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第十六部「丑の刻の森」第1話
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念の籠る場所
念の籠る物
念の籠る時
☆
室町の時代。
明応九年────一五〇〇年。
水乃蛇神社。
そこは歴史のある神社だったが、土着信仰を司る所ではない。
神道に携わる人々の修行の場として、山奥に作られた。
時代の為か決して全国からという訳ではないが、遠くからでも多くの人々が訪れた。
修行場所は本殿の裏山にある洞窟。
深い森の中にある、深い洞窟。
山も、その洞窟も、神聖な場所とされた。
神社そのものを護るのは藪沖家。
神社の本殿の板間はいつも修行の人々の宿となっていた。
その夜は五人ほど。
連日の早朝から深夜までの修行に、全員が僅かな食事の後ですぐに寝床に着いた。
静かな夜だった。
昼間からの霧雨も夜更けには止み、山の土も落ち着く。
宙に浮く風に、どんな僅かな音も遠くへ届くだろう。
小さな音だった。
土────。
濡れた土を掠る、その音。
その音が届いた先には、藪沖家の当主、氏撫水。
寝室で、氏撫水は目を覚ました。
初めは音であることすら気が付かないまま、その気配に神経を側立てる。
やがて上半身を起こすが、浴衣と布団が擦れる音ですら隠せるくらいの小さな気配が、一瞬だけ緩む。
しかし、それは気のせいではないようだ。
その音は参道の辺り。
本殿を抜けると眠りについている修行の人々を起こしかねない。
そう思い、裏口から建物を周り、本殿の正面である参道へ。参道と言っても人の足が作り出した轍のようなものがあるだけ。そして、決してこの神社は誰かが参拝に訪れるような場所ではない。
そこに。
黒い影。
黒い靄。
黒い煙。
そのどれとも形容し難い〝者〟が、そこにいた。
そしてそれは、まるで大きな蛇の如く宙に塒を巻く。
禍々しい。
しかし恐怖心は無い。
筒のようになったそれは、遥か上から氏撫水を見下ろして言った。
〝洞窟の奥〟
〝水晶の原石がある〟
〝火の玉と水の玉〟
〝地の中にある〟
〝探せ〟
〝負の念を清めろ〟
〝雄滝湖の一番深い所へ〟
そして、氏撫水はそれから二月の間、洞窟の最も深い所で穴を掘り続けた。
何十尺もの広さ、深さになるまで掘り続けた。
やがて見付けた物は小さな水晶の原石が二つ。
氏撫水は、三月の間、磨き続けた。
現れた物は、僅かに黒味がかった水晶と、見たことも無いような透明な水晶。
氏撫水はそれから更に二月、雄滝湖を探して歩いた。
やがて見付けた湖に、漁師の物であろうか、小さな木舟を見付けて湖の中心を目指した。
そこに二つの水晶を沈める。
何かが起こる訳ではない。
〝畏敬の者〟に言われるがままに、それを行っただけ。
ただ取り憑かれたように行っただけ。
氏撫水は水乃蛇神社に帰ると、それを文献として残した。
それは神社の奥深くで、長く、眠り続ける。
☆
弁財天神社。
弁財天とは七福神の紅一点として知られる神。元々はインドのヒンドゥー教の女神でもある。
そしてそこは、清国会の中心になる拠点の一つ。
〝弁才天〟と書かれることのほうが多い。福の神というよりは、元々は水の女神であり、戦いの女神としての側面も持つ。
そしてこの神社の裏山には、古くから丑の刻参りの噂があった。
更にこの神社にいるのは女だけ。
現在の当主は美水。他には娘の妃水、妃水の娘の音水。
この日は美水が五五才の誕生日を迎える前日。
五五才になると、この神社で遥か昔から続いてきた〝仕来たり〟を執り行うことになっていた。
夜。
夕食後。
一人だけ白湯だけで夕食を済ませた美水に、娘の妃水が言葉を向ける。
「…………母上…………今夜にございます…………」
今夜の食事の席では、それまで、誰もが口を開かなかった。
やっと部屋の空気に溶け込んだ妃水の声に、妃水の娘の音水は神経を尖らせた。
そこに柔らかく漂うような美水の言葉。
「……左様でございますか…………しかと、お願い致しますよ…………」
その、総てを受け入れたかのような美水の表情に、音水は唇を噛み締めるだけ。
そして深夜、日付が変わる。
神社の中はどこも静まり返っていた。
外に僅かに風の音。
森の木々の葉が擦れる。
月明かりが障子紙を擦り抜け、寝室で仰向けに目を閉じる美水の顔を照らした。
その枕元に、妃水が静かに腰を降ろす。
美水が眠っているのか起きているのか、分からなかった。
横には竹で作られた水桶。その中には薄く水が張られ、ゆるりと大きくうねりを続ける。
妃水はその水に、半紙を一枚だけ浸した。そしてしばらく、水に吸い込まれていく半紙を眺めていた。
何かを考えているわけではない。
