55 / 97
第十五部「偽りの罪」第3話(第十五部最終話)
しおりを挟む
労咳。
現在でいう結核。
滝川御世がその診断を受けたのは一〇才の歳。
安政六年────一八五九年。
この時代の結核────労咳は不治の病だった。
雄滝神社を護る滝川家は遠戚にあたる藤原家に御世を預ける。
藤原家からは決して歓迎されていたわけではない。感染の危険性を考えると当然ではあったが、村一番の地主でもあった藤原家からすると、村の人間にすら秘密にせざるを得ない。労咳の患者を預かったことが知れたならば、何が起こるか分からない。何をされるか分からない。
同時に滝川家からは残り僅かの命だろうと聞かされていた為、早く死んで欲しいというのが本音だった。
治療の継続も無く、食事も粗末な物だけ。
それは御世の身の回りの世話をする為に滝川家が雇っていた使用人二人も同じ扱いだった。
藤原家側の使用人が感染する可能性を考え、御世の使用人が台所を使用出来るのは深夜だけ。お風呂も使わせてはもらえなかった為、深夜に台所で汲んできた水で体を拭くしかなかった。
御世の御付きの使用人は二人。
イト、一六才。
サエ、一五才。
元々は雄滝神社に使用人として入っていたが、病気の説明を受けた時点ですでに御世の身の回りの世話をしていた二人は断らなかった。もちろん病気が病気だけに断ることも許されていた。決してそこに強制は無い。
そして二人の覚悟の直後、それぞれの実家に大量のお金が贈られる。
やがて二人は御世と共に藤原家に移るが、それは最初の夜から始まった。
三人が置かれたのは小さな別邸。
家の人間及び藤原家の使用人に接することは許されなかった。
雨でも寒い夜でも、庭に面した障子を閉めることは禁止とされる。建物に労咳の菌が染み込むことを遅れたからだ。
いつの時代も、間違った知識は間違った行動を生む。
食事は日に二回。本邸の裏で鈴が鳴らされるとイトかサエが取りに行く。お世辞にも満足な食事ではなかった。僅かに葉野菜が入っただけのアワやヒエの雑炊のみ。しかも本邸の裏戸前の地面にお盆と共に置かれていた。
イトもサエも、その度にいつも悲しい気持ちになった。
御世は滝川家にいた時から二人に優しい子だった。幼いながらも大人びたところが多く、事あるごとに二人を気遣った。
二人は純粋に御世を助けてあげたかった。
御世に粗末な食事を差し出す前、必ず二人は自分達の僅かな具を御世のお椀に移し、少しでも栄養を取ってもらおうと必死だった。毎晩体を拭き、台所から汲んできた水で深夜に服を洗い、衛生にも気を付けた。
自分たちは二の次。
総ては御世の為。
その気持ちだけが二人を支えていた。
ある夜、いつもの粗末な食事の後、御世の咳に血が混じっていた。滝川家にいた時にも何度かはあったが、今回の血の量は以前よりも多い。
イトは本邸の裏に走った。
裏戸を叩きながら叫ぶ。
「お医者様を────お医者様をお願いします‼︎」
そこに聞こえたのは、中から当主の左衛門の声。
「こんな夜に何の用だ!」
決して戸の近くではない。少し離れた声。
イトは声を枯らした。
「お医者様をお願いします! 御世様が血を吐かれて────!」
「医者だと? どうせ死ぬのに医者なんか呼んでどうする」
──……………………え…………?
「放っておけ。そこまでしてやる義理はない」
自然と、涙が流れた。
なぜ藤原家が御世を迫害しているのか、その理由が明確に分かった。
──…………御世様が、殺される……………………
御世の元に戻り、イトは泣きながら血の付いた御世の寝巻きを着替える。サエも今にも泣き出しそうな顔で御世の口元の血を拭った。サエも耐えていた。決して弱音を吐こうとはしなかった。
まだ台所は使えない時間。昨日の夜に汲んでおいた水の残りを御世の口に含ませる。
御世はだいぶ落ち着いた様子になり、横になってか細く口を開く。
「……どうしたのですかイト…………大丈夫ですよ…………大丈夫です…………」
イトとサエには悔しさしかなかった。
そんな迫害される毎日を繰り返しながら、およそ一月余り。
いつものように鈴の音が聞こえた。
イトが本邸の裏まで弱々しい足取りで食事を取りに行くと、お盆を持ち上げ、その三つのお椀の中を見て驚いた。
数えられる程の小さな葉野菜が入っているだけ。
イトはすぐにお盆を地面に戻すと、反射的に裏戸を激しく叩いた。
「何か────野菜の屑でいいんです! 栄養を取らないと────!」
すると、その戸が激しく開いた。
中年の使用人の女がそこにいた。
鬼のような形相で女が叫ぶ。
「どうせ死ぬんだろ! 栄養なんか取ってどうすんだい!」
──…………どうして…………?
