が、ドアから零れた。
「…………はい…………なんでしょうか…………」
目を伏せたままの、やつれた顔がドアの隙間から覗く。
強い影が、その顔の大半を隠す。
杏奈は、あまり意識せずに口を開いていた。
「……浅間……美津子さんですね…………」
ドアの奥の影────美津子はさらに深く目を伏せる。
その表情に、杏奈は慎重に言葉を選んだ。
「…………病院でのこと…………お話を、伺えませんか? ご迷惑はお掛けしません…………」
「────…………すいません……………………」
小さく低い声と共にドアが閉まり始め、錆の匂いがした時、そのドアは隙間に差し込まれた杏奈のスニーカーに遮られる。
──……今を逃したらもう助けられない…………
──…………助けられない……?
美津子がドアノブを握る手に力を入れた直後、杏奈が続けていた。
「────本当のことを知りたいんです…………」
それに続くのは、杏奈の背後の西沙。
「あなたは何もしてない!」
杏奈は驚きのあまり、咄嗟に振り返っていた。
そこには、予想だにしなかった、両目を潤ませた西沙。
「あなたには何の罪もない! あなたを守らせて! 美優さんのことも…………」
そして、ドアが開く。
☆
その日の夜。
杏奈と西沙は御陵院神社にいた。
西沙の実家でもあるためか、祭壇の前で西沙が落ち着かない姿なのが杏奈には気になった。
座布団で正座をする杏奈とは対照的に、西沙はあぐらをかいて片膝の上で肘を立てる。
「安心しなさい。姉たちはいませんよ」
二人の前に姿を表した咲は、目の前の西沙の姿を見るなり、そう言って腰を降ろした。
「──別に…………」
小さく呟いた西沙に、咲はすぐに返す。
「二人は今夜は出張です。面倒な依頼でしたので…………まだしばらくは帰らないでしょう」
そして咲は、杏奈に向けた視線を西沙に戻し、続けた。
「どうしてあなたが関わっているのですか? 電話の時に少々お話はしましたが…………あなたにどうこうして欲しいと伝えたつもりはありませんよ」
「私も頼まれたからやってるわけじゃないよ。〝見えちゃった〟ものは仕方ないでしょ」
強気に応える西沙の口調に、杏奈は二人の関係性が少しだけ見えた気がした。
──…………色々ありそうだなあ…………
「では…………水月さん────」
咲は気持ちを切り替えるように杏奈に視線を戻して続ける。
「今回の御用向きは…………」
そして、杏奈は語り始める。
「はい…………病院の、元職員の方と話してきました…………あの一件のすぐ後に退職された方です。そして、今回の問題の中心にいました」
咲は一度も口を開かないまま、杏奈の話を聞き続けていた。
決して短い話ではない。
しかも、西沙も口を挟まない。
俯いたまま、目の前の板間を見つめ続ける。
杏奈の話が終わる。
やっと咲は視線を杏奈から外した。
そして小さく息を吐く。
杏奈は話し疲れた様子もないまま、そんな咲の姿を目で追っていた。
そして、次に口を開いたのはその咲だった。
「面白い話…………と言ったら不謹慎でしょうが、珍しい方ですね…………マスコミ的にはこんな結論は求めていないはずでしょうに…………」
「娘さんのお陰です」
杏奈は咲の寂しげにも見える目を見ながら応える。
それに咲はすぐに返した。
「しかしもう一人…………裏を取らなければ…………誰も信用してはくれないでしょう…………どうするおつもりですか? なにせ病院を訴えている側…………代表の田原さんが動いたとて無駄なこと…………」
すると、杏奈が僅かに身を乗り出して応える。
「…………お願いできませんか?」
「……私ですか…………」
「娘さんでは目立ち過ぎます」
すかさず西沙。
「失礼ね」
しかし杏奈は言葉を続ける。
「神社という後ろ盾があれば接触はしやすいはずです。マスコミの報道でもこちらの神社にバックアップされている事実は出ていません。何か適当な理由をつけて────」
「難しいでしょうね…………それ相当の理由がなければ…………私までマスコミに追われることになり兼ねません…………そっちは娘にお願いしますよ」
「でも目の前に本当のことがあるのに────」
「どうにかして…………真実を伝えて下さいませんか…………私は田原さんのほうが心配です…………」
そして、床に置いてあったスマートフォンが音を立てる。
咲の物だ。
西沙が顔を上げる。
その西沙は咲が手を伸ばすより早く口を開いた。
「────来た────」
西沙には何かが見えていた。
その目が大きく開かれている。
モニターを見た咲が目を開くと、杏奈の中で何かが疼く。
それは、嫌な感覚だった。
「失礼」
立ち上がった咲は、部屋から続く広い廊下へと足を滑らせる。ドアは無い。微かに聞こえる咲の声に、杏奈と西沙は無意識の内に耳を側立てていた。
二人の元に小さく届く咲の声は、西沙の予想通り、動揺を隠せてはいない。