むしろ、何も考えたくはなかった。
自分で何かを考える必要などなかった。
〝仕来たり〟に則るだけ。
やがて妃水は、水の中の半紙の角二つを両手の指で摘むと、ゆっくりと持ち上げた。纏わりつく水が桶の中へと落ちていく。
そのまましばらく。
水滴が落ちなくなるまで。
──…………これで…………最後です…………母上………………
そして、その半紙を素早く、美水の顔に被せる。
直後、布団の上に覆い被さるようにして美水の両腕を抑えた。
直後、激しく布団の中が蠢く。
持ち上げられそうになる自分の体を、妃水は布団に押し付け続けた。
やがて、布団から鼓動が消える。
何も聞こえない。
妃水は冷たくなっていく美水の体を肩で支え、裏山を登った。力無く土の上を擦る美水の足が何度も草に絡まった。
自らで体重を支えることの出来ない体は想像以上に重い。やがて妃水は体力と腕力に限界を感じ、美水の体を肩から降ろすが、すでに死後硬直が始まっているのか関節が固まりつつある。
妃水は強引に美水の両手を掴むと、力任せに引きずる。
地面の凹凸、雑草、周囲の木々、その総てが妃水の力を邪魔していった。
いつの間にか身体中がぬるぬると汗に濡れる。
夜の風が冷たい季節。
そんなことすら忘れるほどの体の熱が体力を奪っていく。
周囲の木々には、夥しい数の藁人形。
その多くは古く、辛うじて形を保っているものが殆ど。
その総てから強い念を感じた。
周りから〝負〟の視線を感じる。
何かが迫ってくるかのように存在感が増していた。
妃水の周囲に渦巻く。
それでもその圧力が、感覚を失いそうになる筋肉を刺激する。
やがて到着したのは洞窟の入り口。周囲が石で固められ、入り口の板で作られた小さな屋根の下には松明の燭台。
数時間前。妃水は洞窟内に転々と配置された蝋燭に火を灯していた。すでに消えかけた蝋燭もある中、妃水は美水の体を引きずり続ける。
洞窟の中も平坦ではない。下り、登る。
狭く、天井はしだいに低くなる。
やっと辿り着いた奥には大きな穴。
そこに美水の体を落とす。
もはや妃水は、思考することを忘れた。
ただ、体が動いた。
そして妃水は外から繰り返し土を運び続けた。スコップでバケツに土を入れ、およそ二〇回。それだけでも一時間以上。
最後に外の松明に火を灯すと、その煙は外だけでなく、洞窟の中にも吸い込まれていく。
いつの間にか、身に付けていた巫女服は掠れ、破れ、土だらけ。
しかしその疲労は、罪悪感を達成感に変えていった。
──…………これで…………最後……………………
しかしその達成感はすぐに消える。
不思議な感覚だった。
その込み上げる感覚が何なのか、妃水には分からないまま。
弁財天神社には〝仕来たり〟があった。
夫は総て婿養子。
女の子が産まれたら、その直後に婿養子を妻が殺す。もし男の子が産まれても、母が殺すことになっていた。
そして、やがて母が五五才になる時には、娘が母を殺さなければならない。
その遺体の総ては、裏山の洞窟に埋められた。
それは遥か昔から続けられてきた〝仕来たり〟。
☆
早朝からの雨は、強さを変えないままに続いていた。
杏奈が車で山の中の萌江の家に戻った時はまだ昼前。
その頃にはやっと雨も止んでいた。
杏奈が朝に駅まで西沙を送ってトンボ帰り。
西沙は美由紀の埋葬場所を探し続けていた。今までも何回かお寺や霊園、墓園を尋ね、今日は駅まで立坂が迎えに来るという。これまでもこういうことは何度かあった。いつも西沙は一人で探しに行っていた。今回のように立坂が付き合うことがあれば、杏奈のこともある。
「お疲れさま」
車から降りた杏奈に咲恵が駆け寄って声をかける。
「今日は立坂さんが迎えに来るんだよね」
そう続けた咲恵に、杏奈もすぐに返した。
「そうみたいですよ。すぐに来るっていうんで帰ってきちゃいましたけど」
すると、咲恵の背後から聞こえたのは家庭菜園にしゃがむ萌江の声。
「ゴスロリで霊園巡りなんて西沙くらいだろうねえ」
「そうねえ……でも、もしかしたら…………」
そう返した咲恵が萌江に振り返って続けた。
「西沙ちゃんにとっては喪服みたいな物なのかもよ」
「派手な喪服だなあ」
「いいじゃない。西沙ちゃんにも拘りがあるのよ」
そして咲恵は縁側に向かって歩きながら続ける。
「コーヒー入れるね。杏奈ちゃんはまだ仕事でしょ?」
その後ろ姿に着きながら杏奈が応えた。
「そうですね…………取材がまだなんで構成段階ですけど」
「そうなの? 取材はいつ?」
咲恵は返しながら縁側からリビングへ。
杏奈も縁側に登りながら返した。
「近い内に行こうとは思うんですけど……あっちはどうするんですか?」
「そうよねえ」
咲恵はそう返しながらコーヒーメーカーに粉を入れて続ける。
