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寒く凍て付く雪、温もりに厳しさは和らいで
移ろう世界、乗り出す調査 悲しみ残る雪地
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【5】
来訪者を呑み込むように植物は溢れ返っていく。その様を観察しながら記憶と照合しない物があれば簡素に書き留め、奥へと進む。境目に訪れて数時間立つ頃には、見慣れた森林地帯の内部が視界に広がっていた。
踏み入った時点で変化はちらほら見られた。気象や植物に大きな変化はなかったが、生物が増加している事は直ぐにも気付けた。それは人の脅威に、いや時には全ての生物に牙を剥きかねない可能性を秘めた小動物、虫である。
それは様々な姿を為し、当たり前のように森林に融け込む。記憶の虫と似通った姿もあれば、全く見た事のない形状のそれも生息する。気持ち悪さに怖気が走っても、不自然さや違和感は皆無、異物感も無い。唐突でも自然の一部として息をしていた。
「こんな風に変わるんだな。今迄居なかった奴等がドバッ、って感じで出てきやがるな」
「それを言うなら、俺達も変わらないだろ。あの『異変』で俺達も含めて大勢が来たんだからな」
これぐらいでは心を乱さないガリード、平然と甲虫を手に取る。その横、忙しなくペンを走らせるトレイドが返す。同列として語っているが、その通りなのでガリードは笑って。
「そういやそうだったな・・・ん?如何したの?クルーエさん」
「あの、虫が、苦手で・・・」
答える彼女はかなりの嫌悪感を、顔を少し青くして身体を捩る。相当嫌な経験があるのか。それとも虫の存在自体が受け付けないのか。
「そっか!ごめん、気付けなくて」
自然と嫌がらせになってしまったと直ぐにも甲虫を手放す。解放された甲虫は嬉しそうに森の中へ消えていった。
「・・・さて、分かっていると思うが警戒を怠るなよ、ガリード」
「分かってるよ」
書し終えたトレイドが念を押す。言うまでもないと、自信の満ちた笑みを見せた彼は何時でも剣を抜けるよう心構えて。注意する当人も自身を確認する。破損して以降、胸甲をしていない身は軽く。不安を残すが仕方ないと切り替えて。
「クルーエも気を付けてくれ。魔物が出てきても俺達が対処する。もしもの時は、操魔術を使ってくれ。身を護る範囲でな」
「わ、分かりました・・・」
「ま!心配しなくても良いぜ?そん時は何が何でも俺が、いやトレイドが守ってくれるからよ」
少々緊張する彼女にガリードが笑い掛ける。緊張を解す為のそれが功を奏し、余計な力は抜け落ちて。
「・・・よし、行くぞ」
何時からか設けられたであろう道に立ち、その道に沿って三人は歩き出していった。
進み行く時、頭の隅に過ぎったのは内部の印象。以前は木々が密集し、差し込む陽射しが視認出来るほどであった。しかし、今は乱立する植物達の感覚に統合性が無かった。自然のまま、伸びるがままであり、他の植物を押し退けて空を目指す様が広がる。
木々同士の間隔は目に見えて変化し、全体的に内部が明るく見えた。無論、場所に拠っては陽射しが射し込まないほどの暗さもある。それは一瞬異変にも思え、だが、それこそが正しい姿である。
やや混乱しそうな変化をトレイドは書き逃さず、継続して具に変化を見極めながら奥へと入っていく。
踏み入ってから余計な会話は無かった。警戒する為、それは仕方ないのだが必然的な沈黙は痛く感じて。そうして際立たされる周囲の物音。何かの鳴き声が時折聞こえ、警戒が強弱してしまう。それも原因の一つであって。
森林地帯のみならず、危険と隣り合わせの場所を進む事に慣れを感じるトレイドとガリードとは異なり、クルーエは少々怯えを示す。二人に守られて安心を抱けたとしても。
「・・・止まれ」
「えっ?如何かしたのですか?」
「来るよな、やっぱ」
気配を感じ取ったトレイドの指示にクルーエは戸惑う。同様に察知したガリードは少々辟易とした表情を見せて。
理由は直ぐにでも示される。そう、足を止めた直後、気取られたと認識したのだろう、ローウス達が姿を現したのだ。
群れが三人を取り囲み、距離を開けた状態で唸り声を出して威嚇し、臨戦態勢を示して。
「魔物・・・」
「クルーエ、分かっているな?操魔術は身を護る時だけだ。乱発すれば、環境破壊に繋がりかねない」
「わ、分かりました」
「大丈夫、俺達が居るからさ!」
冷静に対峙する二人の声を受け、少しは冷静を取り戻すクルーエ。なら、任せなければと表情を引き締めた。
指示したトレイドは数歩前に出て、剣を構えながら数を数える。視界の端で、頃合いを見たかのように一体のローウスが茂みから飛び出す。それを発端に囲むローウスも動き出して。
「トレイドさん!」
「ガリード、クルーエ、動くなよ」
注意を促されるが逆に警告する彼。妙に響いた声が二人を縫い止め、接近する姿を横目にしながら純黒の剣を地面に突き刺した。鋒が沈み、その音が響く。次の瞬間には終わっていた。
周囲、獲物を狩らんと駆動していたローウス一体一体を、黒い結晶が貫いていた。それは恰も百舌鳥に串刺しにされた獲物のよう。回避も出来ず、苦痛の声を滲ませ、苦しみもがく。飛び上がっていた個体も逃れられず、結晶を、地を赤く汚しながら沈んでいく。
忽ちに周囲は赤く、血溜まりが広がっていく。咽返る悪臭が徐々に立ち込め、比例して魔物の呼吸の音が小さくなっていった。
「・・・行くぞ」
「おう」
淡々とした態度で剣を引き抜き、処理を行う最中で溜息を吐く。取りこぼしがないかを確認した後、その横を通り過ぎていく。返事したガリードも特に気に留めずに続いていく。
その後ろ、クルーエは悲しみに満たされていた。今目の前にする光景に言葉を失う。命が容易く失われた事は衝撃的だが、彼女の感心は別にある。視線の先は屍を貫く結晶。それは黒い欠片となって散り、消えていった。
憂いを顔に宿した彼女は二人に置いていかれないように駆け出す。その目はトレイドの背を捉え、何かを言いあぐねる。それを伝える事はまだ、先の事。
時折魔物と戦闘を行い、休憩を挟んだ彼等は道に沿って歩き続けた。すると、最初の目的地であるフェリスへ到着を果たす。
恵みの村に対した変化は見られず、混乱も見られない。異常事態が発生したのはセントガルドだけであろう。
「直ぐに戻ってくる。二人は待っててくれ」
「おいよ」
「分かりました」
二人を置いて伝書を飛ばす目的を果たす為に村の中へ進み行く。その折り、クルーエの表情が優れなかった事を少し気掛かりにして。
向かう足で周囲を見渡して変化の有無を確認するが特出する点は見られなかった。農業を営む其処の敷地は依然として広い。作られた作物は美味しそうに瑞々しく、畜産の生物の声が響いてくるが姿が見られずに。
詳しい調査は後回しにするとして、今は伝書を、報告をする為に足を急がせた。
無事に報告を送ったトレイドは二人の元へ戻る。日々の喧騒から離れた、長閑でゆったりとした時間が流れる環境にて心も休める二人は彼を出迎える。
「待たせた」
「いや、そんなに待ってねぇよ」
「はい」
心成しか二人の表情は明るく、柔らかい。短い時間だろうと自然に取り囲まれると心が落ち着くのだろうか。けれど、クルーエの表情には憂いが見えて。
「なら、行くか。引き続き、気を抜かないようにな」
その事に指摘はせず、目的地を目指すのであった。
【6】
フェリスを出発して黙々と沼地地帯を目指す。時折、邪魔者に遭遇し、軽く蹴散らしながら、見掛ける多少の変化を書き留めながら進んだ。時折、ガリードが気を紛らわすような話題を持ち出して。
そうする三人は変化を察知する。それは視覚、そして触覚が感じ取った為に見逃す筈も無かった。
木々の切れ間が見え始めた頃、薄くなる層を掻い潜って彼等に落ちたもの、それは雨。微弱に、そして細いそれが一滴二滴と。気付かずに進み行けば更なる変化で彼等を迎えた。
少なくなる木々、その地面に水溜まりが見え始め、泥濘も生じ始めていた。肌で感じるのは僅かな寒気と湿気。それらを感じて境目に就いたと判断する。
その目が、確実に緑が無くなっていく光景を取らえる。遠方には最早木など見られない。灰色に落ち込んだ空が見え出す。或いは、苔むした大岩か。兎も角、環境は移り変わろうとしている。
此処もまた以前会った『境』が無くなった。この世界は常軌を逸していると言えよう。ガリードの主観の通り、次第に世界が元の姿を取り戻しているかのように思えてくる。そして、あの日から今迄の常識は激変し、それすらも崩壊しそうな気がして、トレイドは少し顔を顰めた。
「此処も、そうだな」
「って、事は他もそうなってそうだな」
二回目となれば耐性が付こう。驚きは少なく、憶測を立てられる。それを確信する為の調査でもあり、書き留める最中で頷いて同意していた。
書き留めた後、トレイドは立ち止まって遠くの景色を眺める。目を細め、哀しみを表情に映す。抱く印象、苦しい記憶を連想させる雨は早々に慣れる事は出来ず。
「あの・・・如何したんですか?」
立ち止まり、思い耽る彼をクルーエは心配し、顔を窺いながら問う。それに気付いた彼は顔を背けて。
「・・・雨が、降っているなと思っただけだ」
抱えた気持ちを誤魔化す。違和感を感じてクルーエは少し首を傾げて。
「まぁ、濡れちまうな。俺とトレイドは良いとして、クルーエさんは雨は平気なのか?」