「どうせあんただって死ぬんじゃないか!」
女はイトの顔を蹴り付けた。
途端にイトは冷たい地面に叩き付けられる。
御世だけでなくイトも満足に食事を取ってはいない。抵抗するような力は無かった。
戸の閉まる音が大きく響く。
すでに、涙も出なかった。
御世は具のほとんど無い汁だけの食事にも文句を言わなかった。
御世もその変化に気が付いていないわけではない。しかしもっと気になることがあった。
「イト…………その顔の傷は……どうしたのですか…………」
イトが顔を伏せる。
か細い声で返す。
「……いえ…………大丈夫です…………」
栄養も水分も足りていなかった。
乾いた肌についた草履の跡はすぐには消えない。
少し考えたように間を開けた御世が続けた。
「…………このままでは…………いけませんね…………」
翌日。
降り注ぐ陽射しが暖かい。
部屋に流れる柔らかい風が心地よかった。
こんな時は御世の調子もいい。咳が少ないだけで体力の消耗も少ない。
イトとサエも安心出来る陽気だった。
イトが優しく御世の背中を摩る。
「サエ……そこの障子から……障子紙を切り取ってもらえませんか?」
御世のその言葉に、サエは不思議そうな顔をしながら返す。
「障子ですか? ……ええ……はい」
疑問を持ちながらもサエは格子になった障子戸の紙に爪を刺し入れ、四角く一枚を切り取って御世に手渡した。
御世は笑顔を見せながら受け取り、小さく口を開く。
「……退屈しのぎですよ…………」
御世は障子紙を小さくちぎり始めた。
それはやがて、六つの人の形へ。
御世はそれを畳に並べた。
小さい順に、左から六人分の人形。
その時、庭に迷い込んできたのは真っ赤な鞠。
そして、その鞠を追いかけてきた幼い姿。
鞠と共に迷い込んできた藤原家の末娘、イツヨだった。
鞠を手に取り、不思議そうに三人を見つめている。
それを見た御世は微笑んでいた。
そして、一番左…………一番小さな人形を手に取る。
それを、右手で握り潰す。
すると、三人の目の前でイツヨが倒れた。
「イツヨ様。こっちにきてはいけませんと…………」
それはイツヨを追いかけてきた藤原家の使用人の女。
そして、その声は悲鳴に変わる。
イツヨはすでにコト切れていた。
駆けつけた医者が下した死亡理由は労咳。有り得ない結果だった。労咳は少しずつ進行していく病気。突然発症して死に至る場合など、医者でも見たことがなかった。しかし症状は明らかに呼吸器系の疾患を表していた。
イトとサエは御世を恐れ、同時に崇めた。
それから三日後、まだイツヨの葬儀等で藤原家が騒がしい頃、朝方に長男の昭一が布団の中で冷たくなっているのが見付かる。
さらにその頃には、御世の顔色に生気が戻り始めていた。
そしてイトとサエもこの展開の意味を理解する。
御世は、間違いなく〝命を吸い取っていた〟────それがただの結果なのか、それとも御世が望んだことなのかは分からないまま。
それでもそれは、確実に、御世による藤原家への復讐。
しかし御世はそれまで決して藤原家への不満を口にすることはなかった。自分の死を覚悟していたのだろう。生きることに対して諦めがあった。
それでもイトとサエが差別を受けることだけは許せなかった。まるでそれまで積み重ねられた何かに取り憑かれたように復讐を続ける。
続けて次期当主である左平太の妻、カヨ。
そして左平太と左衛門の妻、スミの人形を御世が握り潰した夜。
イトはその御世の右手を見ながら立ち上がった。
「御世様…………最後は私が…………」
イトは本邸に走っていた。
──……御世様に罪は着せない…………
本邸は悲鳴と怒号が飛び交う。
そこに、日本刀を持った左衛門。
イトは何も恐れていなかった。
──…………御世様の為…………
日本刀を挟んで揉み合う。
力の強い大人。
イトは総ての力を向けていたが、体力は栄養不足で極限まで削がれていた。
その時、左衛門の足が力を失う。
御世が最後の人形を握り潰していた。
イトは左衛門から奪った刀を闇雲に振り下ろす。
やがて自分の血塗れの胸に、その刀を突き刺した。
御世は数少ない自分の荷物から、藤原家に来る時に滝川家から預かっていたお金の入った小さな巾着を取り出す。
それをサエに渡して口を開いた。
「これを持って御実家に戻りなさい…………このお金があれば籠屋も使えるはずです」
しかしサエは無言で御世を立たせ、その腕を自分の肩に乗せると、そのまま藤原家を飛び出していた。
籠屋を探し、辿り着くと、御世を籠に乗せてその手を握った。
「……お元気で…………」
そのサエの涙に、御世は微笑んだ。