「西沙ちゃんも杏奈ちゃんも忙しいし……暇なのは私と萌江だけよねえ」
咲恵の送った視線の先には家庭菜園でキュウリを眺めている萌江。
萌江は決して焦る素振りを見せない。咲恵も疑問を持たずにそれを受け入れる。萌江の考えには必ず理由があると思っていた。
清国会の動きが見えない。
諦めるはずがない。次の動きを必ず準備しているはず。
それでも事の中心にいる萌江は静かなまま。咲恵は様子を見ながらも従う。西沙も咲恵と同じスタンスなのか、無理に急ごうともしなくなっていた。
総てに理由がある。タイミングにも意味があると誰もが思った。
咲恵がコーヒーメーカーのスイッチを入れると、杏奈がソファーの一つへ座り、テーブルの上のラップトップに手を伸ばした。膝の上で開くと、咲恵に向けて口を開く。
「今回の記事……まだ急ぎじゃないんで余裕はありますよ」
「そうなの?」
マグカップを三つ並べながらそう言った咲恵が、ソファーに移りながら続けた。
「今回のネタは?」
すると杏奈は口角を僅かに上げて応える。
「……丑の刻参りです」
「へー」
咲恵はそう言いながら身を乗り出すようにラップトップを覗き込んだ。
杏奈が続ける。
「今でも実際に丑の刻参りをする人たちがいるってことと…………不思議とそれを行う場所って限られてるらしいんですよ」
「でも一般的にはその瞬間を見られちゃいけないって言われてるんでしょ? しかも誰かに話してもいけないのに…………どうして情報が流れてるの?」
「そういう決まりって、割と最近になって誰かが勝手に広めたものみたいですよ。神社の参拝の決まりと同じようなものなんじゃないですか。誰かが〝それらしい嘘〟を〝それっぽく〟広げていくんですよ。まるで昔からの〝仕来たり〟だったみたいなことにして…………」
「インターネットの弊害よね」
「降霊術だって、ほとんどはただのオカルト好きが面白がって作ったものでしかないのに、真剣に信じてる人もいますからね」
そこに、縁側から萌江の声。
萌江は縁側に座って背中を向けながら。
「昔…………神社ってコミュニティーの中心だったんだよね。今より村単位の小さなコミュニティーが点在してたわけでしょ。朝に誰かがいつものように参拝に行くとさ…………社の横の木に名前の書いた藁人形が打ち付けられてるわけよ。そうすると、その村中にどこの家の誰が呪われてるって噂が立つ…………本人も落ち着かない…………誰かが自分に呪いをかけた…………そう思って生活するって…………」
萌江は擦り寄ってきた猫を撫でながら続ける。
「キツかっただろうね…………本来は無関係なはずのトラブルもついつい呪いに繋げていってさ…………」
聞いていた杏奈が呟いた。
「……それが、呪いの実態…………?」
「呪いは人の念が作り出す幻…………本当に人間が人間を呪い殺せるなら…………この世界に物理的な争いなんて必要なくなるよ…………」
すると、咲恵が立ち上がりながら返す。
「正論よね」
そしてコーヒーメーカーまで歩くと、マグカップにコーヒーを注いだ。それをテーブルに運びながら続ける。
「でも場所が限られてるってのも変な話よね…………人気の場所って言うのもおかしいけど、なぜかわざわざそこに行って丑の刻参りをするわけでしょ?」
コーヒーの香りが広がる。
それに誘われるように猫を抱いた萌江が縁側からリビングに上がり、ソファーに移って返していく。
「それもネットの弊害だよ。ネットの使い方は人それぞれだからね」
萌江が咲恵の隣に座ると、猫がすぐに咲恵の膝の上に移る。
萌江はマグカップを持ち上げながら続けた。
「ある意味、確かに変だけどさ……どこも有名じゃダメなんだろうけど有名になってるわけだし。杏奈ちゃんのことだから押さえてる所はあるんでしょ?」
すると、ニヤリとした笑みを浮かべた杏奈がマグカップを手に応える。
「……もちろんです。一番有名なのは…………弁財天神社…………」
「弁才天? 全国にあるわよ」
返したのは咲恵だった。
「ここなんですけどね」
そう返した杏奈はラップトップを回して二人に地図を見せながら続ける。
「ここは画数の多いほうの〝財〟の字を使う弁財天なんですけどね…………ここはかなり有名みたいです」
地図を見る萌江と咲恵の表情が変わる。
先に口を開いたのは咲恵だった。
「ここ…………次に行こうとしてた所だね…………」
驚いた杏奈が声を上げる。
「そうだったんですか⁉︎ じゃあ清国会絡みじゃないですか」
「うん…………資料に載ってた神社だから間違いないわね。昨日、西沙ちゃんとも話してたんだけど…………結構興味持ってたし…………」
「面白いことになりましたね。一石二鳥じゃないですか」
そう言って満面の笑みを浮かべる杏奈に、返すのは萌江。
「そう? 私は昨日の西沙の様子が気になったけど…………」