「…………いつですか…………そうですか…………分かりました…………すぐに…………」
やがて、その咲が杏奈と西沙の元に戻る。
二人は咲の言葉を待った。
空気が澱む。
嫌な時間。
そして、ゆっくりと口を開いた咲の表情が曇る。
「つい先ほど…………代表の田原さんが亡くなりました…………」
電話と同時に予想出来ていた西沙。
嫌な感覚を感じながらも、何も見えていなかった杏奈。
二人は共に、口を開かなかった。
咲が続ける。
「…………ご自宅で…………自ら命を絶ったところを…………奥様が見付けられたとのことです…………」
「…………どうするの?」
そう小さく返したのは西沙。
そして続ける。
「病院に運ばれたんでしょ? …………奥さんもそこにいるなら…………」
そこに挟まったのは杏奈の声。
「────どうせ…………マスコミが病院を囲ってる…………」
「……遺書があったということです…………」
そう返す咲が、ゆっくりと続けた。
「水月さん…………病院までお願い出来ますか? 私と一緒に…………あなたに真実を見て欲しい…………」
それだけ言うと、咲は立ち上がった。
☆
病院の前には何台ものマスコミの車両と、無数のマスコミ関係者がひしめき合っていた。
それはまるで、暴動の群衆かと思うように殺気立って見える。
その熱気のせいか、今夜は寒さを感じない。
杏奈は少し離れた道路の脇に車を停めた。もっとも、人集りのせいでそれ以上は進めなかった。周囲には歩道に乗り上げたマスコミの車が何台も並び、皮肉にも世間の注目の高さを際立たせた。
そして、マスコミの照明が周囲を明るく照らしている。
──……どうせ……来月にはみんな忘れてるニュースなのに…………
杏奈は不意にそんなことを思いながら、運転席で口を開いた。
「どうやって入り込みます? その格好じゃ目立ちますよね…………」
振り返った後部座席には、巫女姿のままの咲。
慌てていたからなのか、杏奈もここに来るまで咲の服装のことまで意識を向けることが出来なかった。
しかし助手席の西沙は平然と口を挟む。
「まあ大丈夫でしょ。だよねお母さん」
「…………ええ、問題はありません」
咲はそれだけ応えると、ずっと下げたままだった顔を上げ、ドアを開けた。
「──いや……でも」
慌てて運転席を降りる杏奈のそんな声も無視するかのように、咲はアスファルトに下駄の音を響かせる。そしてその後ろを着いていく西沙にも迷いがあるようには見えない。
群衆のザワつきに掻き消える下駄の音を追いかけるように、杏奈も着いていくしかなかった。
周囲にバラけているマスコミの人間たちが、しだいに咲に視線を向け始める。
どう考えても場違いな服装だ。
僧侶ではなく、巫女が病院の入り口を目指している。
そしてその巫女姿の咲が群衆に辿り着いた。
──……無理だよ……入れない…………
杏奈がそう思った時、咲と西沙の足が同時に止まる。
少しずつその存在が周囲に広がり、少しずつ辺りが静かになった。
気が付いた時には、ほとんどの群衆が咲を見て呆然とした表情を晒し、次の咲の言葉に目を見開いていた。
「……道を開けなさい…………真実を見ようとしない者に……用はありません…………」
決して大きな声ではない。
それなのに、咲の言葉はその場を掌握していた。
咲は片手を胸の辺りにかざすと、そのまま何かを払うように、その手を真横へ。
すると、まるで大きな手で払われたかのように、群衆が動き、道が出来た。
西沙は軽く振り向き、呆然とその光景を見ていた杏奈に目配せをする。
そして咲を先頭に、三人は病院の中へ。
病院の入り口からはマスコミは入ることが出来ない。警備員が何人もいるだけでなく、病院の許可なく勝手に立ち入ることは出来ないからだ。
「田原様の奥様に……私が来たとお伝え下さい」
咲はそう言って警備員に自分の名刺を見せた。
すぐに入り口が開かれる。
そして自動ドアを通った先、総合受付のベンチに、初老の女性。
咲の姿を見るなり駆け寄った。
「──警察の方たちが…………司法解剖をしたいと…………」
田原の妻────貴子であろうことは容易に想像がついた。その貴子は泣き疲れて腫れた瞼のまま、足元もおぼつかない。
咲はそんな貴子を再びベンチに座らせると、自らもその隣に腰を降ろして口を開く。
それはついさっき群衆を黙らせた声とは違う。まるでそれはその場を包み込むかのような柔らかい口調だった。
「……致し方ないことなのでしょう…………でも、すぐに奥様の元に帰られますよ…………」
すると貴子は、慌てたようにハンドバッグから数枚の紙を取り出す。
何度か折り畳まれたかのように、少し皺が目立つそれを咲に渡して言った。
「…………主人の遺書です…………本物は警察にありますが、御陵院さんに見せたいからと言ったらコピーをしてくれました…………」
──……つまり…………警察は中身を見ても問題ないと…………
──…………警察の予想通りだったってこと…………?