「あなたも…………必ずですよ…………」
☆
長い時間だった。
西沙は未だ萌江と手を繋いだまま、立ち尽くし、項垂れていた。
咲恵は視線を落としたまま膝を落とすが、すがるように萌江の手を離さない。
萌江は二人の間で未だ意識を集中させたまま。
急に強くなった風が、全員の間に流れる。
総てが見えた。
惨劇と、そこに至るまでの事実。それは三人にとってはリアルそのもの。モニターの映像とは違う。
しばらくの静寂の後、最初に口を開いたのは萌江だった。
「……どうしてって疑問は…………もういらないね」
続くのは咲恵。
「…………呼ばれたの…………?」
誰も想像していなかった〝御世〟の存在。
清国会とは縁の無い土地で、まるで呼ばれたかのように四人は御世の過去に触れた。そこに何らかの意味を感じないほうが不自然だろう。
呟きのような咲恵の声に返したのは萌江。
「落ち着いて……この歴史は清国会とは関係ない…………でも、御世が私たちに自分の過去を見せたのは事実…………これには必ず意味がある…………」
やがて聞こえてきたのは、早江の声だった。
雑草だらけの地面に両膝を着き、大粒の涙を流していた。
「…………ちがう…………ちがう…………イトさんは悪くない…………」
その声は、もはや五〇代の声ではなかった。
幼い。
その姿に、萌江は思った。
──……御世に寄り添う…………
萌江は腰を下げ、早江の目の前で柔らかい表情を向けた。
そして話しかける。
「……迫害を受けてたのね…………イトさんが悪者になってるのが許せなかったの?」
過去と繋げてくれたのは、間違いなく早江だった。
そして、今全員の目の前にいるのは霊能力者の早江ではない。
その〝サエ〟が口を開く。
「…………イトさんは……私たちを守ってくれた…………あの家が御世様を虐めたから────!」
その時、サエの震えた体を抱きしめたのは、西沙だった。
その西沙の声が空気に溶ける。
そしてその声は、西沙の声ではない。
「〝……もういいよ…………辛い思いをさせて……ごめんね…………サエ…………〟」
気が付いた時、すでにその早江の姿は無かった。
まるで幻のように消える。
時が止まったような静寂。
西沙が視線を落として肩を震わす。
ただただ、涙が零れた。
西沙は自分の中に御世の存在を感じていた。
やがて、萌江が膝を着いたままの西沙の肩に手を置いた。
柔らかい萌江の声。
「西沙…………あなたの中には……御世がいる…………多分それは咲恵よりも強い…………大事にして」
そう言った萌江は呆然と立ち尽くす杏奈に顔を向ける。
「ホテル帰ろっか。説明するよ。記事をまとめなきゃね」
その柔らかい表情に、杏奈の張り詰めた緊張感が和らいだ。
能力の無い杏奈に過去の光景が見えていたわけではない。しかし、なぜか誰かの強い感情だけが流れ込んでいた。そしてそれは、あまりにも重い。
訳がわからないままに、杏奈の目からも涙が流れた。
風が止まる。
☆
誰もが無口だった。
ホテルに着くまで、部屋に入っても誰も口を開かない。
全員がベッドに腰を降ろす中、萌江は冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを四本取り出し、一人一人に手渡した。
そしてスマートフォンが鳴る。
満田だった。沈んだ空気のホテルの部屋に、その満田の声が響く。
『富士芝帝都建設から富士芝建設に名前が変わったのは一九六三年。焼け野原になった村の土地開発をした後だな。この時点で行政との癒着があったかどうかは分からないが、談合騒ぎを疑われたのは九〇年代のアスベスト訴訟を受けての再開発計画の後だ。しかも疑いが出たのは改修や建替えが終わってからの二〇〇〇年。会社は二〇〇三年に潰れてる』
「もう無いの⁉︎」
『そういうこと。残念ながら取材は出来ない。問題はなぜか談合のニュースはあまり報道されていないってことだ。小さな新聞記事にしかなってないよ。なんらかの報道規制があったと考えるほうが自然だろうな。しかもかなり杜撰な工事をしてた会社みたいだぞ。噂はかなりあるし、何よりかなりのお金が行政に流れてる』
「さすが、みっちゃんにお金のウソは通用しないねえ」
『お前さんの貯蓄以外はな。数少ないけどその時のニュース記事をデータで送るよ』
戦後、最初の区画整理に沿う形で工事を請け負ったのが富士芝帝都建設。
必要とされたものはスピードだった。家を建て売りとするために次から次へと家が建てられていった。そこの裏にあったのは談合と杜撰な工事。すでにその頃から会社は行政との深い癒着があったと言われている。
