かなざくらの古屋敷

中岡いち

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第二十部「深淵の海」第2話

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 〝かえで〟がこの世の者でないことは、しずくにもすでに分かっていた。
 自分にしか見えない存在────それが特殊な存在であることは高校生にもなれば分かること。最初にそれを意識したのは中学に入学したばかりの頃だったと記憶している。それは明確にいつからということではないが、自分が周りの人間とは違うことを認識してからだった。
 かえでしずくの前に姿を表すのは決して毎日ということではない。時間もそれぞれ違う。朝に顔を見せることもあれば夜のこともある。
 しずくと同じように成長するのか、かえでも今では幼い姿ではなかった。しずくより少しだけお姉さんの印象で、いつもしずくが困っている時に現れては助けてくれる。当然のように怖い存在などではない。
 むしろかえでが現れる時には〝暖かさ〟を感じた。

 〝温もり〟を感じていた。

 しかしそれは、あくまでしずくにとっての感覚でしかない。しずくの身の回りの世話をしていた真美まみにとっては〝恐怖〟そのもの。
 さらにしずくの年齢が上がるのに合わせるように、その〝黒い影〟が現れる頻度も上がっていた。しかもしずくにその存在を恐れる様子は無いまま。会話をしていることも多い。そんな光景を真美まみは何度も目撃していた。
 時にはしずくの背後に寄り添うようにいることもあれば、夜に寝ているしずくの布団の横に立っていることもある。
 何年にも渡って真美まみはその光景の〝異常さ〟に耐え続けた。
 決して慣れることがないまま、いつの間にか真美まみは精神を擦り減らしていく。
 感じるものは〝気持ち悪さ〟だけ。
 その存在の影に怯える日々。
 真美まみの現在の仕事はしずくが高校を卒業するまで。あと少し。そうしたら晴れて勝利かつとしめかけとして昇進出来る。しかしこの頃の真美まみにはそんなことを考えられる余裕は無くなっていた。
 精神的に追い詰められていた。もちろん自分自身ではそれに気が付くはずもない。

 そのまま真美まみが最初に頼ったのは、しずくの母────ともえだった。
「どんな話かと思えば…………」
 真美まみの話を聞いたともえは一笑に伏した。ともえの好みでもある薄い色使いの着物が、口元に手を添えようとしてそでを揺らす。ともえは微かに笑い声混じりで目を細めた。
 そして続ける。
「私も聞いたことはありますが……イマジナリーフレンドというものでしょうね。あなたの考え過ぎです」
 しかし真美まみも食い下がった。
「────いえ、私は見ています…………真っ黒い影が────」
「そんな非科学的な話なんて」
 ともえはそう言いながら立ち上がっていた。
 もはや真美まみに反論の余地は無い。

 ──……心配じゃないの? 自分の娘なのに…………

 しかし、経験した人間でなければ信じられることでもない。それでも真美まみにそう考える思考はすでになかった。ただ誰かに聞いてほしいというだけでもない。

 ──…………助けて………………

 しずくを救いたかった。
 もはや、しずくを救えるのは自分だけだと思えた。

 やがて真美まみが頼ったのはとある神社。
 まだインターネットが今ほど広がっている時代ではない。その神社に辿り着くまではそれなりの時間がかかった。

 御陵院ごりょういん神社────。

 そこは〝きもの〟専門の神社。
 とはいえ、真美まみのようにいわゆる飛び込みで訪れる者は少ない。ほとんどは他の神社からの紹介で業務が回っていた。
「代表を務めさせていただいております…………御陵院咲ごりょういんさきと申します」
 祭壇の前で、そう言ってさきは深々と頭を下げた。さきはまだ御陵院ごりょういん神社を継いだばかり。
 真美まみは自分のような見窄みすぼらしい人間に対しても敬意を払ってもらえたことが嬉しかった。それが神道しんとうたずさわる者の人に対する常識。決して見た目だけで優劣ゆうれつをつけるようなことはしない。
 しかしもちろん真美まみはそんなことは知らない。
 その真美まみも反射的に大きく頭を下げていた。
 そして真美まみが話し始める。今までの〝恐怖〟と〝不安〟がせきを切ったように溢れ出していた。
 やがて、話を聞き終えたさき真美まみに背を向け、祭壇に体を向けた。
 そして口を開く。
「……私にも娘がおります…………貴女あなた様の実の娘のように想うお気持ちは真摯しんしに値するもの…………その〝黒い影〟が何者か……見極めさせていただきます…………」
 さき祈祷きとうが始まった。