──……どうやって真実に辿り着いてたの…………?
──…………あの二人からすでに話を聞いてたんだ…………
そう思った杏奈の目の前で、言葉を返したのは咲。
「そうでしたか…………」
その声が続く。
「……総て…………奥様の元に帰りますよ…………」
『
このような結論を選んだことをお許し下さい。
私は神波会の信者の皆様、及び病院の職員、さらには患者の皆様にも多大なご迷惑をおかけ致しました。
総ては私の不徳の致すところであり、同時に私の未熟さが招いたことと痛感しております。
御陵院様を初め、私は多くの方々から助けていただき、愛されてきました。
とりわけ家族の存在は何よりも掛け替えのない存在でした。
しかし私の力が至らないばかりに、世間様を騒がせ、多くの方々に御迷惑をかけてしまいました。
私は総てを語りたいと思います。
当初マスコミの方々に語った時、残念なことに私の言葉は違った形で伝わってしまったようで誠に残念でした。その時分は私も真実を知ってもらいたい一心でした。総ては私の力不足です。
ですがこの文章なら、そのまま伝わってくれるものと信じています。
真実の中心には二人の女性がおられます。
しかし、決してそのお二人を責めないでいただきたいのです。
お二人は何も悪いことはしておりません。
患者の吉原藤一郎様を苦しみから解放してあげたい一心だったはずです。
終末期医療の世界を追及したかった私と同じなのです。
』
☆
医療法人ホスピス医院────安寧病院が田原によって作られてからすでに二〇年以上が経っていた。
田原は元々宗教法人〝神波会〟の代表だったが、元々はホスピス医院を作ることが目標だった。
神波会のベースは日本に古来から存在してきた神道。田原自身が神道に傾倒し、そこに癒しを感じていたことが終末期医療への興味に繋がった。
その関係もあって御陵院家も宗教法人の設立そのものから関わった。当初からホスピスの話があり、そこに一番共感出来たからでもある。御陵院家で担当となったのが、神社の代表となる直前の咲だった。
宗教法人の設立というものはすぐに出来るものではない。組織としての活動の実績、拠点となる施設、活動年数等、もちろん御陵院家がその総てに於いてバックアップをし、法人設立と同時のホスピスの開業を目指した。
そのためか、無事にホスピスが開業してからも咲は相談役として関わっていた。
しかし病院自体は決して宗教色を強調した施設ではない。病院の職員の中にも数名は信者がいたが、ほとんどは神波会とは無関係の職員。患者も同じだった。むしろ熱心なキリスト教信者の患者すらいた。
しかし法人としては何らそこに問題はないとの判断のまま。
押し付けずに、受け入れる。
総ては終末期医療のため。
人生の最後を看取ることに神道としての教義を重ねていただけ。
あくまで「最後の時を穏やかに過ごして欲しい」という想いだけだった。
その精神に共感を受けて働いていた職員の中に、浅間美津子がいた。
美津子には他人と関わることを極端に避けるようなところがあったが、田原からは違って見えていた。
人と関わるのが苦手なのに、人と直接触れ合う世界で働いている…………本当の気持ちはもっと複雑なのだろうと、田原は思っていた。過去に何かがあったのだろうとは想像が出来たが、美津子が語ろうとしないだけでなく田原も特別聞き出そうとはしなかった。田原にとっては、面接の時にホスピス設立の理念を話しただけで涙ぐんだ美津子のその気持ちだけで充分だった。
元々介護の様々な分野で働いてきた美津子は、ホスピスでもよく働いた。誰から見ても真面目な印象だった。