決して綺麗な時代ではない。綺麗事だけで生きていける世の中ではなかった。
工期を間に合わせるために安価な材料を使い、会社を維持させるために行政に賄賂を送り続け、利益に繋げるための仕事を増やす。
幾多の会社も、多くの人々も、まだ生きることに精一杯だった。
しかも、当時の建築業界でアスベストに問題があると考えていた所はない。むしろ安価で便利な材料という認識を誰もが信じていた。どんな会社にも悪意はない。それは富士芝建設も同じだった。
やがてアスベスト訴訟が全国でニュースを賑わし始めた。
何十年にも渡る裁判の中で、多くの組織が作られ、消えていく。
そして藤原町では行政と富士芝建設が敗訴する。
賠償が始まり、各住宅の改修工事、建替えが進んでいった。
それにはいくつかの建築会社が選ばれたが、その中に賠償をしているはずの富士芝建設の名前があった。そこに行政との癒着があったことは疑いようがなかったが、それはなぜか報道されない。
そして、富士芝建設が請け負ったエリアで、アスベストとは違う健康被害が騒がれ始めた。
調査の結果は〝シックハウス症候群〟。
密閉性の高い現代の住宅に於いて、安価な資材や塗料を使用することによる健康被害。
そして談合と杜撰な工事のニュースが再び持ち上がるが、それは小さな記事だけ。
多くの住民が飛びついたのは、小さなニュースよりオカルトブーム。
掘り起こされた過去の惨劇の話とアスベスト訴訟への疲弊の中で、ほとんどの人々がまともな判断能力を失っていた。
「アスベストで苦しんで…………せっかく勝ったと思ったら今度はシックハウスか…………」
その萌江の言葉を咲恵が拾う。
「地方だけじゃないけど、行政と企業の癒着で公共事業が進んで…………嫌な歴史ってやっぱり存在するのね…………」
「歴史には表と裏がある…………何が正しいとか間違ってるとか、そんな単純なものじゃないよ…………当時の人たちは、今の私たちとは違う形かもしれないけど生きることに必死だったはず…………」
「でも…………結局、御世が私たちを呼んだ理由は何? この町の歴史を見せただけ? 今さら偶然でもないだろうし…………」
そこに西沙。
「違うよ…………イトとサエのため……二人を悪者にしたくなかった…………三人ともまだ苦しんでたんだよ…………例え萌江が99.9%幽霊を信じてなくても、私は御世の想いを受け継ぎたい」
そこにあるのは、さっきまでの力の無い目ではない。
少し瞼を腫らした、それでも力強い西沙の目。
その言葉が続く。
「御世は間違いなくここにいた……偶然では片付けられない…………御世の感情も、まだここにある…………」
萌江はミネラルウォーターのペットボトルの蓋を開け、多目に喉に水を流し込んだ。
そして口を開く。
「早江さんの存在だけをとってみてもね……西沙の言うことを受け入れるしかないみたいだ…………」
少し間を空け、ゆっくりと続ける。
「やっぱり…………不思議なことってあるんじゃないかな…………今回だって幽霊の話があるくらいだしさ。そのくらいのほうが面白いしね」
「珍しいじゃない。幽霊騒ぎは早江さんが見せてたのかもしれないよ」
そう言って笑顔を浮かべるのは咲恵だった。
萌江もいつの間にか笑みを浮かべて応える。
「かもね……でも早江さんは幻だとは思いたくないな……もしかしたら、使用人だったサエさんの血を受け継いだ人がいるのかもしれない……どんな人生だったんだろうね…………」
萌江は何かを含んだような、寂しげな表情を浮かべた。
少しだけ、咲恵を経由して見えていた過去がある。それでも今回の件に直接関係があるものではない。それはまた別の話だろうと萌江は思っていた。そして今となっては、早江の存在が実在していたのかすらも分からない。
萌江が声のトーンを上げて続けた。
「まあ後は杏奈ちゃんの腕の見せ所だよ」
振られた杏奈が萌江に顔を向ける。
そして清々しい表情の杏奈が応えた。
「ま、難しいけどやりますよ。満田さんの情報もありますし…………呪いの真実もまとめなきゃ」
それに萌江は笑顔で返す。
「御世のことは出さなくてもまとめられるよね…………でも、イトさんとサエさんを助けてあげられるのは…………杏奈ちゃんの記事だけだよ。二人を悪者になんかしない…………」
一ヶ月後、記事の発表と共に町民が行政を相手に訴訟を起こす。
そして、裁判が続いた。
その年の町議会にて。
翌年から、戦没者慰霊碑での慰霊祭が再開されることが決まる。
「かなざくらの古屋敷」
~ 第十五部「偽りの罪」終 ~