そうする彼を庇うようにガリードが話題を変えようと質問を投げた。
「はい。このローブは防水機能が高いので」
フードを付けたローブの裾を掴んで広げる彼女がそう語る。けれど、所が汚れ、傷付いているので不安が感じられて。
「・・・まぁ、此処まで来たんだ、我慢するしかない」
別の意味合いを篭めて諦めろと告げ、僅かに重くなった足を動かして進み出す。溜息を零し、身体を少しずつ濡らしながら。
進み行けば環境は激変する。緑は極端に姿を消し、哀愁しか感じ取れない枯木が点々と。苔生した大岩が所に有り、蓮状の植物が微かに見える。そして、延々と降り続く雨に因って暗い色合いの土はぬかるむばかり。
一見して変化が見受けられない地帯。曇天の空、降り続く雨は小雨で弱々しく。陰鬱とした光景は本当に変わり映えが無いように。
「・・・このままローレルに向かうぞ」
二人を見て指示するトレイドの面は暗さゆえか、憂いを帯びて物悲し気に。事情を知るガリードも知らなくとも察したクルーエも頷き、先行く彼の後に続いていった。
遠くにあるローレルまでの道程は迷う事は無い。道標の細い柱を、等間隔に建てられたそれを発見すれば、後は沿って進むだけ。次第に降雨で霞んだ景色に建物が、村が見え始める。
細かな雨に濡れ、髪の先端から雫が滴り落ちる。少しずつ暮れ行く世界、その陰りの中で歩くトレイドの面は憂いに満ちて。例え、真顔であったとしても。悲しい記憶が呼び起こされる降雨を浴び、胸中で苛む痛みに拠って。
「トレイドさん、体調が悪いのですか?」
体調が悪くて表情が優れないのだと考えて彼女はそう案じる。
「・・・いや、違う。これは・・・気にするな」
指摘されて表情を戻して誤魔化す。実際には気の迷いのようなもの、気にさせる事ではないとして。
だが、それは強がりや気丈に振る舞っている様に見え、心配する彼女は腑に落ちず。
「そう、ですか・・・」
泥濘を変わらぬ足取りで過ぎ行く背を消えぬ思いで見つめる。しかし、それ以上は踏み込めず、同じように進み行くしかなかった。
誤魔化したトレイドは溜息を零していた。ずっと続く心的外傷、雨に因って呼び出されて表情に陰が差す。それを認識し、改めようとしても自然と足取りは重くなってしまう。それでも、歩みを止める事はしない、今は立ち止まれないと言うように。
雨が涙の様に伝い出して暫くして、三人は沼地地帯の村、ローレルに到着する。既に復旧に取り掛かる其処も別段変化は見られない。
もう既に最終段階と言えるのか、疎らに復旧の姿が映る。汗に塗れ、けれど雨で流す身で、家屋の修繕や新築を行う。角材を担ぎ、道具を片手にする姿は一介の戦士のようで。
村には石畳が敷き詰められ、泥濘が晒された場所はほぼほぼない。主要の建物も立て直され、多くの住居が構えられており、住人達は日常を築きつつあった。
もう陽は彼方に消えようとし、家屋から漏れ出す光が目立つ。皆が帰路に立つ時間帯。そうなれば選ぶのは宿を探す事。先に相談していた事でもあり、村の様子確認も程々に、唯一の其処へ向かう。
強面の店主の出迎えと借り受ける遣り取りをそれなりに、三人は別々に部屋を取って時間を過ごす。それぞれに時間を潰していった。
夜の帳が下ろされ、雨音が少し大きく聞こえるようになった時頃。暗がりに落ちた宿屋の廊下を渡る人影が一つ。それはとある部屋の前で止まり、ノックを行った。
「・・・誰だ?」
「入っても、良いですか?」
室内から聞こえるのはトレイドの声であり、廊下で言葉を発したのはクルーエ。間も無く、扉が開かれ、静かに招かれる。
「如何した?身体に不調が出たのか?」
部屋の唯一の椅子を差し出し、その傍の壁に凭れたトレイドが問い掛ける。それに神妙な面持ちの彼女は首を横に振った。
「なら、何だ?」
再び問うと彼女は言い出しそうに、後悔を顔に宿して口篭もる。だが、躊躇いながら口を開く。その視線は剣を見てから、彼を見て。
「あの時の、結晶・・・あの力は、何時から、出せるようになったのですか?」
まさに、黒い結晶を呼び出す能力を指す。それが分からぬ彼ではないが、その事に気を留め、気に病む理由が分からなかった。
「・・・確か、村を出て一週間程度経った頃だな、使える事には気付いたのは」
「やっぱり、そうなんですね・・・」
納得した彼女は俯く。予期していた事、だが目の前で確認して深い悔いを示す。
「・・・そうか、出来る事に、予想はしていたのか」
「・・・はい。人族の方は元々、操魔術を使えません。ですが、トレイドさんは私の血が混じって混血族になりました。『血の代償』を行いましたから・・・」
「ああ、君の・・・」
「すみません」
それは助けようとした行為の結果、その副産物の様なもの。其処に恨みはなく、寧ろ感謝しかない。その気持ちを伝えようとした矢先に謝られた。困惑しかなく。
「何で、謝る?」
思わぬ謝罪に小さく困惑しつつ、その理由を問う。それに彼女は更に恐縮してしまう。
「貴方に『血の代償』を行ってしまった所為で・・・」
「・・・君が、それを気にして如何する?そうか、それを気にしていたから様子が変だったのか」
あの時からずっと彼女の様子が変であった。いや、ともすれば、あの銀龍との戦いの最中で見た時から抱えていたのだろう。
それを語られ、漸く腑に落ちたトレイドだがその悔いは間違っていると口にして。
「あれは、俺を助けてくれる為にしてくれた事だ。恨み処か、感謝しかない。『血の代償』に関しても、一切、恨みはない」
「ですが・・・」
「君が、自身を、魔族である事を卑下するな。自分が悪いと思うな。自己否定、しないでくれ。俺は、君のお陰で、強くも成れた。だから、自分を責めないでくれ」
自責に囚われる彼女を説得する。必死に、悪い方向に捉えてしまう、ある意味魔族特有の思考を改めて欲しいと。
「・・・私は、あの日から、ずっと・・・」
「もう、そんな事は思わなくても良いんだ。俺は、君に助けられて、初めて生きて良いんだと、思った。君には、感謝しかない。だから、そんな事を思わないでくれ。俺は、君のお陰で、此処に居るんだから」
あの出来事で自分の心も救ってくれた、その思いを正直に伝える。偽りなく、伝える。すると、彼女の瞳から、涙が溢れ出した。
そうなってしまった日から、ずっと思っていたのだろう。ずっと責めていたのだろう。その思いが溢れ出し、顔を手で覆う。
その彼女を、トレイドは自然に抱き締めていた。自責に駆られ、自分を追い詰めてしまった彼女を慰める為に、落ち着かせる為に。
その姿、トレイドもまた涙を伝わせて。
「・・・すみません、見っともない姿を見せてしまって」
落ち着き、涙を拭った彼女が小さく謝る。涙の跡を残し、少し赤くなった顔だが何処かスッキリとして。
「いや、俺の方こそ悪かった、君の負担になっていたなんてな。だが、本当に気にしなくても良い。あれが有るから、今の俺に繋がっているんだからな」
タオルを渡したトレイドはそう言い聞かせる。感謝も乗せ、その心配はないと納得してもらう為に。
「・・・まだ、早いが、寝よう。明日は忙しくなるかも知れないからな」
「分かりました、おやすみなさい」
微笑みを見せるほどに落ち着いた彼女は一礼と挨拶を残して部屋を後にする。
見送ったトレイドは外に顔を向け、溜息を吐く。自責する姿、それは自分にも当てはまるのではないかと。そう思い、虚しい思いを抱いて。
蝋燭の火が消えるまで、その寂しい風を感じるような感覚と向き合い、雨続く夜空を眺めて思い耽っていた。
【7】
翌日、支度も程々に宿を後にする三人。降雨を浴び、溜息を零したトレイドは二人に向き合う。
「前々日に決めた通り、俺とクルーエは雪山地帯に向かう」
「俺は沼地地帯の調査だな、了解」
大剣を確かめ、納める彼は自慢げに返事を行う。やる気は十分、戦意もまた。
「ああ。手を抜くなよ?」
「仕事だから手は抜かねぇよ。お前こそクルーエさんを確りと守れよ」
「分かってる」
「ガリードさん、気を付けてください」
「クルーエさんもね。こいつが居るから大丈夫だとは思うけどさ」
上機嫌に言い残してガリードは泥濘の満ちた外へ踏み出していく。
「俺達も行くか」
「はい」
昨夜の遣り取りを経た為か、変に気遣うような空気は無く、自然な様子で雪山へ向かって歩き出していった。
湿気に覆われた沼地。草原と同規模の広さか、見渡した限りでは変化は見られない。移動に苦難しつつ、休憩や軽食を摂りながら進み行く。やがて、天候はその様を変えていった。
顔を濡らす小雨はやがて勢いを失い、下がりつつある気温に依ってか雪が混じり出す。霙、氷結する境のそれらは地を濡らす。薄れゆく泥濘、湿気が薄れる地面を凍て付かせる。それ故にか、その地に白さが見え出して。
息が白み始める頃、正面には白く聳える山々が、そう雪山が姿を表していた。遠目でも、環境に掠められていようと純白さは霞まない。遠方から見上げれば霊験あらたか、神秘な場所を思わせる。其処が、目的地の雪山地帯である。
其処を確認した二人は足を止め、黙して眺める。その動作の中、目元に雪が流れ落ち、肌の温もりで解けて伝う。それは涙を思わせた。
「戻って、来たのですね・・・」
先に立ち止まったクルーエが小さく零す。呟きに怯えが見え、何かを入れた手提げを抱く。肩を震わす、彼女は思い出したのだろう。その顔は悲哀に満ちて。
「・・・良いんだ。無理して、行く事は無い。戻っても、良いからな」
悲しい記憶に塗り潰された場所。踏み込むには勇気が要る。恐怖に打ち勝てる強い心。まだ、覚悟が足らないなら無理する必要はない、苦しもうとする必要はない、そう言い聞かせるように。
「だ、大丈夫です。行きます・・・!」
意を決し、恐れを残した顔で返事する。明らかに強がり、我慢が見える。止めたい思いが募るのだが、それ以上止める事はしなかった。乗り越えようとする気持ちを阻害してはならないと。
「・・・分かった」
心配を抱えるも彼女の意思を尊重し、神秘に映る雪山に向けて歩き出していく。その寸前に手持ちを確認し、不足分が無い事を見てから踏み出していった。
進むに連れ、霙は雪へ、大粒のそれに姿を変え、地面を覆う積雪の量が増加していく。周辺が完全に白に染められた頃には足を取るほどに積雪が厚くなっていた。
風も音を立てて吹き荒れ始め、その風は転倒しかねないほどに強く。身体に付着する雪の勢いは強くなり、打ち付けるように。そう、暴風雪領域に踏み入っていた。
「ぐっ!・・・?これは・・・」
暴風雪に抗いながら進み行こうとした時、唐突に風の感触、雪の冷たさが消え去った。不可解なそれに気付くと同時に自分達に起きた事を理解した。
直径およそ一メートル程か、暴風雪が至らぬ空間が出来ていた。ほぼ無風と言える其処は雪風を防ぎ、弾いていた。宛ら結界。
「トレイドさん、私が止めていますので進みましょう」
その不可解な現象はクルーエが起こしていたもの。操魔術で風を起こして相殺し、その上熱も発生させて温度を調整していたのだ。
「大丈夫なのか?」
「はい、通行する分は問題ないです。何時もこうしていたので」
彼女が語るように、慣れているのか、様子は変わらない。継続しても支障のない消耗量と言うのか。
「なら、頼む。その間、魔物の事は任せろ」
彼女を頼りにし、警戒を深めて雪山の奥へ目指す。暴風雪を受けなければ通行は大幅に楽であり、進む足取りは段違いに軽く。
進み行く中で周辺を確認するが地形の変化など全く分からず。変わっていようが道程だけは変わっていない事を願いながら、山道を順調に進んでいった。
来る者も去る者も拒む領域を超えた時、視界が晴れると同時に重みから解放される。今回の彼等は一切怯む事無く踏み入り、その目で周囲を見渡していた。
山々に囲まれた道はやや狭く。雪で埋め尽くされた白さは音を許さず、穏やかな静けさに落とされていた。
「ありがとう・・・行くぞ」
「はい」
見覚えのあるその光景を見た二人は二言ほど語るのみ。礼を伝え、応じたその後は無言のまま歩き出す。余計な言葉は口には出来ず。
雪道を歩く音、呼吸の音、時折風の音が良く響く中を二人は進み行くのみ。
見渡したところで特出するほどの変化は見られない。同様に道を埋める積雪、時折見える雑木林も大方白に埋められる。彼等以外に訪れた者、生物は居らず、積雪に不自然な形は残されず。
それが返って悲しみを煽る。其処に人の往来は無い事実が悲しく、二人は表情を暗くして。
緩やかな上り坂を進み行けばやがて下りに差し掛かる。その変化地点に着けば見渡せてしまう。嘗てあった場所を。其処は予期された光景ではあるが、見たくもない惨景の跡でもあった。
雪で埋められた広場、僅かな起伏が多い事から何かが埋まっているを示される。極度な高さがあれば隠され切れず、嘗ての名残が見え隠れする。
そう、残骸の一部。それは村を為していた建物の一部、建物であったもの。それが散乱し、雪に隠されていた。何もかもが白に染められていた。
其処に生物の姿は一切無く、静まり返ったその場所はもう村とは呼べない。更地と成り果て、名称も出来ず。此処に思い出は存在しない。続いていた筈の日常と共に失われ、悲しき事実に塗り潰されていた。
息が吐かれる。白くなったそれで景色を曇らせても事実は消されずに。
トレイドは顔を顰め、クルーエは気分を悪くして逸らしてしまう。二度目であろうと初めてであろうと、どのような思いで臨んだとしても胸を抉られる思いになってしまう。
静かにクルーエは涙を流し出す。その目でもう一度村が有った其処を見渡す。やはり受け入れられないと、直ぐにも崩れ落ちそうな様子で。
「クルーエ・・・此処に用があるんだな?」
止め処ない思いを堪え、胸を押さえる彼女に問いを投げる。それは慎重に。
息を懸命に整えて気持ちを落ち着かせようとする彼女。伝う涙を拭った後、強い悲しみを宿した面で口を開いていく。
「・・・皆を、弔う為に、来ました」
答えながらあの手提げを、その中身を見せる。中には木札が数枚、その内の一つを取り出してトレイドに手渡した。
「・・・サイザ、村長の、か。そうか、全員の・・・」
表面には文字が刻まれ、読み取れたそれは人名。嘗て、約束を交わした者の名前と向き合って声色が落ち、犠牲になった全員の分を用意していると察する。
「はい・・・そう、なります」
消え入りそうな声で、震える声で肯定する。それだけで此処に来たい理由を理解し、押し寄せる悲しみに硬く目を閉ざしてしまった。
墓標、小さいながらもそれは確かに。人数分、合間に用意したのだろう。無論、彼女だけでなく、魔族の全員が手掛けたのだろう。
どのような状況だろうと故人を想う。その優しく、切ない思い遣りに胸は苦しくなる。
「・・・ガリードが埋葬したと言っていた、先ずはそれを見付けよう」
細やかでも弔いたい気持ちに答え、優先して周囲を見渡す。トレイド自身も切に思っていた為に。
その気遣いにクルーエは小さくありがとうと呟いていた。
挫けそうになる光景を横断し、気分を損ねながらも探す。その足は次第に村から離れ行き、多少開けた場所に辿り着いていた。
偶々木が生えていないのか、伐採されて久しいのか、伸びる数本の樹木の付近の開けた空間。其処に何が有ったのか、それを知る人はもう少なく。
其処を目指したのは数本、何かが立っていた事に気付いたから。近付くとその正体を知る。瓦礫の一部で造った十字架、それが等間隔に並べられ、それに沿って僅かな膨らみが出来る。数は犠牲者と同数、何を意味するのかは数えて理解してしまって。
誰が埋葬されているのか、最早識別出来ない。その為か、彼女は全員を眺めた後、中央位置に木札を置く、刺し、添えるように。白い雪は抵抗せず、受け入れるかのように。
その様、トレイドは胸を抉られる感覚に囚われる。歯噛みし、苦悩する彼の耳がクルーエの言葉を聞く。何時か、ちゃんとしたお墓を建てますからと。その切なき声に更に鈍き痛みが走って。
語り掛ける彼女は目に見えて悲しむ。立て掛けるだけでもその手は滞って。けれど、沿え、震える声を零して立ち上がった。
静かに通観する傍へトレイドは近寄る。声を掛けようとした時、再び彼女の声を聞く。亡くなった一人一人の名を呟いていた。声は震え、伝い続ける涙で頬は濡れて。
全員の名前を言い終えた彼女は一呼吸を置く。次に息が切れた時、両目から一層の涙が溢れ出した。ゆっくりと顔を覆い、泣き崩れ、大声で泣き伏してしまう。手の隙間から涙が流れ落ち、純白の雪に浸透していく。隣に立つトレイドも目を硬く瞑り、彼女の鳴き声を痛く耳にしていた。
既に聞かされ、覚悟していたとしても、目の前にしてしまえば感情を抑える事など出来なかったのだろう。魔物の手に拠ってならばまだしも、凶刃に掛かったのだ、到底受け止め難く。否定する思いが溢れ出て仕方なかった筈。
トレイドもまた似たような感覚に囚われた。知人や家族を失う気持ちは解りたくとも、知ってしまった。しかし、それで慰められる事なんて出来ない。境遇は似通っていようとも、気持ちは同じではない。それが、苦しくて。
崩れた彼女の肩の肩に手を添えるしか出来ず、悲嘆する声を聞き止めて硬く歯を食い縛る。彼女の悲しみを受け、彼の瞼の隙間からも涙が、一筋の涙が伝った。
改めて思い知ってしまう、受け止めるしかなかった。喪ったと、また守る事が出来なかったのだと。知った時には手が届かなかったと分かって居たとしても。
【8】
泣き声が、彼女の様子が少しずつ治まっていく。それを見計らうようにトレイドは彼女に手を差し出す。既に取り出していたタオルを差し出して。此処でハンカチを差し出せられない事を小さく悔いて。
無言でのそれを動作の音で察したのか、一呼吸を置いた彼女は小さく頷いてそれを受け取っていた。
手渡した後、トレイドは少し離れて辺りを見渡した。地形の変化は顕著でなければ積雪で分からず、視界に殆ど変わり映えのない光景が広がるのみ。谷のような形状の其処、山肌を見ても映る範囲では見受けられず。
見渡す彼は思案し、直ぐにも方針が定まる。準備をしたとは言え、寒き場所。拠点を設けられないなら長時間の滞在は不可能と言える。今日は陽が暮れない内に撤退する事を決めていた。
調査は不十分過ぎる。帰り道で調査するにしても、そもそもの情報が少ない為に不十分が過ぎた。けれど、今は彼女をこれ以上苦しめたくない想いも上回り、そう決断していた。
「そろそろ、下山するか・・・此処は、寒い。陽が暮れない内に、な」
見ただけの情報でも後で書き留める事にし、下山を優先する。指示された彼女は小さく返事を行って立つ。名残惜しそうに、静々と。
「あの、これ・・・」
立ち去る寸前で彼女に話し掛けられてトレイドは振り返る。目元を赤くし、やや恥ずかしそうな彼女は手にするタオルを躊躇いがちに出す。
「・・・ああ、悪い。こう言うのしか持っていなくてな」
小さく苦笑しながら受け取る。それで少しだけ気を紛らわせようとして。
「いえ、そんな事はないです。助かり、ました」
「だが、まだ持っていてくれ」
迷惑を掛けたと申し訳なさそうにする彼女に押し返して。
「え、でも・・・」
「まだ、雪や雨などで濡れる・・・大して役には立たないと思うが、一応な」
少々苦笑を浮かべて促す。それに彼女の顔は少しだけ明るくなって。
「それじゃ、使わせて頂きます」
「ああ。じゃあ、降りていくぞ」
少しだけ元気を取り戻した様子を確認して歩き出していく。続く彼女の足取りは少しずつだが普段の調子を取り戻していく。
途中、トレイドは立ち止まり、振り返っていた。人が居なくなってしまった、寂しく物悲しい村の跡。見渡すだけで胸に痛みが生じ、続いてしまうそれを抱えて立ち去っていった。
道を引き返していくとある時点を越えた瞬間から吹雪き始め、強烈な暴風雪に巻き込まれてしまう。その変化は以前と同じ。けれど、強さは段違いであろうか。終始、身体は煽られ、少しでも気を抜けば敢え無く転倒しよう。視界も白に埋められて最悪で。
だが、クルーエが念じてしまえば強烈なそれに苦しめられる事は無い。阻害の手を遮断し、降雪が吹き荒れる様を眺めながら進められる。とは言え、積雪の中を突き進むのは多少手古摺って。
「ありがとう、クルーエ。本当に助かる」
「いえ、これぐらいは・・・」
率直に感謝を述べ、片手間に念じる彼女は照れを見せて。
彼女の操魔術のお陰で苦難する事無く下山していく。その分、余裕が生まれ、トレイドは周囲を凝視する事が出来ていた。けれど、白く染められた景色は実に見難くて。
「・・・?あれは・・・」
風雪荒ぶ光景の彼方、薄らと何かが視界に入り込んだ。一瞬の為、見間違いも過ぎった。けれど、それは自然物ではなく、建造物と認識出来た為、足を止めるには充分であった。
「トレイドさん?」
「クルーエ、少し道を逸れてしまうが大丈夫か?」
道を逸れた事に拠る遭難の恐れ、余分な時間を消費した事での陽が暮れる恐れはあるも、道筋を記憶するトレイドはその恐れはなく。
「はい、分かりました」
了承する彼女に疲労の色は感じられない。まだまだ余裕が見受けられ、道を外れる事を選んでいた。
荒れ狂う冷風、厚く大きな雪で白く塗られた景色を二人は進む。微かに見えた方向に向け、転ばぬように力強く踏み付けて進む。また、彼女と離れないように、何時の間にか柔らかな手をしっかりと握り、歩幅を合わせて。
その行為、トレイドにとっては互いの為、クルーエにとっては別の感情が込み上げる事。雪の中で仄かに顔が赤いのは寒さだけではなかった。
少々根気強く進み行くと、唐突に視界が平穏に包み込まれた。荒んだ環境は驚くほどに鎮まり、二人を出迎えるように。暴風雪を抜け出した二人は直後に立ち止まり、周囲を見渡した。同じ白が溢れていても、多大な興味が一つに寄せられて。
「・・・遺跡、なのか?」
やや広い場所、山の窪地の様な其処。削り取った様な崖の一角に不自然な四角い穴が開く。嘗て其処は何かの施設だったのだろう。何かの形を模っていたであろう、石材、若しくは石柱の欠片が辺りに山積するように崩れる。構造を見るに屋根、柱を付けたそれか。正しくは分からない。
崩壊して相当の時間が経過した事を積雪の量がそれを示し、岩の劣化具合や破損状態から想像出来る。もう形を保っていない其処が何を象徴していたのか、知る由もない。
「これは・・・無かった筈だ」
「はい、このような場所は無かったです」
あの村に滞在し、狩りの為に暴風雪付近へ頻繁に赴いたトレイドも、此処に暮らしていたクルーエでさえも覚えは全くなかった。ならば、帰結するのはあの地震の影響で出現したのだと。
経年に矛盾が生じるものの、そもそも様々な場所の度合いが異なる。それに疑問を抱いた所で意味も無く。
「・・・あの中に入ってみよう」
辻褄は合わせられても困惑する二人、疑問は興味を生み出す。元より調査に赴いた身、調べなければならない思いもあって。
「はい、分かりました」
それに少々不安ながらも彼女は了承していた。
共にその遺跡と思われる場所へ向かう。石材と雪に埋もれているが、構えられた小さな階段を登って穴へ向かう。その途中、滑らないように、彼女も気遣いながら。
気味が悪いほどに直角を模るその空洞、出入口付近は崩壊した石材で半分近くが埋もれる。けれど、人が通過するには十分の隙間があり、その中に踏み入れていった。
中は真っ直ぐな通路となっており、光が届かぬ程の奥行きがある為にトレイドはウェストバッグから光る石を取り出して奥を目指した。
その通路も自然で出来てなどいなかった。四角く刳り貫かれ、石材で四方を補強して柱を等間隔で建てていれば人の手が加わっている事は明らか。
少し歩いてゆけば最奥に明るさを視認する。その光源は火のそれでなく、外からの明かりと想像出来た。それに誘われるように二人は向かう。
進み行けば足音がその空間に反響し、何処までも響き渡った。二人分の足音が曲を奏でる様。度々、水が跳ねて音を立てた。溶けた雪が染み出したのだろう。
奥へ向かう最中では別段何も起こらず、最奥へ到着を果たす。其処は光が射し込み、あの石が無くとも問題ないほどに。
其処は白かった。輝かしいほどに白く、一切の澱みも無く美しかった。広場、円形に構築された其処、一面に雪が敷き詰められる。膝元まで深々と積もったそれは天井の一部が崩れ、外が覗けている為であった。
光と雪が降り注ぐ光景は神秘的に、射し込むそれは広場の中央部を照らす。円形の舞台を思わせるそれは階段を備えていた。それも雪に染められ、神聖な祭壇ではないのかと思わせた。
「不思議な所ですね、綺麗・・・」
「・・・ああ、そうだな」
感嘆が零れる。見惚れ、その場所に立ち尽くしてしまう。一瞬、何もかもを忘れてしまう程に美しい場所であった。
侵略する事は躊躇う。あまりにも美しい其処を進むのは躊躇してしまう。だが、調べる為には仕方がない事。踏み出した時、此処の雪だけはあるのか分からないほどに柔らかかった。
まるで沈黙を約束されたその場は見れば見るほど、白く輝いて見えている。踏み、圧縮する音は積雪に吸い込まれてほぼ静かなまま。天井からも微かな音は聞こえず、本当に静か過ぎて。
舞台に近付き、段を踏み上がっていく。その際、周囲を確認したが他に特出する箇所は見えず。そして、登り切った二人の視界は平坦に整えられた頂上が映った。例外の無く雪に敷き詰められ、中央には台座が一つ。
台形に模ったそれに奇妙な剣が突き立てられる。人為的に置かれたそれは不自然なほどに透き通り、光を透き通して煌びやかな光沢を纏う。まるで水を結晶化したかのようなに流麗に、物騒さは一切なく美しく。全体的に薄く、場所が場所の為、薄氷で模った剣に映った。
そして、それは雪を一つたりとも身に付けない。それ処か直径一メートル程の範囲に雪が落ちる事は無い。何らかの力が働いている事は確かで。
「これは・・・」
明らかに常軌の範疇から外れたそれ。だが、祈りを捧げたくなるほどの神聖さを感じる。見惚れてしまうそれを前に二人は立ち止まった。
吸い込まれるように見つめるクルーエの隣、トレイドは如何言う訳か懐かしさを抱いた。それ故か、無意識に引き寄せられ、柄に向けて手を伸ばす。
「・・・ッ!」
柄を握った瞬間であった一瞬、脳裏に強烈な映像が過ぎった。白く靄の掛かった映像は不鮮明であった。けれど、数人だけは識別した。
少々長い黒髪の、危険そうな雰囲気を醸し出す青年。活発的な印象を受け、笑顔が眩しい黒の短髪の女性。見覚えなど無いのに、その二人に涙が込み上げるほどの懐かしさと愛おしさを抱く。けれど、その感情は瞬く間に消えて。
「・・・今のは?」
不意の体験に驚き、手を放して後退ったトレイド。不可解過ぎるそれに困惑して仕方ない。けれど、その実は理解出来ない安堵にそれほど狼狽はせず。
「如何したのですか?」
当然、クルーエが尋ねる。
「・・・いや、気にするな」
戸惑う彼は誤魔化しつつも再度剣に触れる。けれど、次は起こらず、先の体験が嘘だと思えるほど静かに。
「・・・何だったんだ?」
困惑すれど解決する術はない。何度触れようと凝視して確かめようと決着する事は無い。
それから、周囲を確かめるのだがやはりそれ以上に変わったものは見られなかった。
「・・・此処にはもう目ぼしいものは無いな。陽が暮れる前に、早く下山しよう。付き合わせて悪かった」
「いえ、大丈夫です」
疑問が増えたものの新たな変化だと、静かな場所に立つ事を利用し、今迄の調査を書き留めたトレイドは今度こそ下山を決定する。
ふと眺めた崩れた天井、其処から見える空の一部。薄暗い、曇天は深々と小さな雪を降らし、柔らかな光で微かに煌いて。
去る間際に振り返って舞台を眺め、あの剣を想う。神秘な空気を纏うそれ、根拠はないがまた会うだろう、そう思っていた。
外へ出て、暴風雪吹き荒れる領域を通過していく最中、改めて思い返す。あの時の映像、いや記憶であろう。二人、同い年と思しき青年。やはり見覚えがあって。
考え得る事は一つ、遺伝子記憶が呼び起こされたのだと察する。刻まれた記憶、だが自分には関係の無い事。思い返す意識は次第に外へ向かれ、頭から離れていった。
それは悲しい事、なのだろう。寂しく感じたのは気の所為でなく。
次々と起こる事象、伴い深まっていく謎に、人々は翻弄され続けるしかない。その中で、些細な事は忘れ去ってしまうだろう。目まぐるしい時間の中、何時かは思い出すのかも知れないが今は忘れて。
来訪者を呑み込むように植物は溢れ返っていく。その様を観察しながら記憶と照合しない物があれば簡素に書き留め、奥へと進む。境目に訪れて数時間立つ頃には、見慣れた森林地帯の内部が視界に広がっていた。
踏み入った時点で変化はちらほら見られた。気象や植物に大きな変化はなかったが、生物が増加している事は直ぐにも気付けた。それは人の脅威に、いや時には全ての生物に牙を剥きかねない可能性を秘めた小動物、虫である。
それは様々な姿を為し、当たり前のように森林に融け込む。記憶の虫と似通った姿もあれば、全く見た事のない形状のそれも生息する。気持ち悪さに怖気が走っても、不自然さや違和感は皆無、異物感も無い。唐突でも自然の一部として息をしていた。
「こんな風に変わるんだな。今迄居なかった奴等がドバッ、って感じで出てきやがるな」
「それを言うなら、俺達も変わらないだろ。あの『異変』で俺達も含めて大勢が来たんだからな」
これぐらいでは心を乱さないガリード、平然と甲虫を手に取る。その横、忙しなくペンを走らせるトレイドが返す。同列として語っているが、その通りなのでガリードは笑って。
「そういやそうだったな・・・ん?如何したの?クルーエさん」
「あの、虫が、苦手で・・・」
答える彼女はかなりの嫌悪感を、顔を少し青くして身体を捩る。相当嫌な経験があるのか。それとも虫の存在自体が受け付けないのか。
「そっか!ごめん、気付けなくて」
自然と嫌がらせになってしまったと直ぐにも甲虫を手放す。解放された甲虫は嬉しそうに森の中へ消えていった。
「・・・さて、分かっていると思うが警戒を怠るなよ、ガリード」
「分かってるよ」
書し終えたトレイドが念を押す。言うまでもないと、自信の満ちた笑みを見せた彼は何時でも剣を抜けるよう心構えて。注意する当人も自身を確認する。破損して以降、胸甲をしていない身は軽く。不安を残すが仕方ないと切り替えて。
「クルーエも気を付けてくれ。魔物が出てきても俺達が対処する。もしもの時は、操魔術を使ってくれ。身を護る範囲でな」
「わ、分かりました・・・」
「ま!心配しなくても良いぜ?そん時は何が何でも俺が、いやトレイドが守ってくれるからよ」
少々緊張する彼女にガリードが笑い掛ける。緊張を解す為のそれが功を奏し、余計な力は抜け落ちて。
「・・・よし、行くぞ」
何時からか設けられたであろう道に立ち、その道に沿って三人は歩き出していった。
進み行く時、頭の隅に過ぎったのは内部の印象。以前は木々が密集し、差し込む陽射しが視認出来るほどであった。しかし、今は乱立する植物達の感覚に統合性が無かった。自然のまま、伸びるがままであり、他の植物を押し退けて空を目指す様が広がる。
木々同士の間隔は目に見えて変化し、全体的に内部が明るく見えた。無論、場所に拠っては陽射しが射し込まないほどの暗さもある。それは一瞬異変にも思え、だが、それこそが正しい姿である。
やや混乱しそうな変化をトレイドは書き逃さず、継続して具に変化を見極めながら奥へと入っていく。
踏み入ってから余計な会話は無かった。警戒する為、それは仕方ないのだが必然的な沈黙は痛く感じて。そうして際立たされる周囲の物音。何かの鳴き声が時折聞こえ、警戒が強弱してしまう。それも原因の一つであって。
森林地帯のみならず、危険と隣り合わせの場所を進む事に慣れを感じるトレイドとガリードとは異なり、クルーエは少々怯えを示す。二人に守られて安心を抱けたとしても。
「・・・止まれ」
「えっ?如何かしたのですか?」
「来るよな、やっぱ」
気配を感じ取ったトレイドの指示にクルーエは戸惑う。同様に察知したガリードは少々辟易とした表情を見せて。
理由は直ぐにでも示される。そう、足を止めた直後、気取られたと認識したのだろう、ローウス達が姿を現したのだ。
群れが三人を取り囲み、距離を開けた状態で唸り声を出して威嚇し、臨戦態勢を示して。
「魔物・・・」
「クルーエ、分かっているな?操魔術は身を護る時だけだ。乱発すれば、環境破壊に繋がりかねない」
「わ、分かりました」
「大丈夫、俺達が居るからさ!」
冷静に対峙する二人の声を受け、少しは冷静を取り戻すクルーエ。なら、任せなければと表情を引き締めた。
指示したトレイドは数歩前に出て、剣を構えながら数を数える。視界の端で、頃合いを見たかのように一体のローウスが茂みから飛び出す。それを発端に囲むローウスも動き出して。
「トレイドさん!」
「ガリード、クルーエ、動くなよ」
注意を促されるが逆に警告する彼。妙に響いた声が二人を縫い止め、接近する姿を横目にしながら純黒の剣を地面に突き刺した。鋒が沈み、その音が響く。次の瞬間には終わっていた。
周囲、獲物を狩らんと駆動していたローウス一体一体を、黒い結晶が貫いていた。それは恰も百舌鳥に串刺しにされた獲物のよう。回避も出来ず、苦痛の声を滲ませ、苦しみもがく。飛び上がっていた個体も逃れられず、結晶を、地を赤く汚しながら沈んでいく。
忽ちに周囲は赤く、血溜まりが広がっていく。咽返る悪臭が徐々に立ち込め、比例して魔物の呼吸の音が小さくなっていった。
「・・・行くぞ」
「おう」
淡々とした態度で剣を引き抜き、処理を行う最中で溜息を吐く。取りこぼしがないかを確認した後、その横を通り過ぎていく。返事したガリードも特に気に留めずに続いていく。
その後ろ、クルーエは悲しみに満たされていた。今目の前にする光景に言葉を失う。命が容易く失われた事は衝撃的だが、彼女の感心は別にある。視線の先は屍を貫く結晶。それは黒い欠片となって散り、消えていった。
憂いを顔に宿した彼女は二人に置いていかれないように駆け出す。その目はトレイドの背を捉え、何かを言いあぐねる。それを伝える事はまだ、先の事。
時折魔物と戦闘を行い、休憩を挟んだ彼等は道に沿って歩き続けた。すると、最初の目的地であるフェリスへ到着を果たす。
恵みの村に対した変化は見られず、混乱も見られない。異常事態が発生したのはセントガルドだけであろう。
「直ぐに戻ってくる。二人は待っててくれ」
「おいよ」
「分かりました」
二人を置いて伝書を飛ばす目的を果たす為に村の中へ進み行く。その折り、クルーエの表情が優れなかった事を少し気掛かりにして。
向かう足で周囲を見渡して変化の有無を確認するが特出する点は見られなかった。農業を営む其処の敷地は依然として広い。作られた作物は美味しそうに瑞々しく、畜産の生物の声が響いてくるが姿が見られずに。
詳しい調査は後回しにするとして、今は伝書を、報告をする為に足を急がせた。
無事に報告を送ったトレイドは二人の元へ戻る。日々の喧騒から離れた、長閑でゆったりとした時間が流れる環境にて心も休める二人は彼を出迎える。
「待たせた」
「いや、そんなに待ってねぇよ」
「はい」
心成しか二人の表情は明るく、柔らかい。短い時間だろうと自然に取り囲まれると心が落ち着くのだろうか。けれど、クルーエの表情には憂いが見えて。
「なら、行くか。引き続き、気を抜かないようにな」
その事に指摘はせず、目的地を目指すのであった。
【6】
フェリスを出発して黙々と沼地地帯を目指す。時折、邪魔者に遭遇し、軽く蹴散らしながら、見掛ける多少の変化を書き留めながら進んだ。時折、ガリードが気を紛らわすような話題を持ち出して。
そうする三人は変化を察知する。それは視覚、そして触覚が感じ取った為に見逃す筈も無かった。
木々の切れ間が見え始めた頃、薄くなる層を掻い潜って彼等に落ちたもの、それは雨。微弱に、そして細いそれが一滴二滴と。気付かずに進み行けば更なる変化で彼等を迎えた。
少なくなる木々、その地面に水溜まりが見え始め、泥濘も生じ始めていた。肌で感じるのは僅かな寒気と湿気。それらを感じて境目に就いたと判断する。
その目が、確実に緑が無くなっていく光景を取らえる。遠方には最早木など見られない。灰色に落ち込んだ空が見え出す。或いは、苔むした大岩か。兎も角、環境は移り変わろうとしている。
此処もまた以前会った『境』が無くなった。この世界は常軌を逸していると言えよう。ガリードの主観の通り、次第に世界が元の姿を取り戻しているかのように思えてくる。そして、あの日から今迄の常識は激変し、それすらも崩壊しそうな気がして、トレイドは少し顔を顰めた。
「此処も、そうだな」
「って、事は他もそうなってそうだな」
二回目となれば耐性が付こう。驚きは少なく、憶測を立てられる。それを確信する為の調査でもあり、書き留める最中で頷いて同意していた。
書き留めた後、トレイドは立ち止まって遠くの景色を眺める。目を細め、哀しみを表情に映す。抱く印象、苦しい記憶を連想させる雨は早々に慣れる事は出来ず。
「あの・・・如何したんですか?」
立ち止まり、思い耽る彼をクルーエは心配し、顔を窺いながら問う。それに気付いた彼は顔を背けて。
「・・・雨が、降っているなと思っただけだ」
抱えた気持ちを誤魔化す。違和感を感じてクルーエは少し首を傾げて。
「まぁ、濡れちまうな。俺とトレイドは良いとして、クルーエさんは雨は平気なのか?」
そうする彼を庇うようにガリードが話題を変えようと質問を投げた。
「はい。このローブは防水機能が高いので」
フードを付けたローブの裾を掴んで広げる彼女がそう語る。けれど、所が汚れ、傷付いているので不安が感じられて。
「・・・まぁ、此処まで来たんだ、我慢するしかない」
別の意味合いを篭めて諦めろと告げ、僅かに重くなった足を動かして進み出す。溜息を零し、身体を少しずつ濡らしながら。
進み行けば環境は激変する。緑は極端に姿を消し、哀愁しか感じ取れない枯木が点々と。苔生した大岩が所に有り、蓮状の植物が微かに見える。そして、延々と降り続く雨に因って暗い色合いの土はぬかるむばかり。
一見して変化が見受けられない地帯。曇天の空、降り続く雨は小雨で弱々しく。陰鬱とした光景は本当に変わり映えが無いように。
「・・・このままローレルに向かうぞ」
二人を見て指示するトレイドの面は暗さゆえか、憂いを帯びて物悲し気に。事情を知るガリードも知らなくとも察したクルーエも頷き、先行く彼の後に続いていった。
遠くにあるローレルまでの道程は迷う事は無い。道標の細い柱を、等間隔に建てられたそれを発見すれば、後は沿って進むだけ。次第に降雨で霞んだ景色に建物が、村が見え始める。
細かな雨に濡れ、髪の先端から雫が滴り落ちる。少しずつ暮れ行く世界、その陰りの中で歩くトレイドの面は憂いに満ちて。例え、真顔であったとしても。悲しい記憶が呼び起こされる降雨を浴び、胸中で苛む痛みに拠って。
「トレイドさん、体調が悪いのですか?」
体調が悪くて表情が優れないのだと考えて彼女はそう案じる。
「・・・いや、違う。これは・・・気にするな」
指摘されて表情を戻して誤魔化す。実際には気の迷いのようなもの、気にさせる事ではないとして。
だが、それは強がりや気丈に振る舞っている様に見え、心配する彼女は腑に落ちず。
「そう、ですか・・・」
泥濘を変わらぬ足取りで過ぎ行く背を消えぬ思いで見つめる。しかし、それ以上は踏み込めず、同じように進み行くしかなかった。
誤魔化したトレイドは溜息を零していた。ずっと続く心的外傷、雨に因って呼び出されて表情に陰が差す。それを認識し、改めようとしても自然と足取りは重くなってしまう。それでも、歩みを止める事はしない、今は立ち止まれないと言うように。
雨が涙の様に伝い出して暫くして、三人は沼地地帯の村、ローレルに到着する。既に復旧に取り掛かる其処も別段変化は見られない。
もう既に最終段階と言えるのか、疎らに復旧の姿が映る。汗に塗れ、けれど雨で流す身で、家屋の修繕や新築を行う。角材を担ぎ、道具を片手にする姿は一介の戦士のようで。
村には石畳が敷き詰められ、泥濘が晒された場所はほぼほぼない。主要の建物も立て直され、多くの住居が構えられており、住人達は日常を築きつつあった。
もう陽は彼方に消えようとし、家屋から漏れ出す光が目立つ。皆が帰路に立つ時間帯。そうなれば選ぶのは宿を探す事。先に相談していた事でもあり、村の様子確認も程々に、唯一の其処へ向かう。
強面の店主の出迎えと借り受ける遣り取りをそれなりに、三人は別々に部屋を取って時間を過ごす。それぞれに時間を潰していった。
夜の帳が下ろされ、雨音が少し大きく聞こえるようになった時頃。暗がりに落ちた宿屋の廊下を渡る人影が一つ。それはとある部屋の前で止まり、ノックを行った。
「・・・誰だ?」
「入っても、良いですか?」
室内から聞こえるのはトレイドの声であり、廊下で言葉を発したのはクルーエ。間も無く、扉が開かれ、静かに招かれる。
「如何した?身体に不調が出たのか?」
部屋の唯一の椅子を差し出し、その傍の壁に凭れたトレイドが問い掛ける。それに神妙な面持ちの彼女は首を横に振った。
「なら、何だ?」
再び問うと彼女は言い出しそうに、後悔を顔に宿して口篭もる。だが、躊躇いながら口を開く。その視線は剣を見てから、彼を見て。
「あの時の、結晶・・・あの力は、何時から、出せるようになったのですか?」
まさに、黒い結晶を呼び出す能力を指す。それが分からぬ彼ではないが、その事に気を留め、気に病む理由が分からなかった。
「・・・確か、村を出て一週間程度経った頃だな、使える事には気付いたのは」
「やっぱり、そうなんですね・・・」
納得した彼女は俯く。予期していた事、だが目の前で確認して深い悔いを示す。
「・・・そうか、出来る事に、予想はしていたのか」
「・・・はい。人族の方は元々、操魔術を使えません。ですが、トレイドさんは私の血が混じって混血族になりました。『血の代償』を行いましたから・・・」
「ああ、君の・・・」
「すみません」
それは助けようとした行為の結果、その副産物の様なもの。其処に恨みはなく、寧ろ感謝しかない。その気持ちを伝えようとした矢先に謝られた。困惑しかなく。
「何で、謝る?」
思わぬ謝罪に小さく困惑しつつ、その理由を問う。それに彼女は更に恐縮してしまう。
「貴方に『血の代償』を行ってしまった所為で・・・」
「・・・君が、それを気にして如何する?そうか、それを気にしていたから様子が変だったのか」
あの時からずっと彼女の様子が変であった。いや、ともすれば、あの銀龍との戦いの最中で見た時から抱えていたのだろう。
それを語られ、漸く腑に落ちたトレイドだがその悔いは間違っていると口にして。
「あれは、俺を助けてくれる為にしてくれた事だ。恨み処か、感謝しかない。『血の代償』に関しても、一切、恨みはない」
「ですが・・・」
「君が、自身を、魔族である事を卑下するな。自分が悪いと思うな。自己否定、しないでくれ。俺は、君のお陰で、強くも成れた。だから、自分を責めないでくれ」
自責に囚われる彼女を説得する。必死に、悪い方向に捉えてしまう、ある意味魔族特有の思考を改めて欲しいと。
「・・・私は、あの日から、ずっと・・・」
「もう、そんな事は思わなくても良いんだ。俺は、君に助けられて、初めて生きて良いんだと、思った。君には、感謝しかない。だから、そんな事を思わないでくれ。俺は、君のお陰で、此処に居るんだから」
あの出来事で自分の心も救ってくれた、その思いを正直に伝える。偽りなく、伝える。すると、彼女の瞳から、涙が溢れ出した。
そうなってしまった日から、ずっと思っていたのだろう。ずっと責めていたのだろう。その思いが溢れ出し、顔を手で覆う。
その彼女を、トレイドは自然に抱き締めていた。自責に駆られ、自分を追い詰めてしまった彼女を慰める為に、落ち着かせる為に。
その姿、トレイドもまた涙を伝わせて。
「・・・すみません、見っともない姿を見せてしまって」
落ち着き、涙を拭った彼女が小さく謝る。涙の跡を残し、少し赤くなった顔だが何処かスッキリとして。
「いや、俺の方こそ悪かった、君の負担になっていたなんてな。だが、本当に気にしなくても良い。あれが有るから、今の俺に繋がっているんだからな」
タオルを渡したトレイドはそう言い聞かせる。感謝も乗せ、その心配はないと納得してもらう為に。
「・・・まだ、早いが、寝よう。明日は忙しくなるかも知れないからな」
「分かりました、おやすみなさい」
微笑みを見せるほどに落ち着いた彼女は一礼と挨拶を残して部屋を後にする。
見送ったトレイドは外に顔を向け、溜息を吐く。自責する姿、それは自分にも当てはまるのではないかと。そう思い、虚しい思いを抱いて。
蝋燭の火が消えるまで、その寂しい風を感じるような感覚と向き合い、雨続く夜空を眺めて思い耽っていた。
【7】
翌日、支度も程々に宿を後にする三人。降雨を浴び、溜息を零したトレイドは二人に向き合う。
「前々日に決めた通り、俺とクルーエは雪山地帯に向かう」
「俺は沼地地帯の調査だな、了解」
大剣を確かめ、納める彼は自慢げに返事を行う。やる気は十分、戦意もまた。
「ああ。手を抜くなよ?」
「仕事だから手は抜かねぇよ。お前こそクルーエさんを確りと守れよ」
「分かってる」
「ガリードさん、気を付けてください」
「クルーエさんもね。こいつが居るから大丈夫だとは思うけどさ」
上機嫌に言い残してガリードは泥濘の満ちた外へ踏み出していく。
「俺達も行くか」
「はい」
昨夜の遣り取りを経た為か、変に気遣うような空気は無く、自然な様子で雪山へ向かって歩き出していった。
湿気に覆われた沼地。草原と同規模の広さか、見渡した限りでは変化は見られない。移動に苦難しつつ、休憩や軽食を摂りながら進み行く。やがて、天候はその様を変えていった。
顔を濡らす小雨はやがて勢いを失い、下がりつつある気温に依ってか雪が混じり出す。霙、氷結する境のそれらは地を濡らす。薄れゆく泥濘、湿気が薄れる地面を凍て付かせる。それ故にか、その地に白さが見え出して。
息が白み始める頃、正面には白く聳える山々が、そう雪山が姿を表していた。遠目でも、環境に掠められていようと純白さは霞まない。遠方から見上げれば霊験あらたか、神秘な場所を思わせる。其処が、目的地の雪山地帯である。
其処を確認した二人は足を止め、黙して眺める。その動作の中、目元に雪が流れ落ち、肌の温もりで解けて伝う。それは涙を思わせた。
「戻って、来たのですね・・・」
先に立ち止まったクルーエが小さく零す。呟きに怯えが見え、何かを入れた手提げを抱く。肩を震わす、彼女は思い出したのだろう。その顔は悲哀に満ちて。
「・・・良いんだ。無理して、行く事は無い。戻っても、良いからな」
悲しい記憶に塗り潰された場所。踏み込むには勇気が要る。恐怖に打ち勝てる強い心。まだ、覚悟が足らないなら無理する必要はない、苦しもうとする必要はない、そう言い聞かせるように。
「だ、大丈夫です。行きます・・・!」
意を決し、恐れを残した顔で返事する。明らかに強がり、我慢が見える。止めたい思いが募るのだが、それ以上止める事はしなかった。乗り越えようとする気持ちを阻害してはならないと。
「・・・分かった」
心配を抱えるも彼女の意思を尊重し、神秘に映る雪山に向けて歩き出していく。その寸前に手持ちを確認し、不足分が無い事を見てから踏み出していった。
進むに連れ、霙は雪へ、大粒のそれに姿を変え、地面を覆う積雪の量が増加していく。周辺が完全に白に染められた頃には足を取るほどに積雪が厚くなっていた。
風も音を立てて吹き荒れ始め、その風は転倒しかねないほどに強く。身体に付着する雪の勢いは強くなり、打ち付けるように。そう、暴風雪領域に踏み入っていた。
「ぐっ!・・・?これは・・・」
暴風雪に抗いながら進み行こうとした時、唐突に風の感触、雪の冷たさが消え去った。不可解なそれに気付くと同時に自分達に起きた事を理解した。
直径およそ一メートル程か、暴風雪が至らぬ空間が出来ていた。ほぼ無風と言える其処は雪風を防ぎ、弾いていた。宛ら結界。
「トレイドさん、私が止めていますので進みましょう」
その不可解な現象はクルーエが起こしていたもの。操魔術で風を起こして相殺し、その上熱も発生させて温度を調整していたのだ。
「大丈夫なのか?」
「はい、通行する分は問題ないです。何時もこうしていたので」
彼女が語るように、慣れているのか、様子は変わらない。継続しても支障のない消耗量と言うのか。
「なら、頼む。その間、魔物の事は任せろ」
彼女を頼りにし、警戒を深めて雪山の奥へ目指す。暴風雪を受けなければ通行は大幅に楽であり、進む足取りは段違いに軽く。
進み行く中で周辺を確認するが地形の変化など全く分からず。変わっていようが道程だけは変わっていない事を願いながら、山道を順調に進んでいった。
来る者も去る者も拒む領域を超えた時、視界が晴れると同時に重みから解放される。今回の彼等は一切怯む事無く踏み入り、その目で周囲を見渡していた。
山々に囲まれた道はやや狭く。雪で埋め尽くされた白さは音を許さず、穏やかな静けさに落とされていた。
「ありがとう・・・行くぞ」
「はい」
見覚えのあるその光景を見た二人は二言ほど語るのみ。礼を伝え、応じたその後は無言のまま歩き出す。余計な言葉は口には出来ず。
雪道を歩く音、呼吸の音、時折風の音が良く響く中を二人は進み行くのみ。
見渡したところで特出するほどの変化は見られない。同様に道を埋める積雪、時折見える雑木林も大方白に埋められる。彼等以外に訪れた者、生物は居らず、積雪に不自然な形は残されず。
それが返って悲しみを煽る。其処に人の往来は無い事実が悲しく、二人は表情を暗くして。
緩やかな上り坂を進み行けばやがて下りに差し掛かる。その変化地点に着けば見渡せてしまう。嘗てあった場所を。其処は予期された光景ではあるが、見たくもない惨景の跡でもあった。
雪で埋められた広場、僅かな起伏が多い事から何かが埋まっているを示される。極度な高さがあれば隠され切れず、嘗ての名残が見え隠れする。
そう、残骸の一部。それは村を為していた建物の一部、建物であったもの。それが散乱し、雪に隠されていた。何もかもが白に染められていた。
其処に生物の姿は一切無く、静まり返ったその場所はもう村とは呼べない。更地と成り果て、名称も出来ず。此処に思い出は存在しない。続いていた筈の日常と共に失われ、悲しき事実に塗り潰されていた。
息が吐かれる。白くなったそれで景色を曇らせても事実は消されずに。
トレイドは顔を顰め、クルーエは気分を悪くして逸らしてしまう。二度目であろうと初めてであろうと、どのような思いで臨んだとしても胸を抉られる思いになってしまう。
静かにクルーエは涙を流し出す。その目でもう一度村が有った其処を見渡す。やはり受け入れられないと、直ぐにも崩れ落ちそうな様子で。
「クルーエ・・・此処に用があるんだな?」
止め処ない思いを堪え、胸を押さえる彼女に問いを投げる。それは慎重に。
息を懸命に整えて気持ちを落ち着かせようとする彼女。伝う涙を拭った後、強い悲しみを宿した面で口を開いていく。
「・・・皆を、弔う為に、来ました」
答えながらあの手提げを、その中身を見せる。中には木札が数枚、その内の一つを取り出してトレイドに手渡した。
「・・・サイザ、村長の、か。そうか、全員の・・・」
表面には文字が刻まれ、読み取れたそれは人名。嘗て、約束を交わした者の名前と向き合って声色が落ち、犠牲になった全員の分を用意していると察する。
「はい・・・そう、なります」
消え入りそうな声で、震える声で肯定する。それだけで此処に来たい理由を理解し、押し寄せる悲しみに硬く目を閉ざしてしまった。
墓標、小さいながらもそれは確かに。人数分、合間に用意したのだろう。無論、彼女だけでなく、魔族の全員が手掛けたのだろう。
どのような状況だろうと故人を想う。その優しく、切ない思い遣りに胸は苦しくなる。
「・・・ガリードが埋葬したと言っていた、先ずはそれを見付けよう」
細やかでも弔いたい気持ちに答え、優先して周囲を見渡す。トレイド自身も切に思っていた為に。
その気遣いにクルーエは小さくありがとうと呟いていた。
挫けそうになる光景を横断し、気分を損ねながらも探す。その足は次第に村から離れ行き、多少開けた場所に辿り着いていた。
偶々木が生えていないのか、伐採されて久しいのか、伸びる数本の樹木の付近の開けた空間。其処に何が有ったのか、それを知る人はもう少なく。
其処を目指したのは数本、何かが立っていた事に気付いたから。近付くとその正体を知る。瓦礫の一部で造った十字架、それが等間隔に並べられ、それに沿って僅かな膨らみが出来る。数は犠牲者と同数、何を意味するのかは数えて理解してしまって。
誰が埋葬されているのか、最早識別出来ない。その為か、彼女は全員を眺めた後、中央位置に木札を置く、刺し、添えるように。白い雪は抵抗せず、受け入れるかのように。
その様、トレイドは胸を抉られる感覚に囚われる。歯噛みし、苦悩する彼の耳がクルーエの言葉を聞く。何時か、ちゃんとしたお墓を建てますからと。その切なき声に更に鈍き痛みが走って。
語り掛ける彼女は目に見えて悲しむ。立て掛けるだけでもその手は滞って。けれど、沿え、震える声を零して立ち上がった。
静かに通観する傍へトレイドは近寄る。声を掛けようとした時、再び彼女の声を聞く。亡くなった一人一人の名を呟いていた。声は震え、伝い続ける涙で頬は濡れて。
全員の名前を言い終えた彼女は一呼吸を置く。次に息が切れた時、両目から一層の涙が溢れ出した。ゆっくりと顔を覆い、泣き崩れ、大声で泣き伏してしまう。手の隙間から涙が流れ落ち、純白の雪に浸透していく。隣に立つトレイドも目を硬く瞑り、彼女の鳴き声を痛く耳にしていた。
既に聞かされ、覚悟していたとしても、目の前にしてしまえば感情を抑える事など出来なかったのだろう。魔物の手に拠ってならばまだしも、凶刃に掛かったのだ、到底受け止め難く。否定する思いが溢れ出て仕方なかった筈。
トレイドもまた似たような感覚に囚われた。知人や家族を失う気持ちは解りたくとも、知ってしまった。しかし、それで慰められる事なんて出来ない。境遇は似通っていようとも、気持ちは同じではない。それが、苦しくて。
崩れた彼女の肩の肩に手を添えるしか出来ず、悲嘆する声を聞き止めて硬く歯を食い縛る。彼女の悲しみを受け、彼の瞼の隙間からも涙が、一筋の涙が伝った。
改めて思い知ってしまう、受け止めるしかなかった。喪ったと、また守る事が出来なかったのだと。知った時には手が届かなかったと分かって居たとしても。
【8】
泣き声が、彼女の様子が少しずつ治まっていく。それを見計らうようにトレイドは彼女に手を差し出す。既に取り出していたタオルを差し出して。此処でハンカチを差し出せられない事を小さく悔いて。
無言でのそれを動作の音で察したのか、一呼吸を置いた彼女は小さく頷いてそれを受け取っていた。
手渡した後、トレイドは少し離れて辺りを見渡した。地形の変化は顕著でなければ積雪で分からず、視界に殆ど変わり映えのない光景が広がるのみ。谷のような形状の其処、山肌を見ても映る範囲では見受けられず。
見渡す彼は思案し、直ぐにも方針が定まる。準備をしたとは言え、寒き場所。拠点を設けられないなら長時間の滞在は不可能と言える。今日は陽が暮れない内に撤退する事を決めていた。
調査は不十分過ぎる。帰り道で調査するにしても、そもそもの情報が少ない為に不十分が過ぎた。けれど、今は彼女をこれ以上苦しめたくない想いも上回り、そう決断していた。
「そろそろ、下山するか・・・此処は、寒い。陽が暮れない内に、な」
見ただけの情報でも後で書き留める事にし、下山を優先する。指示された彼女は小さく返事を行って立つ。名残惜しそうに、静々と。
「あの、これ・・・」
立ち去る寸前で彼女に話し掛けられてトレイドは振り返る。目元を赤くし、やや恥ずかしそうな彼女は手にするタオルを躊躇いがちに出す。
「・・・ああ、悪い。こう言うのしか持っていなくてな」
小さく苦笑しながら受け取る。それで少しだけ気を紛らわせようとして。
「いえ、そんな事はないです。助かり、ました」
「だが、まだ持っていてくれ」
迷惑を掛けたと申し訳なさそうにする彼女に押し返して。
「え、でも・・・」
「まだ、雪や雨などで濡れる・・・大して役には立たないと思うが、一応な」
少々苦笑を浮かべて促す。それに彼女の顔は少しだけ明るくなって。
「それじゃ、使わせて頂きます」
「ああ。じゃあ、降りていくぞ」
少しだけ元気を取り戻した様子を確認して歩き出していく。続く彼女の足取りは少しずつだが普段の調子を取り戻していく。
途中、トレイドは立ち止まり、振り返っていた。人が居なくなってしまった、寂しく物悲しい村の跡。見渡すだけで胸に痛みが生じ、続いてしまうそれを抱えて立ち去っていった。
道を引き返していくとある時点を越えた瞬間から吹雪き始め、強烈な暴風雪に巻き込まれてしまう。その変化は以前と同じ。けれど、強さは段違いであろうか。終始、身体は煽られ、少しでも気を抜けば敢え無く転倒しよう。視界も白に埋められて最悪で。
だが、クルーエが念じてしまえば強烈なそれに苦しめられる事は無い。阻害の手を遮断し、降雪が吹き荒れる様を眺めながら進められる。とは言え、積雪の中を突き進むのは多少手古摺って。
「ありがとう、クルーエ。本当に助かる」
「いえ、これぐらいは・・・」
率直に感謝を述べ、片手間に念じる彼女は照れを見せて。
彼女の操魔術のお陰で苦難する事無く下山していく。その分、余裕が生まれ、トレイドは周囲を凝視する事が出来ていた。けれど、白く染められた景色は実に見難くて。
「・・・?あれは・・・」
風雪荒ぶ光景の彼方、薄らと何かが視界に入り込んだ。一瞬の為、見間違いも過ぎった。けれど、それは自然物ではなく、建造物と認識出来た為、足を止めるには充分であった。
「トレイドさん?」
「クルーエ、少し道を逸れてしまうが大丈夫か?」
道を逸れた事に拠る遭難の恐れ、余分な時間を消費した事での陽が暮れる恐れはあるも、道筋を記憶するトレイドはその恐れはなく。
「はい、分かりました」
了承する彼女に疲労の色は感じられない。まだまだ余裕が見受けられ、道を外れる事を選んでいた。
荒れ狂う冷風、厚く大きな雪で白く塗られた景色を二人は進む。微かに見えた方向に向け、転ばぬように力強く踏み付けて進む。また、彼女と離れないように、何時の間にか柔らかな手をしっかりと握り、歩幅を合わせて。
その行為、トレイドにとっては互いの為、クルーエにとっては別の感情が込み上げる事。雪の中で仄かに顔が赤いのは寒さだけではなかった。
少々根気強く進み行くと、唐突に視界が平穏に包み込まれた。荒んだ環境は驚くほどに鎮まり、二人を出迎えるように。暴風雪を抜け出した二人は直後に立ち止まり、周囲を見渡した。同じ白が溢れていても、多大な興味が一つに寄せられて。
「・・・遺跡、なのか?」
やや広い場所、山の窪地の様な其処。削り取った様な崖の一角に不自然な四角い穴が開く。嘗て其処は何かの施設だったのだろう。何かの形を模っていたであろう、石材、若しくは石柱の欠片が辺りに山積するように崩れる。構造を見るに屋根、柱を付けたそれか。正しくは分からない。
崩壊して相当の時間が経過した事を積雪の量がそれを示し、岩の劣化具合や破損状態から想像出来る。もう形を保っていない其処が何を象徴していたのか、知る由もない。
「これは・・・無かった筈だ」
「はい、このような場所は無かったです」
あの村に滞在し、狩りの為に暴風雪付近へ頻繁に赴いたトレイドも、此処に暮らしていたクルーエでさえも覚えは全くなかった。ならば、帰結するのはあの地震の影響で出現したのだと。
経年に矛盾が生じるものの、そもそも様々な場所の度合いが異なる。それに疑問を抱いた所で意味も無く。
「・・・あの中に入ってみよう」
辻褄は合わせられても困惑する二人、疑問は興味を生み出す。元より調査に赴いた身、調べなければならない思いもあって。
「はい、分かりました」
それに少々不安ながらも彼女は了承していた。
共にその遺跡と思われる場所へ向かう。石材と雪に埋もれているが、構えられた小さな階段を登って穴へ向かう。その途中、滑らないように、彼女も気遣いながら。
気味が悪いほどに直角を模るその空洞、出入口付近は崩壊した石材で半分近くが埋もれる。けれど、人が通過するには十分の隙間があり、その中に踏み入れていった。
中は真っ直ぐな通路となっており、光が届かぬ程の奥行きがある為にトレイドはウェストバッグから光る石を取り出して奥を目指した。
その通路も自然で出来てなどいなかった。四角く刳り貫かれ、石材で四方を補強して柱を等間隔で建てていれば人の手が加わっている事は明らか。
少し歩いてゆけば最奥に明るさを視認する。その光源は火のそれでなく、外からの明かりと想像出来た。それに誘われるように二人は向かう。
進み行けば足音がその空間に反響し、何処までも響き渡った。二人分の足音が曲を奏でる様。度々、水が跳ねて音を立てた。溶けた雪が染み出したのだろう。
奥へ向かう最中では別段何も起こらず、最奥へ到着を果たす。其処は光が射し込み、あの石が無くとも問題ないほどに。
其処は白かった。輝かしいほどに白く、一切の澱みも無く美しかった。広場、円形に構築された其処、一面に雪が敷き詰められる。膝元まで深々と積もったそれは天井の一部が崩れ、外が覗けている為であった。
光と雪が降り注ぐ光景は神秘的に、射し込むそれは広場の中央部を照らす。円形の舞台を思わせるそれは階段を備えていた。それも雪に染められ、神聖な祭壇ではないのかと思わせた。
「不思議な所ですね、綺麗・・・」
「・・・ああ、そうだな」
感嘆が零れる。見惚れ、その場所に立ち尽くしてしまう。一瞬、何もかもを忘れてしまう程に美しい場所であった。
侵略する事は躊躇う。あまりにも美しい其処を進むのは躊躇してしまう。だが、調べる為には仕方がない事。踏み出した時、此処の雪だけはあるのか分からないほどに柔らかかった。
まるで沈黙を約束されたその場は見れば見るほど、白く輝いて見えている。踏み、圧縮する音は積雪に吸い込まれてほぼ静かなまま。天井からも微かな音は聞こえず、本当に静か過ぎて。
舞台に近付き、段を踏み上がっていく。その際、周囲を確認したが他に特出する箇所は見えず。そして、登り切った二人の視界は平坦に整えられた頂上が映った。例外の無く雪に敷き詰められ、中央には台座が一つ。
台形に模ったそれに奇妙な剣が突き立てられる。人為的に置かれたそれは不自然なほどに透き通り、光を透き通して煌びやかな光沢を纏う。まるで水を結晶化したかのようなに流麗に、物騒さは一切なく美しく。全体的に薄く、場所が場所の為、薄氷で模った剣に映った。
そして、それは雪を一つたりとも身に付けない。それ処か直径一メートル程の範囲に雪が落ちる事は無い。何らかの力が働いている事は確かで。
「これは・・・」
明らかに常軌の範疇から外れたそれ。だが、祈りを捧げたくなるほどの神聖さを感じる。見惚れてしまうそれを前に二人は立ち止まった。
吸い込まれるように見つめるクルーエの隣、トレイドは如何言う訳か懐かしさを抱いた。それ故か、無意識に引き寄せられ、柄に向けて手を伸ばす。
「・・・ッ!」
柄を握った瞬間であった一瞬、脳裏に強烈な映像が過ぎった。白く靄の掛かった映像は不鮮明であった。けれど、数人だけは識別した。
少々長い黒髪の、危険そうな雰囲気を醸し出す青年。活発的な印象を受け、笑顔が眩しい黒の短髪の女性。見覚えなど無いのに、その二人に涙が込み上げるほどの懐かしさと愛おしさを抱く。けれど、その感情は瞬く間に消えて。
「・・・今のは?」
不意の体験に驚き、手を放して後退ったトレイド。不可解過ぎるそれに困惑して仕方ない。けれど、その実は理解出来ない安堵にそれほど狼狽はせず。
「如何したのですか?」
当然、クルーエが尋ねる。
「・・・いや、気にするな」
戸惑う彼は誤魔化しつつも再度剣に触れる。けれど、次は起こらず、先の体験が嘘だと思えるほど静かに。
「・・・何だったんだ?」
困惑すれど解決する術はない。何度触れようと凝視して確かめようと決着する事は無い。
それから、周囲を確かめるのだがやはりそれ以上に変わったものは見られなかった。
「・・・此処にはもう目ぼしいものは無いな。陽が暮れる前に、早く下山しよう。付き合わせて悪かった」
「いえ、大丈夫です」
疑問が増えたものの新たな変化だと、静かな場所に立つ事を利用し、今迄の調査を書き留めたトレイドは今度こそ下山を決定する。
ふと眺めた崩れた天井、其処から見える空の一部。薄暗い、曇天は深々と小さな雪を降らし、柔らかな光で微かに煌いて。
去る間際に振り返って舞台を眺め、あの剣を想う。神秘な空気を纏うそれ、根拠はないがまた会うだろう、そう思っていた。
外へ出て、暴風雪吹き荒れる領域を通過していく最中、改めて思い返す。あの時の映像、いや記憶であろう。二人、同い年と思しき青年。やはり見覚えがあって。
考え得る事は一つ、遺伝子記憶が呼び起こされたのだと察する。刻まれた記憶、だが自分には関係の無い事。思い返す意識は次第に外へ向かれ、頭から離れていった。
それは悲しい事、なのだろう。寂しく感じたのは気の所為でなく。
次々と起こる事象、伴い深まっていく謎に、人々は翻弄され続けるしかない。その中で、些細な事は忘れ去ってしまうだろう。目まぐるしい時間の中、何時かは思い出すのかも知れないが今は忘れて。
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