田原が嬉しかったのは、少しずつ、美津子に笑顔が増えてきたこと。
田原はホスピスを運営していく中で、患者だけでなく職員のことも助けることが出来ているのなら、それが一番だと思えた。
吉原藤一郎がホスピスに入所してきたのは、そんな頃だった。
病気は後天性血友病。
少なく見積もっても五〇万人に一人と言われる難病。未だに発症原因は見つかっていない。
吉原は現在八五才。後天性血友病を発症したのは八四才の時。
元々八〇才で甲状腺癌を患い、高齢でもあることから癌の治療ですら難しく、延命治療を行っていたに過ぎなかった。後天性血友病が発症した時点で認知症は見受けられず、本人と家族の意向で延命治療を拒否する。
そしてホスピスにやってきた。
医師でもある院長の田原から見ても、痛みを和らげ、血友病の症状である出血を抑えていくしかないと判断した。
美津子が介護の担当となったが、高齢者と長く接してきたとはいえ、血友病特有の症状である内出血から来る全身のアザのような皮膚を見た時は驚いた。
そんな美津子は血友病を調べていく。難病となると、施設の看護師でも医学書でしか見たことがないという。
施設では初めての病例を持つ患者ということで綿密なカンファレンスが行われたが、美津子は休日を返上して図書館にも通っていた。
もちろん目的は〝治療〟ではない。
どうやって〝苦しみを和らげる〟ことが出来るか。
ホスピスに来ることを選ぶ患者とその家族のほとんどは、もちろんある程度は〝死〟というものを受け入れている。ホスピスとはそういう所だ。しかし現実を許容したからといって怖くないということではない。
誰もが〝安らかな死〟を求める。
それを求めてホスピスにやってくる。
決して意識の無い状態で人工的に心臓を動かしてほしいと願っているわけではない。
図書館やインターネットで集めた資料をカンファレンスで吟味しながら、美津子は当然のように吉原家とも関わりを深めていく。
そして病院に毎日のように顔を見せていたのは孫の美優だった。孫と言っても二八才。病室以外でも会話が増えていく。それがお互いの過去を語るようになると、いつの間にか美津子にとって美優は妹のような存在になっていた。
美優も決して順風満帆な人生ではなかったが、それがかえって美津子との関係性を強くしていったのかもしれない。
そして美津子は、関わり過ぎた。
ある日、病室のドアをノックすると、聞こえてきたのは美優の声。
「美津子さん? どうぞ」
いつの間にか、お互いを下の名前で呼び合う仲になっていた。
美津子は部屋に入ると、その光景に足を止めた。
吉原は昨夜日付が変わった頃に痛みを訴えていた。看護師と施設長との教義の末に鎮痛剤を処方していたが、この日の朝はまだその薬の効果か目を覚ましてはいなかったようだ。
静かにベッドに横になる吉原には、布団が掛けられていない。
そしてパジャマの上着が大きくたくし上げられ、腹部から胸部にかけて、痩せ細って赤黒いアザだらけの肌が露出していた。血友病の関係で外傷は望ましくない。その危険性を作らないため、ボタン付きの服も避けられていた。
その腹部をベッド脇から覗き込むようにしながら美優が立っている。
吉原の肌に、美優が指を這わせる。
「…………美優……さん…………?」
無意識の内に美津子がそう言葉を漏らすと、美優が振り返る。
その目は真剣だった。
そして口を開く。
「大丈夫…………こうすると〝悪魔〟は静かになるの」
それは、美津子にとってはまるで想像だにしていない言葉だった。
──…………〝悪魔〟…………?
「来て美津子さん」
そう言う美優に促されるまま、美津子はベッドに近付く。
美優は片手に小さな瓶を持っていた。それを美津子に見せながら言葉を繋げる。
「これは聖水…………悪魔が嫌うの」
「──悪魔って…………」
思考の追いつかない美津子にとっては、そう返すのが精一杯だった。
「おじいちゃんは悪魔に蝕まれてる…………私の息子も血友病で死んだ…………親戚も何人か同じ血友病で死んでる…………今度はおじいちゃんまで…………私の一族は悪魔に取り憑かれてる…………」
──……キリスト教…………
美津子の頭に、以前の美優との会話が思い出されていた。
美優は未だキリスト教信者のまま。それがなぜかは分からなかったが、現在でも改宗はしていないとのことだった。
美優は〝悪魔〟の存在を信じていた。
吉原の枕の横には古めかしい聖書。表紙の擦り切れ方を見る限り、美優が愛用していた物なのかもしれない。少なくとも美津子にはそう見えた。
──……だから…………毎日のようにお見舞いに…………
しかし、決して吉原を苦しめているようには見えない。
今までも、事実として気が付かなかった。
例えそれが〝悪魔祓い〟というものだったとしても、美津子には実害があるようには感じられなかった。
──…………それで美優さんが納得出来るなら……………………
美津子は誰にも話さなかった。
知っていたのは美津子だけ。
美優と二人だけの秘密の共有が始まる。
しかしそれからの美津子の中には、不思議な感覚があったのかもしれない。
仲のいい〝本当の友達〟と秘密を共有する独特の緊張感。
なぜかそれは、いつの間にか世間に対しての優越感にも似ていた。
そして、美津子は〝悪魔祓い〟に協力するようになる。
ある時は美優が聖水を吉原の体に振りかける背後で聖書を読み上げ、またある時は背後で美優が聖書を読み上げるのを聞きながら聖水を指で振り撒いた。
「前より……おじいちゃんが苦しむ頻度が減ってきたでしょ? 悪魔の力が弱くなってる証拠…………」
美優はそう説明した。
もちろんそれは過度な投薬を止めて〝病に立ち向かう〟ことから〝痛みを和らげる〟方向へとシフトしたからに他ならない。
それでもその頃の美津子には〝本当の友達〟の言葉が嘘とは思えなかった。
そして、
その日は美津子が聖水の瓶を持っていた。
背後には聖書を持った美優。
時間はもう暗くなり始めていた。
夕食の後。
美津子が聖水を指で吉原のアザに塗る。
しかし高齢者の乾燥した肌はその水をただ弾くだけ。
背後でドアが開いた時、美津子と美優は驚いて同時に顔を向けていた。
そこには美優の両親。
二人は目を見開いて、やがて目の前の光景に、眉間に皺を寄せた。
最初に口を開いたのは母親の優子。
「……美優…………あなたはまだそんなこと…………」
「だっておじいちゃんが────」
反射的にそう返した美優の言葉を遮ったのは、美津子。
「────これは…………」
しかし父親の憲一が更にその声を遮る。
「浅間さんも一体何をしてるんですか⁉︎」
「…………私は…………治療を………………」
「馬鹿な! こんな治療があってたまるか!」
「神聖な儀式なんです! 美優さんは何も悪くありません!」
その美津子の声に憲一の感情も更に刺激される。
「じゃあなんですか浅間さん! ここでは怪しげな〝悪魔祓い〟なんかしてるんですか⁉︎」
「いえ…………違います…………」
消え入るような美津子の声は、震えていた。
憲一の大きな声に、周囲の職員が集まり出す。
やがて田原が病室に入った時には、すでに興奮と熱気が室内を包み込んでいた。
そしてそれは、憲一の声として廊下にも溢れる。
「やっぱりここは怪しい宗教だったんだな! 娘まで巻き込んで! 職員も狂ってる!」
それに応えようとする田原の言葉は宙に浮くだけ。
やがて、吉原家が転院の手続きに入った翌日、吉原藤一郎は亡くなった。
転院の手続きの裏ですでに準備が進められていたのか、その日の内に、吉原家はマスコミに病院での一件をリークする。夜にはテレビでもニュースが流れた。
その夜の内に美津子から退職届を出された田原は、なんとか美津子を引き止めようと説得するが、結局は守りきれないまま。
翌日には日中のワイドショーでの格好のネタとなり、咲への相談の結果、田原は家から出ることすら出来なくなった。
そして、病院も、田原の家も、マスコミが周囲に張り付く。
☆
最初に口を開いたのは咲だった。
「…………どうやら……私にも責任の一端があるようです…………」
しかし、それに貴子が食いつく。
「何を言ってるんですか⁉︎ 御陵院さんがいてくださって私たちは感謝しているんです…………夫も……御陵院さんに合わせる顔がないと…………」
そして貴子は泣き崩れた。
動いたのは杏奈だった。
コピー用紙を覗き込んでいた体を上げ、マスコミの照明が入り込むガラスの自動ドアに体を向けると、その口を開く。
「────記者会見の準備に入ります…………咲さん…………一緒に出てくれますか? このまま終わらせるわけにはいかない…………」
杏奈の降ろした両手が強く握られているのを見ながら、咲が応えた。
「…………分かりました……」
「ダメだよ」
そう言って挟まったのは西沙。
その西沙が続ける。
「お母さんはマスコミ向きじゃない。それに巫女さんが出てきたらまた怪しく思われるよ。私が出る…………私なら神社とは関係ないしね」
「しかし西沙…………」
咲のその声を西沙が遮る。
「任せてよお母さん…………私の凄さは……お母さんが一番知ってるでしょ。それに、お母さんがマスコミの餌食にされるのだけはイヤ…………」
その夜の内に、杏奈は雑誌社編集長である岡崎を経由して記者会見の場所を押さえた。場所は駅前のホテルの催事場。
あれほど杏奈の取材姿勢に疑問を呈していた岡崎も、その動きは早かった。すでに次のネタが見付かっていたからだ。早々に今回のネタは終わらせかったのだろう。しかもネタとして解決させるのが自分の社の週刊誌となれば格好もつく。
「やっぱり、あの親父さんの娘だな」
岡崎はそう言って電話を切った。
杏奈は、その言葉の真意は分からなかったが、どう言われても構わないと思った。
──……これは私が決めたこと…………でも…………
──…………お父さんなら…………どうしたのかな…………
翌日の午前一〇時。
会場は多くのマスコミが押しかけ、改めて世間の関心の高さが伺われた。
控室には杏奈と西沙だけ。
「さすがに控室とはいっても、いいソファーよねえ」
そう言ってソファーに横になる西沙に、杏奈は眉間に皺を寄せて返した。
「それはいいですけど…………なんでそんな格好なんですか?」
「だって目立ったほうがいいでしょ? 第一印象は大事だよ」
「だからって…………」
杏奈の言うことももっともで、西沙はいわゆる黒いゴスロリファッションに身を包んでいた。
「前から着てみたかったんだよねえ。杏奈ももう少しオシャレしてきなさいよ。男だか女だかも分からないような服装ばっかりして…………彼氏出来ないよ」
「西沙さんだって────」
「お互いにさ…………顔売っておきたいじゃない…………仕事の中身は違っても、食べていかなきゃいけないし…………他の仕事なんか出来ない性分でしょ? 私も同じ…………」
会見場を埋め尽くすマスコミ関係者とカメラの台数に、その照明の強さもあるのか、杏奈は正直圧倒された。
そして会場のザワつきの元はやはりゴスロリ姿の西沙。一見するとお淑やかなその表情は、確かに注目を集めていた。
──…………さすが……
そう思いながら、杏奈は話し始めた。
「マスコミ各社の皆様……本日はお忙しいところお集まりいただきまして恐縮です。昨今騒がれておりました安寧病院の────いわゆる〝悪魔祓い〟騒動に関しまして、その真実が判明いたしましたのでご報告させていただきます。隣にいるのは────」
それを、西沙が遮るように口を開く。
「────私は……御陵院西沙と申します。宗教法人神波会の相談役としてその設立から団体を支えてきた御陵院神社代表────咲の娘です」
一気にカメラのシャッター音と大量のフラッシュが西沙に向けられる。
しかし、西沙は堂々と語り始めた。
「すでに報道でご存知かと存じますが、昨夜、法人の田原達夫代表が自ら命を絶たれました。本日皆様に発表するのは、その田原氏の遺書になります。最初に言っておきますが、今回の件に関して一切の事件性は存在しません」
そこにマスコミから言葉が飛んだ。
「悪魔祓いと殺人の関係はあるんですか⁉︎」
「ありません」
西沙のその言葉に、尚も別の記者が食い下がる。
「しかし遺書の証言だけじゃ────」
「ここに────証拠があります」
そう言って大き目の茶封筒を掲げたのは杏奈だった。
ザワつきの中で注目を浴びながら杏奈が続ける。
「これは、司法解剖の結果です。この後皆様にもコピーをお配りしますが、これは田原氏が以前勤めていた総合病院で行われたものです。死亡の原因に何ら不審な点は無く、ホスピスでのターミナル医療として真っ当な処置を施された結果という部分には何の疑問点もありません。非常に稀な難病であることに加え、御家族の希望、そしてマスコミへの御家族からのリークのためか…………早い段階から警察も関わっている正式な物です」
「どうして告訴前から警察が────」
その記者の質問を、再び杏奈が遮る。
「ごもっともなご質問ですね。本来ならあり得ないことです…………なぜ警察がそんなにも早く動いていたのか…………あくまで私の推測ですが、宗教法人が作った病院……というところが理由だったのではないかと感じています。警察がこの手の宗教絡みに神経質になっているのは報道機関の皆さんならご存知のはずです。非常に神経質にならざるを得ない部分があったと推察されます…………とは言っても、これ以上は警察側を追求していただくしかありません」
そして、西沙が杏奈の言葉を掬い上げる。
「しかし、その司法解剖の資料がここにあること…………そしてこれから読み上げる田原氏の遺書も本物です。この件に事件性がないことを警察が認めた……と判断していいかと思います。そして今回のトラブルの中心には二人の人物が関わっています。しかしまずは皆さんに知っておいていただきたいのは、この二人には何の悪意も無かったということです。善意しかなかったんです。二人は犯罪者ではありません。誰も殺してなんかいません。人を救いたかっただけです……」
その微かに震える西沙の声に、会見場のザワつきが消えた。
そして、ゆっくりと、杏奈が田原の遺書を開く。
その紙の音だけがマイクを通して周囲に響き、やがて杏奈が語り始めた。
「では、田原氏の遺書を…………読ませていただきます…………」
☆
真実が公表されたことで、世間もマスコミも掌を返したかのように態度を変える。
というより、関心を失った。
「気に入ったんですね。その衣装」
杏奈は西沙の事務所のソファーに腰を降ろすなりそう言った。
「まあね」
そう返した西沙はソファーの上で横にしていた体を起こして続ける。膝下までのゴスロリのスカートが空気を揺らす。
「毎日ってわけじゃないけど…………夏用もあるから年中これでいけるね」
「まあ……いいですけど…………仕事も増えたんじゃないですか?」
「お陰様で。杏奈もでしょ?」
「まあ……それなりには…………」
事実だった。ローカルな事件だったとはいえ、記者会見は全国放送のテレビでも取り上げられたほどだ。
杏奈が続ける。
「それでも……私はまだ少し引っかかってますけどね…………あの事件…………」
すると、すぐに西沙が目を細めて返した。
「何を? もう解決したじゃない…………そもそも事件でもなかった」
「……浅間さんのことが……心配です…………確かに浅間さんの疑いは晴れた……何の事件性もそこには存在しなかった…………でも、田原さんの自殺に責任を感じてるんじゃないかって考えたら、ホントに真実を語ることが正しかったのかどうかも分からなくなってきて…………吉原さんの娘さんだって…………」
杏奈は項垂れたまま。
重い空気が流れた。
西沙はすぐには返さないまま、珍しく応えを頭の中で考えていた。頭の中は、西沙も同じだったからだ。
「……おかしいよね…………」
やっと口を開いた西沙が続ける。
「私たちは真実を暴きたくて動いてた……それで間違いなく救われる人がいると信じた…………でもその結果は必ずしもハッピーエンドってわけじゃない…………でも私たちの仕事はあそこまでだよ…………後はお母さんに任せて」
杏奈が反射的に顔を上げていた。
「咲さんが…………」
「うん……杏奈と同じこと言ってた。あの二人のカウンセリングを始めてるんだってさ。昨日電話で聞かされたけど、少し前から動いてたみたい」
途端に杏奈の顔に笑みが浮かぶ。
西沙が続けた。
「私はまだまだ甘かったみたい……正義のヒーローにでもなったつもりでいたよ…………だからさ、これからも色々と相談に乗ってもらえないかな。私って世間知らずだからさ」
はにかんだ西沙の笑顔に、杏奈は即答していた。
「もちろんです。私でよければ…………」
常に強気な態度を崩さなかった西沙の意外な一面を見たことで、杏奈は少しだけ西沙に近付けた気がした。自分には到底叶わないような能力者。完全に別世界の遠くの人だと思っていた。