現在でいう結核。
滝川御世がその診断を受けたのは一〇才の歳。
安政六年────一八五九年。
この時代の結核────労咳は不治の病だった。
雄滝神社を護る滝川家は遠戚にあたる藤原家に御世を預ける。
藤原家からは決して歓迎されていたわけではない。感染の危険性を考えると当然ではあったが、村一番の地主でもあった藤原家からすると、村の人間にすら秘密にせざるを得ない。労咳の患者を預かったことが知れたならば、何が起こるか分からない。何をされるか分からない。
同時に滝川家からは残り僅かの命だろうと聞かされていた為、早く死んで欲しいというのが本音だった。
治療の継続も無く、食事も粗末な物だけ。
それは御世の身の回りの世話をする為に滝川家が雇っていた使用人二人も同じ扱いだった。
藤原家側の使用人が感染する可能性を考え、御世の使用人が台所を使用出来るのは深夜だけ。お風呂も使わせてはもらえなかった為、深夜に台所で汲んできた水で体を拭くしかなかった。
御世の御付きの使用人は二人。
イト、一六才。
サエ、一五才。
元々は雄滝神社に使用人として入っていたが、病気の説明を受けた時点ですでに御世の身の回りの世話をしていた二人は断らなかった。もちろん病気が病気だけに断ることも許されていた。決してそこに強制は無い。
そして二人の覚悟の直後、それぞれの実家に大量のお金が贈られる。
やがて二人は御世と共に藤原家に移るが、それは最初の夜から始まった。
三人が置かれたのは小さな別邸。
家の人間及び藤原家の使用人に接することは許されなかった。
雨でも寒い夜でも、庭に面した障子を閉めることは禁止とされる。建物に労咳の菌が染み込むことを遅れたからだ。
いつの時代も、間違った知識は間違った行動を生む。
食事は日に二回。本邸の裏で鈴が鳴らされるとイトかサエが取りに行く。お世辞にも満足な食事ではなかった。僅かに葉野菜が入っただけのアワやヒエの雑炊のみ。しかも本邸の裏戸前の地面にお盆と共に置かれていた。
イトもサエも、その度にいつも悲しい気持ちになった。
御世は滝川家にいた時から二人に優しい子だった。幼いながらも大人びたところが多く、事あるごとに二人を気遣った。
二人は純粋に御世を助けてあげたかった。
御世に粗末な食事を差し出す前、必ず二人は自分達の僅かな具を御世のお椀に移し、少しでも栄養を取ってもらおうと必死だった。毎晩体を拭き、台所から汲んできた水で深夜に服を洗い、衛生にも気を付けた。
自分たちは二の次。
総ては御世の為。
その気持ちだけが二人を支えていた。
ある夜、いつもの粗末な食事の後、御世の咳に血が混じっていた。滝川家にいた時にも何度かはあったが、今回の血の量は以前よりも多い。
イトは本邸の裏に走った。
裏戸を叩きながら叫ぶ。
「お医者様を────お医者様をお願いします‼︎」
そこに聞こえたのは、中から当主の左衛門の声。
「こんな夜に何の用だ!」
決して戸の近くではない。少し離れた声。
イトは声を枯らした。
「お医者様をお願いします! 御世様が血を吐かれて────!」
「医者だと? どうせ死ぬのに医者なんか呼んでどうする」
──……………………え…………?
「放っておけ。そこまでしてやる義理はない」
自然と、涙が流れた。
なぜ藤原家が御世を迫害しているのか、その理由が明確に分かった。
──…………御世様が、殺される……………………
御世の元に戻り、イトは泣きながら血の付いた御世の寝巻きを着替える。サエも今にも泣き出しそうな顔で御世の口元の血を拭った。サエも耐えていた。決して弱音を吐こうとはしなかった。
まだ台所は使えない時間。昨日の夜に汲んでおいた水の残りを御世の口に含ませる。
御世はだいぶ落ち着いた様子になり、横になってか細く口を開く。
「……どうしたのですかイト…………大丈夫ですよ…………大丈夫です…………」
イトとサエには悔しさしかなかった。
そんな迫害される毎日を繰り返しながら、およそ一月余り。
いつものように鈴の音が聞こえた。
イトが本邸の裏まで弱々しい足取りで食事を取りに行くと、お盆を持ち上げ、その三つのお椀の中を見て驚いた。
数えられる程の小さな葉野菜が入っているだけ。
イトはすぐにお盆を地面に戻すと、反射的に裏戸を激しく叩いた。
「何か────野菜の屑でいいんです! 栄養を取らないと────!」
すると、その戸が激しく開いた。
中年の使用人の女がそこにいた。
鬼のような形相で女が叫ぶ。
「どうせ死ぬんだろ! 栄養なんか取ってどうすんだい!」
──…………どうして…………?