 ──……これは…………なんだ………………

 見えない。
 しずくのことは直接会わなくても見えていた。しかしその横にいる〝存在〟は、さきの力を持ってしても見えない。さきにとっても初めての感覚だった。
「…………どうやら…………」
 さき真美まみに背中を向けたまま続ける。
「……何者かに……抑え込まれているのやもしれません…………」
 すぐに真美まみの声が背中から覆い被さった。
「……誰ですか⁉︎ 誰がしずく様に────⁉︎」
「…………見えません……」
 そのさきの返答に、僅かな間を開けて真美まみの小さな声。
「……そんな…………」
「お恥ずかしながら……今は見えません…………」
 嘘はつけない。さきは背中で事実を説明するしかなかった。
 そして続ける。
「見えたことをお話しします…………」
 そのさきの言葉に真美まみは身構えた。
 その真美まみに体を向けたさきの言葉が続く。
「……やりようによっては、一時的にはらうことは出来るかもしれません…………しかし、恐らくはそのお嬢様が生きておられる内は解決することは難しいかと…………」
「……それは…………」
「このままでは、その〝御家おいえ〟の問題にも発展し兼ねません…………」

 ──…………どうして…………私は旦那様のめかけにならなければいけないのに………………

 ──……私は……大見坂おおみざか家にとって必要な存在になるはずなのに………………

「……野放しにも出来ません…………」
 そう続けたさきの低い声が、なおも真美まみの耳に響き続ける。
「…………もっと深く見なければ…………何度か足を運んでいただくことになりますよ…………よろしいですね…………」
 さき真美まみに鋭い目を向けた。
 しかし真美まみは膝の向こうにある床板を見つめるだけ。

 ──…………野放しになど………………

 しかし、真美まみが再び御陵院ごりょういん神社を訪れることはなかった。

 その夜。
 深夜になった頃。
 まだ日付は変わっていない頃。
 真美まみ大見坂おおみざか家の広い台所にいた。台所と言っても、その規模は厨房ちゅうぼうと呼んでも差し支えない物だ。プロの料理人も何人か雇われている。そんな大きな屋敷だった。
 とはいえ、そこからこっそりと持ち出せる〝刃物〟はたかが知れている。
 一般家邸の台所とはそもそも勝手が違う。どこに何があるのかなど真美まみに分かるはずもない。さらには誰でも入れる分、包丁の管理は厳重だった。最後に外の鍵を閉めれば済む〝店舗〟とは違う。
 真美まみは小さな懐中電灯を片手にいくつもの引き出しを開けていた。
 やがて見付けたのは小さな〝果物ナイフ〟だけ。
 さやに包まれたそれを見付けると、真美まみ鼓動こどうが高鳴った。

 ──……わたしは……大見坂おおみざか家を守る………………
 
 ──……間違ってないよね…………お母さん…………

 屋敷内での使用人の制服は薄手の着物と前掛け。外に出る時に必要に応じて洋服に着替えることもあるが、基本的には変わらない。
 真美まみはその着物の袖口そでぐちに果物ナイフを忍ばせると、廊下の気配を探った。
 そこだけではなかった。
 屋敷全体が静まり返っている。
 真美まみ足袋たびが廊下の古い板間をる音でさえ、今の真美まみには大きく感じられた。それが自らの神経を刺激する度に、真美まみの気持ちははやった。

 しずくの部屋のふすまが、いつもより重く感じる。
 ゆっくりと。
 鼓動の速さとは別に、なぜか気持ちは落ち着いていた。
 手も震えない。

 しずくは畳の上の布団に静かに横になっていた。
 仰向けのまま。
 いつものように小さな寝息だけ。
 その姿には月明かりで作られた障子の格子の影。
 真美まみはその横に腰を降ろした。
 微かな衣擦きぬずれの音が、部屋の中に染み渡る。
 右のそでの中で、真美まみは果物ナイフのさやを抜いた。
 そして逆手にを掴む。
 そでからその手を出すと、障子を通した淡い月明かりが刃を照らした。
 僅かに腰を浮かせ、右手───ナイフを大きく振り上げ、同時に左手でしずくの掛け布団を剥がす。
 浴衣の胸元が少しだけ乱れたように開いていた。
 真美まみの視線の先はそのあらわになった肌へ。
 何も考えてはいなかった。
 何の音も聞こえない。
 まるで手にした果物ナイフが突然重みを伴ったかのように、右手が落ちた。

