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第二十部「深淵の海」第1話
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それは一つの未来の形
いくつもある
誰かが選択するかもしれない
未来の形
☆
まだ入学して数ヶ月。
小学校とはいえ、最初の人間関係はその後の学生生活に大きな影響を及ぼす。それは中学、強いては高校までの関係になりかねない。
大見坂雫が通う小学校は私立のいわゆるエリート学校。
そして実家は代々地元の政治家を輩出してきた家柄だった。国政へ進出した人間も多く、地元のあらゆる業界に影響を及ぼしていた。
小学校も歴史は長い。現在の校舎そのものは昭和五〇年代に建て替えられた物だが、学校の設立自体は大正まで遡る。元々は中等部が前身となる形で戦後に小学部、中学部と高等部が続けて設立された。大見坂家の人間が代々通ってきた学校でもある。ほとんどの生徒が高等部へとスライド式で進学していく。
雫の父────勝利も卒業生だった。エリートコースの階段を登り、東京の大学の政経学部を卒業後に雫の祖父にあたる父親、勝倉の秘書となる。勝倉もまた長年地元でその立場を堅持してきた政治家だった。
勝利は現在は五回目の再選を果たしたばかり。来年、勝倉の政界引退に合わせて衆議院選挙から国政への進出を決めていた。
雫の母────巴は勝利よりも一〇才近く若く、大学の卒業直後に大見坂家に嫁いできた。地元でも上位に位置する資産家の娘。政界では珍しくもない、僅かながらの〝血〟の繋がりがあった。それはとても狭い。
血の繋がりは濃くとも、家族の関係は希薄。それは雫も同じだった。両親が両親であることは、もはや知識の一つでしかない。家族ということをリアルに感じられるのは一つ上の兄────勝政だけ。そして勝政が長男としてのプレッシャーを感じるのはもう少し先のこと。
その兄と違い、雫は兄以外とのコミュニケーションが苦手だった。未だに小学校で友達を作ることが出来ずにいた。そして、そのことを兄にも相談することはなかった。理由は分かっている。誰もが雫を避けていることは明白だったからだ。元々、小学校に通う以前から近所の子供たちやその親からも距離を置かれていた。公園で遊んでいる時等、次にケガをする子供を予測したり、子供の家族が亡くなることを言い当てたりすることで、大人たちからは〝気持ち悪い子〟と思われていた現実がある。最初は戸惑った雫だったが、今はそれが当たり前のことのようにもなっていた。子供ながらに自分がどう思われているかを受け入れていた。
一度だけ、雫は母に相談したことがある。
「喋らなければいいだけです。大見坂家の人間として言動には気を付けなさい」
母は厳粛な政治家の妻を演じることに忙しかった。
その母親代わりに雫を育てていたのは使用人の女性────泉真美。真美は中学の卒業と同時に大見坂家で使用人として働いていた。かつて母親は勝倉の妾だった。真美を産んでから離婚を経験し、高級料亭で働いていたところを勝倉に見染められた。真美もいずれは勝利の妾になることが決まっている身。それまで、と雫の世話係を言い付けられていた。通常の使用人として大見坂家に入ったが、雫が産まれてからは同じ役目を続けている。
正直、真美にも複雑な思いはあった。いずれは妾となる立場。その主人の正妻の子供の面倒を見る。
──……私はご主人様のためにここにいる…………
この想いだけが真美を支えた。
支え続けた。
真美に物心が付いた時、母はすでに妾だった。
週に一度顔を見せにアパートに来ると、お金を置いていく。そんないつも帰ってこない母を待ちながら、狭いアパートで、ずっと一人で生きてきた。
父親が誰かは知らない。すでに物心がつく前にはいなかった。いつの間にか今の現状を寂しいと思う感情も失われていた。
そのまま成長したことが自分にどんな影響を及ぼすのかなど、まだそんなことを考えられるほど大人ではない。
──……総ては……大見坂家のため…………
そんな真美も、常々雫の言動に違和感は感じていた。
「────来月の三日、お父さんが死ぬよ」
雫が公園で遊んでいた近所の男の子にそんな言葉を投げかけたのは、五才になったばかりの時。呆然とする男の子の手を、苛立ちを隠せない足音の母親が掴むと、そのままその場を後にした。
雫がそんな言葉を口にするのは初めてではなかったが、やはり真美もすぐに受け入れられるものではない。無意識に口を突いて出るだけだと思った。その言葉の中身に意味など無いと思っていた。それでも確かに言われて気持ちのいい言葉ではなかっただろう。
近所で〝気持ちの悪い子〟と噂が立っているのも知っている。しかし家柄のせいか、表立って非難してくる大人はいなかった。
そして、雫のいわゆる〝予言〟は、当たった。
その度に、周囲の大人以上に気持ちが悪かったのは真美だった。
それが〝予言〟なのか〝呪い〟なのか、もちろん真美には分からない。
さらに思うのは、雫の〝目〟がいつ自分に向けられるか、それが怖かった。
しかし、その時は突然やってくる。
「明日、あなたのお母さんが死ぬよ」
夕食時、雫のその言葉に、横で給仕をしていた真美の思考は止まった。
──……………………え?
すでに病床に伏せって引退していた母親にはしばらく会っていなかった。
食後のお膳を台所まで運ぶ。
すでに何年も住み込みで働いている屋敷。
雰囲気に変化があっただけで直感的に気が付く。
その夜は、何か、騒がしかった。
誰かに聞いてみたかった。しかしなぜだろうか。何かを確かめるのが怖かった。
「────……あの……………………」
真美は廊下で擦れ違った班長の男性に思わず声を掛けていた。大見坂家には五〇人ほどの使用人がいる。それぞれ一〇人程度に班分けをされ、その班の長を班長と呼んだ。その班長も何やら落ち着かない。
班長は横目で真美を見ただけで、何も応えずに足早に廊下の奥へと消えた。
何か、蔑んだ目にも見えた。
──私程度の使用人には関係の無いことなのだろう…………
しかし、胸騒ぎは収まらない。
そして、真美がその班長に呼ばれたのは翌日の夜。
すでに二二時は回っていた。
真美の目の前に差し出されたのは、位牌と骨壷。
今朝早くに亡くなったとのことだった。
母はもう何年も入院したままだった。
真美自身、死に目に立ち会ったわけではない。葬儀も無ければ、火葬の場にも呼ばれなかった。真美に知らされたのは事が総て終わってから。
突然、母親だと言われ、目の前に置かれた位牌も骨壷も無機質な物にしか見えない。
──……母は……大見坂家に尽くした人だったはず………………
娘である自分に対する冷たい仕打ち。
まるで夢と現実の区別もつかないかのようなそんな心持ちのまま、真美は感情の行き所を失った。
〝 明日、あなたのお母さんが死ぬよ 〟
──………………死神………………
骨壷に、不思議な温もりを感じた。
廊下を歩くが、足に力を感じているわけではない。無意識の内に動いていた。
やがて、廊下を遮るような襖の隙間からの細い灯り。
僅かに聞こえる、誰かの声。
真美はいつの間にか、足元の光の帯の前で足を止めていた。
そして無意識に、光と共に漏れてくる声に意識を傾ける。
「どうして、みんな私をさけるの?」
──……雫さま…………?
『みんなには雫の見えているものが理解できないんだよ』
──……誰…………?
「なんで? 私は分かるよ」
『みんなに見えないものが雫には見える…………だからみんな雫を怖がるの』
「怖いの?」
『普通の人たちはね。私は分かるよ。あなたと同じだから』
──……子供? …………女の子…………こんな時間に………………
「それなら、私のトモダチは〝かえで〟だけだね」
──…………〝かえで〟? そんな子供はこの御屋敷には………………
真美が襖の隙間に視線を差し込んだ。
そこにいるのは、雫と〝黒い影〟────。
☆
毘沙門天神社。
そこは〝蛇の会〟の拠点となった。
そしてこの日は全員が集まっていた。新しいメンバーが増えたこともあり、現状とこれからのことについての席だった。初めての全員揃っての会合でもある。
もうすぐ夏が終わろうとする昼過ぎ。照りつける日差しも少し前から感じなくなっていた。
正直、萌江はこういう堅苦しい場があまり好きではなかったが、組織が大きくなることで無視の出来ないものであることも同時に理解はしている。
〝蛇の会〟発足人である西沙と立坂、そして満田がそれぞれ所持していた〝清国会〟の資料は総て、すでに毘沙門天神社に集められていた。
それと並行して進められたのは電気の問題だった。元々電気の無い生活をしていた鬼郷家のために、ソーラーパネルとバッテリーを持ち込んだのは満田。行政に住所が登録されていないために電気会社との契約というわけにもいかなかったのが理由だ。水道は井戸を利用していたために自動汲み上げ装置を設置した。トイレには簡易水栓と浄化槽を設置したが、これだけは外からの業者を呼ぶしかなく、立坂が〝裏の顔〟を利用して業者を選定した。もちろん〝裏のお金〟も動く。同時に内閣府には嘘の情報を流して撹乱。これには元内閣府の雫の情報が役に立った。
やがて冷蔵庫と大量の食料が運ばれ、晴れて毘沙門天神社は〝蛇の会〟の拠点として動き始めた。
この日も萌江たちは食料を持参して集まっていた。
最初の顛末からすでに一月ほどになるが、その間、大見坂親子は萌江たちの家に匿われていた。娘の楓は小学校も休んだまま。内閣府、強いては清国会に楯突いた形になった以上、蛇の会としては二人の身の安全が最優先。しかし偵察部隊として動いていた西沙と杏奈からしても不思議なほどに内閣府に動きは無い。
まるで何事も無かったかのような静けさだった。しかし裏を返せば、その静けさが不気味でもある。少なくとも蛇の会としてはそう見ていた。
「ここも暮らせるようにはなったけど…………」
そう言って本殿の座布団に腰を下ろしながら続けるのは咲恵だった。
「元々暮らしてた佐平治さんと結妃さんと違って私たちにはまだまだ不便よね。アウトドア好きじゃない限りはちょっと…………萌江の古民家だって最初は酷かったけど」
すると、咲恵の隣に胡座をかいた萌江。
「失礼ね。よく来てたくせに」
「あら、萌江だってわざわざバスで町まで降りて来てたくせに」
そしてその二人に絡むのは近くに座った西沙だった。
「二人の惚気はいいからさ、早く進めようよ。雫さんたちのこともあるんだから」
その西沙の隣にはいつものカメラバッグを後ろに置いた杏奈が腰を降ろす。
全員が自由に座布団に座り込む中、雫と娘の楓は一番外側の控え目な位置。楓の一〇才とは思えない落ち着いた態度が際立つ。実年齢よりも上に見えるほどの〝良く出来た〟印象は萌江の家でも変わらなかった。決して大人を困らせない子供。誰からもそんな印象の子供だった。
やがて立坂からの近況報告が終わると、最初に口を開いたのは咲恵。
「────つまり、清国会としての最高神は天照大神で間違いないのよね。内閣府でもそこの情報共有は間違ってないんでしょうけど…………つまり清国会は内閣府に対してヒルコの存在は秘密にしてたってこと?」
すぐに立坂が応えた。
「それは間違いないようです。以前調べている時にはどうにも噛み合わない部分があったんですが、大見坂さんの話で納得出来ましたよ」
立坂がそう言いながら軽く雫に視線を送る。
すると雫も口を開いた。
「私も日本神話に詳しいわけではありませんけどヒルコなんて初めて聞きました。内閣府の中でも聞いたことはないですね」
その言葉を西沙が拾う。
「元々ヒルコなんて天照大神と違って知らない人のほうが多いけど…………なんの意味があるんだろう。内閣府って清国会が作ったようなものなのに…………」
さらに満田が絡んだ。
「それを言ったら内閣府の存在意義だって分からない。元々内閣府を作らなくたって清国会は国を動かせてたはずだ。どうして間に内閣府を挟む必要があるのか分からん」
誰もが抱いていた疑問。今まで全員揃った状態でこういう話をする機会が無かったことに、素直にみんなが驚いてもいた。
少し間を開けて声を漏らしたのは咲恵。
「…………萌江を、押さえるため? 確かに国家機関のほうが警察とかは動かしやすいでしょうけど…………」
そして、全員が一斉に萌江に視線を送った。
やがて、萌江がその視線に応えるかのように口を開く。
「…………清国会って〝血〟が好きよね…………私は興味無いけど…………」
その萌江の言葉は、僅かに艶まで感じさせる。
清国会の信じる天照大神の末裔。
だからと言って、蛇の会は決して萌江を組織の中心にしようというわけではない。それでもその存在感は大きかった。自然とシンボルのような立場になっていることは萌江自身も理解はしている。
そして、大きくなった組織にはリーダーも必要だと感じていた。
同時にそれは全員が感じていたことでもある。今のままというわけにはいかないことを感じるほどに組織は大きくなった。しかもそれはみんなで選んだこと。
誰もが、その選択の上での萌江の未来を見る力を信じていた。
「────萌江のために内閣府を作ったとしたら…………面白い話ね」
咲恵がそう言って皮肉を込めた笑みを浮かべる。
「…………恵麻たちならやるかもね」
そう繋いだのは西沙だった。視線を床に落とし、語尾に含みを持たせる。
その〝恵麻〟という言葉に反応したのは、結妃だった。
「……あの方は…………何を求めているのでしょう…………」
その言葉を掬ったのは隣の佐平治。
「それを理解することに関しては、我々にも非はあります…………正直、私たちは清国会を恐れていました……だからこそ強さを見せ付けようとしていました…………今となっては恥ずかしい事ですが、それが反発を生んでいたことは事実と思っています」
恐怖や不安があるからこそ、誰もが自分を強く見せようとする。〝怯え〟が多ければその裏返しは強くなる。毘沙門天神社は第六天魔王を信仰することで〝強さ〟を信じてきた歴史がある。
咲恵が呟くように繋げた。
「……いつも思い返すのは後悔ばかり…………私たちだってそう…………でもね……過去が見えたって未来が見えたって、分からないことって多いものよ」
「分からないことって0.1%だと思ってた…………」
そう言った萌江の柔らかい声が続く。
「…………でも、もしかしたら逆なのかもね…………」
すぐに返したのは西沙。
「……弱気な……言葉じゃないよね…………」
「安心してよ。前向きな後悔だから」
微かに微笑みながらのその萌江の声に、全員の緊張が緩んだ。
萌江の感情の起伏は全員が優先的に意識している。それだけみんなが萌江に頼っていた。決して総ての責任を萌江に押し付けるという意味ではない。萌江の存在が総ての事の始まりであることを全員が自覚していたからだ。清国会だけではなく、蛇の会にとっても萌江の存在は大き過ぎた。
「前向きだから、この場所と大見坂さんが必要なわけよ」
萌江の言葉を拾うようにそう口を開いた咲恵が続ける。
「ここの結界は本物…………この先、清国会が入れないようにするには西沙ちゃんの力も必要だけどね」
西沙がすぐに応えた。
「あの人たちにトラップ仕掛けるなら私が一番だろうね」
西沙の能力の一つである〝幻惑〟は、文字通りに人を惑わせることの出来るものだ。相手に〝嘘〟を見せることについては萌江も咲恵も敵わない。
咲恵の言うように、毘沙門天神社の結界は見事なものだった。萌江たちも他の場所で何度も結界と言えるものを見てきたが、その存在はどこも言葉だけのもの。萌江たちにはまるで意味の無いものでしかなかった。
しかし毘沙門天は違う。結界そのものが新しい空間を作り出していた。さらにそれは佐平治と結妃の力によるものではなかった。これに関しては二人にとっても不思議なものでしかない。萌江たちにとっても驚く事実だった。
何者によるものなのか分からないまま、しかしその結界は事実。
完全に誰かによって守られていた。
それについて西沙が続ける。
「ここの結界って、やっぱり御世が作ったもの?」
すぐに返したのは萌江。
「……どうだろうなあ…………あれからは御世も音水も静かなままで出てこないし…………そもそも守っていたのか……────」
その萌江の言葉に咲恵が繋げる。
「────……囲っていたのか…………」
そう言った咲恵は何かを切り替えるように西沙に顔を向けて続けた。
「西沙ちゃんも……気を付けてね…………」
顔を正面に戻し、声のトーンを落としてさらに咲恵が続ける。
「……清国会の動きは遅くない…………多分もう動いてるでしょう。私たちは内閣府にも手を出した…………ここ一ヶ月は動きを見せなかっただけかもしれない…………これ以上は強硬策に出てくる可能性もある…………」
それに返したのは雫だった。
「その情報でしたら私が調べます…………情報屋が数名…………まだ切れてはいません」
「それが内閣府ですものね…………そっちはお願いします」
その会話に挟まったのは萌江。
「後は…………娘さんよね」
全員が楓に目を向ける。
その楓は雫の隣で大人しく話を聞いていた。年齢の割には落ち着いた印象のまま。まるで会話の総てを理解しているかのようなその態度に、さりげなく空気が張り詰める。
萌江が続けた。
「今更だけど、私は何かを濁すのは好きじゃない…………娘さんは……楓ちゃんは…………〝蛇の会〟の中心になる…………」
その萌江の言葉に、西沙が視線を落とし、その隣の杏奈が顔を上げた。
杏奈はいつも〝出過ぎる〟ということがない。自分に〝能力〟がないことを理解した上で、覚悟の上で参加した身。自分が中心になることが無いことはもちろん自覚していたが、それ以上に自分の存在する意味も理解していた。そもそも一番前に出たいという欲求は昔から無いタイプ。いつも自分にやれることをすることで自分の立ち位置を見定めてきた。
しかし、その杏奈が動く。
僅かに腰を浮かせ、反射的に言葉を漏らす。
「……そんな…………それじゃまるで…………」
そして、それにすぐに返したのは咲恵だった。
「分かるよ杏奈ちゃん…………でもこれは〝宗教〟じゃない」
「────何が違うんですか⁉︎ みんなそうやって誰かを祭り上げて────」
「私も分かりません」
そう言って声を上げた雫が続ける。
「…………娘は〝神〟ではありません…………」
そして萌江の低い声が響く。
「……強力な〝力〟が宿ってる…………」
「────楓は…………一人の人間です…………」
「私の〝能力〟が言ってる…………雫さんにだって見えてるはずだよ。時間は一方通行じゃない。過去も現在も未来も同じ瞬間に存在する。大事なのはそれを感じられるかどうか…………雫さんは実感出来てるはずだよ」
そんな萌江の言葉が重く漂った。
誰もが萌江の能力を知っている。
誰もが萌江の能力を信じていた。
だからこそ、誰もが口を継ぐんだ。
「……雫さん…………」
そう囁くように口を開いた咲恵が続ける。
「…………雫さんが自分の多くのものを捨てて私たちを信じてくれたのは…………その〝実感〟があったからですよね。私たちもその雫さんの覚悟で確信したんです…………実は私も両親が新興宗教を経営してましてね…………私は幼い頃に教祖として祭り上げられました…………そこから逃げて…………今、ここにいます」
「────だったら……!」
杏奈が声を荒げた。
咲恵がそれを遮るように続ける。
「────私は────娘さんを自分と同じ運命に晒すつもりはありません…………」
その言葉を萌江が拾う。
「咲恵は過去が見える…………私は未来…………そして……雫さんは時を超えられる…………」
萌江は首の後ろに両手を回した。
ネックレスのチェーンを外すと、そこに下がった〝火の玉〟を左手に絡める。
☆
一度、世界は後退した。
世界規模の戦争が終結してからおよそ二年。
かつてはインターネットの世界に精通していたユイですら、すでに今年が何年なのかについては自信が無いほどだった。
「今年って何年だっけ?」
唯一の知り合いである香世に聞かれる度に、いつもユイはぶっきらぼうに応える。
「もう忘れたよ。四〇年代でいいんじゃない?」
あくまで大体でしかなかったが、二〇四〇年代であることは誰もが認識していたことだろう。ただ、そんなことを意識する余裕も無いほどに、その日を生きることに多くの人々が必死だった。
日本国内でも多くの場所が戦場となった。
ユイの住んでいた小さな町でも被害が大きく、今では人の住めるような建物もほとんど残ってはいない。多くの所がそうだと思われるが、そういう地では治安も良くない。ユイが少し離れた海沿いの街に移り住んだのもそれが理由だった。
そのくらいに、まだこの国は国としての機能を果たしてはいない。
しかし一般の国民が知らないだけで、国を統治する組織が存在することは確かだろうとユイは考えていた。大体ではあったがほぼ週に一度の食料と水の支給があるからだ。それを自衛隊が運んでくる。自衛隊が動いているということは、それを管理する組織が存在する。しかしインターネットも無くなり、情報が遮断された世の中ではその実態を知る由は無い。
それでも未だにインフラは動かないままだ。水道、電気、ガス、ガソリンスタンドすら動かなければ、見ることのある車は自衛隊の車両のみ。
もちろん世界の状態など知りようがない。戦争が始まる以前は〝世界政府〟という言葉も聞かれ始めていたが、今では覚えている人も少ないだろう。
あるのは〝不安〟ではない。
世の中に蔓延するのは〝あきらめ〟だけ。
まだ、誰にも未来のことなど見えてはいない。
少なくとも食料の支給日に行列に並ぶ人々には、例え未来は見えてもせいぜい明日まで。
それはユイにとっても同じだった。
誰も管理することのなくなった古い映画館の屋上に暮らし、最近はほとんど外出することもない。移ってきたばかりの頃は生活に使えそうな物を求めて毎日のように外出していたが、近頃は物もある程度揃ってきた。体を動かすためにたまに建物の外に出るくらい。それでも戦争前の趣味だったアウトドアの知識がこんな形で生かされるとは思っていなかった。テントも他のアウトドアグッズも、そのほとんどが戦前から使っていた物だ。
そこで暮らそうと思ったのは〝海が見えたから〟。
そして周囲に人が暮らせそうな建物が無いこと。サバイバルの毎日の中で近所付き合いをしようとは思っていない。
元々人と関わるのは得意ではない。幼い頃からそうだった。誰もが自分を避ける理由が〝霊感〟と呼ばれるものであることは、ある程度の年齢になってから知った。
それでも香世は違った。ユイの体質を知っても決して訝しげな目で見ることはなかった。だからこそ付き合って来れたとも言える。
戦時中にユイがこの街に移り住む前、以前暮らしていた街でユイが戦闘に巻き込まれたところを救ったのが香世だった。ユイの暮らすビルからはそれほど遠くない場所に暮らしていたが、かといって過剰に関わってくるわけでもない。お互いにプライベートなことを曝け出したこともない。適度な距離感がユイにとっては丁度良かった。
戦時中は一階にある映画館のオフィスのような一室で身を潜めていた。夜に屋上で焚き火は出来ない。空を飛ぶドローンに見付かりたくないからだ。小さなスチール製の薪ストーブを見付けてからもやはり安心は出来なかった。長時間火を焚くようなことはしない。熱源を感知されたくなかった。屋上を生活の拠点にしたのは戦後。今はいつでも屋上で薪ストーブを使うことが出来る。それは雨対策にタープを新しく設置してからだ。それでも海沿いの街は風が強い。風対策のタープを数枚張り巡らせてまで屋上に拠点を作ったのは、朝に見る屋上からの海が綺麗だったからだ。
その朝日の美しさは、何物にも変えがたい。
それは希望の持てない毎日の中で、せめてもの、ユイにとっての癒しだった。
「かなざくらの古屋敷」
~ 第二十部「深淵の海」第2話へつづく ~
いくつもある
誰かが選択するかもしれない
未来の形
☆
まだ入学して数ヶ月。
小学校とはいえ、最初の人間関係はその後の学生生活に大きな影響を及ぼす。それは中学、強いては高校までの関係になりかねない。
大見坂雫が通う小学校は私立のいわゆるエリート学校。
そして実家は代々地元の政治家を輩出してきた家柄だった。国政へ進出した人間も多く、地元のあらゆる業界に影響を及ぼしていた。
小学校も歴史は長い。現在の校舎そのものは昭和五〇年代に建て替えられた物だが、学校の設立自体は大正まで遡る。元々は中等部が前身となる形で戦後に小学部、中学部と高等部が続けて設立された。大見坂家の人間が代々通ってきた学校でもある。ほとんどの生徒が高等部へとスライド式で進学していく。
雫の父────勝利も卒業生だった。エリートコースの階段を登り、東京の大学の政経学部を卒業後に雫の祖父にあたる父親、勝倉の秘書となる。勝倉もまた長年地元でその立場を堅持してきた政治家だった。
勝利は現在は五回目の再選を果たしたばかり。来年、勝倉の政界引退に合わせて衆議院選挙から国政への進出を決めていた。
雫の母────巴は勝利よりも一〇才近く若く、大学の卒業直後に大見坂家に嫁いできた。地元でも上位に位置する資産家の娘。政界では珍しくもない、僅かながらの〝血〟の繋がりがあった。それはとても狭い。
血の繋がりは濃くとも、家族の関係は希薄。それは雫も同じだった。両親が両親であることは、もはや知識の一つでしかない。家族ということをリアルに感じられるのは一つ上の兄────勝政だけ。そして勝政が長男としてのプレッシャーを感じるのはもう少し先のこと。
その兄と違い、雫は兄以外とのコミュニケーションが苦手だった。未だに小学校で友達を作ることが出来ずにいた。そして、そのことを兄にも相談することはなかった。理由は分かっている。誰もが雫を避けていることは明白だったからだ。元々、小学校に通う以前から近所の子供たちやその親からも距離を置かれていた。公園で遊んでいる時等、次にケガをする子供を予測したり、子供の家族が亡くなることを言い当てたりすることで、大人たちからは〝気持ち悪い子〟と思われていた現実がある。最初は戸惑った雫だったが、今はそれが当たり前のことのようにもなっていた。子供ながらに自分がどう思われているかを受け入れていた。
一度だけ、雫は母に相談したことがある。
「喋らなければいいだけです。大見坂家の人間として言動には気を付けなさい」
母は厳粛な政治家の妻を演じることに忙しかった。
その母親代わりに雫を育てていたのは使用人の女性────泉真美。真美は中学の卒業と同時に大見坂家で使用人として働いていた。かつて母親は勝倉の妾だった。真美を産んでから離婚を経験し、高級料亭で働いていたところを勝倉に見染められた。真美もいずれは勝利の妾になることが決まっている身。それまで、と雫の世話係を言い付けられていた。通常の使用人として大見坂家に入ったが、雫が産まれてからは同じ役目を続けている。
正直、真美にも複雑な思いはあった。いずれは妾となる立場。その主人の正妻の子供の面倒を見る。
──……私はご主人様のためにここにいる…………
この想いだけが真美を支えた。
支え続けた。
真美に物心が付いた時、母はすでに妾だった。
週に一度顔を見せにアパートに来ると、お金を置いていく。そんないつも帰ってこない母を待ちながら、狭いアパートで、ずっと一人で生きてきた。
父親が誰かは知らない。すでに物心がつく前にはいなかった。いつの間にか今の現状を寂しいと思う感情も失われていた。
そのまま成長したことが自分にどんな影響を及ぼすのかなど、まだそんなことを考えられるほど大人ではない。
──……総ては……大見坂家のため…………
そんな真美も、常々雫の言動に違和感は感じていた。
「────来月の三日、お父さんが死ぬよ」
雫が公園で遊んでいた近所の男の子にそんな言葉を投げかけたのは、五才になったばかりの時。呆然とする男の子の手を、苛立ちを隠せない足音の母親が掴むと、そのままその場を後にした。
雫がそんな言葉を口にするのは初めてではなかったが、やはり真美もすぐに受け入れられるものではない。無意識に口を突いて出るだけだと思った。その言葉の中身に意味など無いと思っていた。それでも確かに言われて気持ちのいい言葉ではなかっただろう。
近所で〝気持ちの悪い子〟と噂が立っているのも知っている。しかし家柄のせいか、表立って非難してくる大人はいなかった。
そして、雫のいわゆる〝予言〟は、当たった。
その度に、周囲の大人以上に気持ちが悪かったのは真美だった。
それが〝予言〟なのか〝呪い〟なのか、もちろん真美には分からない。
さらに思うのは、雫の〝目〟がいつ自分に向けられるか、それが怖かった。
しかし、その時は突然やってくる。
「明日、あなたのお母さんが死ぬよ」
夕食時、雫のその言葉に、横で給仕をしていた真美の思考は止まった。
──……………………え?
すでに病床に伏せって引退していた母親にはしばらく会っていなかった。
食後のお膳を台所まで運ぶ。
すでに何年も住み込みで働いている屋敷。
雰囲気に変化があっただけで直感的に気が付く。
その夜は、何か、騒がしかった。
誰かに聞いてみたかった。しかしなぜだろうか。何かを確かめるのが怖かった。
「────……あの……………………」
真美は廊下で擦れ違った班長の男性に思わず声を掛けていた。大見坂家には五〇人ほどの使用人がいる。それぞれ一〇人程度に班分けをされ、その班の長を班長と呼んだ。その班長も何やら落ち着かない。
班長は横目で真美を見ただけで、何も応えずに足早に廊下の奥へと消えた。
何か、蔑んだ目にも見えた。
──私程度の使用人には関係の無いことなのだろう…………
しかし、胸騒ぎは収まらない。
そして、真美がその班長に呼ばれたのは翌日の夜。
すでに二二時は回っていた。
真美の目の前に差し出されたのは、位牌と骨壷。
今朝早くに亡くなったとのことだった。
母はもう何年も入院したままだった。
真美自身、死に目に立ち会ったわけではない。葬儀も無ければ、火葬の場にも呼ばれなかった。真美に知らされたのは事が総て終わってから。
突然、母親だと言われ、目の前に置かれた位牌も骨壷も無機質な物にしか見えない。
──……母は……大見坂家に尽くした人だったはず………………
娘である自分に対する冷たい仕打ち。
まるで夢と現実の区別もつかないかのようなそんな心持ちのまま、真美は感情の行き所を失った。
〝 明日、あなたのお母さんが死ぬよ 〟
──………………死神………………
骨壷に、不思議な温もりを感じた。
廊下を歩くが、足に力を感じているわけではない。無意識の内に動いていた。
やがて、廊下を遮るような襖の隙間からの細い灯り。
僅かに聞こえる、誰かの声。
真美はいつの間にか、足元の光の帯の前で足を止めていた。
そして無意識に、光と共に漏れてくる声に意識を傾ける。
「どうして、みんな私をさけるの?」
──……雫さま…………?
『みんなには雫の見えているものが理解できないんだよ』
──……誰…………?
「なんで? 私は分かるよ」
『みんなに見えないものが雫には見える…………だからみんな雫を怖がるの』
「怖いの?」
『普通の人たちはね。私は分かるよ。あなたと同じだから』
──……子供? …………女の子…………こんな時間に………………
「それなら、私のトモダチは〝かえで〟だけだね」
──…………〝かえで〟? そんな子供はこの御屋敷には………………
真美が襖の隙間に視線を差し込んだ。
そこにいるのは、雫と〝黒い影〟────。
☆
毘沙門天神社。
そこは〝蛇の会〟の拠点となった。
そしてこの日は全員が集まっていた。新しいメンバーが増えたこともあり、現状とこれからのことについての席だった。初めての全員揃っての会合でもある。
もうすぐ夏が終わろうとする昼過ぎ。照りつける日差しも少し前から感じなくなっていた。
正直、萌江はこういう堅苦しい場があまり好きではなかったが、組織が大きくなることで無視の出来ないものであることも同時に理解はしている。
〝蛇の会〟発足人である西沙と立坂、そして満田がそれぞれ所持していた〝清国会〟の資料は総て、すでに毘沙門天神社に集められていた。
それと並行して進められたのは電気の問題だった。元々電気の無い生活をしていた鬼郷家のために、ソーラーパネルとバッテリーを持ち込んだのは満田。行政に住所が登録されていないために電気会社との契約というわけにもいかなかったのが理由だ。水道は井戸を利用していたために自動汲み上げ装置を設置した。トイレには簡易水栓と浄化槽を設置したが、これだけは外からの業者を呼ぶしかなく、立坂が〝裏の顔〟を利用して業者を選定した。もちろん〝裏のお金〟も動く。同時に内閣府には嘘の情報を流して撹乱。これには元内閣府の雫の情報が役に立った。
やがて冷蔵庫と大量の食料が運ばれ、晴れて毘沙門天神社は〝蛇の会〟の拠点として動き始めた。
この日も萌江たちは食料を持参して集まっていた。
最初の顛末からすでに一月ほどになるが、その間、大見坂親子は萌江たちの家に匿われていた。娘の楓は小学校も休んだまま。内閣府、強いては清国会に楯突いた形になった以上、蛇の会としては二人の身の安全が最優先。しかし偵察部隊として動いていた西沙と杏奈からしても不思議なほどに内閣府に動きは無い。
まるで何事も無かったかのような静けさだった。しかし裏を返せば、その静けさが不気味でもある。少なくとも蛇の会としてはそう見ていた。
「ここも暮らせるようにはなったけど…………」
そう言って本殿の座布団に腰を下ろしながら続けるのは咲恵だった。
「元々暮らしてた佐平治さんと結妃さんと違って私たちにはまだまだ不便よね。アウトドア好きじゃない限りはちょっと…………萌江の古民家だって最初は酷かったけど」
すると、咲恵の隣に胡座をかいた萌江。
「失礼ね。よく来てたくせに」
「あら、萌江だってわざわざバスで町まで降りて来てたくせに」
そしてその二人に絡むのは近くに座った西沙だった。
「二人の惚気はいいからさ、早く進めようよ。雫さんたちのこともあるんだから」
その西沙の隣にはいつものカメラバッグを後ろに置いた杏奈が腰を降ろす。
全員が自由に座布団に座り込む中、雫と娘の楓は一番外側の控え目な位置。楓の一〇才とは思えない落ち着いた態度が際立つ。実年齢よりも上に見えるほどの〝良く出来た〟印象は萌江の家でも変わらなかった。決して大人を困らせない子供。誰からもそんな印象の子供だった。
やがて立坂からの近況報告が終わると、最初に口を開いたのは咲恵。
「────つまり、清国会としての最高神は天照大神で間違いないのよね。内閣府でもそこの情報共有は間違ってないんでしょうけど…………つまり清国会は内閣府に対してヒルコの存在は秘密にしてたってこと?」
すぐに立坂が応えた。
「それは間違いないようです。以前調べている時にはどうにも噛み合わない部分があったんですが、大見坂さんの話で納得出来ましたよ」
立坂がそう言いながら軽く雫に視線を送る。
すると雫も口を開いた。
「私も日本神話に詳しいわけではありませんけどヒルコなんて初めて聞きました。内閣府の中でも聞いたことはないですね」
その言葉を西沙が拾う。
「元々ヒルコなんて天照大神と違って知らない人のほうが多いけど…………なんの意味があるんだろう。内閣府って清国会が作ったようなものなのに…………」
さらに満田が絡んだ。
「それを言ったら内閣府の存在意義だって分からない。元々内閣府を作らなくたって清国会は国を動かせてたはずだ。どうして間に内閣府を挟む必要があるのか分からん」
誰もが抱いていた疑問。今まで全員揃った状態でこういう話をする機会が無かったことに、素直にみんなが驚いてもいた。
少し間を開けて声を漏らしたのは咲恵。
「…………萌江を、押さえるため? 確かに国家機関のほうが警察とかは動かしやすいでしょうけど…………」
そして、全員が一斉に萌江に視線を送った。
やがて、萌江がその視線に応えるかのように口を開く。
「…………清国会って〝血〟が好きよね…………私は興味無いけど…………」
その萌江の言葉は、僅かに艶まで感じさせる。
清国会の信じる天照大神の末裔。
だからと言って、蛇の会は決して萌江を組織の中心にしようというわけではない。それでもその存在感は大きかった。自然とシンボルのような立場になっていることは萌江自身も理解はしている。
そして、大きくなった組織にはリーダーも必要だと感じていた。
同時にそれは全員が感じていたことでもある。今のままというわけにはいかないことを感じるほどに組織は大きくなった。しかもそれはみんなで選んだこと。
誰もが、その選択の上での萌江の未来を見る力を信じていた。
「────萌江のために内閣府を作ったとしたら…………面白い話ね」
咲恵がそう言って皮肉を込めた笑みを浮かべる。
「…………恵麻たちならやるかもね」
そう繋いだのは西沙だった。視線を床に落とし、語尾に含みを持たせる。
その〝恵麻〟という言葉に反応したのは、結妃だった。
「……あの方は…………何を求めているのでしょう…………」
その言葉を掬ったのは隣の佐平治。
「それを理解することに関しては、我々にも非はあります…………正直、私たちは清国会を恐れていました……だからこそ強さを見せ付けようとしていました…………今となっては恥ずかしい事ですが、それが反発を生んでいたことは事実と思っています」
恐怖や不安があるからこそ、誰もが自分を強く見せようとする。〝怯え〟が多ければその裏返しは強くなる。毘沙門天神社は第六天魔王を信仰することで〝強さ〟を信じてきた歴史がある。
咲恵が呟くように繋げた。
「……いつも思い返すのは後悔ばかり…………私たちだってそう…………でもね……過去が見えたって未来が見えたって、分からないことって多いものよ」
「分からないことって0.1%だと思ってた…………」
そう言った萌江の柔らかい声が続く。
「…………でも、もしかしたら逆なのかもね…………」
すぐに返したのは西沙。
「……弱気な……言葉じゃないよね…………」
「安心してよ。前向きな後悔だから」
微かに微笑みながらのその萌江の声に、全員の緊張が緩んだ。
萌江の感情の起伏は全員が優先的に意識している。それだけみんなが萌江に頼っていた。決して総ての責任を萌江に押し付けるという意味ではない。萌江の存在が総ての事の始まりであることを全員が自覚していたからだ。清国会だけではなく、蛇の会にとっても萌江の存在は大き過ぎた。
「前向きだから、この場所と大見坂さんが必要なわけよ」
萌江の言葉を拾うようにそう口を開いた咲恵が続ける。
「ここの結界は本物…………この先、清国会が入れないようにするには西沙ちゃんの力も必要だけどね」
西沙がすぐに応えた。
「あの人たちにトラップ仕掛けるなら私が一番だろうね」
西沙の能力の一つである〝幻惑〟は、文字通りに人を惑わせることの出来るものだ。相手に〝嘘〟を見せることについては萌江も咲恵も敵わない。
咲恵の言うように、毘沙門天神社の結界は見事なものだった。萌江たちも他の場所で何度も結界と言えるものを見てきたが、その存在はどこも言葉だけのもの。萌江たちにはまるで意味の無いものでしかなかった。
しかし毘沙門天は違う。結界そのものが新しい空間を作り出していた。さらにそれは佐平治と結妃の力によるものではなかった。これに関しては二人にとっても不思議なものでしかない。萌江たちにとっても驚く事実だった。
何者によるものなのか分からないまま、しかしその結界は事実。
完全に誰かによって守られていた。
それについて西沙が続ける。
「ここの結界って、やっぱり御世が作ったもの?」
すぐに返したのは萌江。
「……どうだろうなあ…………あれからは御世も音水も静かなままで出てこないし…………そもそも守っていたのか……────」
その萌江の言葉に咲恵が繋げる。
「────……囲っていたのか…………」
そう言った咲恵は何かを切り替えるように西沙に顔を向けて続けた。
「西沙ちゃんも……気を付けてね…………」
顔を正面に戻し、声のトーンを落としてさらに咲恵が続ける。
「……清国会の動きは遅くない…………多分もう動いてるでしょう。私たちは内閣府にも手を出した…………ここ一ヶ月は動きを見せなかっただけかもしれない…………これ以上は強硬策に出てくる可能性もある…………」
それに返したのは雫だった。
「その情報でしたら私が調べます…………情報屋が数名…………まだ切れてはいません」
「それが内閣府ですものね…………そっちはお願いします」
その会話に挟まったのは萌江。
「後は…………娘さんよね」
全員が楓に目を向ける。
その楓は雫の隣で大人しく話を聞いていた。年齢の割には落ち着いた印象のまま。まるで会話の総てを理解しているかのようなその態度に、さりげなく空気が張り詰める。
萌江が続けた。
「今更だけど、私は何かを濁すのは好きじゃない…………娘さんは……楓ちゃんは…………〝蛇の会〟の中心になる…………」
その萌江の言葉に、西沙が視線を落とし、その隣の杏奈が顔を上げた。
杏奈はいつも〝出過ぎる〟ということがない。自分に〝能力〟がないことを理解した上で、覚悟の上で参加した身。自分が中心になることが無いことはもちろん自覚していたが、それ以上に自分の存在する意味も理解していた。そもそも一番前に出たいという欲求は昔から無いタイプ。いつも自分にやれることをすることで自分の立ち位置を見定めてきた。
しかし、その杏奈が動く。
僅かに腰を浮かせ、反射的に言葉を漏らす。
「……そんな…………それじゃまるで…………」
そして、それにすぐに返したのは咲恵だった。
「分かるよ杏奈ちゃん…………でもこれは〝宗教〟じゃない」
「────何が違うんですか⁉︎ みんなそうやって誰かを祭り上げて────」
「私も分かりません」
そう言って声を上げた雫が続ける。
「…………娘は〝神〟ではありません…………」
そして萌江の低い声が響く。
「……強力な〝力〟が宿ってる…………」
「────楓は…………一人の人間です…………」
「私の〝能力〟が言ってる…………雫さんにだって見えてるはずだよ。時間は一方通行じゃない。過去も現在も未来も同じ瞬間に存在する。大事なのはそれを感じられるかどうか…………雫さんは実感出来てるはずだよ」
そんな萌江の言葉が重く漂った。
誰もが萌江の能力を知っている。
誰もが萌江の能力を信じていた。
だからこそ、誰もが口を継ぐんだ。
「……雫さん…………」
そう囁くように口を開いた咲恵が続ける。
「…………雫さんが自分の多くのものを捨てて私たちを信じてくれたのは…………その〝実感〟があったからですよね。私たちもその雫さんの覚悟で確信したんです…………実は私も両親が新興宗教を経営してましてね…………私は幼い頃に教祖として祭り上げられました…………そこから逃げて…………今、ここにいます」
「────だったら……!」
杏奈が声を荒げた。
咲恵がそれを遮るように続ける。
「────私は────娘さんを自分と同じ運命に晒すつもりはありません…………」
その言葉を萌江が拾う。
「咲恵は過去が見える…………私は未来…………そして……雫さんは時を超えられる…………」
萌江は首の後ろに両手を回した。
ネックレスのチェーンを外すと、そこに下がった〝火の玉〟を左手に絡める。
☆
一度、世界は後退した。
世界規模の戦争が終結してからおよそ二年。
かつてはインターネットの世界に精通していたユイですら、すでに今年が何年なのかについては自信が無いほどだった。
「今年って何年だっけ?」
唯一の知り合いである香世に聞かれる度に、いつもユイはぶっきらぼうに応える。
「もう忘れたよ。四〇年代でいいんじゃない?」
あくまで大体でしかなかったが、二〇四〇年代であることは誰もが認識していたことだろう。ただ、そんなことを意識する余裕も無いほどに、その日を生きることに多くの人々が必死だった。
日本国内でも多くの場所が戦場となった。
ユイの住んでいた小さな町でも被害が大きく、今では人の住めるような建物もほとんど残ってはいない。多くの所がそうだと思われるが、そういう地では治安も良くない。ユイが少し離れた海沿いの街に移り住んだのもそれが理由だった。
そのくらいに、まだこの国は国としての機能を果たしてはいない。
しかし一般の国民が知らないだけで、国を統治する組織が存在することは確かだろうとユイは考えていた。大体ではあったがほぼ週に一度の食料と水の支給があるからだ。それを自衛隊が運んでくる。自衛隊が動いているということは、それを管理する組織が存在する。しかしインターネットも無くなり、情報が遮断された世の中ではその実態を知る由は無い。
それでも未だにインフラは動かないままだ。水道、電気、ガス、ガソリンスタンドすら動かなければ、見ることのある車は自衛隊の車両のみ。
もちろん世界の状態など知りようがない。戦争が始まる以前は〝世界政府〟という言葉も聞かれ始めていたが、今では覚えている人も少ないだろう。
あるのは〝不安〟ではない。
世の中に蔓延するのは〝あきらめ〟だけ。
まだ、誰にも未来のことなど見えてはいない。
少なくとも食料の支給日に行列に並ぶ人々には、例え未来は見えてもせいぜい明日まで。
それはユイにとっても同じだった。
誰も管理することのなくなった古い映画館の屋上に暮らし、最近はほとんど外出することもない。移ってきたばかりの頃は生活に使えそうな物を求めて毎日のように外出していたが、近頃は物もある程度揃ってきた。体を動かすためにたまに建物の外に出るくらい。それでも戦争前の趣味だったアウトドアの知識がこんな形で生かされるとは思っていなかった。テントも他のアウトドアグッズも、そのほとんどが戦前から使っていた物だ。
そこで暮らそうと思ったのは〝海が見えたから〟。
そして周囲に人が暮らせそうな建物が無いこと。サバイバルの毎日の中で近所付き合いをしようとは思っていない。
元々人と関わるのは得意ではない。幼い頃からそうだった。誰もが自分を避ける理由が〝霊感〟と呼ばれるものであることは、ある程度の年齢になってから知った。
それでも香世は違った。ユイの体質を知っても決して訝しげな目で見ることはなかった。だからこそ付き合って来れたとも言える。
戦時中にユイがこの街に移り住む前、以前暮らしていた街でユイが戦闘に巻き込まれたところを救ったのが香世だった。ユイの暮らすビルからはそれほど遠くない場所に暮らしていたが、かといって過剰に関わってくるわけでもない。お互いにプライベートなことを曝け出したこともない。適度な距離感がユイにとっては丁度良かった。
戦時中は一階にある映画館のオフィスのような一室で身を潜めていた。夜に屋上で焚き火は出来ない。空を飛ぶドローンに見付かりたくないからだ。小さなスチール製の薪ストーブを見付けてからもやはり安心は出来なかった。長時間火を焚くようなことはしない。熱源を感知されたくなかった。屋上を生活の拠点にしたのは戦後。今はいつでも屋上で薪ストーブを使うことが出来る。それは雨対策にタープを新しく設置してからだ。それでも海沿いの街は風が強い。風対策のタープを数枚張り巡らせてまで屋上に拠点を作ったのは、朝に見る屋上からの海が綺麗だったからだ。
その朝日の美しさは、何物にも変えがたい。
それは希望の持てない毎日の中で、せめてもの、ユイにとっての癒しだった。
「かなざくらの古屋敷」
~ 第二十部「深淵の海」第2話へつづく ~
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