その萌江の言葉に、途端に杏奈の表情が曇る。
続けるのは萌江。
「やけに行きたがってた感じがする…………」
すると声を落とした杏奈。
「どっか焦りのようなものがあるとか────」
咲恵が遮る。
「あれは違うと思うよ」
咲恵も何かを感じていた。その咲恵が続ける。
「……何か感じてるみたいだね…………それが何かは分からないけど…………」
少し間を開けて、その言葉を拾うのは萌江。
「明日行く? 取材も込みでさ」
☆
しかしその夜、暗くなっても西沙は戻らなかった。
すでに二〇時を回る。割とマメな性格の西沙が連絡をしないことは珍しい。
一九時を過ぎたくらいで三人に不安が過ぎり始めるが、西沙も子供ではない。しかも自分の身を自分で守れる強さもある。その点に関しては心配していなかったが、やはり三人は昨日の様子が気になった。
萌江と咲恵が台所で夕食の準備をする中、杏奈が電話をするが、出ない。
二回、三回と出ることがないまま返信もないと、途端に杏奈の不安が膨れ上がった。
立坂に電話をするが驚かれるだけ。
『あれ? 今日は西沙さんには会ってませんよ』
「ええ⁉︎」
杏奈の声がリビングに響く。
杏奈は電話を切って立ち上がった。
「おかしいですよ」
そう言って台所に足を進めながら杏奈が続ける。
「もう八時ですよ。何回電話しても返信もないし、立坂さんも今日は会ってないって言ってるし────って、あれ? 今夜はおにぎりですか?」
三角のおにぎりに海苔を巻く咲恵を見て杏奈が不思議そうな顔をすると、咲恵がすかさず返した。
「お弁当。ちゃんとおかずもあるからね。飲み物は途中のコンビニでいいよね」
「途中って、え? お花見の季節は終わりましたけど…………」
すると、萌江は咲恵の隣でバスケットにおかずを詰めている。
その萌江が返した。
「神社の場所とルートは大丈夫だよね。もう出るよ。西沙もそこに向かってる」
そしてやっと杏奈が理解した。
思わず声を上げる。
「気付いてたなら────」
「ごめん……少し前まで私も気が付かなかった…………私に気付かれないように意識操作してたみたい…………バカなことして…………」
すると咲恵がそれを拾う。
「珍しいね…………こんな勝手なことする子じゃないのに…………」
そして、僅かに震える杏奈の声。
「一人で…………弁財天神社に…………?」
それに返すのは萌江。卵焼きにプラスチックのピックを刺しながら。
その目が鋭くなった。
「思ったより…………大きな展開になるかもね…………行ける?」
すると、唇を噛み締めた杏奈。
「…………いつでも」
☆
暗闇に隠れるように、西沙は階段を登り続けていた。
狭く、急な階段だった。
しだいに足全体に疲労を感じていく。石の階段は足の裏への緩和にはなり得ない。容赦無くその硬さが体の芯に響いた。
左右の森は暗く、影となり、風に揺れた。
真っ暗な夜空すらも蠢いているかのようだ。
動物の声すら聞こえない。
西沙の耳に届くのは、風と、森のざわめき。
冷たい風が体を冷やしていく。
ここまで、山の中を歩いてきた。決して短い距離ではない。人が歩くための道でもない。整地されていない土と草が足の負担を容赦無く増していく暗い山。
やっと辿り着いた石の階段は上が見えない高さまで続いていた。
階段を登ってから、どれだけの時間が経っているのだろう。
もはや西沙は気持ちだけで膝を上げていた。
いつものゴスロリの服もあちこちが擦り切れ、破れ、全体的に土埃を被ったようにくすむ。
──……あのままには…………しておけない………………
そして、最上段。
大きな鳥居が出迎えた。
その先、少しだけ開けた場所に、その神社はあった。
黒い森に囲まれ、暗い衣を纏った西沙のその佇まいは、決して大きくはないにも関わらず、存在そのものが重い。
強い風が西沙に吹き付けた。
疲れて擦り切れた西沙の体が、その空間に溶けていく。
ゆっくりと、一歩ずつ西沙は足を進めた。
本殿の正面は開いたまま。そこから見えるのは、闇だけ。
そして、急に空気がざわめく。
そのざわめきが、やがていくつもの足音に変わったかと思うと、途端に西沙の周りには一〇人ほどの巫女の姿。
反射的に足を止めた西沙は、左右に円になるように並ぶ巫女に意識を集中しながら、鋭い目を配った。
いずれも顔を伏せ、その顔は夜の闇の中で窺いしれない。
そして、聞こえるのは、本殿からの声。
「……来たか…………」
そこにも一人の巫女の姿。
「……私はここを護る者…………妃水だ…………待っていたぞ…………御世…………」
その妃水に鋭い視線を送りながらも、西沙は直後に口元だけに笑みを浮かべていた。
そして、その口が開く。
「…………御世…………だと…………私は…………京子だ…………」