 しかし、その手が止まる。
 手首には〝黒い影〟。
 真美まみが顔をゆっくり振ると、すぐ横にいるその影は大きい。
 そして、その影は、ゆっくりと人の形へ。

 真美まみが震える両眼を大きく見開いた時、辺りを大きな音が包んだ。
 部屋のふすまが激しく開かれる音。
 そこにいるのは、ともえと数名の使用人の姿。

 あっという間に真美まみの体は使用人たちに畳へと押さえ付けられた。
「あなたの動きに目を光らせておいて正解でしたね」
 そんなともえの声が聞こえる中、真美まみが畳に押し付けられた顔を横に向けると、そこには驚いた顔で上半身を起こしたしずく。少しずつ、後退りするかのように真美まみから離れていく。
 そこに〝黒い影〟は無い。
 しずくの目に見えるのは〝怯え〟だけ。
 やがて、ゆっくりと、そのしずくの姿が、黒くかすみ始めた。
 そして〝黒い影〟がしずくを包み込む。

「────やめて‼︎」

 何度もそう叫び続ける真美まみを、使用人たちが部屋の外へと。
 ともえしずくに冷ややかな目を向けただけでふすまを閉じた。
 真美まみの声が、しずくの耳から少しずつ遠ざかっていく。
 しずくには、何が起きたのか理解など出来るはずがない。
 やがて、月明かりの中で呆然と座り込むしずくの頭の中に、暖かい声が届いた。

 ──…………もう大丈夫…………あなたは私が守る……………………

 間違うわけがない。
 それは〝かえで〟の声。
 その声に、しずくは反射的に口を開く。

「…………かえで…………あなたを……信じてるよ…………」

 そして、しずくの両の目からは、なぜか涙がこぼれ落ちていた。

 それから真美まみがどうなったのか、しずくは知らない。
 聞くことすら許されなかった。





 スチール製のまきストーブ。
 その燃料には今のところ困ったことはない。
 周囲には崩壊した建物だらけ。元々木造建築の多いこの国で、燃やせる木材に困ることはなかった。
 ユイはまきストーブの中の細かい木屑きくずに向けてファイヤースターターをこすると、その火花で簡単に火を回し始める。慣れた工程だった。
「そろそろまきも溜め込んでおかないとね」
 まきストーブの上で僅かに湯気を出し始めた小さなヤカンを眺めながら、ユイはなんとなくそう声に出していた。
 すでに朝晩が涼しくなってくると同時に季節の移ろいを感じる。戦時中はそんなことを考える余裕すらなかった。戦火から逃れて毎日を生き残るだけ。それまでの人生が総て無駄に思えた。
 壊されたのは街だけではない。多くの人々と、それと同じだけの〝想い〟や〝夢〟さえも壊される。
 戦争とはそういうものだと、ユイだけでなく多くの人々が感じたことだろう。
 ユイは戦前から使っていたアウトドア用のアルミカップにドリッパーをセットすると、そこにお湯で濡らした布フィルターを入れてコーヒーの粉を目分量で入れた。コーヒーの粉にはしばらく困っていない。意外とスーパー等の跡地で見付かりやすい。すぐに食べられる食品とも違う。すぐに飲める飲み物でもない。それでも節約はしながら。もちろん賞味期限等は気にしないことにしていた。
 ユイが拠点にしているのは古い映画館の屋上。排水溝があるためにコーヒーを飲んだ後の洗い物も楽だった。
 粉だけでも香りはするが、お湯を注いだ時に広がる香りは格別なものだ。ユイは朝のこの時間が一日の中で最も好きだった。
 一日の始まり。
 終わりとは違う。
 総てがここから始まる。