しかしそんな西沙も、杏奈と同じ一人の人間だった。それが垣間見れただけでも杏奈は嬉しかった。
そんな杏奈が続ける。
「とは言っても……あの時の謝礼くらいはいい加減に受け取ってもらいたいですね」
「いらないって言ったでしょ」
西沙がいつもの調子に戻ってそう返すと、ちょうどそこにコーヒーを運んできた美由紀が西沙に釘を刺す。
「そんな言い方しなくたって…………せっかく言ってくれてるのに…………」
「美由紀にだってちゃんと給料払えるようになったでしょ」
「そうだけど。一応経理も担当してる身としては────」
食い下がる美由紀に西沙も負けじと返した。
「じゃあ下のコンビニで新作のスイーツでもどう?」
「まあ……それもいいかも…………」
しかし当然のように杏奈が挟まる。
「そんなんでいいんですか?」
すると身を乗り出した西沙が返した。
「昨日発売になったんだけど種類が多くて選べなくてね。どれから買うべきか美由紀と昨日ずっと議論してたのよ」
「じゃあ後で全部買ってきますよ」
軽い溜息混じりに杏奈が応えると、安心した笑顔で西沙がソファーの背もたれに体を預ける。
しかし、瞬時にその表情が変わった。
「……それにしても、相変わらずマスコミの謝罪はないか…………分かってたけど」
そう言う西沙の表情が寂し気なものに変わったのを、杏奈は見逃さなかった。
「……すいません…………」
思わず言葉が漏れていた。
自分もそんな風潮を当然のことのように感じていたマスコミの一部に過ぎない。フリーになったとは言っても、むしろその流れに飲まれそうな自分が顔を出す時が自分でも嫌だった。
「別に杏奈が悪いわけじゃないよ。それがマスコミでしょ」
そう突き放そうとする西沙の言葉は、なぜか杏奈には慰めのようにも感じる。
しかし杏奈にも納得のいかない感情はある。
「……でも、人が……死んでるんですよ…………宗教はマスコミの餌じゃないのに…………宗教って何なのか分からなくなりました…………」
「前に……お母さんがこんなこと言ってたよ…………宗教って〝舟〟みたいな物なんだって…………乗らなくてもいい人は自分で泳いで行けるけど、泳げない人とか、途中で疲れちゃった人がその舟に乗って…………乗らないと海を渡れない人もいるんだよね…………途中で溺れちゃう人もいる…………陸地まで辿り着きたかったはずなのに…………」
──……田原さんの舟は…………
「…………私はそんな人たちを相手に仕事してるけど…………そっちの世界に興味があったらいつでも連絡してよ。力にはなれると思うよ」
そう言って、西沙はまだあどけない笑顔を見せた。
すると、今度は杏奈が身を乗り出す。
「実は…………今日はそれもあって来たんですけどね…………最近オカルトライターも始めまして…………」
「へえ、面白そうじゃない」
「あのニュース見ました? 取り壊し中の古い洋館から見つかった白骨遺体の話…………元々は心霊スポットとしても有名な所だったんですけど…………」
☆
数年後。
杏奈は県警の資料室にいた。
「また宗教絡みか?」
そう話しかけてきたのは杏奈の知り合いの盗犯課の刑事────佐々岡亮一。
実際には現警視総監の孫。
そのためなのか、その立場を利用して警察の細かなところまで入り込むことが出来た。杏奈とは一年だけ付き合った過去があるが、現在は杏奈の情報屋として協力している。
当時から既婚であり、妻と小学生の娘が二人。杏奈とはいわゆる不倫関係だった過去がある。
「まあ、断れない相手でさ…………」
杏奈は資料から顔を上げずにスマートフォンで写真を撮り続けた。
「宗教絡みは嫌いだろ? あんな経験したのに…………」
「……うん……そうだね…………でも今回は資料だけ…………」
「ならいいが…………ここにお前を入れたことがバレるだけでも俺は降格扱いになるよ」
佐々岡はそう言いながら、ドアの側で廊下の音に意識を向けていた。
「警視総監の孫が何言ってるのよ…………こんな地方県警の盗犯課なんかで昼行灯を楽しんでるくせに」
「それを言うなよ…………今回は公安調査庁まで動いてる団体だ。さすがにマズい」
そして杏奈はスマートフォンをポケットに入れると、改めて資料に目を落とす。
「うん……厄介かもね…………〝風光会〟か…………」
「かなざくらの古屋敷」
~ 第十二部「幻の舟」終 ~
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