「かなざくらの古屋敷」
~ 第十六部「丑の刻の森」第2話へつづく ~
念の籠る物
念の籠る時
☆
室町の時代。
明応九年────一五〇〇年。
水乃蛇神社。
そこは歴史のある神社だったが、土着信仰を司る所ではない。
神道に携わる人々の修行の場として、山奥に作られた。
時代の為か決して全国からという訳ではないが、遠くからでも多くの人々が訪れた。
修行場所は本殿の裏山にある洞窟。
深い森の中にある、深い洞窟。
山も、その洞窟も、神聖な場所とされた。
神社そのものを護るのは藪沖家。
神社の本殿の板間はいつも修行の人々の宿となっていた。
その夜は五人ほど。
連日の早朝から深夜までの修行に、全員が僅かな食事の後ですぐに寝床に着いた。
静かな夜だった。
昼間からの霧雨も夜更けには止み、山の土も落ち着く。
宙に浮く風に、どんな僅かな音も遠くへ届くだろう。
小さな音だった。
土────。
濡れた土を掠る、その音。
その音が届いた先には、藪沖家の当主、氏撫水。
寝室で、氏撫水は目を覚ました。
初めは音であることすら気が付かないまま、その気配に神経を側立てる。
やがて上半身を起こすが、浴衣と布団が擦れる音ですら隠せるくらいの小さな気配が、一瞬だけ緩む。
しかし、それは気のせいではないようだ。
その音は参道の辺り。
本殿を抜けると眠りについている修行の人々を起こしかねない。
そう思い、裏口から建物を周り、本殿の正面である参道へ。参道と言っても人の足が作り出した轍のようなものがあるだけ。そして、決してこの神社は誰かが参拝に訪れるような場所ではない。
そこに。
黒い影。
黒い靄。
黒い煙。
そのどれとも形容し難い〝者〟が、そこにいた。
そしてそれは、まるで大きな蛇の如く宙に塒を巻く。
禍々しい。
しかし恐怖心は無い。
筒のようになったそれは、遥か上から氏撫水を見下ろして言った。
〝洞窟の奥〟
〝水晶の原石がある〟
〝火の玉と水の玉〟
〝地の中にある〟
〝探せ〟
〝負の念を清めろ〟
〝雄滝湖の一番深い所へ〟
そして、氏撫水はそれから二月の間、洞窟の最も深い所で穴を掘り続けた。
何十尺もの広さ、深さになるまで掘り続けた。
やがて見付けた物は小さな水晶の原石が二つ。
氏撫水は、三月の間、磨き続けた。
現れた物は、僅かに黒味がかった水晶と、見たことも無いような透明な水晶。
氏撫水はそれから更に二月、雄滝湖を探して歩いた。
やがて見付けた湖に、漁師の物であろうか、小さな木舟を見付けて湖の中心を目指した。
そこに二つの水晶を沈める。
何かが起こる訳ではない。
〝畏敬の者〟に言われるがままに、それを行っただけ。
ただ取り憑かれたように行っただけ。
氏撫水は水乃蛇神社に帰ると、それを文献として残した。
それは神社の奥深くで、長く、眠り続ける。
☆
弁財天神社。
弁財天とは七福神の紅一点として知られる神。元々はインドのヒンドゥー教の女神でもある。
そしてそこは、清国会の中心になる拠点の一つ。
〝弁才天〟と書かれることのほうが多い。福の神というよりは、元々は水の女神であり、戦いの女神としての側面も持つ。
そしてこの神社の裏山には、古くから丑の刻参りの噂があった。
更にこの神社にいるのは女だけ。
現在の当主は美水。他には娘の妃水、妃水の娘の音水。
この日は美水が五五才の誕生日を迎える前日。
五五才になると、この神社で遥か昔から続いてきた〝仕来たり〟を執り行うことになっていた。
夜。
夕食後。
一人だけ白湯だけで夕食を済ませた美水に、娘の妃水が言葉を向ける。
「…………母上…………今夜にございます…………」
今夜の食事の席では、それまで、誰もが口を開かなかった。
やっと部屋の空気に溶け込んだ妃水の声に、妃水の娘の音水は神経を尖らせた。
そこに柔らかく漂うような美水の言葉。
「……左様でございますか…………しかと、お願い致しますよ…………」
その、総てを受け入れたかのような美水の表情に、音水は唇を噛み締めるだけ。
そして深夜、日付が変わる。
神社の中はどこも静まり返っていた。
外に僅かに風の音。
森の木々の葉が擦れる。
月明かりが障子紙を擦り抜け、寝室で仰向けに目を閉じる美水の顔を照らした。
その枕元に、妃水が静かに腰を降ろす。
美水が眠っているのか起きているのか、分からなかった。
横には竹で作られた水桶。その中には薄く水が張られ、ゆるりと大きくうねりを続ける。
妃水はその水に、半紙を一枚だけ浸した。そしてしばらく、水に吸い込まれていく半紙を眺めていた。
何かを考えているわけではない。
むしろ、何も考えたくはなかった。
自分で何かを考える必要などなかった。
〝仕来たり〟に則るだけ。
やがて妃水は、水の中の半紙の角二つを両手の指で摘むと、ゆっくりと持ち上げた。纏わりつく水が桶の中へと落ちていく。