 ──……今日も朝を迎えられた…………

 戦前には考えもしなかった感情。
 それが今のユイには何より嬉しい。
 なぜ生きようとするのか。
 死んでしまえば簡単だ。今の現実から逃げられる。総てを終わらせられる。毎日の支給品の食事からも解放される。空腹を埋めるだけの食事。戦前に料理を楽しんでいた日々など、遥か昔のことのように思える。今はその願望すら失われていた。

 なぜ生きようとするのか。
 何のために生きているのか。

 その理由も分からないまま、ユイには定期的に通う場所があった。
 なぜ自分がそこに通っているのか、あまり深く考えたことはない。そこに行って何をするわけでもない。
 そこは、小さな〝ほこら〟だった。
 その横には崩れかけた小さな神社の建物。階段を登った所に鳥居が無ければ神社であったことすら分からなかったかもしれない。
 小さな丘にある小さな廃神社。

 鳥居の横の石碑の文字は────〝唯独ただひと神社〟。

 しかしそれすらもすでにこけに覆われ、誰にも管理されていないことを物語っていた。その光景を見る度に、いつもユイは寂しさに覆われる。
 かと言って何かをするわけではない。

 ──……私は……今も昔も、無力だね……………お母さん……………

 それでも、なぜかその神社にユイは通い続けた。
 ただ惹かれるまま。
 忘れてはいけない場所のような気がした。
 ユイの記憶は〝曖昧〟だった。
 どこからなのかすらも曖昧なほどに、記憶の所々が欠けていた。戦前の記憶に明確に思い出せない部分がある。いつの頃からなのかもあやふやなまま。
 母親のことは覚えていた。
 しかし漠然としたもの。忘れている部分もあるらしい。〝らしい〟としかユイには言えない。それが自分でも、もどかしかった。
 神社の入り口には小さな鳥居。大人が一人で通れる程度の幅。擦れ違うのには狭い。そこからの階段は二〇段ほど。周囲は雑草だらけ。小さな林に囲まれた小さな廃神社。
 感覚的には週に一度くらいだろうか。日付も曜日も分からない毎日の中では明確な周期を考えてはいない。
 特別気持ちが落ち着くというわけでもなかった。何か癒しのようなものも求めてはいない。
 それでも空気が綺麗なことだけは感じていた。
 その日も穏やかな風が緩く吹いていた。空には雲が多かったが気持ちのいい天気。
 神社の建物は大部分が崩れたまま。すぐ隣の小さなほこらも今にも崩れそうな状態。その中には役目を終えたような曇った丸い鏡が一つ。小さな光すらも映し出してはいない。
 その鏡を、なぜか毎回ユイは覗き込んだ。
 意味があるわけではない。
 なぜかそうした。

「やっぱりここだった」
 突然の階段からのその声にも、ユイは驚かなかった。
 聴き慣れた香世かよの声。
「家にいなかったから、多分ここだと思ってさ」
 香世かよがそう言って近付くと、やっとユイが体を上げて応えた。
「どうしたの? 何かあった?」
 あまり感情を込めてはいない。香世かよはユイが唯一気を使わないで話せる相手だ。元々ユイは人付き合いが得意なほうではない。幼い頃からの僅かな記憶でもそれは覚えていた。
 その原因は〝霊感〟と呼ばれる体質に他ならない。その記憶だけは明確にある。しかし戦争が始まってからは〝それ〟を明確に感じることのないまま。
 以前に香世かよには話したことがあった。それでも香世かよのユイに対する態度は変わらない。それがユイにとってはありがたかった。
 元々の出会いは戦時中。
 偶然にも香世かよがユイの命を助けたことが始まりだった。しかも直後にこの街に引っ越すことを提案したのも香世かよ。常に近すぎず遠すぎずの仲でしかなかったが、なぜかユイは香世かよに対して気持ちのどこかで信頼を置いていた。
「今日ってほら、支給日だからさ。一緒に行こうかと思って。昨日放送あったでしょ」
 そう言って返す香世かよに、ユイは小さく笑顔を向けた。
 支給日の前日、戦時中にはサイレンを鳴らしていたスピーカーからそれを知らせる放送が流れることになっていた。ユイはそれを聞く度に時代の後退を感じていた。インターネットが当たり前に情報網の中枢を担っていた時代とは違う。皮肉にも残ったのはソーラーパネルで僅かに発電されたアナログだった。
 二人で階段を降りながら、いつものように明るく話し始めるのは香世かよ
「不思議だよね…………あんな出会いが未だに続いてるなんて」
「あの時、香世かよが助けてくれなかったら私は死んでたよ…………今でも感謝してる」
 そう返しながら、ユイはその時の恐怖よりも香世かよの手の温もりを思い出していた。