「どうせあんただって死ぬんじゃないか!」
女はイトの顔を蹴り付けた。
途端にイトは冷たい地面に叩き付けられる。
御世だけでなくイトも満足に食事を取ってはいない。抵抗するような力は無かった。
戸の閉まる音が大きく響く。
すでに、涙も出なかった。
御世は具のほとんど無い汁だけの食事にも文句を言わなかった。
御世もその変化に気が付いていないわけではない。しかしもっと気になることがあった。
「イト…………その顔の傷は……どうしたのですか…………」
イトが顔を伏せる。
か細い声で返す。
「……いえ…………大丈夫です…………」
栄養も水分も足りていなかった。
乾いた肌についた草履の跡はすぐには消えない。
少し考えたように間を開けた御世が続けた。
「…………このままでは…………いけませんね…………」
翌日。
降り注ぐ陽射しが暖かい。
部屋に流れる柔らかい風が心地よかった。
こんな時は御世の調子もいい。咳が少ないだけで体力の消耗も少ない。
イトとサエも安心出来る陽気だった。
イトが優しく御世の背中を摩る。
「サエ……そこの障子から……障子紙を切り取ってもらえませんか?」
御世のその言葉に、サエは不思議そうな顔をしながら返す。
「障子ですか? ……ええ……はい」
疑問を持ちながらもサエは格子になった障子戸の紙に爪を刺し入れ、四角く一枚を切り取って御世に手渡した。
御世は笑顔を見せながら受け取り、小さく口を開く。
「……退屈しのぎですよ…………」
御世は障子紙を小さくちぎり始めた。
それはやがて、六つの人の形へ。
御世はそれを畳に並べた。
小さい順に、左から六人分の人形。
その時、庭に迷い込んできたのは真っ赤な鞠。
そして、その鞠を追いかけてきた幼い姿。
鞠と共に迷い込んできた藤原家の末娘、イツヨだった。
鞠を手に取り、不思議そうに三人を見つめている。
それを見た御世は微笑んでいた。
そして、一番左…………一番小さな人形を手に取る。
それを、右手で握り潰す。
すると、三人の目の前でイツヨが倒れた。
「イツヨ様。こっちにきてはいけませんと…………」
それはイツヨを追いかけてきた藤原家の使用人の女。
そして、その声は悲鳴に変わる。
イツヨはすでにコト切れていた。
駆けつけた医者が下した死亡理由は労咳。有り得ない結果だった。労咳は少しずつ進行していく病気。突然発症して死に至る場合など、医者でも見たことがなかった。しかし症状は明らかに呼吸器系の疾患を表していた。
イトとサエは御世を恐れ、同時に崇めた。
それから三日後、まだイツヨの葬儀等で藤原家が騒がしい頃、朝方に長男の昭一が布団の中で冷たくなっているのが見付かる。
さらにその頃には、御世の顔色に生気が戻り始めていた。
そしてイトとサエもこの展開の意味を理解する。
御世は、間違いなく〝命を吸い取っていた〟────それがただの結果なのか、それとも御世が望んだことなのかは分からないまま。
それでもそれは、確実に、御世による藤原家への復讐。
しかし御世はそれまで決して藤原家への不満を口にすることはなかった。自分の死を覚悟していたのだろう。生きることに対して諦めがあった。
それでもイトとサエが差別を受けることだけは許せなかった。まるでそれまで積み重ねられた何かに取り憑かれたように復讐を続ける。
続けて次期当主である左平太の妻、カヨ。
そして左平太と左衛門の妻、スミの人形を御世が握り潰した夜。
イトはその御世の右手を見ながら立ち上がった。
「御世様…………最後は私が…………」
イトは本邸に走っていた。
──……御世様に罪は着せない…………
本邸は悲鳴と怒号が飛び交う。
そこに、日本刀を持った左衛門。
イトは何も恐れていなかった。
──…………御世様の為…………
日本刀を挟んで揉み合う。
力の強い大人。
イトは総ての力を向けていたが、体力は栄養不足で極限まで削がれていた。
その時、左衛門の足が力を失う。
御世が最後の人形を握り潰していた。
イトは左衛門から奪った刀を闇雲に振り下ろす。
やがて自分の血塗れの胸に、その刀を突き刺した。
御世は数少ない自分の荷物から、藤原家に来る時に滝川家から預かっていたお金の入った小さな巾着を取り出す。
それをサエに渡して口を開いた。
「これを持って御実家に戻りなさい…………このお金があれば籠屋も使えるはずです」
しかしサエは無言で御世を立たせ、その腕を自分の肩に乗せると、そのまま藤原家を飛び出していた。
籠屋を探し、辿り着くと、御世を籠に乗せてその手を握った。
「……お元気で…………」
そのサエの涙に、御世は微笑んだ。
「あなたも…………必ずですよ…………」
☆
長い時間だった。