そのまましばらく。
水滴が落ちなくなるまで。
──…………これで…………最後です…………母上………………
そして、その半紙を素早く、美水の顔に被せる。
直後、布団の上に覆い被さるようにして美水の両腕を抑えた。
直後、激しく布団の中が蠢く。
持ち上げられそうになる自分の体を、妃水は布団に押し付け続けた。
やがて、布団から鼓動が消える。
何も聞こえない。
妃水は冷たくなっていく美水の体を肩で支え、裏山を登った。力無く土の上を擦る美水の足が何度も草に絡まった。
自らで体重を支えることの出来ない体は想像以上に重い。やがて妃水は体力と腕力に限界を感じ、美水の体を肩から降ろすが、すでに死後硬直が始まっているのか関節が固まりつつある。
妃水は強引に美水の両手を掴むと、力任せに引きずる。
地面の凹凸、雑草、周囲の木々、その総てが妃水の力を邪魔していった。
いつの間にか身体中がぬるぬると汗に濡れる。
夜の風が冷たい季節。
そんなことすら忘れるほどの体の熱が体力を奪っていく。
周囲の木々には、夥しい数の藁人形。
その多くは古く、辛うじて形を保っているものが殆ど。
その総てから強い念を感じた。
周りから〝負〟の視線を感じる。
何かが迫ってくるかのように存在感が増していた。
妃水の周囲に渦巻く。
それでもその圧力が、感覚を失いそうになる筋肉を刺激する。
やがて到着したのは洞窟の入り口。周囲が石で固められ、入り口の板で作られた小さな屋根の下には松明の燭台。
数時間前。妃水は洞窟内に転々と配置された蝋燭に火を灯していた。すでに消えかけた蝋燭もある中、妃水は美水の体を引きずり続ける。
洞窟の中も平坦ではない。下り、登る。
狭く、天井はしだいに低くなる。
やっと辿り着いた奥には大きな穴。
そこに美水の体を落とす。
もはや妃水は、思考することを忘れた。
ただ、体が動いた。
そして妃水は外から繰り返し土を運び続けた。スコップでバケツに土を入れ、およそ二〇回。それだけでも一時間以上。
最後に外の松明に火を灯すと、その煙は外だけでなく、洞窟の中にも吸い込まれていく。
いつの間にか、身に付けていた巫女服は掠れ、破れ、土だらけ。
しかしその疲労は、罪悪感を達成感に変えていった。
──…………これで…………最後……………………
しかしその達成感はすぐに消える。
不思議な感覚だった。
その込み上げる感覚が何なのか、妃水には分からないまま。
弁財天神社には〝仕来たり〟があった。
夫は総て婿養子。
女の子が産まれたら、その直後に婿養子を妻が殺す。もし男の子が産まれても、母が殺すことになっていた。
そして、やがて母が五五才になる時には、娘が母を殺さなければならない。
その遺体の総ては、裏山の洞窟に埋められた。
それは遥か昔から続けられてきた〝仕来たり〟。
☆
早朝からの雨は、強さを変えないままに続いていた。
杏奈が車で山の中の萌江の家に戻った時はまだ昼前。
その頃にはやっと雨も止んでいた。
杏奈が朝に駅まで西沙を送ってトンボ帰り。
西沙は美由紀の埋葬場所を探し続けていた。今までも何回かお寺や霊園、墓園を尋ね、今日は駅まで立坂が迎えに来るという。これまでもこういうことは何度かあった。いつも西沙は一人で探しに行っていた。今回のように立坂が付き合うことがあれば、杏奈のこともある。
「お疲れさま」
車から降りた杏奈に咲恵が駆け寄って声をかける。
「今日は立坂さんが迎えに来るんだよね」
そう続けた咲恵に、杏奈もすぐに返した。
「そうみたいですよ。すぐに来るっていうんで帰ってきちゃいましたけど」
すると、咲恵の背後から聞こえたのは家庭菜園にしゃがむ萌江の声。
「ゴスロリで霊園巡りなんて西沙くらいだろうねえ」
「そうねえ……でも、もしかしたら…………」
そう返した咲恵が萌江に振り返って続けた。
「西沙ちゃんにとっては喪服みたいな物なのかもよ」
「派手な喪服だなあ」
「いいじゃない。西沙ちゃんにも拘りがあるのよ」
そして咲恵は縁側に向かって歩きながら続ける。
「コーヒー入れるね。杏奈ちゃんはまだ仕事でしょ?」
その後ろ姿に着きながら杏奈が応えた。
「そうですね…………取材がまだなんで構成段階ですけど」
「そうなの? 取材はいつ?」
咲恵は返しながら縁側からリビングへ。
杏奈も縁側に登りながら返した。
「近い内に行こうとは思うんですけど……あっちはどうするんですか?」
「そうよねえ」
咲恵はそう返しながらコーヒーメーカーに粉を入れて続ける。
「西沙ちゃんも杏奈ちゃんも忙しいし……暇なのは私と萌江だけよねえ」
咲恵の送った視線の先には家庭菜園でキュウリを眺めている萌江。