 戦時中、国内の戦火が急激に広がった頃。
 突然インターネットが遮断された。
 どこからも情報が得られないまま、誰もが外に情報を求めていた。
 ユイが一人暮らしをしていたアパートは、すでに他は空き部屋。周囲の家にも残っている人たちは少ない。もはや戦場はニュースの中の物語などではなく、リアルで身近なものとなっていた。それが進むのに並行して人々は住む場所を離れていく。
 時間も関係なく銃声の聞こえる時も増えていた。しかも戦火の矛先は〝対国〟同士のものだけではない。国のやり方に叛旗はんきひるがえす〝反政府組織〟がいた。

 それは〝蛇の会〟と名乗った。

 戦争の混乱に紛れるようにして内戦までもが増え始め、もはや敵も味方も分からないまま、しだいに国民は取り残されていく。
 電気、ガス、水道のライフラインは遮断された。
 同時にインフラの総てが終わり、小売店から社会システムに携わる会社までもが機能を失う。
 ユイはその時点でサバイバルを決意するしかなかった。戦前からのキャンプ好きが功を奏したのか、サバイバル用品には困らない。問題は車のガソリンがどこまで持つかだけ。テント等のキャンプ用品はすでに車に積んである。可能な限りの食料品を車に積んだ。しかしそれは決して多くはない。どこかで食べ物と飲み物を調達する必要があるだろう。
 ユイは最後にアパートのドアに鍵を掛けた。

 ──……習慣って……イヤだな…………

 ユイは不意にそんなことを思う。
 戻ってくることはないと思っていた。アパートの建物ですらいつまで残っているか分からない状況で鍵を掛けることに意味があるとは思えなかった。それでも二年以上暮らした部屋。少し前から管理会社がなくなっていたとはいえ愛着はある。
 ユイは玄関のドアの前に鍵を置くと、逃げるように車に乗り込んでいた。

 ──……私は……何から逃げるんだろう…………どうして逃げるんだろう…………

 自分が戦争を求めているわけではもちろんない。多くの人たちが同じ気持ちだったろう。それでもその戦争によって人生を翻弄ほんろうされる。それが現実であり、もはや受け入れていくしかない。それでも誰もがあらがわざるを得ない生き方をしてしまう。しかし歴史の波に抵抗する方法など、もちろん多くの誰もが知らない。
 どこに向かえばいいのかも分からなかった。
 今までの情報だけで安全な地域を模索するしかない。近所の人たちがどこに移住したのかも知らない。友達はいなかった。知り合いと呼べる程度の人間関係すら稀有けうな人生。会社員を辞めて数年。貯蓄だけで生活してきた。そのまま戦争が始まり、戦火が広がった。
 ユイ自身も元々、戦火の広がりと共に移住は考えていた。それは治安の悪化の影響もある。いずれは同じ結果になったことだろう。
 すでに住む人の少なくなった街。
 まだ明るい時間だからだろうか、その寂しい雰囲気は風と共に蔓延はびこる。
 他の車どころか人の影すら見当たらない。
 ユイは夜を待たなかった。夜には車のヘッドライトを点けることで昼より目立つと考えたからだ。銃声の聞こえない内に街から離れたかった。出来るだけ戦火の直接の被害の少ない住宅地を抜けようと車を走らせていたが、総てがそういうわけにもいかない。
 繁華街のようなビルの谷間は反政府組織が多いのが常だ。常に誰かが目を光らせている。
 ユイの車は決してエンジン音の大きな車ではない。サイズも小さい。しかし周囲の静けさがその雰囲気を作り出すのか、ビルとビルの谷間では小さな車の静かなエンジン音ですら大きく響いた。
 ハンドルを握りながらも、全身を緊張が包んでいた。
 少しずつ、何者かの気配を感じ始める。
 車の動きに合わせて、それはしだいに大きくなった。
 それは間違いなくユイの体質だろう。周囲のどこにどんな人物が何人いるのか、ユイには総てが把握出来ていた。しかもその意識はユイの車に向けられている。周りに他のエンジン音はない。
 国内はすでに国対国の戦争だけではなく内戦状態。例え軍用車ではなくても警戒されて当然だった。