西沙は未だ萌江と手を繋いだまま、立ち尽くし、項垂れていた。
咲恵は視線を落としたまま膝を落とすが、すがるように萌江の手を離さない。
萌江は二人の間で未だ意識を集中させたまま。
急に強くなった風が、全員の間に流れる。
総てが見えた。
惨劇と、そこに至るまでの事実。それは三人にとってはリアルそのもの。モニターの映像とは違う。
しばらくの静寂の後、最初に口を開いたのは萌江だった。
「……どうしてって疑問は…………もういらないね」
続くのは咲恵。
「…………呼ばれたの…………?」
誰も想像していなかった〝御世〟の存在。
清国会とは縁の無い土地で、まるで呼ばれたかのように四人は御世の過去に触れた。そこに何らかの意味を感じないほうが不自然だろう。
呟きのような咲恵の声に返したのは萌江。
「落ち着いて……この歴史は清国会とは関係ない…………でも、御世が私たちに自分の過去を見せたのは事実…………これには必ず意味がある…………」
やがて聞こえてきたのは、早江の声だった。
雑草だらけの地面に両膝を着き、大粒の涙を流していた。
「…………ちがう…………ちがう…………イトさんは悪くない…………」
その声は、もはや五〇代の声ではなかった。
幼い。
その姿に、萌江は思った。
──……御世に寄り添う…………
萌江は腰を下げ、早江の目の前で柔らかい表情を向けた。
そして話しかける。
「……迫害を受けてたのね…………イトさんが悪者になってるのが許せなかったの?」
過去と繋げてくれたのは、間違いなく早江だった。
そして、今全員の目の前にいるのは霊能力者の早江ではない。
その〝サエ〟が口を開く。
「…………イトさんは……私たちを守ってくれた…………あの家が御世様を虐めたから────!」
その時、サエの震えた体を抱きしめたのは、西沙だった。
その西沙の声が空気に溶ける。
そしてその声は、西沙の声ではない。
「〝……もういいよ…………辛い思いをさせて……ごめんね…………サエ…………〟」
気が付いた時、すでにその早江の姿は無かった。
まるで幻のように消える。
時が止まったような静寂。
西沙が視線を落として肩を震わす。
ただただ、涙が零れた。
西沙は自分の中に御世の存在を感じていた。
やがて、萌江が膝を着いたままの西沙の肩に手を置いた。
柔らかい萌江の声。
「西沙…………あなたの中には……御世がいる…………多分それは咲恵よりも強い…………大事にして」
そう言った萌江は呆然と立ち尽くす杏奈に顔を向ける。
「ホテル帰ろっか。説明するよ。記事をまとめなきゃね」
その柔らかい表情に、杏奈の張り詰めた緊張感が和らいだ。
能力の無い杏奈に過去の光景が見えていたわけではない。しかし、なぜか誰かの強い感情だけが流れ込んでいた。そしてそれは、あまりにも重い。
訳がわからないままに、杏奈の目からも涙が流れた。
風が止まる。
☆
誰もが無口だった。
ホテルに着くまで、部屋に入っても誰も口を開かない。
全員がベッドに腰を降ろす中、萌江は冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを四本取り出し、一人一人に手渡した。
そしてスマートフォンが鳴る。
満田だった。沈んだ空気のホテルの部屋に、その満田の声が響く。
『富士芝帝都建設から富士芝建設に名前が変わったのは一九六三年。焼け野原になった村の土地開発をした後だな。この時点で行政との癒着があったかどうかは分からないが、談合騒ぎを疑われたのは九〇年代のアスベスト訴訟を受けての再開発計画の後だ。しかも疑いが出たのは改修や建替えが終わってからの二〇〇〇年。会社は二〇〇三年に潰れてる』
「もう無いの⁉︎」
『そういうこと。残念ながら取材は出来ない。問題はなぜか談合のニュースはあまり報道されていないってことだ。小さな新聞記事にしかなってないよ。なんらかの報道規制があったと考えるほうが自然だろうな。しかもかなり杜撰な工事をしてた会社みたいだぞ。噂はかなりあるし、何よりかなりのお金が行政に流れてる』
「さすが、みっちゃんにお金のウソは通用しないねえ」
『お前さんの貯蓄以外はな。数少ないけどその時のニュース記事をデータで送るよ』
戦後、最初の区画整理に沿う形で工事を請け負ったのが富士芝帝都建設。
必要とされたものはスピードだった。家を建て売りとするために次から次へと家が建てられていった。そこの裏にあったのは談合と杜撰な工事。すでにその頃から会社は行政との深い癒着があったと言われている。
決して綺麗な時代ではない。綺麗事だけで生きていける世の中ではなかった。