萌江は決して焦る素振りを見せない。咲恵も疑問を持たずにそれを受け入れる。萌江の考えには必ず理由があると思っていた。
清国会の動きが見えない。
諦めるはずがない。次の動きを必ず準備しているはず。
それでも事の中心にいる萌江は静かなまま。咲恵は様子を見ながらも従う。西沙も咲恵と同じスタンスなのか、無理に急ごうともしなくなっていた。
総てに理由がある。タイミングにも意味があると誰もが思った。
咲恵がコーヒーメーカーのスイッチを入れると、杏奈がソファーの一つへ座り、テーブルの上のラップトップに手を伸ばした。膝の上で開くと、咲恵に向けて口を開く。
「今回の記事……まだ急ぎじゃないんで余裕はありますよ」
「そうなの?」
マグカップを三つ並べながらそう言った咲恵が、ソファーに移りながら続けた。
「今回のネタは?」
すると杏奈は口角を僅かに上げて応える。
「……丑の刻参りです」
「へー」
咲恵はそう言いながら身を乗り出すようにラップトップを覗き込んだ。
杏奈が続ける。
「今でも実際に丑の刻参りをする人たちがいるってことと…………不思議とそれを行う場所って限られてるらしいんですよ」
「でも一般的にはその瞬間を見られちゃいけないって言われてるんでしょ? しかも誰かに話してもいけないのに…………どうして情報が流れてるの?」
「そういう決まりって、割と最近になって誰かが勝手に広めたものみたいですよ。神社の参拝の決まりと同じようなものなんじゃないですか。誰かが〝それらしい嘘〟を〝それっぽく〟広げていくんですよ。まるで昔からの〝仕来たり〟だったみたいなことにして…………」
「インターネットの弊害よね」
「降霊術だって、ほとんどはただのオカルト好きが面白がって作ったものでしかないのに、真剣に信じてる人もいますからね」
そこに、縁側から萌江の声。
萌江は縁側に座って背中を向けながら。
「昔…………神社ってコミュニティーの中心だったんだよね。今より村単位の小さなコミュニティーが点在してたわけでしょ。朝に誰かがいつものように参拝に行くとさ…………社の横の木に名前の書いた藁人形が打ち付けられてるわけよ。そうすると、その村中にどこの家の誰が呪われてるって噂が立つ…………本人も落ち着かない…………誰かが自分に呪いをかけた…………そう思って生活するって…………」
萌江は擦り寄ってきた猫を撫でながら続ける。
「キツかっただろうね…………本来は無関係なはずのトラブルもついつい呪いに繋げていってさ…………」
聞いていた杏奈が呟いた。
「……それが、呪いの実態…………?」
「呪いは人の念が作り出す幻…………本当に人間が人間を呪い殺せるなら…………この世界に物理的な争いなんて必要なくなるよ…………」
すると、咲恵が立ち上がりながら返す。
「正論よね」
そしてコーヒーメーカーまで歩くと、マグカップにコーヒーを注いだ。それをテーブルに運びながら続ける。
「でも場所が限られてるってのも変な話よね…………人気の場所って言うのもおかしいけど、なぜかわざわざそこに行って丑の刻参りをするわけでしょ?」
コーヒーの香りが広がる。
それに誘われるように猫を抱いた萌江が縁側からリビングに上がり、ソファーに移って返していく。
「それもネットの弊害だよ。ネットの使い方は人それぞれだからね」
萌江が咲恵の隣に座ると、猫がすぐに咲恵の膝の上に移る。
萌江はマグカップを持ち上げながら続けた。
「ある意味、確かに変だけどさ……どこも有名じゃダメなんだろうけど有名になってるわけだし。杏奈ちゃんのことだから押さえてる所はあるんでしょ?」
すると、ニヤリとした笑みを浮かべた杏奈がマグカップを手に応える。
「……もちろんです。一番有名なのは…………弁財天神社…………」
「弁才天? 全国にあるわよ」
返したのは咲恵だった。
「ここなんですけどね」
そう返した杏奈はラップトップを回して二人に地図を見せながら続ける。
「ここは画数の多いほうの〝財〟の字を使う弁財天なんですけどね…………ここはかなり有名みたいです」
地図を見る萌江と咲恵の表情が変わる。
先に口を開いたのは咲恵だった。
「ここ…………次に行こうとしてた所だね…………」
驚いた杏奈が声を上げる。
「そうだったんですか⁉︎ じゃあ清国会絡みじゃないですか」
「うん…………資料に載ってた神社だから間違いないわね。昨日、西沙ちゃんとも話してたんだけど…………結構興味持ってたし…………」
「面白いことになりましたね。一石二鳥じゃないですか」
そう言って満面の笑みを浮かべる杏奈に、返すのは萌江。
「そう? 私は昨日の西沙の様子が気になったけど…………」
その萌江の言葉に、途端に杏奈の表情が曇る。
続けるのは萌江。
「やけに行きたがってた感じがする…………」
すると声を落とした杏奈。
「どっか焦りのようなものがあるとか────」
咲恵が遮る。
「あれは違うと思うよ」
咲恵も何かを感じていた。その咲恵が続ける。
「……何か感じてるみたいだね…………それが何かは分からないけど…………」
少し間を開けて、その言葉を拾うのは萌江。
「明日行く? 取材も込みでさ」
☆
しかしその夜、暗くなっても西沙は戻らなかった。
すでに二〇時を回る。割とマメな性格の西沙が連絡をしないことは珍しい。
一九時を過ぎたくらいで三人に不安が過ぎり始めるが、西沙も子供ではない。しかも自分の身を自分で守れる強さもある。その点に関しては心配していなかったが、やはり三人は昨日の様子が気になった。
萌江と咲恵が台所で夕食の準備をする中、杏奈が電話をするが、出ない。
二回、三回と出ることがないまま返信もないと、途端に杏奈の不安が膨れ上がった。
立坂に電話をするが驚かれるだけ。
『あれ? 今日は西沙さんには会ってませんよ』
「ええ⁉︎」
杏奈の声がリビングに響く。
杏奈は電話を切って立ち上がった。
「おかしいですよ」
そう言って台所に足を進めながら杏奈が続ける。
「もう八時ですよ。何回電話しても返信もないし、立坂さんも今日は会ってないって言ってるし────って、あれ? 今夜はおにぎりですか?」
三角のおにぎりに海苔を巻く咲恵を見て杏奈が不思議そうな顔をすると、咲恵がすかさず返した。
「お弁当。ちゃんとおかずもあるからね。飲み物は途中のコンビニでいいよね」
「途中って、え? お花見の季節は終わりましたけど…………」
すると、萌江は咲恵の隣でバスケットにおかずを詰めている。
その萌江が返した。
「神社の場所とルートは大丈夫だよね。もう出るよ。西沙もそこに向かってる」
そしてやっと杏奈が理解した。
思わず声を上げる。
「気付いてたなら────」
「ごめん……少し前まで私も気が付かなかった…………私に気付かれないように意識操作してたみたい…………バカなことして…………」
すると咲恵がそれを拾う。
「珍しいね…………こんな勝手なことする子じゃないのに…………」
そして、僅かに震える杏奈の声。
「一人で…………弁財天神社に…………?」
それに返すのは萌江。卵焼きにプラスチックのピックを刺しながら。
その目が鋭くなった。
「思ったより…………大きな展開になるかもね…………行ける?」
すると、唇を噛み締めた杏奈。
「…………いつでも」
☆
暗闇に隠れるように、西沙は階段を登り続けていた。
狭く、急な階段だった。
しだいに足全体に疲労を感じていく。石の階段は足の裏への緩和にはなり得ない。容赦無くその硬さが体の芯に響いた。
左右の森は暗く、影となり、風に揺れた。
真っ暗な夜空すらも蠢いているかのようだ。
動物の声すら聞こえない。
西沙の耳に届くのは、風と、森のざわめき。
冷たい風が体を冷やしていく。
ここまで、山の中を歩いてきた。決して短い距離ではない。人が歩くための道でもない。整地されていない土と草が足の負担を容赦無く増していく暗い山。
やっと辿り着いた石の階段は上が見えない高さまで続いていた。
階段を登ってから、どれだけの時間が経っているのだろう。
もはや西沙は気持ちだけで膝を上げていた。
いつものゴスロリの服もあちこちが擦り切れ、破れ、全体的に土埃を被ったようにくすむ。
──……あのままには…………しておけない………………
そして、最上段。
大きな鳥居が出迎えた。
その先、少しだけ開けた場所に、その神社はあった。
黒い森に囲まれ、暗い衣を纏った西沙のその佇まいは、決して大きくはないにも関わらず、存在そのものが重い。
強い風が西沙に吹き付けた。
疲れて擦り切れた西沙の体が、その空間に溶けていく。
ゆっくりと、一歩ずつ西沙は足を進めた。
本殿の正面は開いたまま。そこから見えるのは、闇だけ。
そして、急に空気がざわめく。
そのざわめきが、やがていくつもの足音に変わったかと思うと、途端に西沙の周りには一〇人ほどの巫女の姿。
反射的に足を止めた西沙は、左右に円になるように並ぶ巫女に意識を集中しながら、鋭い目を配った。
いずれも顔を伏せ、その顔は夜の闇の中で窺いしれない。
そして、聞こえるのは、本殿からの声。
「……来たか…………」
そこにも一人の巫女の姿。
「……私はここを護る者…………妃水だ…………待っていたぞ…………御世…………」
その妃水に鋭い視線を送りながらも、西沙は直後に口元だけに笑みを浮かべていた。
そして、その口が開く。
「…………御世…………だと…………私は…………京子だ…………」
「かなざくらの古屋敷」
~ 第十六部「丑の刻の森」第2話へつづく ~
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