 ──……でも……自衛隊じゃないね…………

 ──……見過ごしてくれるか…………

 その通りになった。
 あくまで一般車両だと判断されたのだろう。
 〝蛇の会〟は武力を伴った過激な反政府組織ではあったが、決して一般市民を無駄に巻き込みたいわけではないというのが表向きの評判。現実はどうあれ、自衛隊を含めた政府組織だけが対象だった。
 それが分かっていたとしても、やはり自動小銃の引き金に指を乗せた人間たちに囲まれるというのは気持ちのいいものではない。

 あと少しでビルだらけのエリアを抜ける。細い川に掛かる小さな橋を渡れば、途端に住宅地に切り替わるような地方都市。街自体が小さな所だ。
 ただ戦火が広がってきただけで決して政治的に重要な場所ではない。それでもユイには分からないだけで、地政学的なことを考えると軍隊にとっても反政府組織にとっても意味はあるのだろう。

 車が橋に乗った時────。
 嫌な感覚がユイを包む。それは物理的なものではない。
 しかしユイはそれを感じた。

 ──…………落ちてくる………………

 遅れて、僅かな振動が橋に伝わった。
 タイヤのゴム経由で伝わりにくいはずの振動が、容赦無く、瞬く間に車を揺らす。
 ユイはアクセルを踏み込んだ。
 橋を渡り切った直後、バックミラーにその橋が浮かぶ姿。
 衝撃波が周囲を包んだ。
 街が宙に浮く。
 光に包まれる。
 ブレーキを踏み込むと同時にハンドルを右に。
 ユイの視界に入ったのは戸建ての隣の車庫。再びのアクセルでユイは車をその車庫に突っ込ませた。
 突然の轟音が耳を塞ぐ。
 そして、光が遮断された────。

 意識を失っていた。
 車の中は暗いまま。それでもゆっくりと視力が暗闇に慣れてくる。
 車の天井が近い。
 目を動かすと、そこにはヒビだらけのフロントガラス。
 どれだけの時間が経ったのかなど分からない。
 感じるのは絶望感だけ。
 それでも、同時にあらがう。

 ──…………まだ…………生きてる………………

 諦めたくなる状況でも、それでも生きようとする。
 〝怖い〟から。
 死を選べる時は〝怖くない時〟。

 ──……まだ、私は怖い………………

 ──…………何人もの死を見てきたのに………………

 そして耳に届く僅かな音。
 その音がしだいに大きくなっていく。
 やがて、横から小さな淡い光が顔を照らす。
 その光が大きくなっていく。
 やがて割れたガラスから車内に差し込まれた細い手に、いつの間にかユイは手を上げていた。
 握ったその手は、暖かかった。

「テルミット系の爆弾だよ」
 ユイを瓦礫の中から助けた香世かよはそう言って続けた。
「よく生きてたね。大丈夫────核系のミサイルじゃないから汚染はないよ」
 香世かよがユイにペットボトルの水を手渡すと、ユイは震える手でそれを受け取る。いつの間にか体が震えている自分に驚きながらも、同時に口の中が砂だらけになっている現実に口に含んだ水を吐き出した。
 大きく咳き込みながら、途端に恐怖が押し寄せる。
 その背中をさすりながら、香世かよが寄り添った。
「……もう大丈夫だよ…………私がいるからね………………」





「〝蛇の会〟って、まだあるの?」
 一度ユイの〝家〟に帰った二人は、それぞれの一〇リットルのポリタンクを持って支給場所まで歩いていた。水用のポリタンクだけでなく帰りは大量の缶詰も持ち帰るためにかなり重くなる。しかし次がいつになるか分からないことを考えると仕方がなかった。足りない分は川から汲んできて沸かして使うのが常。
 〝蛇の会〟の噂は未だ聞こえていたが、戦後はそれほど聞かなくなっていた。もっとも情報が遮断されたままの世界で、この街はそれほどの戦火もなかった場所。ここに入ってくる情報は少ない。
 それでも香世かよはいわゆる情報通だった。それがなぜなのか、ユイは突き詰めたことはない。何らかの組織と繋がっているのか、ユイも考えなかったわけではない。しかし適度な距離感を保ちつつ入り込み過ぎない香世かよとの関係の中で、そこを掘り下げる意味をあまり感じられなかった。しかもそのほうが情報を得られる。
 ユイの質問にも香世かよは当たり前のように応えていく。
「そうみたいだよ。所々で活動はしてるみたいだね。ここに来るかどうかは分からないけど…………」
「食料の支給があるってことは政府自体は存続してるんだろうし、やっぱりまだ反政府組織としての目的は同じなのかな?」
「かもね。それより、それこそその支給の缶詰も数が減ってきてると思わない? 戦前に言ってた災害用の備蓄ってなんだったんだろう…………」
「……この国なんて……そんなものだよ…………」
 ユイはそう応えると、軽く空を仰いだ。
 その横顔を見ながら、香世かよは僅かに目を細めて返す。
「でも、相変わらず神社に参拝はしてるじゃない」
「────え?」
 反射的にユイは香世かよの真剣な目を見、そこからゆっくりと視線を足元に落としながら続けた。
「……うん……まあ……そうだけど…………」
 それに香世かよが畳み掛けていく。
「どうして? 国に諦めの感情しか持ってないあなたが…………神社って、この国の宗教なんでしょ?」
 その言葉に、ユイの目付きが僅かに重くなり、そして続けた。
「────神様が私たちを助けてくれた? 戦争だって勝った国が無いままに終わっただけ…………何も助けてなんてくれないじゃない…………」
「でもこの国は残ったよ。無くなった国だってあるのに…………ユイだって生きてるでしょ」
「じゃあ…………死んでった人たちにはなんて言えばいいのよ…………」
 ユイはそう返しながら、無意識にポリタンクの持ち手を握る手に力を込める。過去の悔しさが去来した。忘れてはいけないと思いながら、同時に思い出したくない過去が僅かに蘇る。

 ──…………この〝記憶〟はなに……?

 そのユイの気持ちを察してか、香世かよは少しだけ間を開けて応えていた。
「それは生き残った人間一人一人が考えること。ユイが生き残ってるのは現実。だからユイだって神社に参拝してるんでしょ? ────それは間違いなんかじゃないよ」

 やがて見えてくるいつもの支給場所は、コンクリートで固められた広い場所。かつては何かの施設の駐車場だったと思われるような所。
 すでに人々が一〇〇人ほど群がっていた。この近辺に暮らす人々の数が見える唯一の時でもある。現在がこのくらいだとすれば、二人の後ろに並ぶのはせいぜい二〇人程度だろう。
 自衛隊の給水機が三台。缶詰を積んだトラックが四台。周囲は自動小銃を持った自衛隊員が警備と整理に当たる。決して物々しいという印象はない。見慣れた光景に緊張感は感じられなかった。
 それでも列に並ぶ人々の表情は一様に暗い。ほとんどの人たちが下を向いたまま。前を向く人は誰もいない。
 ユイはこの列に並ぶ度に暗い気持ちを共有するようで嫌だった。しかし気持ちはユイも同じ。この先のことに希望など持てない。いつまで今のような生活を続けなければならないのか、そう思うだけで誰もが溜息で感情を吐き出す毎日。香世かよからは餓死だけでなく自殺も多いらしいという話を聞いたことがある。その気持ちすらも理解出来てしまうことがユイには嫌だった。
 すでに陽が傾き始めていた。
 雲の多い青空の色が濃くなっていく。
 その空が微かに紫がかった頃、ユイが〝何か〟に反応した。

 ──…………ここじゃない………………

 小さな音だった。
 自衛隊車両の給水機の音に紛れる、不規則で僅かな振動。
 自衛隊員がバラバラに、少しだけ腰を落としながら自動小銃を構え直し始める。
 そして、ゆっくりと緊張が広まる。

 ──…………〝蛇の会〟……────




           「かなざくらの古屋敷」
    ~ 第二十部「深淵の海」第3話(第二十部最終話)へつづく ~
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