此処ではない、遠い別の世界で

曼殊沙華

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もう会えないと嘆き、それでも誰かと出会って

訪れる理不尽、避けられぬ結果 前編

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【1】

 広大に展開される草原地帯。薫風漂い、爽やかな天候が広がるその場から南方向。命の芽吹きを運び、悠久の時を思わせる美景とは掛け離れ、氾濫した如き無数の命で乱立した場所でもない。それすらも飲み込む、渇きが広がっていた。
 其処は砂漠地帯。緑が溢れる地と隣接し、潤いの全てを奪いかねない黄砂がただ広がる。遥か遠方、何処までも見渡せると言うのに、緑も無ければ、遮蔽物も無く、ただ僅かな起伏が伸びていくのみ。その表面は猛烈な日射に晒され、生じた陽炎に景色は滲んで。
 空は青空よりも青々と、濃く塗り潰される。雲は一切なく、燦々、いや轟々と、同じ方向に視線を向ける事すらも出来ないほどの輝きを放つ陽が天上に一つ。熱線は生物を焦がすほどに熱く、鋭く。
 厳しき環境が広がる砂漠と緑が広がる草原。相反する環境の境界線、その付近、動く物体が一つ。それは馬車であり、レイホース二体が牽引して車輪跡と蹄鉄の跡を残し、緑が広がる方向へ進み行く。
 その馬車内、数人が見られる。行商人と思しき者が数人、そして白で着飾った若い戦士が一人。その者は溜息を零し、掛けた眼鏡を動かす。
「漸くセントガルド城下町に戻れそうですね。彼には言うべき事が溜まっていますからね、重ねて言わないといけません」
 彼の名はマーティン、想い馳せるのは一人の後輩、トレイドに対する義憤と忠告しなければならないと言う先輩としての気概を見せる。その思いを、深く被った帽子、そして眼鏡から覗く伏せた目から映し出されて。
 彼はつい先ほど砂漠地帯に存在する町、イデーアに任務の為に滞在していた。それを任されたのは丁度トレイドが魔族ヴァレスの村から戻って来た頃である。
 任された任務をこなし、その報告と激務をこなすユウを気遣って報告に来た彼。彼女を気遣い、休むよう進言しようとした寸前であった、運が良いのか悪いのか、依頼が舞い込んできたのだ。
 騒々しいと注意するマーティンはユウに諫められ、渋々と話を聞く。訪れた商人は曰く、砂漠地帯のイデーアに様々な物資を運搬しているのだが、何時も雇っていた法と秩序ルガー・デ・メギルの人間が雇えなかったと。なので護衛を頼みたいとの事だった。
 それにマーティンは二つ返事であった。ユウに頼まれるまでもなく、分かりましたと。それには商人は大喜び、すぐに用意しますと飛び出していった。
「ごめんなさい、マーティン。仕事が終わったばかりなのに無理させて」
「構いません。人の為に、それが私達が所属するギルドの方針ですので。それよりも、ユウさんは身体を労わってください。そして、あのトレイドさんには厳しく注意してください」
 疲れた顔で謝る彼女に対し、マーティンは微笑んで労い、注意し損ねた為に一言頼んで部屋を後にしていった。
 そう言った事情でイデーアに向かう商人の護衛に就いたマーティン。護衛自体は直ぐにも済んだ。しかし、その町で面倒事に巻き込まれてしまったのだ。それに心身共に疲弊した彼、まるで癒しを求めるようにセントガルドに戻る。その帰路に立てたのは、トレイドが理不尽な罪刑を償い、戻ってきて数日経った頃であった。
 その折り、トレイドの二度目の問題を耳にし、流石に我慢の限界に達し掛けたマーティン。まずは彼に文句を言わなければならないと奮起していた。
 馬車に揺られ、その親切心を巡らせていた矢先であった。唐突に、砂地を渡っていた馬車が止まる。不自然なレイホースの声、それを繰る運転手の声が聞こえて。
「何事ですか!?」
 即座にマーティンは外へ飛び出す。衣服すらも焼きかねない日射に晒された中、馬車の先頭へと駆ける。その動き、一般人を護ると言う気概に溢れて。
 ただ広き青き空、砂地に異様な者が一人。馬車の通路に立ちはだかる。その者は怪しげな気配を放ち、まるで目の前にする存在を実験材料と見るような面で。
 それに恐怖する間も無かった。次の瞬間、彼も纏めて、馬車、レイホース、居合わせた者全てが薙ぎ払われた。それは理不尽を極め、そして・・・

 黄色き砂地、その一部は赤く染められた。残骸の中、惨死した者達の破片が転がる。その中、奇跡か、一人だけ虫の息だが生きて。
 そして重なる偶然、奇跡、そこへ別の誰かが通り掛かったのだ。その発見が唯一の生存者の命を救う事となる。
 応急処置を経て、直ちにセントガルドに運ばれた。最寄りの宿屋に運び込まれ、治療を受けていた。けれど、その治療も追い付かないと思わせる大怪我。その上、意識を失いながらも尋常ではないほど魘され、苦しみもがく激しさは居合わせる者の拘束も跳ね除けるほどに。
 それは、決死の抵抗とも言えた。額を抑え、命を削る叫びを響かせ、掻き毟った部分は血で更に汚れて。その様子にただならない状態だと気付くのだが、もう遅く。
 戸惑いが続く視線が更に驚愕に晒される。重傷者が混濁とした意識下で起き上がったのだ。焦点の定まらない視線、生気の抜けた表情。異様な姿に居合わせた者はたじろぐ。
 驚きを越え、恐怖に呑み込まれた者達の視線は、傍らの剣を取る姿を捉えた。定かではない意識は、の望まない凶行に繰り出すのであった。

【2】

 晴天の下、人と人を繋ぐ架け橋ライラ・フィーダーの建物は騒がしかった。それは珍しいでは言い表せない事態、何事かと近隣住民にさせるほどの珍事であった。
 だが、それは緊急事態ではなく、本当にどうしようもない理由である為に頭を抱えようか。 
 その理由で職員は集う。その数、ほぼ総数。その皆で行う事業。それは敷地全てに至る大掃除である。それも朝早くから行い、繰り出す騒音は近所迷惑甚だしく。切欠はその職員であるシャオの何気ない一言であった。
「此処って、結構汚れていますよね?」
 それは衝撃を伝わせる大言でもなく、罵倒でもなく、些細な感想であった。しかし、憚る事無く口にしたそれは、偶々居合わせたユウに強烈な衝撃を受けさせた。
 反応すると言う事は彼女自身薄々思っていた事。けれど、汚れている事が当たり前のように言われたのだ、激しく動揺し、そして決断したのだ。
 それは前夜の出来事。直後に伝書が送られた、職員全員へと。内容は言うまでも無く、其処に強制力が篭められて。
 数日後、詰まり今日にほぼ全員が此処に集結し、決行に至ったのだ。最初は全員、文句交じりに掃除をしていた。当然だ、単なる掃除など進んでしたくはない。しかし、気が付けば誰もが真剣に取り組んでいた。理由は単純明快、汚れが酷い為だ。
 正面入り口付近や階段は元より、一階左右の先に存在する談話室と資料室。各広場に各通路、円卓の如き会議室にリア専用の個室。二階の通路に各個室。詰まりは全体が酷く汚れていたのだ。
 ユウを筆頭に本腰を入れ、誰もが文句の一つ零さず、念入りに掃除に取り掛かっていった。

 まだ昼に至らない時間、一通りの掃除を終えたトレイドは陽が射し込む広場で伸びる。一区切りを終え、大きく息を吐いて周囲を見渡す。開始する時と比べて輝いて見えるその場、遣り遂げた達成感に浸り、それでも大袈裟にせずに喜んで。
 それは彼以外の数人も同じ。皆喜ぶのだが、直ぐにも落胆の色に落とされる。それで終わりではないのだ。気乗りのしない足で出入り口方面に向かい始める。
 次は自室の掃除。辟易とした溜息を零され、渋々と言った態度を隠せずに。無論、トレイドも同様、人一倍大きい溜息を吐き捨てていた。
 一度正面広場に戻る。其処でも同僚が隅々に至る掃除を行い、未だ嘗てない光景に動揺と困惑は尽きず。
 階段を登っていく同僚達の後を追い、気乗りのしないトレイドが足を掛けようとし、寸前と止まる。その耳が、後方から聞こえてきた慌しく駆け込んでくる足音を聞き取った為に。
「お?如何した?」
 丁度ガリードも通り掛かったようで、少々暢気な態度で駆け込んできた誰かに対応する。その声を聞きながら振り返ると、入り口に息を切らして前屈みの男性を発見する。その様子からただ事ではない事は明らかであった。そして、その衣服は少々赤く。
「誰でも良いから、来てくれ!!錯乱した重傷者が剣を振り回しているんだ!!手が付けられない!!」
 大声での要請、居合わせた全ての者の耳に届かせる。早くに気付いたトレイドとガリードが駆け寄る。二人だけでなく、傍に居た数人も同様に。
「如何言う事だよ、それは!?」
「いや、詳しい事情は後だ!その場所に案内してくれ!!」
「わ、分かった!こっちだ」
 事情を問うよりも現場に急行した方が手っ取り早い。その思いで急かし立て、息を切らす男性は案内を始めていく。
 ここまで行動が早いのは緊急事態に対する耐性が付いてしまった為か。そして、いつ何時でも動けるように、掃除を行っている時でも武器を携えていた事が功を奏して。
 まるで、示し合わせたようにトレイドとガリードの二人が最初に、後に数人が追い駆けるようにして現場へ直行していった。

 施設を飛び出し、公道を走り出していく。その方向は巨門の一つ目掛けて。その道中に微かに血痕が点々と落ち、町の中は少しだけだが別の意味で騒がしくされる。それも数ヶ所にも渡って。
 数分程度で現場へと到着する。其処は一番に騒然とされていた。
 一先ず民家を借り、誰かの治療を行っていたのだろう、血痕が疎らに付いたベッドが見える。だが、その周囲には真新しい血痕が飛び散る。惨劇の跡の様な場所で、多くの怪我人の姿が見られた。その誰もが複数個所斬り付けられ、今以って聖復術キュリアティで治されている途中であった。
 悲惨な現場だが、それ以上悪化する事は無い。犯人と思しき人物が居らず、治癒を施している事がその証明であった。
「此処で、その重傷者が暴れたのか?」
 とてもそうとは思えない場所で息を詰まらせる数人。その仲間の様子を横目にトレイドが問い掛けた。知らせに来た青年は頷く。
「ああ。イデーアに向かっている時、偶然発見したんだ。無惨な馬車と死体に埋もれて」
「如何言う事だ?何か事件があったって事か!?」
「多分、そうだ。それで、確認すると生きていたから応急処置をして此処に連れて来たんだ。それで、聖復術キュリアティが使える人間を呼びに行かせ、待っている時だったんだ」
「・・・それで襲われたのか」
「・・・あんな大怪我をしていたのに、とても正気じゃなかった」
 怪我を負った者の殆どは怯えていた。命の危険すらも覚悟したのだろう。怪我の具合は分からないものの重傷と思われた。動けないほどではないではないと、目視で確認してもそう認識しても、それ以上の恐怖であったと指し示して。
 事情を尋ねる事を誰かは憚った。危機を経験した者に、思い出させて更に怖がらせるのは如何かと、気遣ったのだろう。だが、聞かなければ始まらず、時間の経過で被害が広がる恐れがあった。
「それで、そいつは何処に行った?」
 躊躇せずトレイドが尋ねた。被害者を気遣うのは当然だが、今は手を拱いている暇はないと示すように口早に。
「外に、行った筈だ」
「外か、なら・・・」
「・・・あいつは」
 誰かが指示を送ろうとした矢先、斬られてそこそこに重傷の青年が呟いた。それに皆の意識が集中する。
「あいつは、マーティンだ」
「・・・何?」
 思いもよらない発言に誰もが耳を疑った。こんな愚行を行う人物ではないと知っているからこその反応、信じられないと言う気持ちが十分に表れていた。
「馬鹿を言うな!!あいつがそんな事を・・・」
「俺だって信じられるかよ!!だが、斬られたんだぞ!?何を言っても、聞く耳を聞かなかった。それに、あれは・・・」
 言葉が噤まれ、駆け付けた皆は苦しき表情となる。その様子と符合する人物を思い出したから。そう、カッシュを、狂乱者クレスジアと呼ばれる者を。
 強い不安が全員に巡った。そしてその不安は行動を起こす。
「・・・数人は戻り、ユウさんに報告!残りは追跡する!良いな!?」
 その場で一番年上で所属の長い者が指揮を執る。目で合図を送り、それに異を唱える者は居なかった。追う者の中にトレイドとガリードも含まれて。 
 この場はあの後到着し、今も治療を行い続ける天の導きと加護セイメル・クロウリアと知らせに来た青年に任せ、各々は指示に従って駆け出していく。
「黒い髪の、お前」
「?俺か?他に何かあるのか?」
 続こうとしたトレイドを、先の傷を負った青年が呼び掛ける。応じた彼は立ち止まって尋ね返す。
「弁解、する訳じゃないが、ああ見えてお前やガリード、お前達だけじゃない、関わる奴全員にあいつは気に掛けていた」
「気に掛けていた?・・・あれもか?」
 唐突な弁解を受け、トレイドはかなり怪訝に聞き返す。その意図が分からず、今話し出す理由も分からず。
 彼と共にした期間は数えられるほど。その中で受けた仕打ち、この人と人を繋ぐ架け橋ライラ・フィーダーに所属して間もない頃、一方的に話して武器を振るわれたのだ。凶行としか受け入れられない行動をした者の気持ちなど分かる筈もなく。
 故に、刻まれた印象は最悪であった。出会いは最悪であり、それは時間による消耗などせず。
「・・・確かに過剰だが、あれはお前を死なせたくない、その思いでそうしたと、言っていた・・・」
 過去に指摘し、その理由を語られたのか。だが、実際に受けて危機を感じた当人はそれで納得など出来ない。
「・・・馬鹿も休み休み言え。本気じゃなかった事は分かっていたが、それでもだ。下手をすれば、如何なっていた事か・・・!」
 静かに憤る。例え、試す為、忠告の意味であっても、命を危ぶめる行為は許せるものではなかった。
「何時も、あいつはそうしている。命の危険、それを教えてやる為にな。分かるだろ?夢だとか、何だとか思ってよ、油断する奴が少なからず居た。結果は、分かるよな?」
 一時危険な目に遭ったとしても、安全な場所に行けば安心感から現実が逃れる場合もあろう。或いは、生き残った自分は特別なんだと、勘違いする者も居るだろう。そんな浮付いた気分で居れば結末は安易に想像出来、難しい表情でトレイドは押し黙る。
「俺も、見た事はある。だが、取り分け、あいつはその場面を多く見た。ずっと悔やんでいたな・・・」
 経験からの厳しさ、繰り返したくないと言う気持ちと決意。極端だが、嫌われてでも行うその意思に考えが少しずつ揺らぐ。今迄の会話を簡単に信じるのは、語る顔から偽りのない感情が読め、今偽る理由がないから。
「・・・あいつは殆ど、一人だったな。珍しく話してくれた時があるが、友達は居なかったんだと。幸福な家系に生まれたらしくてよ、他人には避けられた、間を置かれたって・・・だから、人と接するのが慣れてないんだ」
「不器用だと、言いたいのか?・・・斬られたのに、庇うんだな」
 身の上話をするのは良い。だが、理不尽に斬り付けられた者が、凶行に及んだ者を擁護する意図が少々読めなかった。
 そうした視線、疑問をぶつけられ、青年は少々照れ臭そうに苦笑する。
「そりゃあ・・・友達だと、思っているからな」
 虚偽の欠片も無い発言に、トレイドは小さな動揺と自身の身に重たい何かを背負う感覚に襲われる。それは正しく責任である。
 顔をこわばらせたまま、硬く口を閉ざしたままゆっくりと振り返る。その視線は外へと続く。浮かべる表情に怪訝な思い、怒りは消え、静謐を感じる其処から覚悟が読み取れた。
 背に呼び止めるような声が掛けられるが彼の耳には届いていなかった。
 少しだけ騒然とする公道を進み、レイホースの賃貸屋の建物へ向かう。丁度起き出した男性に問答無用で乱雑に一枚の硬貨を手渡す。その動作が緊急事態と察したのか、彼は眠気眼やぼやけた思考のまま畜舎へ走り、一頭のレイホースを正面へ連れてくる。促されるまでもなく跨り、手綱を振るう。駆け足にさせて城下町の外へ飛び出していった。

【3】

 巨門を潜り、久遠に続くような草の地平が映る。その景色を遮る数人、レイホースに跨ってトレイドを待っていたようだ。
「来たな。それじゃあ・・・」
 先輩に当たる青年が指揮を取ろうとした矢先、トレイドは飛び出していた。まるで時間の無駄だと言わんばかりに、とある方向へ一直線に。
「おい、何処行ってんだよ!?待てって・・・」
 ガリードが制止の言葉を投げるのだが、もう届いていなかった。目も暮れず、集中して向かうのは彼方、忌むべき感覚と何かが映り込んでいる為に。
 視界の奥、緑が広がる地であるにも関わらず、黒い靄の様な何かが蠢いていたのだ。限りなく小さく映ったそれは、あの夜、カッシュが、そして謎の存在が纏っていたものと酷似する。
「・・・っ!」
 識別し、記憶が呼び覚まされた瞬間、全身に引き裂かれるような感覚が押し寄せた。恐怖、身の内から震え上がるそれらも同様に酷似する。
 ならば、其処にマーティンが居ると確信する。それは直感に過ぎない。それでも、あの強烈な記憶に引っ張られ、迷う余地すら持たずに突き進んでいった。
 徐々にだが速度は上がる。それに比例し、近付くほど身の毛の弥立つ気配に、本能からくる恐怖に身は軋むように痛む。胸が、心臓が締め付けられ、呼吸が困難になる。冷や汗が額に滲み出し、背筋に悪寒が張り付く。それらの感覚は忘れようもない、あの夜の経験と同じ。
 顔を険しくする一方のトレイドは歯噛みしていた。覚えた確信に対し、必死にそうでない事を願い続けていた。連続する感覚が決定打としても。
 唐突に身体に起きる異常が消え失せる。それは蠢く黒煙を纏う人物と確実に接触出来る距離まで接近した為であろう。
「マーティンッ!!」
 発見し、彼と認識すると否や、トレイドは怒号の如き大声を発してレイホースから飛び降りる。草地に荒々しく着地し、多少滑った後に停止した背、反転して声を出すレイホースが映って。
 叫び付けたのだが、疑心の思いで睨んでいた顔は悲愴に暮れていく。反応し、振り返ったその姿が、酷似したのだ。あの時のカッシュと。
 名を呼ばれ、ゆっくりと振り返った彼は生気を感じられなかった。血で汚れた包帯で大部分を巻かれ、悪化の一途を辿る重体。知的な眼鏡はなく、双眸は虚ろに。動きは散漫とし、とても意思があるとは思えなかった。
 状況と自身の行動への不信感、緊張から、カッシュの時は多くは気付けなかった。だが、今ならば解る。今の彼に、自我はなく、生ける屍と同義であると。
「・・・何故、あんな事をした?如何いう積もりだった?・・・答えてくれ」
 切実に問い掛ける。返ってくるとは思えない。それでも願った。其処に自我があり、其処に意味があったと。だが、その思いは虚しく終わりを突き付けられた。
 最早、残骸と言っても過言では無い、嘗て所持していた細剣。それは無残にも刀身が砕け、以前の三分の一に。所持するそれを揺らしながら距離を詰める。怪しき挙動の後、トレイド目掛けて振るった。
 見え見えの挙動、本来の彼とは全く異なる動きでの攻撃は雑でしかない。無論、避けられない訳もなく。
「止めろ・・・止めてくれ、マーティン」
 見るに耐えなかった、その事実を受け止め難かった。確信してしまう、認めなくてはならない。狂乱者クレスジアに、なってしまったと。
 言葉を、声を投げた所で、感情の宿らないマーティンは眉一つすら動かさない。なのに、不気味に身体を揺らして襲い掛かる。操り人形、そう形容するしかなかった。
 歪な動きでの大雑把な猛攻、それらを避けず、正面から受け止めて払い、往なす。受ける度に実感する。攻撃の軽さ、緩慢な動き、何より思いの宿らない攻撃に気持ちは落ち込んでいくばかり。
「・・・マーティン。正気じゃ、ないんだな」
 何度問い掛けても、どんな言葉を掛けたとしても意味を為さなかった。一握の希望を掴もうとし、捉えられなかったと悔いが募るばかり。
 弱く、緩慢に当てる程度の金属音が響く。武器をただただ振るうだけに過ぎない攻撃を受け流す。緩やかに交錯する斬撃の最期、無造作に振られた凶刃を漆黒の刃が塞き止めた。
 以前交わした時の力とは比べ物にならない、弱い圧力。耳障りな鍔迫り合いの音は鳴らず、ただ小さな音が鳴るのみ。それが、悲しくて。
「如何すれば、良いんだ?如何すれば・・・!」
 葛藤する、迷いが巡る。折れた剣で攻撃する姿に正気が一切見られない。戻る兆しも無ければ、希望も感じられなかった。
 救う手立てが見付からず、その悔しさに剣を弾き返す。大きく体勢を崩し、仰け反って退く。その様を見て、一つの逃避を思い付く。先ずは捕縛、正気に戻る保証はないが、それで被害が広がる事は無いと。思った矢先であった。
「・・・如何した!?」
 剣を構え直す最中だった、マーティンに異変が生じたのだ。突然、頭を抱えて苦しみ出す。嗚咽を零し、抗うように身悶える。同時に身から黒煙が溢れ出し、彼の身体を包み込む。
 不可解な状態を目の当たりにトレイドは即座に警戒し、距離を離す。冷静に物事を詮索しようとした彼の耳が、接近する蹄鉄の重い音と人の声を捉えた。
「お前!何独断専行しているんだ!!」
 指揮を取ろうとした青年の声が響き渡る。それに視線を向けると少し離れた位置に集って集まる数人を捉える。トレイドを追っての事だろう、殆どの者が怒りを示して。
「・・・マーティンが、居るっスよ!」
「何!?なら仕方ない。このまま全員で・・・」
 言い掛けた寸前であった。耳を傾けていたトレイドが唐突に前に向き直した。身の危険に剣を構えて。
 黒煙は薄らいでいた。そして、異様な威圧感が放たれていた。それは覚えがあった、遠くに立つ者達すらも圧倒する凄まじさには。
 咄嗟に身構えたトレイドは驚きの展開を目の当たりにする。静かになったマーティンが異様な動きを見せたと思いきや、補足困難な速度で動き出したのだ。
 感じ取る命の危機、急激な動きの鋭敏化にトレイドは即座に飛び退き、剣を下方に向けて防御を取る。直後、左方向から衝撃が加えられ、耳障りな音が鳴り響き、強烈な火花が散らされた。
 刀身を擦りながら過ぎる折れた刀身、それは空を過ぎ去っていった。その威力、衣服の先端を斬り、切れ端が宙に舞って。
 咄嗟の攻撃に回避に努めたトレイドは危うげに着地する。地面の葉が千切れ、視界の端に掠めて。
 マーティンの動きは明らかに変化した。先程までの生きているのかさえも疑わしい動きが嘘のよう、出会った時の速度そのもの。いや、それ以上に感じられた。急に自我を取り戻したのかと思ったのだが、その希望には縋れず。
 一旦距離を開けようとするのだが、マーティンの動きは早く、すぐさま距離を詰める。その動きに混ぜて攻撃を行い、遅れながらも反応したトレイドの手が防ぐ。篭められた力も段違いで衝撃、劈く金属音は凄まじく。
 思わぬ動きの向上に怯み、危うく押し切られそうになるのだが歯を食い縛って食い止め、対抗して押し返す。再度鍔迫り合いの状態となり、睨み合う。整った顔立ち、高慢そうに映り、知性を感じられるのが憎ましい。だが、今は無表情で、変わらず生気は感じられず。
「い、今応援に行くからな!」
「下手に手出しするな!!」
 誰かが挟撃を仕掛けようと掛けた言葉を、怒鳴り声で拒絶した。その迫力に小さく押し黙る。
「だな。囲んで攻撃しようとしたら返って面倒な事になりそうだ」
 多人数でも相手に出来る速さを有し、動きに翻弄されて下手に攻撃が出せず、状況が更に悪化しかねない。的が絞られる分、まだ戦いやすいと言うもの。
「俺達は広く展開して逃げられないようにするしかない」
「っスね」
 応援は包囲と言う判断で固まり、駆け付けた仲間達は動向を見極めながら展開していく。その目が、蹴り上げられたマーティンを捉える。
 剣と両腕を駆使し、上手く剣を逸らし、力任せに切り払った。大きく弾かれたマーティンは隙を作られ、その腹部へ的確に右足が叩き込まれた。防御は間に合わず、しかし反応は間に合っており、彼は地面を蹴り出して飛び退いていた。
 軽減した衝撃も利用し、大怪我の身は小回りに回転する。上手く後転し、難なく着地する。淀みない一連の行動は追撃を仕掛けようとしたトレイドの意表を衝く反撃を展開する。
 接近するトレイド、その顔、中心を狙って腕を突き出して地面を蹴り出す。情の一切無くし、砕けていようと攻撃する様は異様でしかなく。
「グッ!」
 視界の中央に接近する、砕けた先端。寸前で反応し、早急に首を曲げる事で間一髪の回避に至る。けれど、頬を掠め、其処に傷が刻み込まれた。
 反射で片目を閉じ、衝撃を伴った痛みは口内まで伝達する。食い縛って痛みに耐え、苦し紛れに剣を振るう。だが、簡単に避けられてしまった。
 感情の無い面で着地したマーティンは腹部を庇う素振りも無く、平然とした態度で歩み寄る。その姿はあまりにも不気味に映る。それに畏怖の念を僅かばかり抱くトレイドは頬を拭って。
「・・・容赦なく、顔を・・・」
「マーティン、お前・・・」
 包囲する仲間達が愕然とし、言葉を失っていた。軌道の要である足、攻撃の重要箇所の腕ではなく、顔を狙った。其処に躊躇いはなく、息するかのような動作に、ただただ嘆くしかなかった。
 血を伝わせるトレイドは悲しい顔で眺める。少し前に聞かされた、仲間意識の強い者による無慈悲な攻撃にただ悲しむ。正気が失われた事を嘆いて。
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