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第十九部「夜叉の囁き」第5話(第十九部最終話)
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それは、雫が内閣府に誘われた夜。
条件は確かに悪くない。
警視庁から内閣府へ。キャリアアップとしても申し分ない。確かに将来は保証されたようなものだ。
しかし、内閣府の総合統括事務次官について説明してもらえたことは神道に関わりがある部署であるということだけ。
自分に何が求められているのかすら分からなかった。
確かに幼少期から勘のいい子供と言われてきた。それが霊感というものであると意識したのは高校生の頃。この世ならざるものが見えるだけでなく、見えないはずの未来まで見えるようになると決して気持ちのいいものではない。一番自分の力に恐怖を感じたのは、他人をコントロール出来るようになった時。それはもはや霊感というより超能力のようなもの。
それでも、それからは自分なりにその〝力〟と上手く付き合ってきたつもりだった。年齢と共に力を調整することも出来た。そして警視庁に入ってからは、事件解決に力を活用したことも何度か。
他人に話したことはない。
しかしなぜか内閣府の人間は知っていた。どこまで自分のことを調べられていたのかは分からなかったが、あまり気持ちのいいものではない。
学生の時の同級生でも知っている人間はいない。友達と呼べる相手もいなかった。
──…………どうして知ってるの……………………?
──……私のことを……どこまで知ってるの…………?
見知らぬ組織に自分のことを知られているというのは恐怖でしかない。
相談の出来る人間はいなかった。
自分の能力を活用出来る内閣府の部署とはどういう部署なのか、想像だけが膨らんでいく。
その日の帰宅は決して遅くなかった。
まだ夕方の六時前。
マンションの前まで来ると、途端に娘の顔が頭に浮かぶ。その顔を思い浮かべるだけで癒された。
「ただいま」
出来るだけ明るく声を上げながら玄関を開けた。
リビングのドアから漏れる明かりにホッとする。
いつも帰りが遅くなることでベビーシッターに無理を強いていた。それでも長く働いてくれていることには感謝している。世代的にも雫よりずっと上。
岡田三恵。四五才。二人の息子はどちらもすでに成人していた。
まだ四才の楓の保育園の迎えから夕食。土日に雫が仕事の時にまで対応してくれた。もちろんそれなりの給料を支払ってはいたが、それでも三恵が雫の要望を断ったことはない。
雫がドアを開けて最初に視界に入ってきたのは、その三恵の姿。
三恵の背中。
雫の開けたドアに足を向け、フローリングに倒れた姿。
視界の奥、三恵の頭の向こうには楓が立ち尽くしていた。
唖然とその光景を見ながら動けなくなる雫に向けて、楓が静かに口を開く。
「〝…………私を殺そうとした…………〟」
──…………だれ………………?
それは楓の声ではない。
四才の女の子の声でもない。
大人の女性の声。
「〝…………清国会が私の存在に気が付いた…………この女を操ったのだろう…………〟」
──…………しんこくかい? 何を言ってるの………………?
「〝…………だから、殺した………………〟」
──……殺した…………?
無意識に、雫が口を開く。
「────誰だ…………」
そう言った雫は視線を足元に落とし、握った両手にいつの間にか力を込めていた。
その雫が再び低い声を絞り出す。
「……誰だ…………お前は誰だ………………」
そしてそれに対して返ってきた楓の言葉に、雫は神経を刺激された。
「〝お前は清国会の一員になるだろう…………そして毘沙門天を護れ…………いずれお前の力が必要になる時が来る…………その時、お前は我らの一員となる────〟」
「────誰だっ!」
まるで反射的に、雫は叫んでいた。
自然と体が震える。
楓の中に〝誰か〟がいた。
間違いない。
「私の娘を返せ! 力ずくでも引きずり出すぞ!」
「〝自分の力も扱い切れていない者が何を言う…………恐ろしい程の力を持ち合わせながらも内に込めたままの愚か者が何を言うか!〟」
──……恐ろしい程の…………ちから………………?
「〝自分の力に気付け…………お前は…………その力で娘を守ることになる………………〟」
雫は無意識の内に、倒れたままの三恵の横を歩いていた。
楓の正面で片膝をつく。
そして、左の掌を楓の顔にかざした。
途端に力が抜けて倒れかけた楓の体を支え、そして強く抱きしめる。意識を失っている楓の体に、雫の震えが伝わっていた。
いつの間にか、雫の両目から大粒の涙が溢れる。
怖かった。
楓を失うかもしれない恐怖が押し寄せた。
──……私には…………楓しかいない………………
──…………絶対に奪わせない………………
雫はジャケットの内ポケットからスマートフォンを取り出すと、同時に取り出した名刺に視線を落とす。今日もらったばかりの内閣府の名刺。雫はその名刺を見ながら電話をかけた。
「本日のお話ですが…………お受けします…………」
そして雫は倒れている三恵の体に視線を移しながら続ける。
「……ただ……条件があります…………一つだけ…………内密に処理して頂きたい事案があるんです…………」
雫は、楓を抱きしめる手に力を込めた。
☆
西沙が雫の手を離した。
雫の目は大きく見開かれたまま震え続ける。
西沙の強い目から離れられずにいた。
「思い出した? 忘れてたでしょ? でもそれはあなたのせいじゃない」
淡々と、しかしそう言葉をかける西沙の語尾には柔らかさが覗く。
それに、雫は言葉を漏らすかのように返した。
「…………どうして………………」
「あなたの記憶を消したのは恵麻…………ズルい女だよ…………」
西沙はそう応えると小さく雫の目から視線を落とした。
そこに、本殿の中からの咲恵の声。
「ここの担当になったのは娘さんの力」
──…………楓が………………どうして………………
「……娘は………………」
雫の呟くような小さなその声に、今度は萌江の声が響いた。
「娘さんの中にいるのは…………水乃蛇神社の藪沖音水…………彼女が娘さんを経由してこの神社を終わらせようとした…………」
清国会が子供を誘拐することで〝仕来たり〟を繋げてきたという点に於いて、毘沙門天神社と水乃蛇神社は同じ歴史を持っていた。
呆然とする雫の耳に、さらに萌江の言葉が続く。
「……代々あの藪沖家はこの神社を気にしてたみたいね…………ここと同じように間違った仕来たりで生きてきた…………今、彼女は私たちと共にいる…………だから分かった。少し人見知りだけどね」
代々女系だけで血筋を繋ぎ、清国会の連れてきた〝男根〟で歴史を紡いできた水乃蛇神社の歴史を終わらせたのは、神社を護ってきた藪沖家の音水。最後の継承者である自らの血を絶つことで神社そのものを終わらせた。
しかし終わらせようと思ったきっかけは、形は違っても〝間違った仕来たり〟を継承していた毘沙門天神社の存在を知ってからだった。
それは自らの婿入りが数年遅くなるとの清国会からの報告を受けた時のこと。音水は使者の思考を読み取ることで事の真実を知ることが出来た。
音水にとって、それは〝悪魔の所業〟でしかない。
どんな人間にも、必ず血を繋いだ親がいる。家族があるはず。その家族の不幸を作り出してまで自分の命が存在することが許せなかった。
そしてそれは藪沖家だけではないことを知った。
音水は鬼郷家も救うべきだと考え、それを萌江たちに託すことになる。
雫も総合統括事務次官として水乃蛇神社の顛末は聞いていた。しかし子供の誘拐のことまではもちろん聞いていない。
そして今、両家の〝仕来たりの歴史〟が西沙を経由して自分の体に流れ込んできた。
体が震えた。
込み上げるのは怒りだけ。
そして萌江の言葉が続いた。
「……清国会の真実がこれで分かった? …………実際、地獄だよ…………なんとしても終わらせたかったんだろうね…………御世も音水も…………でも、あなたにそれを気付かれるのを清国会は恐れた…………恵麻はこの神社を護ってきたのが第六天魔王じゃないことは分かってたはず。だから恵麻があなたの記憶まで操作した」
「……でも…………私の代わりなんて…………」
雫が低い声で返すと、すぐに萌江が応える。
「あなたたち親子の能力の強さは恵麻でも捨てがたかったんじゃない?」
「…………強さ………………?」
「あなた自身が気付いてないだけ…………娘さんもね…………この神社を護るには、その力が必要になる…………」
すると、それに返す雫の声が低く響いた。
「…………勝手すぎる…………好きでこんな人生を送ってきたわけじゃないのに…………私は娘と生きていきたいだけなの!」
過去が過ぎる。
両親や兄弟からも避けられ、幼い頃から友達を作ることも出来なかった。見たくもない他人の深層心理が頭に浮かび、表面上だけで人と関わることも出来ない。擦れ違う人間ですら自分に敵意を向けているように感じて生きてきた。
ただ、子供の頃、一人だけ、すぐ隣に友達がいた。
まだ幼い女の子だった。
名前は、
──……………………かえで…………………………
それは、記憶の奥底に置き去りにされた過去。
ただ忘れていただけなのか、それでも溢れ始める。
──……楓が産まれる前から……私は楓に会ってた…………
──…………どうして忘れてたの…………?
その記憶の真意も、理由も、理解の範囲を超えていた。
耳に届くのは萌江の声。
「会ってたでしょ? 物心がついた頃から…………〝娘〟さんと…………思い出してあげて……あなたを支えてくれたはずだよ…………」
雫の両目から無意識に涙が溢れる。
萌江の言葉が続いた。
「選択はあなたしだい…………強要はしたくない……でも、背中は向けないで…………あなたと娘さんの力は…………〝時を超えられる〟…………それには意味があるはず。私たちの中には何人もの人の〝想い〟が存在する。私たちは向き合ってきた…………絶対に逃げない」
膝を落としかけた雫の体を、西沙が抱えた。
そして雫の耳元で西沙が囁く。
「私たちは宗教じゃない…………むしろ宗教に楯突く者たち…………だから…………信じるのは自分たちだけ…………」
そこに繋げられる萌江の声。
「清国会は私たちの力を利用しようとしてきた…………長い年月をかけてね…………しかもそれは、自分たちの権力をこの国で維持させるため…………利用されるつもりはないよ…………私たちも雫さんと同じ…………普通に生きていきたいだけ…………ただ生きることを脅かされたくないだけ…………」
西沙が雫をゆっくりと座らせた。
雫は参道の石に両手を付いて肩を震わせる。
どうすればいいのか、結論を出すことが出来なかった。
さらに萌江の声。
「私は血を繋いでいくことが出来ない…………子供を作れない体だからね…………だから清国会は焦ってる…………私は最後の直系…………私が死ねば終わる…………清国会は次の〝神〟を探すだけ…………でも、仲間を残しては死ねない…………次の犠牲者も作らない…………私の望みはそれだけ」
そして続くのは、本殿からの咲恵の声。
「結妃さん…………あなたの記憶の修正も必要よね…………」
咲恵は未だ結妃の頭の上に右の掌をかざしたまま。
そこから結妃の中の記憶が暴かれていった。
結妃は視線を落としたまま。
そして咲恵の声が続く。
「あなたのお母さんが…………あなたが正しい記憶に辿り着かないように記憶を操作した…………でも完璧じゃなかった…………罪の意識かしら…………今、萌江が佐平治さんの記憶も修正してる。総て分かったでしょ? もうどこにも代々の鬼郷家の血なんか存在しない…………あなたも誘拐されてきた…………総てはまやかし…………」
☆
利平治と禹妃の間に長男が産まれた。
後は、無事に五年後に長女が産まれれば〝仕来たり〟通り。
しかし五年後。
長女は産まれなかった。
焦る二人の元に、清国会の使者が言った。
「長男はすでにいるではありませんか…………血筋はすでに繋がれております…………いずれ長男と交わる女系の血など…………」
そして程なく、その使者は女の赤ん坊を連れてきた。
禹妃はこの時、初めて利平治の記憶を操作する。
これにより、無事に二人の間で〝仕来たり〟が守られた。
しかし、長男は七才で病を患い、あっという間に命を落とした。
「どうすれば…………これでは代々紡がれてきた〝仕来たり〟が我らの代で途絶えてしまう…………」
利平治は長男の亡骸を見下ろしながらそう言って声を震わせた。
しかし総てを知る禹妃はこう思っていた。
──……我が子の命より…………〝仕来たり〟…………
──…………私たちは…………何の為に生きているの…………?
「長女はすでにいるではありませんか…………血筋はすでに繋がれております…………いずれ長女と交わる男系の血など…………」
清国会の使者は、前回と同じように言うだけ。
──…………何かがおかしい…………何かが間違っている…………
やがて男の子が連れてこられた。
到着早々に、禹妃は男の子の記憶を操作する。
続けて利平治の記憶を操作し、禹妃は長女の記憶も操作した。長女はまだ幼かったが、何かのきっかけで深層心理を思い出しかねないと判断したからだ。
受け入れるしかない現実。
他に選択肢の無い現実。
知らないままのほうが幸せだと、禹妃は思った。
そして、自分にも〝呪い〟をかけた。
覚えていたくなどない。
忘れてしまいたかった。
──……これ以上……苦しむのは…………いや………………
しかし、どこかに、迷いがあったのかもしれない。
──…………誰か……………………
──……助けて…………終わらせて………………
☆
「どうしようもなかったんだよね……だからお母さんを責めないであげて…………その想いに応えたのが御世と音水…………誰かが心配してくれてるなんて…………想像もしなかったでしょ?」
萌江のその声が空気に響くと、ゆっくりと周囲が明るくなった。
そして萌江の言葉が続く。
「水乃蛇神社もここも…………関係のない子供を誘拐してきてまで〝仕来たり〟を続けようとしてきた…………そのシステムを支えてきたのが清国会…………〝負の念〟が作り出す〝鬼〟が欲しかっただけ…………」
いつの間にか、結妃の体が小刻みに震える。
咲恵は結妃の頭の上から右手を降ろすと、膝を落としながらその手を結妃の肩に添えて口を開いた。
「……あなたは鬼郷家に縛られなくていい…………何の責任もない…………あなたは何も悪くないの…………」
結妃の涙が、巫女服の膝を濡らしていった。
参道では萌江に真実を見せられた佐平治が、座り込んだまま呆然と視線を落としていた。
その前で、雫に寄り添って片膝を落としていた西沙が立ち上がる。
黙って立ち尽くしていた陽麻と対峙する。
陽麻は視線を落としたまま、唇を噛み締めていた。その伏せた表情からは明らかに悔しさが見てとれる。
西沙が口を開いた。
「元清国会の人間として…………私は絶対に清国会を許さない…………」
そして鋭い目線を陽麻に向ける。
西沙の左足が一歩前へ。
右足が動いた時、
突如、西沙の視界が遮られた。
白と朱色の巫女服────。
節目がちの顔に、長い黒髪────。
若い────。
そして、最初に口を開いたのは西沙。
「…………何よ…………邪魔する理由はないでしょ?」
その西沙の後ろから気の抜けたような萌江の声。
「あらあら…………珍しいじゃない…………人見知りの〝音水〟ちゃん」
さらにその後ろの本殿から咲恵の明るい声。
「邪魔する理由があるみたいよ」
しかし西沙の表情は硬いまま。
その西沙の目の前の音水の顔が少しだけ上がる。
西沙が口を開いた。
「……あなたの気持ちが間違ってるとは言わない…………でも…………」
そして、音水の声が空気を震わせる。
「……貴女様は自らの御家族をも敵に回しました…………それが如何程の御気持ちのものか、私たちにとっては真摯に値するもの…………だからこそ、その貴女様ならお分かりのはず…………嫌悪すべきは陽麻殿ではありません。清国会そのもの…………その為ならば、私は総ての力を惜しむつもりは御座いません…………貴女様は私たちを受け入れてくれました…………その御恩は必ず返さねばなりません」
そう言った音水は表情をまるで変えなかった。
そして、それは西沙も同じ。西沙にも音水の言うことは理解出来た。陽麻に感情をぶつけたところで何も解決はしない。中に存在するはずの御世は西沙を止めなかった。それはつまり、音水に任せたということ。西沙はそう思った。
──…………信じていいんだね………………
「まったく…………私を依代にしておいてよく言うよね…………」
西沙はそう言うと音水のすぐ目の前まで。
音水はそれに応えるように顔を上げ、西沙の目を見ながら口を開く。
「……皆様が求めているのは…………清国会の崩壊ではないはず…………救いたいはず…………さすれば、貴女様の望みも叶えられます…………」
その音水の声に、西沙は何にも妨げられていない〝純粋な目〟を向け続けた。
そして、小さく。
「任せた」
途端に、音水が西沙に背中を向ける。
視界に入った陽麻に右腕を伸ばし、掌を向けた。
まるで弾かれたように体を浮かせた陽麻は、突然のことに目を見開くが、次の瞬間にはその体は霧のように消えていく。
「あれ? 陽麻って幻だった?」
それは萌江の声だった。
それに応えるのは冷静な西沙の声。
「まさか……物理攻撃しか出来ない陽麻に幻はないよ…………不思議なものを見せられただけ…………そんなこともあるよ」
すると、まるでその西沙に応えるように音水が振り返る。
柔らかい笑顔を向けた。
そして、ゆっくりと消えていく。
その向こうに、階段を登る足音。
すぐに鳥居の下に姿を現したのは杏奈だった。
「集めてきましたよ! やっぱり階段にありました!」
そう声を上げた杏奈が左手に持ったレジ袋を高く掲げる。
陽麻の動きを察知した時点で、あちこちに〝何か〟を仕掛ける可能性を全員が感じていた。杏奈にその発見と回収が託されていた。
本殿の中から、立ち上がった咲恵の声が飛ぶ。
「ありがとう杏奈ちゃん。やっぱり火薬系?」
「たぶん」
「いいわ。その辺に置いといて」
そして、未だ座り込んだままの雫の前で、西沙が膝を落としていた。
「雫さん…………あなたにも協力してもらいたいの…………」
それに、雫は俯いたまま反射的に返す。
「……しかし…………」
そこに聞こえるのは、咲恵の声。
「一度清国会を裏切れば内閣府にもいられない…………それでも、あなたたち親子の身は、私たち〝蛇の会〟が保証します」
それに萌江が続ける。
「私たちには、私たちなりの身の守り方があってね。あなたの仕事はこの神社を真っ当な神社に立て直すこと。そうすれば…………鬼郷家は私たちを守ってくれる存在になる。そして、あなたの娘さんの力は強すぎる…………あなた以上なのはもう気が付いてるんでしょ?」
そして、雫の耳元で西沙が囁いた。
「……普通の人生は歩めない…………」
それは西沙もよく分かっていた。
今から救えるなら、そのほうがいいと思った。
──……私みたいに苦しむ必要はない…………
萌江の声が続く。
「私たちは普通に暮らせなかった。だからって…………それは同じ人間を増やす理由にはならないよ…………虐げられない人生を求めることは、罪じゃない」
雫が瞼を腫らした顔を上げた。
再び萌江の口が開く。
「雫さんもね。もう娘さんのことはさっきの音水ちゃんが守ってる。あの子は強力…………これから清国会だけじゃなくて内閣府からも娘さんは守られる。だから安心して」
そこに再び足音。
同時に荒い息遣い。
そして姿を現したのは────肩で息をする満田だった。
「年寄りにこの階段はキツいぜ」
その満田に返すのは明るい声の萌江。
「みっちゃんごめんね。大事な顔合わせだから勘弁してよ」
「……仕方ねえ…………俺はお前らを信じるしかねえよ。それこそ頼むぜ」
満田は昨夜の内に連絡を受け、その上で萌江たちを信じた。疑う理由は何もない。
その満田は何かの覚悟を改めて確認するかのように続ける。
「…………これからなんだろ?」
「うん…………これから…………」
そう返した萌江の声は、どこか寂しげ。
そこに咲恵が凛とした声を上げた。
「みんな、本殿へ」
しかし、次に声を上げたのは雫だった。
「────私は……どうすれば…………」
応えたのは冷静な咲恵の声。
「これから説明します。後は…………あなたが信じるだけ…………」
その雫を西沙が立たせると、次に聞こえるのは萌江の声。
「さて」
萌江は項垂れたままの佐平治の前に移動すると、膝を落として続ける。
「私は99.9%宗教なんて信じない。所詮は人が作ったものだから…………それでも、ここを立て直して。それがあなたと結妃さんの使命…………清国会に利用された分の人生を取り返すの…………お願い……協力して…………あなたを操っていた黒い影も、もういないよ」
「……協力…………?」
佐平治はまるで呟くようにそう言うと、僅かに顔を上げた。
萌江はゆっくりと返していく。
「ここを〝蛇の会〟の拠点にしたい。詳しくはこれから説明する」
萌江はそれだけ言うと、本殿へ。
その本殿で、咲恵は結妃に囁いていた。
「……もう自由…………あなたたちを虐げる者はもういない…………」
それに返す結妃の声が震える。
「……どうして…………私たちのためにこんな…………」
「私たちの中の……〝夜叉〟がね…………囁くの…………ただ、私たちが身の安全を保証する分、協力してほしいだけ」
清国会に背を向けることがどういうことかは、結妃も分かっていた。
今までの〝強気な態度〟は不安の表れでしかないことも自覚していた。
ずっと〝仕来たり〟に縛られてきた。そうするしかないと思い込んできた。鎖を断ち切ることが出来ないままに、見えない何かに縋り続けてきた。
西沙が雫を促しながら本殿へ。
萌江と杏奈、満田も続く。
すると、その横を、突然立ち上がった結妃が擦り抜けていく。
それを全員の視線が追いかけた。
結妃は本殿から参道への数段の階段を駆け降りると、真っ直ぐ佐平治の前へ。
膝を落とし、その手を取った。
顔を上げる佐平治に、結妃ははにかんだような笑顔を向けながら、目には涙を浮かべる。
「…………信じましょう…………やり直せます…………」
佐平治は、ただ、大きく頷いた。
「かなざくらの古屋敷」
~ 第十九部「夜叉の囁き」終 ~
条件は確かに悪くない。
警視庁から内閣府へ。キャリアアップとしても申し分ない。確かに将来は保証されたようなものだ。
しかし、内閣府の総合統括事務次官について説明してもらえたことは神道に関わりがある部署であるということだけ。
自分に何が求められているのかすら分からなかった。
確かに幼少期から勘のいい子供と言われてきた。それが霊感というものであると意識したのは高校生の頃。この世ならざるものが見えるだけでなく、見えないはずの未来まで見えるようになると決して気持ちのいいものではない。一番自分の力に恐怖を感じたのは、他人をコントロール出来るようになった時。それはもはや霊感というより超能力のようなもの。
それでも、それからは自分なりにその〝力〟と上手く付き合ってきたつもりだった。年齢と共に力を調整することも出来た。そして警視庁に入ってからは、事件解決に力を活用したことも何度か。
他人に話したことはない。
しかしなぜか内閣府の人間は知っていた。どこまで自分のことを調べられていたのかは分からなかったが、あまり気持ちのいいものではない。
学生の時の同級生でも知っている人間はいない。友達と呼べる相手もいなかった。
──…………どうして知ってるの……………………?
──……私のことを……どこまで知ってるの…………?
見知らぬ組織に自分のことを知られているというのは恐怖でしかない。
相談の出来る人間はいなかった。
自分の能力を活用出来る内閣府の部署とはどういう部署なのか、想像だけが膨らんでいく。
その日の帰宅は決して遅くなかった。
まだ夕方の六時前。
マンションの前まで来ると、途端に娘の顔が頭に浮かぶ。その顔を思い浮かべるだけで癒された。
「ただいま」
出来るだけ明るく声を上げながら玄関を開けた。
リビングのドアから漏れる明かりにホッとする。
いつも帰りが遅くなることでベビーシッターに無理を強いていた。それでも長く働いてくれていることには感謝している。世代的にも雫よりずっと上。
岡田三恵。四五才。二人の息子はどちらもすでに成人していた。
まだ四才の楓の保育園の迎えから夕食。土日に雫が仕事の時にまで対応してくれた。もちろんそれなりの給料を支払ってはいたが、それでも三恵が雫の要望を断ったことはない。
雫がドアを開けて最初に視界に入ってきたのは、その三恵の姿。
三恵の背中。
雫の開けたドアに足を向け、フローリングに倒れた姿。
視界の奥、三恵の頭の向こうには楓が立ち尽くしていた。
唖然とその光景を見ながら動けなくなる雫に向けて、楓が静かに口を開く。
「〝…………私を殺そうとした…………〟」
──…………だれ………………?
それは楓の声ではない。
四才の女の子の声でもない。
大人の女性の声。
「〝…………清国会が私の存在に気が付いた…………この女を操ったのだろう…………〟」
──…………しんこくかい? 何を言ってるの………………?
「〝…………だから、殺した………………〟」
──……殺した…………?
無意識に、雫が口を開く。
「────誰だ…………」
そう言った雫は視線を足元に落とし、握った両手にいつの間にか力を込めていた。
その雫が再び低い声を絞り出す。
「……誰だ…………お前は誰だ………………」
そしてそれに対して返ってきた楓の言葉に、雫は神経を刺激された。
「〝お前は清国会の一員になるだろう…………そして毘沙門天を護れ…………いずれお前の力が必要になる時が来る…………その時、お前は我らの一員となる────〟」
「────誰だっ!」
まるで反射的に、雫は叫んでいた。
自然と体が震える。
楓の中に〝誰か〟がいた。
間違いない。
「私の娘を返せ! 力ずくでも引きずり出すぞ!」
「〝自分の力も扱い切れていない者が何を言う…………恐ろしい程の力を持ち合わせながらも内に込めたままの愚か者が何を言うか!〟」
──……恐ろしい程の…………ちから………………?
「〝自分の力に気付け…………お前は…………その力で娘を守ることになる………………〟」
雫は無意識の内に、倒れたままの三恵の横を歩いていた。
楓の正面で片膝をつく。
そして、左の掌を楓の顔にかざした。
途端に力が抜けて倒れかけた楓の体を支え、そして強く抱きしめる。意識を失っている楓の体に、雫の震えが伝わっていた。
いつの間にか、雫の両目から大粒の涙が溢れる。
怖かった。
楓を失うかもしれない恐怖が押し寄せた。
──……私には…………楓しかいない………………
──…………絶対に奪わせない………………
雫はジャケットの内ポケットからスマートフォンを取り出すと、同時に取り出した名刺に視線を落とす。今日もらったばかりの内閣府の名刺。雫はその名刺を見ながら電話をかけた。
「本日のお話ですが…………お受けします…………」
そして雫は倒れている三恵の体に視線を移しながら続ける。
「……ただ……条件があります…………一つだけ…………内密に処理して頂きたい事案があるんです…………」
雫は、楓を抱きしめる手に力を込めた。
☆
西沙が雫の手を離した。
雫の目は大きく見開かれたまま震え続ける。
西沙の強い目から離れられずにいた。
「思い出した? 忘れてたでしょ? でもそれはあなたのせいじゃない」
淡々と、しかしそう言葉をかける西沙の語尾には柔らかさが覗く。
それに、雫は言葉を漏らすかのように返した。
「…………どうして………………」
「あなたの記憶を消したのは恵麻…………ズルい女だよ…………」
西沙はそう応えると小さく雫の目から視線を落とした。
そこに、本殿の中からの咲恵の声。
「ここの担当になったのは娘さんの力」
──…………楓が………………どうして………………
「……娘は………………」
雫の呟くような小さなその声に、今度は萌江の声が響いた。
「娘さんの中にいるのは…………水乃蛇神社の藪沖音水…………彼女が娘さんを経由してこの神社を終わらせようとした…………」
清国会が子供を誘拐することで〝仕来たり〟を繋げてきたという点に於いて、毘沙門天神社と水乃蛇神社は同じ歴史を持っていた。
呆然とする雫の耳に、さらに萌江の言葉が続く。
「……代々あの藪沖家はこの神社を気にしてたみたいね…………ここと同じように間違った仕来たりで生きてきた…………今、彼女は私たちと共にいる…………だから分かった。少し人見知りだけどね」
代々女系だけで血筋を繋ぎ、清国会の連れてきた〝男根〟で歴史を紡いできた水乃蛇神社の歴史を終わらせたのは、神社を護ってきた藪沖家の音水。最後の継承者である自らの血を絶つことで神社そのものを終わらせた。
しかし終わらせようと思ったきっかけは、形は違っても〝間違った仕来たり〟を継承していた毘沙門天神社の存在を知ってからだった。
それは自らの婿入りが数年遅くなるとの清国会からの報告を受けた時のこと。音水は使者の思考を読み取ることで事の真実を知ることが出来た。
音水にとって、それは〝悪魔の所業〟でしかない。
どんな人間にも、必ず血を繋いだ親がいる。家族があるはず。その家族の不幸を作り出してまで自分の命が存在することが許せなかった。
そしてそれは藪沖家だけではないことを知った。
音水は鬼郷家も救うべきだと考え、それを萌江たちに託すことになる。
雫も総合統括事務次官として水乃蛇神社の顛末は聞いていた。しかし子供の誘拐のことまではもちろん聞いていない。
そして今、両家の〝仕来たりの歴史〟が西沙を経由して自分の体に流れ込んできた。
体が震えた。
込み上げるのは怒りだけ。
そして萌江の言葉が続いた。
「……清国会の真実がこれで分かった? …………実際、地獄だよ…………なんとしても終わらせたかったんだろうね…………御世も音水も…………でも、あなたにそれを気付かれるのを清国会は恐れた…………恵麻はこの神社を護ってきたのが第六天魔王じゃないことは分かってたはず。だから恵麻があなたの記憶まで操作した」
「……でも…………私の代わりなんて…………」
雫が低い声で返すと、すぐに萌江が応える。
「あなたたち親子の能力の強さは恵麻でも捨てがたかったんじゃない?」
「…………強さ………………?」
「あなた自身が気付いてないだけ…………娘さんもね…………この神社を護るには、その力が必要になる…………」
すると、それに返す雫の声が低く響いた。
「…………勝手すぎる…………好きでこんな人生を送ってきたわけじゃないのに…………私は娘と生きていきたいだけなの!」
過去が過ぎる。
両親や兄弟からも避けられ、幼い頃から友達を作ることも出来なかった。見たくもない他人の深層心理が頭に浮かび、表面上だけで人と関わることも出来ない。擦れ違う人間ですら自分に敵意を向けているように感じて生きてきた。
ただ、子供の頃、一人だけ、すぐ隣に友達がいた。
まだ幼い女の子だった。
名前は、
──……………………かえで…………………………
それは、記憶の奥底に置き去りにされた過去。
ただ忘れていただけなのか、それでも溢れ始める。
──……楓が産まれる前から……私は楓に会ってた…………
──…………どうして忘れてたの…………?
その記憶の真意も、理由も、理解の範囲を超えていた。
耳に届くのは萌江の声。
「会ってたでしょ? 物心がついた頃から…………〝娘〟さんと…………思い出してあげて……あなたを支えてくれたはずだよ…………」
雫の両目から無意識に涙が溢れる。
萌江の言葉が続いた。
「選択はあなたしだい…………強要はしたくない……でも、背中は向けないで…………あなたと娘さんの力は…………〝時を超えられる〟…………それには意味があるはず。私たちの中には何人もの人の〝想い〟が存在する。私たちは向き合ってきた…………絶対に逃げない」
膝を落としかけた雫の体を、西沙が抱えた。
そして雫の耳元で西沙が囁く。
「私たちは宗教じゃない…………むしろ宗教に楯突く者たち…………だから…………信じるのは自分たちだけ…………」
そこに繋げられる萌江の声。
「清国会は私たちの力を利用しようとしてきた…………長い年月をかけてね…………しかもそれは、自分たちの権力をこの国で維持させるため…………利用されるつもりはないよ…………私たちも雫さんと同じ…………普通に生きていきたいだけ…………ただ生きることを脅かされたくないだけ…………」
西沙が雫をゆっくりと座らせた。
雫は参道の石に両手を付いて肩を震わせる。
どうすればいいのか、結論を出すことが出来なかった。
さらに萌江の声。
「私は血を繋いでいくことが出来ない…………子供を作れない体だからね…………だから清国会は焦ってる…………私は最後の直系…………私が死ねば終わる…………清国会は次の〝神〟を探すだけ…………でも、仲間を残しては死ねない…………次の犠牲者も作らない…………私の望みはそれだけ」
そして続くのは、本殿からの咲恵の声。
「結妃さん…………あなたの記憶の修正も必要よね…………」
咲恵は未だ結妃の頭の上に右の掌をかざしたまま。
そこから結妃の中の記憶が暴かれていった。
結妃は視線を落としたまま。
そして咲恵の声が続く。
「あなたのお母さんが…………あなたが正しい記憶に辿り着かないように記憶を操作した…………でも完璧じゃなかった…………罪の意識かしら…………今、萌江が佐平治さんの記憶も修正してる。総て分かったでしょ? もうどこにも代々の鬼郷家の血なんか存在しない…………あなたも誘拐されてきた…………総てはまやかし…………」
☆
利平治と禹妃の間に長男が産まれた。
後は、無事に五年後に長女が産まれれば〝仕来たり〟通り。
しかし五年後。
長女は産まれなかった。
焦る二人の元に、清国会の使者が言った。
「長男はすでにいるではありませんか…………血筋はすでに繋がれております…………いずれ長男と交わる女系の血など…………」
そして程なく、その使者は女の赤ん坊を連れてきた。
禹妃はこの時、初めて利平治の記憶を操作する。
これにより、無事に二人の間で〝仕来たり〟が守られた。
しかし、長男は七才で病を患い、あっという間に命を落とした。
「どうすれば…………これでは代々紡がれてきた〝仕来たり〟が我らの代で途絶えてしまう…………」
利平治は長男の亡骸を見下ろしながらそう言って声を震わせた。
しかし総てを知る禹妃はこう思っていた。
──……我が子の命より…………〝仕来たり〟…………
──…………私たちは…………何の為に生きているの…………?
「長女はすでにいるではありませんか…………血筋はすでに繋がれております…………いずれ長女と交わる男系の血など…………」
清国会の使者は、前回と同じように言うだけ。
──…………何かがおかしい…………何かが間違っている…………
やがて男の子が連れてこられた。
到着早々に、禹妃は男の子の記憶を操作する。
続けて利平治の記憶を操作し、禹妃は長女の記憶も操作した。長女はまだ幼かったが、何かのきっかけで深層心理を思い出しかねないと判断したからだ。
受け入れるしかない現実。
他に選択肢の無い現実。
知らないままのほうが幸せだと、禹妃は思った。
そして、自分にも〝呪い〟をかけた。
覚えていたくなどない。
忘れてしまいたかった。
──……これ以上……苦しむのは…………いや………………
しかし、どこかに、迷いがあったのかもしれない。
──…………誰か……………………
──……助けて…………終わらせて………………
☆
「どうしようもなかったんだよね……だからお母さんを責めないであげて…………その想いに応えたのが御世と音水…………誰かが心配してくれてるなんて…………想像もしなかったでしょ?」
萌江のその声が空気に響くと、ゆっくりと周囲が明るくなった。
そして萌江の言葉が続く。
「水乃蛇神社もここも…………関係のない子供を誘拐してきてまで〝仕来たり〟を続けようとしてきた…………そのシステムを支えてきたのが清国会…………〝負の念〟が作り出す〝鬼〟が欲しかっただけ…………」
いつの間にか、結妃の体が小刻みに震える。
咲恵は結妃の頭の上から右手を降ろすと、膝を落としながらその手を結妃の肩に添えて口を開いた。
「……あなたは鬼郷家に縛られなくていい…………何の責任もない…………あなたは何も悪くないの…………」
結妃の涙が、巫女服の膝を濡らしていった。
参道では萌江に真実を見せられた佐平治が、座り込んだまま呆然と視線を落としていた。
その前で、雫に寄り添って片膝を落としていた西沙が立ち上がる。
黙って立ち尽くしていた陽麻と対峙する。
陽麻は視線を落としたまま、唇を噛み締めていた。その伏せた表情からは明らかに悔しさが見てとれる。
西沙が口を開いた。
「元清国会の人間として…………私は絶対に清国会を許さない…………」
そして鋭い目線を陽麻に向ける。
西沙の左足が一歩前へ。
右足が動いた時、
突如、西沙の視界が遮られた。
白と朱色の巫女服────。
節目がちの顔に、長い黒髪────。
若い────。
そして、最初に口を開いたのは西沙。
「…………何よ…………邪魔する理由はないでしょ?」
その西沙の後ろから気の抜けたような萌江の声。
「あらあら…………珍しいじゃない…………人見知りの〝音水〟ちゃん」
さらにその後ろの本殿から咲恵の明るい声。
「邪魔する理由があるみたいよ」
しかし西沙の表情は硬いまま。
その西沙の目の前の音水の顔が少しだけ上がる。
西沙が口を開いた。
「……あなたの気持ちが間違ってるとは言わない…………でも…………」
そして、音水の声が空気を震わせる。
「……貴女様は自らの御家族をも敵に回しました…………それが如何程の御気持ちのものか、私たちにとっては真摯に値するもの…………だからこそ、その貴女様ならお分かりのはず…………嫌悪すべきは陽麻殿ではありません。清国会そのもの…………その為ならば、私は総ての力を惜しむつもりは御座いません…………貴女様は私たちを受け入れてくれました…………その御恩は必ず返さねばなりません」
そう言った音水は表情をまるで変えなかった。
そして、それは西沙も同じ。西沙にも音水の言うことは理解出来た。陽麻に感情をぶつけたところで何も解決はしない。中に存在するはずの御世は西沙を止めなかった。それはつまり、音水に任せたということ。西沙はそう思った。
──…………信じていいんだね………………
「まったく…………私を依代にしておいてよく言うよね…………」
西沙はそう言うと音水のすぐ目の前まで。
音水はそれに応えるように顔を上げ、西沙の目を見ながら口を開く。
「……皆様が求めているのは…………清国会の崩壊ではないはず…………救いたいはず…………さすれば、貴女様の望みも叶えられます…………」
その音水の声に、西沙は何にも妨げられていない〝純粋な目〟を向け続けた。
そして、小さく。
「任せた」
途端に、音水が西沙に背中を向ける。
視界に入った陽麻に右腕を伸ばし、掌を向けた。
まるで弾かれたように体を浮かせた陽麻は、突然のことに目を見開くが、次の瞬間にはその体は霧のように消えていく。
「あれ? 陽麻って幻だった?」
それは萌江の声だった。
それに応えるのは冷静な西沙の声。
「まさか……物理攻撃しか出来ない陽麻に幻はないよ…………不思議なものを見せられただけ…………そんなこともあるよ」
すると、まるでその西沙に応えるように音水が振り返る。
柔らかい笑顔を向けた。
そして、ゆっくりと消えていく。
その向こうに、階段を登る足音。
すぐに鳥居の下に姿を現したのは杏奈だった。
「集めてきましたよ! やっぱり階段にありました!」
そう声を上げた杏奈が左手に持ったレジ袋を高く掲げる。
陽麻の動きを察知した時点で、あちこちに〝何か〟を仕掛ける可能性を全員が感じていた。杏奈にその発見と回収が託されていた。
本殿の中から、立ち上がった咲恵の声が飛ぶ。
「ありがとう杏奈ちゃん。やっぱり火薬系?」
「たぶん」
「いいわ。その辺に置いといて」
そして、未だ座り込んだままの雫の前で、西沙が膝を落としていた。
「雫さん…………あなたにも協力してもらいたいの…………」
それに、雫は俯いたまま反射的に返す。
「……しかし…………」
そこに聞こえるのは、咲恵の声。
「一度清国会を裏切れば内閣府にもいられない…………それでも、あなたたち親子の身は、私たち〝蛇の会〟が保証します」
それに萌江が続ける。
「私たちには、私たちなりの身の守り方があってね。あなたの仕事はこの神社を真っ当な神社に立て直すこと。そうすれば…………鬼郷家は私たちを守ってくれる存在になる。そして、あなたの娘さんの力は強すぎる…………あなた以上なのはもう気が付いてるんでしょ?」
そして、雫の耳元で西沙が囁いた。
「……普通の人生は歩めない…………」
それは西沙もよく分かっていた。
今から救えるなら、そのほうがいいと思った。
──……私みたいに苦しむ必要はない…………
萌江の声が続く。
「私たちは普通に暮らせなかった。だからって…………それは同じ人間を増やす理由にはならないよ…………虐げられない人生を求めることは、罪じゃない」
雫が瞼を腫らした顔を上げた。
再び萌江の口が開く。
「雫さんもね。もう娘さんのことはさっきの音水ちゃんが守ってる。あの子は強力…………これから清国会だけじゃなくて内閣府からも娘さんは守られる。だから安心して」
そこに再び足音。
同時に荒い息遣い。
そして姿を現したのは────肩で息をする満田だった。
「年寄りにこの階段はキツいぜ」
その満田に返すのは明るい声の萌江。
「みっちゃんごめんね。大事な顔合わせだから勘弁してよ」
「……仕方ねえ…………俺はお前らを信じるしかねえよ。それこそ頼むぜ」
満田は昨夜の内に連絡を受け、その上で萌江たちを信じた。疑う理由は何もない。
その満田は何かの覚悟を改めて確認するかのように続ける。
「…………これからなんだろ?」
「うん…………これから…………」
そう返した萌江の声は、どこか寂しげ。
そこに咲恵が凛とした声を上げた。
「みんな、本殿へ」
しかし、次に声を上げたのは雫だった。
「────私は……どうすれば…………」
応えたのは冷静な咲恵の声。
「これから説明します。後は…………あなたが信じるだけ…………」
その雫を西沙が立たせると、次に聞こえるのは萌江の声。
「さて」
萌江は項垂れたままの佐平治の前に移動すると、膝を落として続ける。
「私は99.9%宗教なんて信じない。所詮は人が作ったものだから…………それでも、ここを立て直して。それがあなたと結妃さんの使命…………清国会に利用された分の人生を取り返すの…………お願い……協力して…………あなたを操っていた黒い影も、もういないよ」
「……協力…………?」
佐平治はまるで呟くようにそう言うと、僅かに顔を上げた。
萌江はゆっくりと返していく。
「ここを〝蛇の会〟の拠点にしたい。詳しくはこれから説明する」
萌江はそれだけ言うと、本殿へ。
その本殿で、咲恵は結妃に囁いていた。
「……もう自由…………あなたたちを虐げる者はもういない…………」
それに返す結妃の声が震える。
「……どうして…………私たちのためにこんな…………」
「私たちの中の……〝夜叉〟がね…………囁くの…………ただ、私たちが身の安全を保証する分、協力してほしいだけ」
清国会に背を向けることがどういうことかは、結妃も分かっていた。
今までの〝強気な態度〟は不安の表れでしかないことも自覚していた。
ずっと〝仕来たり〟に縛られてきた。そうするしかないと思い込んできた。鎖を断ち切ることが出来ないままに、見えない何かに縋り続けてきた。
西沙が雫を促しながら本殿へ。
萌江と杏奈、満田も続く。
すると、その横を、突然立ち上がった結妃が擦り抜けていく。
それを全員の視線が追いかけた。
結妃は本殿から参道への数段の階段を駆け降りると、真っ直ぐ佐平治の前へ。
膝を落とし、その手を取った。
顔を上げる佐平治に、結妃ははにかんだような笑顔を向けながら、目には涙を浮かべる。
「…………信じましょう…………やり直せます…………」
佐平治は、ただ、大きく頷いた。
「かなざくらの古屋敷」
~ 第十九部「夜叉の囁き」終 ~
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