工期を間に合わせるために安価な材料を使い、会社を維持させるために行政に賄賂を送り続け、利益に繋げるための仕事を増やす。
幾多の会社も、多くの人々も、まだ生きることに精一杯だった。
しかも、当時の建築業界でアスベストに問題があると考えていた所はない。むしろ安価で便利な材料という認識を誰もが信じていた。どんな会社にも悪意はない。それは富士芝建設も同じだった。
やがてアスベスト訴訟が全国でニュースを賑わし始めた。
何十年にも渡る裁判の中で、多くの組織が作られ、消えていく。
そして藤原町では行政と富士芝建設が敗訴する。
賠償が始まり、各住宅の改修工事、建替えが進んでいった。
それにはいくつかの建築会社が選ばれたが、その中に賠償をしているはずの富士芝建設の名前があった。そこに行政との癒着があったことは疑いようがなかったが、それはなぜか報道されない。
そして、富士芝建設が請け負ったエリアで、アスベストとは違う健康被害が騒がれ始めた。
調査の結果は〝シックハウス症候群〟。
密閉性の高い現代の住宅に於いて、安価な資材や塗料を使用することによる健康被害。
そして談合と杜撰な工事のニュースが再び持ち上がるが、それは小さな記事だけ。
多くの住民が飛びついたのは、小さなニュースよりオカルトブーム。
掘り起こされた過去の惨劇の話とアスベスト訴訟への疲弊の中で、ほとんどの人々がまともな判断能力を失っていた。
「アスベストで苦しんで…………せっかく勝ったと思ったら今度はシックハウスか…………」
その萌江の言葉を咲恵が拾う。
「地方だけじゃないけど、行政と企業の癒着で公共事業が進んで…………嫌な歴史ってやっぱり存在するのね…………」
「歴史には表と裏がある…………何が正しいとか間違ってるとか、そんな単純なものじゃないよ…………当時の人たちは、今の私たちとは違う形かもしれないけど生きることに必死だったはず…………」
「でも…………結局、御世が私たちを呼んだ理由は何? この町の歴史を見せただけ? 今さら偶然でもないだろうし…………」
そこに西沙。
「違うよ…………イトとサエのため……二人を悪者にしたくなかった…………三人ともまだ苦しんでたんだよ…………例え萌江が99.9%幽霊を信じてなくても、私は御世の想いを受け継ぎたい」
そこにあるのは、さっきまでの力の無い目ではない。
少し瞼を腫らした、それでも力強い西沙の目。
その言葉が続く。
「御世は間違いなくここにいた……偶然では片付けられない…………御世の感情も、まだここにある…………」
萌江はミネラルウォーターのペットボトルの蓋を開け、多目に喉に水を流し込んだ。
そして口を開く。
「早江さんの存在だけをとってみてもね……西沙の言うことを受け入れるしかないみたいだ…………」
少し間を空け、ゆっくりと続ける。
「やっぱり…………不思議なことってあるんじゃないかな…………今回だって幽霊の話があるくらいだしさ。そのくらいのほうが面白いしね」
「珍しいじゃない。幽霊騒ぎは早江さんが見せてたのかもしれないよ」
そう言って笑顔を浮かべるのは咲恵だった。
萌江もいつの間にか笑みを浮かべて応える。
「かもね……でも早江さんは幻だとは思いたくないな……もしかしたら、使用人だったサエさんの血を受け継いだ人がいるのかもしれない……どんな人生だったんだろうね…………」
萌江は何かを含んだような、寂しげな表情を浮かべた。
少しだけ、咲恵を経由して見えていた過去がある。それでも今回の件に直接関係があるものではない。それはまた別の話だろうと萌江は思っていた。そして今となっては、早江の存在が実在していたのかすらも分からない。
萌江が声のトーンを上げて続けた。
「まあ後は杏奈ちゃんの腕の見せ所だよ」
振られた杏奈が萌江に顔を向ける。
そして清々しい表情の杏奈が応えた。
「ま、難しいけどやりますよ。満田さんの情報もありますし…………呪いの真実もまとめなきゃ」
それに萌江は笑顔で返す。
「御世のことは出さなくてもまとめられるよね…………でも、イトさんとサエさんを助けてあげられるのは…………杏奈ちゃんの記事だけだよ。二人を悪者になんかしない…………」
一ヶ月後、記事の発表と共に町民が行政を相手に訴訟を起こす。
そして、裁判が続いた。
その年の町議会にて。
翌年から、戦没者慰霊碑での慰霊祭が再開されることが決まる。
「かなざくらの古屋敷」
~ 第十五部「偽りの罪」終 ~
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
2
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる