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霧は晴れ、やがてその実態は明かされゆく
逡巡する思い、強くなりたい焦り 後編
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【8】
迷いを揺らしながら馬車は沼地を進む。ローレルを出発し、廃墟を経由してから数時間。天候の変化は訪れず、しとしとと降り続く小雨の景色と睨み合い、進む度合いに合わせて彼等の靴は汚れていく。それまでに成果は無く。
雨が服や防具に浸透しても歩行に拠って身体は冷えず。けれど、衣服が張り付く感触だけは紛らわす事は出来ず。その雑念すらも届かぬほどに集中、警戒は視界の彼方にすら届かせて。
油断のない皆の意識は接近する敵の存在を強襲など許さずに察知、即座に武器を構えて迎撃に乗り出すのであった。
「オラァ!!」
邂逅した敵を飲み込まんと、口腔を極限にまで広げてヒドラは泥水を散らして突撃する。オルレク・ヒドラと呼称される成体となったそれは優に六メートル強の全長を有する。長躯は人の体型を凌駕し、飲み込むのは容易く。
それを、真正面から叩き伏せたのはガリードの大剣。全身を駆使した膂力を発揮、力任せに閉口させ、泥濘へ強引に突き刺していた。食い縛った歯が割れそうなほどに、腕の筋肉で衣服の一部が破れてしまう程の威力を以って、仲間との連携の果て、巨体で泥濘の色を赤黒く染め上げていた。
もう動かない事を確認し、顔に飛び散った泥や返り血を拭い、刀身に伝う鮮血を振り払いながら警戒を続ける仲間の元へ、馬車の元へと彼は早足に向かう。
「はぁ、はぁ、ふーっ・・・シャオ!オルレク・ヒドラ一体だ!場所は分かるよな!?書いててくれよ!」
「ガリード!急かしてやるな、今治療中だからよ!」
「そうか、悪ぃ」
両腕に響く僅かな痺れを感じながら大剣を背に戻す。注意された通り、シャオは先の戦闘で負傷した仲間の治療に当たり、温かな光を広げている最中であった。
最後こそ豪快に仕留めたものの、数体相手では全員が無傷では済まない。死者は無くとも数人の負傷者、重傷で骨折した者も居て。それを馬車の近くで彼は少年と共に、いやラビスと共に治していた。
剣を馬車に立て掛け、シャオと共に光を放って負傷者を瞬く間に治す。そのおこぼれを預かる様にガリードはその光に侵入して。
「お前は、本当に力任せだな、ガリード。見ていてハラハラしたぞ」
「私の指示を聞いてなかったでしょ!もう少しで飲み込まれる寸前だったのよ!?ウネが庇わなかったら、大怪我を負っていたのよ!注意しなさい!!」
「まぁ、結果的にそうなっただけで、俺は気にしちゃ、痛っ!」
無茶をした事を、会話の途中で負傷した箇所を気にした事で証明して。
「毎回こうだもんな、ガリード副隊長には困ったもんだ。俺に権限渡したらどうだ?少しはましになるぜ?」
「ご、ごめんなさい・・・」
仲間からの酷評に、当人は困窮した表情で重く頭を下げて精一杯の謝意を示す。その反省の色も信用が足りないのか、溜息と呆れ顔で軽く流されていた。
会話をしている内に治癒は完了し、沼地の薄暗い空間に灯っていた光は治まる。それと同時に快調になり、痛みに解放された者の明るい声を零される。
「まぁ、許してやろうぜ。ガリードが大半をぶっ倒したんだからよ」
つい先程まで腕を負って苦しんでいたウネと呼ばれた青年が擁護する。苦笑してのそれに仲間の面々はやれやれとした様子で許していた。
ガリードの強引な戦闘は今に始まった事ではない。最初と比べて随分と良くなった事を加味し、呆れながらも戦果と差し引きするように容認していた。
「まぁ、そうだな。もうちょっとであの場所に着く。あそこに集中しよう」
語る視線、皆の視線は進行方向に存在する、巨大な物体を捉えていた。
「その通りだな」
副隊長の失態はどうでも良いと言うように、皆の意識が別へ移される。その冷たさに当人は表情を暗くし、落ち込みながらその先頭を歩き続けていく。
寂れた光景が全方位に、葉無き朽ち木と苔生した岩が点々と転がる。少しずつ物が増え出した其処は変わらず降雨に濡れ、涙を誘う程に寂れ続けている。今度は外に出て、馬車と並んで歩むシャオは、そう思っていた。
こうした景色に過去が、シャオの過去に繋がる手掛かりがあるとは思えないだろう。そうした不安が頭の片隅に過ぎる。
「・・・何か、思い出したか?シャオ」
剣を肩に乗せ、警戒を深めるガリードが話し掛ける。その目は同じように歩むラギアの姿を捉える。二人を守る為に最大限の注意を払って。
「いえ・・・」
「だよな。俺と出会ったあそこも、ローレルに成っちまったし、手掛かりがねぇなぁ・・・」
望みは薄かった。出会った当初の時点で、彼が来てから数週間が経過していると憶測が立っていた。その時であっても痕跡の有無は識別し辛いと言うのに、環境変化が数度起きた後なのだ、そもそもに期待は持てなかっただろう。本人自身もそれは認識していただろう。
会話を為している内に彼等は目的とした場所に到着する。いや、それは正しくは感じられない。そうとは思えず、近付いてきたと錯覚させるほどに、巨大であったのだ。
構造は樹木。外見に特異性は感じられない。けれど、それは最早木と、大樹とも呼べぬ代物、驚くしかない存在が其処に在った。
この世界には巨人が居たとでも言うのか、首を動かして漸く全長が確認出来る。その面積、町を一つや二つ呑み込んだとしても優に余る規模を有する。嘗ての姿があったなら、どれ程に巨大な樹木であっただろうか。
見上げても途中で霞むほどに高く、雲すらも押し退ける傘を広げていただろう。伸ばす枝は想像出来る大木すらも小枝に見せるほどに太く、人を押し潰す葉を広げていたに違いない。足元には雨水は届かず、巨体故の大喰らいで地面を枯らす勢いで周囲の水分を吸収したであろう。この地形ならば、乾燥させていたかも知れない。
想像が次から次へと浮かび、追い付かせないほどの巨大なそれは、既に命は無い。峰の途中、内部から破裂したように砕けていた。残骸と化した株しか残っていない。傍に身体は転がっておらず、それしか存在していなかった。
なおも、山と思わせる高さと樹皮の硬質さ。何千、何万と生きていたであろうそれは、今もなお他の生命を寄せ付けない生命力に溢れている様に映った。
誰もが接近するに連れて言葉を失った。雨に隠されながらも遠方で発見出来たそれ。その大きさは想像の域を遥かに超え、実物のそれを目の当たりにして驚きに囚われるしかなかった。
「・・・凄ぇな、これは」
ガリードも同じであり、感嘆の言葉を零しながら自身を小さく感じてしまう巨木に近付く。その表面を、鉱石のような光沢と艶やかな樹皮に触れる。湿気で濡れているのか、手触りはとても樹木を触れているとは思えぬものであった。まだ生きているかのように、温もりも感じ取れて。
根元で見上げれば、内側から弾け飛んだように砕けた身、外に向けて開かれた樹皮は近付いた彼等の傘にもなっていた。
「これは、知らねぇと思うけど、如何だ?知ってるか」
「いえ・・・ですが、何故か覚えはあります。知らないのに、何で、でしょう」
覚えはなく、けれどそれの存在は朧げに知る。それは彼だけでなく、その場に居た誰もが覚えを抱いた。本人の記憶でなく、遺伝子記憶であろう。また、それに込み上げるのは安心、安堵か。奇妙な懐かしさを、心の底からの安心が抱かれた。
「・・・兎に角、これは絶対に書かないと・・・」
「既に書いているわ」
「そう?」
こんな重要箇所、見掛けた時点で書き留めた事だろう。呆れるように言われて少し困った様な顔を浮かべて。
「んじゃ、上る・・・事は出来ねぇな」
「出来る訳がないだろ、こんなでかいの。相応の装備がないとな」
「だよな・・・とりあえず・・・」
「周囲の確認、魔物に気を付けて行くぞ。更なる発見を見逃さないようにな」
馬鹿な事を言うなと言うように、ガリードの発言を遮って一人が指示を行う。それに仲間達は応じてレイホースを動かし、共に発進する。置いていかれる扱いを受け、気を落とした彼は追っていった。
大樹とは到底言えないそれは世界に根差す樹、世界樹とも仮称しよう。その周囲の歩行は実に快適なもの、未だに脈動を感じさせる樹木の傍の地は乾き、暗い灰色の其処は足跡も残さないほど固く。
樹皮の傘の向こうは以前雨が降り続く。傘から眺めた外は雨に塗れながら観察する視線より晴れて見えた。
沿って移動しながら皆は変化を求めるが、寂れた彼方が見え続けるのみ。
「シャオとラギアも、馬車に戻ってて良いんだぜ?」
変わらず先頭に立ち、周囲の差異を眺めるガリードが近くの二人に呼び掛ける。魔物が見えず、索敵もし易い為急かす事はしないが、それでも危険が伴うと呼び掛ける。
「いえ、手伝わせてください」
「俺達だけ中なのは不公平だしな」
第一に中で待機し続けるのは退屈だと、彼等も捜索に参加する。目が増える事は歓迎だと仲間達は止める事はしなかった。
多少歩くだけでは景色は変わり映えが無く、巨大な樹木の変化も見えてこない。再び上へ、高所から眺めたら何か気付けるかと、ガリードが思案した時であった。
「何か、聞こえなかったか?」
「・・・いえ?」
雨音が遠く響く中、周囲を見渡して彼だけが聞こえた違和感を探る。けれど、その原因は見付からず。
「・・・人の、声、っぽかったけどな・・・」
空耳だったのかと思案し、それでも周囲を見渡す。その時であった。誰もが気付いてなかった事に勘付く、偶然にも。
音は出していたのだろう。怒りに塗れ、吐息に唸り声を混ぜていただろう。血を流し、立てた爪は欠けるほどに力が篭もる。剥き出した牙、赤き血が隙間から伝って。ギラギラと見開かれた目には憎悪で赤く染まっていた。
その身は鮮血に塗れたような赤には染まり切っていない。白と赤が入り混じった体毛、まだ成体寸前と言った処か。だが、憎悪と憤怒で体毛を逆立て、身体の至る箇所から血を流そうとも、涎を垂れ流して感情を震わせる姿は、手負いの姿は誰もが知るそれ以上の脅威が放たれていた。
砕けた樹木の上、戦闘直後と思しき手傷を負ったグレディルが顔を覗かせていた。身を乗り出し、感情をガリード達に向けていたのだ。
「お前か、面倒な・・・っ!」
即座に臨戦態勢に移り、肩に剣を乱雑に乗せる彼。直ぐに周囲に知らせようとした時、背筋に悪寒が伝った。まだ、非戦闘員であるラギアとシャオが外に、自分の傍に居る事を。戦闘になれば、巻き込んでしまう事を。
「グレディルが・・・」
大声で注意を呼び掛けようとした時には手負いの獣は降り立っていた。全身の膂力のままに馬車へ跳躍、押し潰して残骸に変えながら着地していた。
【9】
馬車とは言え、強度はそれなり。人の手でも小屋を粉砕する事は容易ではない。それを、己が体重と脚力、自身生来の武器にて一挙動で粉砕せしめた。
木片と化した馬車は周囲を散り、積載していた者も雨水と泥に晒されてしまう。あわや、巻き込まれそうになったレイホースは逃げ出して。
その騒音に散開していた仲間達が、グレディルの存在を察知する。直後、武器を引き抜いて臨戦態勢となる。馬車を粉砕されてから漸く気付けた事に失態と定め、同時に潰された馬車にシャオとラギアの二人、他の者が居なかった事を不幸中の幸いと見て。
来襲した獣は感情のままに怒号を響かせ、涎と流血を撒き散らしながら馬車を踏み躙って飛び出す。反応、反撃、回避に移らせるよりも早く、視認や感知よりも俊敏に。
動きを追い付かせぬほどに泥濘を噴水の如く散らし、反応の遅れた人を蹴散らしていく。殺意を以って、一切の加減も無く、勢い余って大きな隙を作ったとしても、それすらも塗り潰す激しき動きで戦場を赤く塗り替えた。
砕けた樹木の根元へ、降雨と泥濘の中へ調査に赴いた仲間達は沈む。
「な・・・あ・・・」
唐突の襲撃、暴虐の限りを尽くした獣を前に、気圧されたラギアはその場に座り込んでしまう。自分より強い者が一瞬で倒された、その鮮烈な光景に、足は竦んで動けなくなってしまった。
声もままならず、幼い身体は膠着してしまう。恐怖は思考を白く埋め尽くそうとしていた。けれど、幼き心は踏み止まった。小さな勇気と決意と共に。
「こ、この・・・!」
此処に来たのは大切な人を守る為に。今、守る為にすべき事を、生きる為に戦わなければいけない。その思いに駆られ、震える身体で立ち上がって剣を引き抜いた。自身よりも遥かに巨大な存在に立ち向かう為に。
だが、決意固くとも、圧倒的な実力差と恐怖には容易く抗えない。対峙したまでは良いものの、存在を感知された時、再び身体は膠着した。
怯えた姿に多少は溜飲が下がったのか、赤白き獣の表情は和らいだ。牙を大きく剥き出し、襲わんと意気を氾濫させて。
「・・・っ!」
それでも我武者羅に抗おうと幼き腕が剣を振るおうとした時、何かに覆い被されて動きが封じられる。身の危険、恐怖に囚われて暴れ出すも直ぐにも安心する。抱き付いてきたのは人であると理解した為。
震える身でラギアを庇ったのはシャオであった。命懸け、諸共潰されかねない身体能力差。それでもシャオは庇い、守ろうとした。シャオもまた無我夢中に、目の前の命を守ろうとして。
「な、んで・・・」
少年は驚く。安心し、身体の自由は取り戻されたが、それよりも驚きに動きが出来ず。そして、それはシャオ自身も内心では驚き返っていた。常に人の為にと思っていても、いざそうしてみれば疑問が心中を埋めていた。そうしても、危険である事は変わりないと言うのに。
だと言うのに、彼は妙な達成感を、叫びたくなるほどの切なさに包まれる。嘗て、こうしたかったのだと、微かに思って。
迸る殺意のままに眼前の存在を噛み潰さんと巨体が襲い掛かった。容赦など払う筈もなく、二人に向けて咬合させ、痛撃な音が響き渡った。
固く目を瞑る二人。彼等に被害は及ばなかった。付近で苦しむ声を耳にし、見上げると立ち塞がった者を目の当たりにした。それは、薙ぎ払われた者の一人、ガリードであった。最初に気付いた彼だからこそ立ち直りが早く、防御に間に合って見せた。けれど、被害が無い訳でなかった。
立ちはだかった彼は地面に剣を突き刺し、全力でグレディルの膂力を止まらせてみせる。だが、頭を始めとする数ヶ所から流血し、剣を振るう為の利き腕が痛々しく震える。それでも使うそれの一部は変色を起こし、折れている事は明らかであった。
痛々しく負傷した姿を目の当たりにして、シャオは動きが止まる。鮮烈に映る姿に、感じる。以前、こんな風に誰かに護られたと、命の危機から救われたと、溢れ出す涙に気付かないまま、痛烈に甦っていた。
守るガリードに更なる負傷を、大剣諸共両顎が喰らい、赤く染まった牙が人体に食い込む。金属すら噛み砕かんと両顎の筋は浮き上がり、痛みを抱いても怯まずに。
肉を抉り、骨を削る音が鳴る。それを飲み込む己の牙すら磨耗させる耳障りの音は、人を殺める執念、妄執を感じて。
「ガァァァアアアアアッ!!」
力み、痛みに耐える声は大きくされ、留まる事も含めた抵抗に全力を篭めた。
「シャオッ!!ラギアを連れて離れてろッ!!」
逃げろではなく、距離を開けろとの命令が響く。勝算があるとでも言うのか。
直後、彼は宙へ放り投げられる。煩わしいと言わんばかりに、赤白い獣の首は後方へ大きく降られ、呆気なく排除されてしまった。
苛立ちを吐き捨てるように赤白き獣は再度咆哮を上げ、手元の二人に向けて大口を開けた。ガリードの指示通り、距離を稼ごうとするシャオの背に、恐怖に囚われてしがみ付くだけのラギアに向けて。
牙が届く寸前、激痛に怯む声を上げて獣の体勢が崩れる。頭が唐突に横へ動き、均衡が崩れたのだ。その横顔には片手剣と見紛う大きさの矢が突き刺さっていた。それの射線、身以上の鋼鉄製の大弓を片手にした女性が立つ。彼女が不意を撃ったのだ。
次の大矢を番える、泥まみれの彼女に向け、怒りを滾らせて獣は駆け出さんとした。その動きがまた新たな衝撃、痛みを受けて阻害された。その腹部に槍が、二又に別れた刀身長きそれが深々と。
止まった巨体に向け、鎖が音を立てて振るわれた。幾多の音を鳴らし、前足に絡み付き、先端に備えられた碇に似た三又の鎌、その一つが肉体に突き刺さった。反対側には槍が備わり、巨大過ぎる樹木に突き立てられる。傍には流血夥しき、犬歯を覗かせる青年が立る。その彼は鎖を力任せに引っ張る、なけなしでも。二つの槍は彼の物。
僅かに止まった巨体の後方から二人、カタールに似た双剣を所持した青年、二つの手斧を下げた青年がほぼ同時に後足の関節を斬り裂く。数に因る素早い連撃と一撃に纏めた重撃が、刃を赤く染め上げて腱を切断する。それで俊敏な動きは出来なくされる。
連携を受け、地面に崩れ落ちた赤白き獣は蓄積し続ける憤怒に喚き立てる。腱を断たれてもなお、立ち上がり、排除せんと凄まじく暴れもがく。そこへ追撃が、獣の武器にも劣らぬ分厚く巨大な刃が、片側の前足を斬り裂いた。
血塗れ、折れた腕であっても大剣を握り、劣らぬ咆哮を響かせて振り抜いたガリード。思考を霞ませる激痛に鬼気迫る形相で耐え、重心を維持した彼はそのまま腹部へ全身を振るう。赤く染まりつつある身を、剛力を以って裂く。
激痛に怯みながらももがく。尚も殺意は衰えず、充血した眼で群がる彼等を睨んで。その様を、少し離れた位置にて、大弓を持つ女性が立つ。その目は鋭く、照準を定め、極限まで弓を引き絞って。
ギリギリと音を立てて大きく湾曲し、弦も引き千切れそうなほどに。支える両腕のガントレットも擦れる音を響かせ、渾身を篭める大矢は微かに揺れる。暴れ動く獣、とある一点に定める事に神経を集中させて。
二つが定まった時、羽根を掴んでいた指が離された。瞬間、大弓が復元する。その復元力は所持する者の体勢を崩すほどの爆発的な威力を発揮する。武器を破壊しかねないそれは全て矢に乗せられ、獣の動体視力すら補足させない速度で宙を過ぎた。
次の瞬間には充血した眼球を貫き、内部を、脳にまで達する処か、頭蓋骨すらも貫通して矢は止まっていた。音すらも置き去りにした一矢はグレディルの背を僅かに赤く染め上げ、致命傷として叩き込まれた。
巨体、獣の首は大きく仰け反る。だが、留まり、ゆっくりと前へ起こされる。明らかに致命傷、それでも獣は意思を緩めず、立ち上がろうと、殲滅せんと身体を動かす。最早、執念ではなく、呪いの如き意思を前に、対峙した全ての者が圧倒される。そうまでして突き動かすのは何か、理解も出来ずに。
不意に、何かが宙を横切り、グレディルの身体に当たり、何も出来ぬままに地面へ落ちた。泥水を跳ねる音が皆の意識を正しく定めさせた。
それはラギアの剣であった。戦いに介入出来ないひ弱な少年。それでも一矢報いようと、いやただ戦う思いのままに唯一の武器を投擲した。例え、碌な衝撃にならなくとも、無我夢中に。
皆が次の備える。手負いの獣、死に際であろうと凄まじい執念を見せ付けられた。一瞬たりとも気が抜けないと備える。だが、次は無かった。少年の投擲が最後の糸を断ち切ったと言うのか、姿勢を固めて事切れていた。
敵が沈黙した事で皆の緊張は低下、程良く脱力して身体を休める。同時に負傷に因る痛みに苦しまされてしまう。それに逸早く動き出すのはシャオ、慌てて一番近いガリードへ駆け寄る。
「け、怪我を・・・!」
「俺は後で良い。皆を先に治してくれ、シャオ。それよりも・・・」
自身よりもやるべき事があると、ラギアを、今はラビスを険しき表情で眺める。それを見て、察したシャオは早足で警戒しながら集まる仲間の元へ走っていった。
「・・・これでも、分からねぇか?ラギア。ちょっと前以上に、酷い状況だ。戦いに出たら、死に掛ける事もある。今さっきのように仲間が薙ぎ倒され、守られ切れずにな・・・」
状況が示した。強襲に拠って陣形は瓦解、命を落とす事もあると。
「・・ラビス。お前も、それを分かって戦わせんのか?強く、させてぇのか?ラギアを・・・家族をよ」
家族と言う単語を告げた彼は切なさを宿す。肉親に戦いを強いる、それに抵抗感が否めず。
あどけない顔を不安に染め、真剣な面のガリードと向かう。その内、ラギアは激しく動揺したであろう。
「・・・はい!私も、強く、なりたいです・・・!」
少年だけでなく、ラビスもまた宣言してみせた。迷いと不安を宿したままでも確かに。
少年、少女の決意は同じであり、硬いもの。再三に言われても揺るがぬ意思が見える。子供であろうと、それは優劣がつけようもなく。
数秒間、ガリードはジッと眺める。負傷も忘れるほどに真摯に向き合い、その真意を探ろうと。己も未熟である事は自覚している。その上で覚悟の程を図って。
「・・・そこまで言うなら、皆と相談してみるか。稽古ぐらいなら、良いと思うしな」
ガリードは自分達が折れるように承認した。それに少女の表情は和らぎ、内では少年は漸く思いが叶ったと喜んだであろう。
「・・・ラビス、傷の治療、頼むわ」
「はい!」
最後に微笑み掛けて指示を送る。それに元気よく答えた少女は祈りのポーズを取り、治療を始めていく。
根性で耐えていた傷だが大怪我である事には変わりない。それ相応の時間を要したものの、綺麗に完治に至る。
「ありがとよ、ラビス。皆と一緒に後処理の手伝いを頼む」
「分かりました!」
礼と共に頭を撫でて指示すれば、張り切った少女は修道服が汚れる事も厭わずに皆の元へ駆け出していく。それと入れ違うように深刻な面のシャオが傍に来る。
「・・・如何して、あんな怪我でも、助けてくれたの、ですか?」
尋ねるのは、大怪我であろうと誰かを助けた真意。下手をすれば命を喪いかねない行為の意味。
「・・・助けんのは、当たり前じゃねぇのか?」
「当たり前、ですか・・・」
ガリードは言い切ってみせた。当然の事だと、救う事に迷いは必要ないと。その精神、自分に通ずるものがあると考え、シャオは顔を俯かせる。
短絡的な考えをしてしまったとガリードは深刻な面持ちで対する。小さく溜息を吐き捨て、本心を語る。
「・・・俺が知ってる奴が、俺の目の前で死んでほしくねぇ、だけだ」
命を掛ける意味、その根幹を口にした。
「もう十分だ、そんなのは、よ。そん時、俺が居て、俺が出来るからする。やらねぇで後悔はしたくねぇし、考えたくもねぇんだよ」
このような世界、命は前以上に容易く失われてしまう。既に親を始めとする血縁や友人達も、喪ったと言える。それ以上、悲しみたくない、苦しみたくないと、だから命を張るのだと。
それの告白にシャオは俯き、小さく頷いた。その通りだと、小さく手を握り締めて肯定した。その顔、深き後悔が覗いて。
「何だい?馬車がオシャカじゃないか!如何なってんだい!?」
何処からか、聞き覚えのある嫌味がたっぷりと含まれた女性の声が響かれた。その方向に視線を向けると、見慣れた者達の集団を発見する。それは別行動を取ったもう一隊である。彼等もこの世界樹と見做した樹木を発見し、その周辺を探っていたのだろう。
「たかだかグレディルを相手に、こんなに被害を負うなんてねぇ・・・」
合流して早々に彼女は挑発し、貶す言葉を吐き付ける。つくづく敵を作る事に余念のない姿勢を前に、流石に誰かが反論しようとした。すると、
「ターニャ、君が言える義理か。君の不用意にグレディルの巣を侵入して戦闘した結果だ。負傷者を多く作り、君自身も負傷を負った上、手負いを一体逃す結果となったんだ。聖復術が使える者が居なければ、如何なっていた事か」
冷たく、しかし激しい義憤が篭められた声で制したのはナルナッド。彼が注意する通り、合流した皆に激しい戦闘の跡を衣服や防具に刻んで。
「・・・自分勝手も大概にしろ。所属するギルドの方針云々より、派遣された者としての自覚を持て」
「・・・分かったよ」
女傑の反論を押さえ付ける、強烈な迫力と憤りを放つ。それはやはり実力差を分かっての事か。
「・・・被害が大き過ぎるな、ガリード」
「申し訳ないっス。一体相手だったんスけど、急襲を受けてあっと言う間に壊されてしまいました」
険しき面で見渡す彼の指摘に恐縮して答える。結果的に言えば、十分制圧出来る存在に壊滅寸前に追い込まれたのだ。その責任を感じて頭は下がる。
「・・・そうなったのなら、仕方ない。負傷はしても、死者は居ない事は最良だ。馬車も壊されたが、レイホースも無事の様だしな」
急襲時に辛くも助かったその馬は安全を確認したのだろう、戻ってきて不満そうに鼻を鳴らす姿が見える。
「今日は此処で切り上げる。不測の事態に備え、周囲を警戒して帰路に就く。非戦闘員、消耗が濃い者は馬車で待機。動ける者はその警備だ」
弁償しなければと頭を抱えながら、これ以上の調査は難しいと判断して戻る事を指示する。それに皆は応じ、行動に移すのであった。
その折、ラギアがシャオに礼を告げていた。ぶっきら棒にも、悔しそうにも確かに。それを受けたシャオは何かを含んだ微笑みで応じていた。
【10】
薄らと陽の明かりが射し込みそうな曇天、微かに雨足が緩んだような日。もう既に夕暮れ時が訪れていた。
その沼地地帯、人々の拠点と言えるローレルに構えられた宿屋にて、調査に赴いていた面々は軽い宴を開いていた。
ガリードを始めとする数人が厨房を借り、仕留めた魔物を調理する。完成すれば食卓へ次々と振る舞う。その様は少々喧しく、受ける仲間達は舌鼓を打って。
「これで上の連中の買収でもしてきたのかい?熱心な事だねぇ」
そう、あの女傑も挑発を叩きながらも料理を挟む手は緩めない。今は無礼講と言うように、それを注意する事はせず、料理を楽しむ。
そうした様子は注意される事は無い。他の客に迷惑になりかねない騒がしさだが、文句を言われる処か、居合わせた客は御満悦。それもその筈、彼等にも料理は振る舞われていたのだ。
そもそも食料を調達し、料理を提供する事を条件に宿泊に関する事に便宜を図って貰っている。なので、此処の店主は酒を片手に上機嫌に箸を進めている。もう既に幾らか出来上がり、顔は紅色に染まっていた。
「漸く交代出来たっス。どうぞ!」
此処の職員と交代して戻って来たガリード、その手には大皿を二つ。特盛に盛り上げるのはやたらと巨大な唐揚げ、シンプルな形状と南蛮漬け風の二つ。蟹肉を使った唐揚げに天婦羅、コロッケに炒飯。
それを仲間が座る食卓に置き、空いた皿を厨房を送ってから、椅子に腰掛ける。開始してから約一時間後の合流であった。
「さて、食事の途中で悪いが、今回の調査、皆、良くやってくれた。少ない人員だが、沼地地帯の一通りの調査を完了させられた」
全員を労うナルナッド、達成して誇らしいのか少し微笑んで。
調査の結果は既にリアの元へ送られている。同時にある程度の情報も共有されており、更なる地形変化が多く確認された。その中で地形の果てが改めて認識されていた。
それは草原地帯と同様。だが、目の当たりにしてしまえば不安に駆られようか。
沼地の果て、環境は唐突に閉ざされるように終わる。唐突に崖が切り立つように地形が分断され、海が広がっていた。何処までも広い、限りの無い海が、曇天に覆われた大海が広がっていたのだ。その向こうには何もない。他の大陸がある訳でも、島がある訳でも。
「色々あったが、ターニャ。君の戦闘能力には助けられた。感謝する」
「そうだねぇ、まぁ、多少楽しかったよ」
率直な賞賛に彼女は素直に受け止めて返答する。そして、実直に嬉しいのか、片手にする酒を飲む量が少々増して。
「ラビスも色々と世話になった。君には本当に助けられた」
「いえ、それぐらいしか出来ない事ですから」
今は剣を手放しており、育ち盛りを示すように大人と同じぐらいの量をもりもりと食べて。アニエスの教育の賜物か、其処に一切の粗相やマナー違反は見られず。
「そして、ラギアにも伝えて欲しい。聞いていると思うが、無理のない範囲での鍛錬は続ける事だ。それは他の者からも言われたと思うがな。反復する事で実戦時にも役に立つ」
あの後、ガリードがナルナッドに相談した結果、合間に指導を行う事となった。他のギルドの者に必要以上の干渉は憚れたものの、ガリードの説得によってそれは実現していた。
指導と言っても基本的な筋力トレーニングと素振りや身体の動きの指導と言った、戦闘における基礎となる部分。それが重要だと言い聞かせて行わせた。それには数人が面倒を見ていた。少々驚く事に、一番熱心だったのはターニャであった。
その間、少年と少女は文句の一つを言う事無く、黙々と、けれど熱心に取り組んでいた。その直向さが指示する者を真剣にさせたのだ。苦しさの中でも目的を見出し、それに進む強さは取り組む目が語り、それ以降も続けていく事は皆が即座に理解して。
「・・・はい、ラギアも、分かっていると言っています」
「なら、いい。最後になるが、今日で此処での調査は終了となるだろう。その旨を打診しているが、問題無ければ明朝には此処を発っても構わない。馬車の手配は済ませている。俺は此処の常駐なので離れられない為、それ以降はガリードに任せている」
「そう言う事なんで、もうちょっと頑張りましょう」
引き締まった空気を少し緩める彼の言動に、ナルナッドは小さく息を吐く。
「・・・ともあれ、今日は十分に休んでくれ」
その合図と共に食事は再開される。各々が料理を楽しみ、酒やジュースで喉を潤す。仕事の達成感に皆は開放的になって。
仕事を共にし、共感し合って笑う様を眺めながら料理を運ぶガリード。自然と目はシャオに向かれる。丁度隣の彼と目が合う。
「シャオ。これで調査は終わっちまうが、何か見付かったのか?それとも分かった事があったか?何か探していたようだったけどよ、お前が満足出来る結果になったのか?」
調査の最中、彼が何かを探していた事は最初から気付いた。今迄尋ねる事はしなかったが終わりとなってしまう今、望みは達成されたのかと疑問になり、思い切って尋ねていた。出来なくとも、また手伝うと伝える事も備えて。
「うん・・・充分です。知りたかった事、知れました。助けになってくれて、ありがとう・・・ございます」
受けた彼は笑顔で応答する。変わらぬ笑顔、いや何処か吹っ切れたような新しい笑顔であった。
「なら、良かった」
叶った云々は本人しか分からない事。その本人の発言と笑顔を信じるしかない。
良い様に捉えて微笑んだガリード。小さく、違和感を感じて。それは状況による一時的な差異なのか。ともあれ、何時も通りに見えた優しき微笑みに中身が満たされたように感じた。
「あれ?何時の間にか無くなってるぞ?誰が食べたんだ?」
その言葉に食卓を見てハッとする。発言通り、前に並べていた料理が片端から消えて無くなっていた。新しく運んだものも含めて数分程度では平らげられない量であった。なのに、気が付けば無くなっていた。
「早いっスね!じゃあ、俺次を・・・っ!?」
食が早い事を喜び、次の料理を持ってこようとした矢先、彼は気付いた。
何時の間にか紛れ込んでいた。音も無く侵入し、景色に融け込むように其処に居た。酒気や騒ぎで注意が削がれていた事もあるだろう。けれど、彼女は当たり前のように料理を頬張り、飲み込んだ後に告げた。
「・・・もっと」
隣にはノラが居た。空白ではなかったが、何時の間にかガリードと仲間を押し退けるように割り込み、料理を片端から食していたのだ。その速さ、驚愕でしかなく。
「・・・何時の間にか彼女が居たが、ガリード、知り合いか?」
少し前に存在に気付き、困惑を見せたナルナッドが指摘する。それで皆は彼女の存在に気付く。
「し、知り合いっス。こいつが、全部食っちまったようで・・・」
「何だよ、凄い食いっぷりだな!」
唐突の登場に驚き返る彼はただ平然と居座るノラに圧倒されていた。
「・・・悪いが、ガリード。次を頼んでも、良いか?」
「・・・分かりました」
知り合いが仕出かした責任は取らなければならないと言うように、渋々と彼は厨房へ引き返す。満足に食事に手を付けていないと言うのに。
厨房へ引き戻される姿に笑いが零される。その中、シャオも笑みを零していたのだが、終始、懐かしむような羨ましがるような雰囲気を密かに漂わせていた。
誰にも気付かせないまま、ローレルに流れる時間に任せるように、その空気を楽しむのであった。
迷いを揺らしながら馬車は沼地を進む。ローレルを出発し、廃墟を経由してから数時間。天候の変化は訪れず、しとしとと降り続く小雨の景色と睨み合い、進む度合いに合わせて彼等の靴は汚れていく。それまでに成果は無く。
雨が服や防具に浸透しても歩行に拠って身体は冷えず。けれど、衣服が張り付く感触だけは紛らわす事は出来ず。その雑念すらも届かぬほどに集中、警戒は視界の彼方にすら届かせて。
油断のない皆の意識は接近する敵の存在を強襲など許さずに察知、即座に武器を構えて迎撃に乗り出すのであった。
「オラァ!!」
邂逅した敵を飲み込まんと、口腔を極限にまで広げてヒドラは泥水を散らして突撃する。オルレク・ヒドラと呼称される成体となったそれは優に六メートル強の全長を有する。長躯は人の体型を凌駕し、飲み込むのは容易く。
それを、真正面から叩き伏せたのはガリードの大剣。全身を駆使した膂力を発揮、力任せに閉口させ、泥濘へ強引に突き刺していた。食い縛った歯が割れそうなほどに、腕の筋肉で衣服の一部が破れてしまう程の威力を以って、仲間との連携の果て、巨体で泥濘の色を赤黒く染め上げていた。
もう動かない事を確認し、顔に飛び散った泥や返り血を拭い、刀身に伝う鮮血を振り払いながら警戒を続ける仲間の元へ、馬車の元へと彼は早足に向かう。
「はぁ、はぁ、ふーっ・・・シャオ!オルレク・ヒドラ一体だ!場所は分かるよな!?書いててくれよ!」
「ガリード!急かしてやるな、今治療中だからよ!」
「そうか、悪ぃ」
両腕に響く僅かな痺れを感じながら大剣を背に戻す。注意された通り、シャオは先の戦闘で負傷した仲間の治療に当たり、温かな光を広げている最中であった。
最後こそ豪快に仕留めたものの、数体相手では全員が無傷では済まない。死者は無くとも数人の負傷者、重傷で骨折した者も居て。それを馬車の近くで彼は少年と共に、いやラビスと共に治していた。
剣を馬車に立て掛け、シャオと共に光を放って負傷者を瞬く間に治す。そのおこぼれを預かる様にガリードはその光に侵入して。
「お前は、本当に力任せだな、ガリード。見ていてハラハラしたぞ」
「私の指示を聞いてなかったでしょ!もう少しで飲み込まれる寸前だったのよ!?ウネが庇わなかったら、大怪我を負っていたのよ!注意しなさい!!」
「まぁ、結果的にそうなっただけで、俺は気にしちゃ、痛っ!」
無茶をした事を、会話の途中で負傷した箇所を気にした事で証明して。
「毎回こうだもんな、ガリード副隊長には困ったもんだ。俺に権限渡したらどうだ?少しはましになるぜ?」
「ご、ごめんなさい・・・」
仲間からの酷評に、当人は困窮した表情で重く頭を下げて精一杯の謝意を示す。その反省の色も信用が足りないのか、溜息と呆れ顔で軽く流されていた。
会話をしている内に治癒は完了し、沼地の薄暗い空間に灯っていた光は治まる。それと同時に快調になり、痛みに解放された者の明るい声を零される。
「まぁ、許してやろうぜ。ガリードが大半をぶっ倒したんだからよ」
つい先程まで腕を負って苦しんでいたウネと呼ばれた青年が擁護する。苦笑してのそれに仲間の面々はやれやれとした様子で許していた。
ガリードの強引な戦闘は今に始まった事ではない。最初と比べて随分と良くなった事を加味し、呆れながらも戦果と差し引きするように容認していた。
「まぁ、そうだな。もうちょっとであの場所に着く。あそこに集中しよう」
語る視線、皆の視線は進行方向に存在する、巨大な物体を捉えていた。
「その通りだな」
副隊長の失態はどうでも良いと言うように、皆の意識が別へ移される。その冷たさに当人は表情を暗くし、落ち込みながらその先頭を歩き続けていく。
寂れた光景が全方位に、葉無き朽ち木と苔生した岩が点々と転がる。少しずつ物が増え出した其処は変わらず降雨に濡れ、涙を誘う程に寂れ続けている。今度は外に出て、馬車と並んで歩むシャオは、そう思っていた。
こうした景色に過去が、シャオの過去に繋がる手掛かりがあるとは思えないだろう。そうした不安が頭の片隅に過ぎる。
「・・・何か、思い出したか?シャオ」
剣を肩に乗せ、警戒を深めるガリードが話し掛ける。その目は同じように歩むラギアの姿を捉える。二人を守る為に最大限の注意を払って。
「いえ・・・」
「だよな。俺と出会ったあそこも、ローレルに成っちまったし、手掛かりがねぇなぁ・・・」
望みは薄かった。出会った当初の時点で、彼が来てから数週間が経過していると憶測が立っていた。その時であっても痕跡の有無は識別し辛いと言うのに、環境変化が数度起きた後なのだ、そもそもに期待は持てなかっただろう。本人自身もそれは認識していただろう。
会話を為している内に彼等は目的とした場所に到着する。いや、それは正しくは感じられない。そうとは思えず、近付いてきたと錯覚させるほどに、巨大であったのだ。
構造は樹木。外見に特異性は感じられない。けれど、それは最早木と、大樹とも呼べぬ代物、驚くしかない存在が其処に在った。
この世界には巨人が居たとでも言うのか、首を動かして漸く全長が確認出来る。その面積、町を一つや二つ呑み込んだとしても優に余る規模を有する。嘗ての姿があったなら、どれ程に巨大な樹木であっただろうか。
見上げても途中で霞むほどに高く、雲すらも押し退ける傘を広げていただろう。伸ばす枝は想像出来る大木すらも小枝に見せるほどに太く、人を押し潰す葉を広げていたに違いない。足元には雨水は届かず、巨体故の大喰らいで地面を枯らす勢いで周囲の水分を吸収したであろう。この地形ならば、乾燥させていたかも知れない。
想像が次から次へと浮かび、追い付かせないほどの巨大なそれは、既に命は無い。峰の途中、内部から破裂したように砕けていた。残骸と化した株しか残っていない。傍に身体は転がっておらず、それしか存在していなかった。
なおも、山と思わせる高さと樹皮の硬質さ。何千、何万と生きていたであろうそれは、今もなお他の生命を寄せ付けない生命力に溢れている様に映った。
誰もが接近するに連れて言葉を失った。雨に隠されながらも遠方で発見出来たそれ。その大きさは想像の域を遥かに超え、実物のそれを目の当たりにして驚きに囚われるしかなかった。
「・・・凄ぇな、これは」
ガリードも同じであり、感嘆の言葉を零しながら自身を小さく感じてしまう巨木に近付く。その表面を、鉱石のような光沢と艶やかな樹皮に触れる。湿気で濡れているのか、手触りはとても樹木を触れているとは思えぬものであった。まだ生きているかのように、温もりも感じ取れて。
根元で見上げれば、内側から弾け飛んだように砕けた身、外に向けて開かれた樹皮は近付いた彼等の傘にもなっていた。
「これは、知らねぇと思うけど、如何だ?知ってるか」
「いえ・・・ですが、何故か覚えはあります。知らないのに、何で、でしょう」
覚えはなく、けれどそれの存在は朧げに知る。それは彼だけでなく、その場に居た誰もが覚えを抱いた。本人の記憶でなく、遺伝子記憶であろう。また、それに込み上げるのは安心、安堵か。奇妙な懐かしさを、心の底からの安心が抱かれた。
「・・・兎に角、これは絶対に書かないと・・・」
「既に書いているわ」
「そう?」
こんな重要箇所、見掛けた時点で書き留めた事だろう。呆れるように言われて少し困った様な顔を浮かべて。
「んじゃ、上る・・・事は出来ねぇな」
「出来る訳がないだろ、こんなでかいの。相応の装備がないとな」
「だよな・・・とりあえず・・・」
「周囲の確認、魔物に気を付けて行くぞ。更なる発見を見逃さないようにな」
馬鹿な事を言うなと言うように、ガリードの発言を遮って一人が指示を行う。それに仲間達は応じてレイホースを動かし、共に発進する。置いていかれる扱いを受け、気を落とした彼は追っていった。
大樹とは到底言えないそれは世界に根差す樹、世界樹とも仮称しよう。その周囲の歩行は実に快適なもの、未だに脈動を感じさせる樹木の傍の地は乾き、暗い灰色の其処は足跡も残さないほど固く。
樹皮の傘の向こうは以前雨が降り続く。傘から眺めた外は雨に塗れながら観察する視線より晴れて見えた。
沿って移動しながら皆は変化を求めるが、寂れた彼方が見え続けるのみ。
「シャオとラギアも、馬車に戻ってて良いんだぜ?」
変わらず先頭に立ち、周囲の差異を眺めるガリードが近くの二人に呼び掛ける。魔物が見えず、索敵もし易い為急かす事はしないが、それでも危険が伴うと呼び掛ける。
「いえ、手伝わせてください」
「俺達だけ中なのは不公平だしな」
第一に中で待機し続けるのは退屈だと、彼等も捜索に参加する。目が増える事は歓迎だと仲間達は止める事はしなかった。
多少歩くだけでは景色は変わり映えが無く、巨大な樹木の変化も見えてこない。再び上へ、高所から眺めたら何か気付けるかと、ガリードが思案した時であった。
「何か、聞こえなかったか?」
「・・・いえ?」
雨音が遠く響く中、周囲を見渡して彼だけが聞こえた違和感を探る。けれど、その原因は見付からず。
「・・・人の、声、っぽかったけどな・・・」
空耳だったのかと思案し、それでも周囲を見渡す。その時であった。誰もが気付いてなかった事に勘付く、偶然にも。
音は出していたのだろう。怒りに塗れ、吐息に唸り声を混ぜていただろう。血を流し、立てた爪は欠けるほどに力が篭もる。剥き出した牙、赤き血が隙間から伝って。ギラギラと見開かれた目には憎悪で赤く染まっていた。
その身は鮮血に塗れたような赤には染まり切っていない。白と赤が入り混じった体毛、まだ成体寸前と言った処か。だが、憎悪と憤怒で体毛を逆立て、身体の至る箇所から血を流そうとも、涎を垂れ流して感情を震わせる姿は、手負いの姿は誰もが知るそれ以上の脅威が放たれていた。
砕けた樹木の上、戦闘直後と思しき手傷を負ったグレディルが顔を覗かせていた。身を乗り出し、感情をガリード達に向けていたのだ。
「お前か、面倒な・・・っ!」
即座に臨戦態勢に移り、肩に剣を乱雑に乗せる彼。直ぐに周囲に知らせようとした時、背筋に悪寒が伝った。まだ、非戦闘員であるラギアとシャオが外に、自分の傍に居る事を。戦闘になれば、巻き込んでしまう事を。
「グレディルが・・・」
大声で注意を呼び掛けようとした時には手負いの獣は降り立っていた。全身の膂力のままに馬車へ跳躍、押し潰して残骸に変えながら着地していた。
【9】
馬車とは言え、強度はそれなり。人の手でも小屋を粉砕する事は容易ではない。それを、己が体重と脚力、自身生来の武器にて一挙動で粉砕せしめた。
木片と化した馬車は周囲を散り、積載していた者も雨水と泥に晒されてしまう。あわや、巻き込まれそうになったレイホースは逃げ出して。
その騒音に散開していた仲間達が、グレディルの存在を察知する。直後、武器を引き抜いて臨戦態勢となる。馬車を粉砕されてから漸く気付けた事に失態と定め、同時に潰された馬車にシャオとラギアの二人、他の者が居なかった事を不幸中の幸いと見て。
来襲した獣は感情のままに怒号を響かせ、涎と流血を撒き散らしながら馬車を踏み躙って飛び出す。反応、反撃、回避に移らせるよりも早く、視認や感知よりも俊敏に。
動きを追い付かせぬほどに泥濘を噴水の如く散らし、反応の遅れた人を蹴散らしていく。殺意を以って、一切の加減も無く、勢い余って大きな隙を作ったとしても、それすらも塗り潰す激しき動きで戦場を赤く塗り替えた。
砕けた樹木の根元へ、降雨と泥濘の中へ調査に赴いた仲間達は沈む。
「な・・・あ・・・」
唐突の襲撃、暴虐の限りを尽くした獣を前に、気圧されたラギアはその場に座り込んでしまう。自分より強い者が一瞬で倒された、その鮮烈な光景に、足は竦んで動けなくなってしまった。
声もままならず、幼い身体は膠着してしまう。恐怖は思考を白く埋め尽くそうとしていた。けれど、幼き心は踏み止まった。小さな勇気と決意と共に。
「こ、この・・・!」
此処に来たのは大切な人を守る為に。今、守る為にすべき事を、生きる為に戦わなければいけない。その思いに駆られ、震える身体で立ち上がって剣を引き抜いた。自身よりも遥かに巨大な存在に立ち向かう為に。
だが、決意固くとも、圧倒的な実力差と恐怖には容易く抗えない。対峙したまでは良いものの、存在を感知された時、再び身体は膠着した。
怯えた姿に多少は溜飲が下がったのか、赤白き獣の表情は和らいだ。牙を大きく剥き出し、襲わんと意気を氾濫させて。
「・・・っ!」
それでも我武者羅に抗おうと幼き腕が剣を振るおうとした時、何かに覆い被されて動きが封じられる。身の危険、恐怖に囚われて暴れ出すも直ぐにも安心する。抱き付いてきたのは人であると理解した為。
震える身でラギアを庇ったのはシャオであった。命懸け、諸共潰されかねない身体能力差。それでもシャオは庇い、守ろうとした。シャオもまた無我夢中に、目の前の命を守ろうとして。
「な、んで・・・」
少年は驚く。安心し、身体の自由は取り戻されたが、それよりも驚きに動きが出来ず。そして、それはシャオ自身も内心では驚き返っていた。常に人の為にと思っていても、いざそうしてみれば疑問が心中を埋めていた。そうしても、危険である事は変わりないと言うのに。
だと言うのに、彼は妙な達成感を、叫びたくなるほどの切なさに包まれる。嘗て、こうしたかったのだと、微かに思って。
迸る殺意のままに眼前の存在を噛み潰さんと巨体が襲い掛かった。容赦など払う筈もなく、二人に向けて咬合させ、痛撃な音が響き渡った。
固く目を瞑る二人。彼等に被害は及ばなかった。付近で苦しむ声を耳にし、見上げると立ち塞がった者を目の当たりにした。それは、薙ぎ払われた者の一人、ガリードであった。最初に気付いた彼だからこそ立ち直りが早く、防御に間に合って見せた。けれど、被害が無い訳でなかった。
立ちはだかった彼は地面に剣を突き刺し、全力でグレディルの膂力を止まらせてみせる。だが、頭を始めとする数ヶ所から流血し、剣を振るう為の利き腕が痛々しく震える。それでも使うそれの一部は変色を起こし、折れている事は明らかであった。
痛々しく負傷した姿を目の当たりにして、シャオは動きが止まる。鮮烈に映る姿に、感じる。以前、こんな風に誰かに護られたと、命の危機から救われたと、溢れ出す涙に気付かないまま、痛烈に甦っていた。
守るガリードに更なる負傷を、大剣諸共両顎が喰らい、赤く染まった牙が人体に食い込む。金属すら噛み砕かんと両顎の筋は浮き上がり、痛みを抱いても怯まずに。
肉を抉り、骨を削る音が鳴る。それを飲み込む己の牙すら磨耗させる耳障りの音は、人を殺める執念、妄執を感じて。
「ガァァァアアアアアッ!!」
力み、痛みに耐える声は大きくされ、留まる事も含めた抵抗に全力を篭めた。
「シャオッ!!ラギアを連れて離れてろッ!!」
逃げろではなく、距離を開けろとの命令が響く。勝算があるとでも言うのか。
直後、彼は宙へ放り投げられる。煩わしいと言わんばかりに、赤白い獣の首は後方へ大きく降られ、呆気なく排除されてしまった。
苛立ちを吐き捨てるように赤白き獣は再度咆哮を上げ、手元の二人に向けて大口を開けた。ガリードの指示通り、距離を稼ごうとするシャオの背に、恐怖に囚われてしがみ付くだけのラギアに向けて。
牙が届く寸前、激痛に怯む声を上げて獣の体勢が崩れる。頭が唐突に横へ動き、均衡が崩れたのだ。その横顔には片手剣と見紛う大きさの矢が突き刺さっていた。それの射線、身以上の鋼鉄製の大弓を片手にした女性が立つ。彼女が不意を撃ったのだ。
次の大矢を番える、泥まみれの彼女に向け、怒りを滾らせて獣は駆け出さんとした。その動きがまた新たな衝撃、痛みを受けて阻害された。その腹部に槍が、二又に別れた刀身長きそれが深々と。
止まった巨体に向け、鎖が音を立てて振るわれた。幾多の音を鳴らし、前足に絡み付き、先端に備えられた碇に似た三又の鎌、その一つが肉体に突き刺さった。反対側には槍が備わり、巨大過ぎる樹木に突き立てられる。傍には流血夥しき、犬歯を覗かせる青年が立る。その彼は鎖を力任せに引っ張る、なけなしでも。二つの槍は彼の物。
僅かに止まった巨体の後方から二人、カタールに似た双剣を所持した青年、二つの手斧を下げた青年がほぼ同時に後足の関節を斬り裂く。数に因る素早い連撃と一撃に纏めた重撃が、刃を赤く染め上げて腱を切断する。それで俊敏な動きは出来なくされる。
連携を受け、地面に崩れ落ちた赤白き獣は蓄積し続ける憤怒に喚き立てる。腱を断たれてもなお、立ち上がり、排除せんと凄まじく暴れもがく。そこへ追撃が、獣の武器にも劣らぬ分厚く巨大な刃が、片側の前足を斬り裂いた。
血塗れ、折れた腕であっても大剣を握り、劣らぬ咆哮を響かせて振り抜いたガリード。思考を霞ませる激痛に鬼気迫る形相で耐え、重心を維持した彼はそのまま腹部へ全身を振るう。赤く染まりつつある身を、剛力を以って裂く。
激痛に怯みながらももがく。尚も殺意は衰えず、充血した眼で群がる彼等を睨んで。その様を、少し離れた位置にて、大弓を持つ女性が立つ。その目は鋭く、照準を定め、極限まで弓を引き絞って。
ギリギリと音を立てて大きく湾曲し、弦も引き千切れそうなほどに。支える両腕のガントレットも擦れる音を響かせ、渾身を篭める大矢は微かに揺れる。暴れ動く獣、とある一点に定める事に神経を集中させて。
二つが定まった時、羽根を掴んでいた指が離された。瞬間、大弓が復元する。その復元力は所持する者の体勢を崩すほどの爆発的な威力を発揮する。武器を破壊しかねないそれは全て矢に乗せられ、獣の動体視力すら補足させない速度で宙を過ぎた。
次の瞬間には充血した眼球を貫き、内部を、脳にまで達する処か、頭蓋骨すらも貫通して矢は止まっていた。音すらも置き去りにした一矢はグレディルの背を僅かに赤く染め上げ、致命傷として叩き込まれた。
巨体、獣の首は大きく仰け反る。だが、留まり、ゆっくりと前へ起こされる。明らかに致命傷、それでも獣は意思を緩めず、立ち上がろうと、殲滅せんと身体を動かす。最早、執念ではなく、呪いの如き意思を前に、対峙した全ての者が圧倒される。そうまでして突き動かすのは何か、理解も出来ずに。
不意に、何かが宙を横切り、グレディルの身体に当たり、何も出来ぬままに地面へ落ちた。泥水を跳ねる音が皆の意識を正しく定めさせた。
それはラギアの剣であった。戦いに介入出来ないひ弱な少年。それでも一矢報いようと、いやただ戦う思いのままに唯一の武器を投擲した。例え、碌な衝撃にならなくとも、無我夢中に。
皆が次の備える。手負いの獣、死に際であろうと凄まじい執念を見せ付けられた。一瞬たりとも気が抜けないと備える。だが、次は無かった。少年の投擲が最後の糸を断ち切ったと言うのか、姿勢を固めて事切れていた。
敵が沈黙した事で皆の緊張は低下、程良く脱力して身体を休める。同時に負傷に因る痛みに苦しまされてしまう。それに逸早く動き出すのはシャオ、慌てて一番近いガリードへ駆け寄る。
「け、怪我を・・・!」
「俺は後で良い。皆を先に治してくれ、シャオ。それよりも・・・」
自身よりもやるべき事があると、ラギアを、今はラビスを険しき表情で眺める。それを見て、察したシャオは早足で警戒しながら集まる仲間の元へ走っていった。
「・・・これでも、分からねぇか?ラギア。ちょっと前以上に、酷い状況だ。戦いに出たら、死に掛ける事もある。今さっきのように仲間が薙ぎ倒され、守られ切れずにな・・・」
状況が示した。強襲に拠って陣形は瓦解、命を落とす事もあると。
「・・ラビス。お前も、それを分かって戦わせんのか?強く、させてぇのか?ラギアを・・・家族をよ」
家族と言う単語を告げた彼は切なさを宿す。肉親に戦いを強いる、それに抵抗感が否めず。
あどけない顔を不安に染め、真剣な面のガリードと向かう。その内、ラギアは激しく動揺したであろう。
「・・・はい!私も、強く、なりたいです・・・!」
少年だけでなく、ラビスもまた宣言してみせた。迷いと不安を宿したままでも確かに。
少年、少女の決意は同じであり、硬いもの。再三に言われても揺るがぬ意思が見える。子供であろうと、それは優劣がつけようもなく。
数秒間、ガリードはジッと眺める。負傷も忘れるほどに真摯に向き合い、その真意を探ろうと。己も未熟である事は自覚している。その上で覚悟の程を図って。
「・・・そこまで言うなら、皆と相談してみるか。稽古ぐらいなら、良いと思うしな」
ガリードは自分達が折れるように承認した。それに少女の表情は和らぎ、内では少年は漸く思いが叶ったと喜んだであろう。
「・・・ラビス、傷の治療、頼むわ」
「はい!」
最後に微笑み掛けて指示を送る。それに元気よく答えた少女は祈りのポーズを取り、治療を始めていく。
根性で耐えていた傷だが大怪我である事には変わりない。それ相応の時間を要したものの、綺麗に完治に至る。
「ありがとよ、ラビス。皆と一緒に後処理の手伝いを頼む」
「分かりました!」
礼と共に頭を撫でて指示すれば、張り切った少女は修道服が汚れる事も厭わずに皆の元へ駆け出していく。それと入れ違うように深刻な面のシャオが傍に来る。
「・・・如何して、あんな怪我でも、助けてくれたの、ですか?」
尋ねるのは、大怪我であろうと誰かを助けた真意。下手をすれば命を喪いかねない行為の意味。
「・・・助けんのは、当たり前じゃねぇのか?」
「当たり前、ですか・・・」
ガリードは言い切ってみせた。当然の事だと、救う事に迷いは必要ないと。その精神、自分に通ずるものがあると考え、シャオは顔を俯かせる。
短絡的な考えをしてしまったとガリードは深刻な面持ちで対する。小さく溜息を吐き捨て、本心を語る。
「・・・俺が知ってる奴が、俺の目の前で死んでほしくねぇ、だけだ」
命を掛ける意味、その根幹を口にした。
「もう十分だ、そんなのは、よ。そん時、俺が居て、俺が出来るからする。やらねぇで後悔はしたくねぇし、考えたくもねぇんだよ」
このような世界、命は前以上に容易く失われてしまう。既に親を始めとする血縁や友人達も、喪ったと言える。それ以上、悲しみたくない、苦しみたくないと、だから命を張るのだと。
それの告白にシャオは俯き、小さく頷いた。その通りだと、小さく手を握り締めて肯定した。その顔、深き後悔が覗いて。
「何だい?馬車がオシャカじゃないか!如何なってんだい!?」
何処からか、聞き覚えのある嫌味がたっぷりと含まれた女性の声が響かれた。その方向に視線を向けると、見慣れた者達の集団を発見する。それは別行動を取ったもう一隊である。彼等もこの世界樹と見做した樹木を発見し、その周辺を探っていたのだろう。
「たかだかグレディルを相手に、こんなに被害を負うなんてねぇ・・・」
合流して早々に彼女は挑発し、貶す言葉を吐き付ける。つくづく敵を作る事に余念のない姿勢を前に、流石に誰かが反論しようとした。すると、
「ターニャ、君が言える義理か。君の不用意にグレディルの巣を侵入して戦闘した結果だ。負傷者を多く作り、君自身も負傷を負った上、手負いを一体逃す結果となったんだ。聖復術が使える者が居なければ、如何なっていた事か」
冷たく、しかし激しい義憤が篭められた声で制したのはナルナッド。彼が注意する通り、合流した皆に激しい戦闘の跡を衣服や防具に刻んで。
「・・・自分勝手も大概にしろ。所属するギルドの方針云々より、派遣された者としての自覚を持て」
「・・・分かったよ」
女傑の反論を押さえ付ける、強烈な迫力と憤りを放つ。それはやはり実力差を分かっての事か。
「・・・被害が大き過ぎるな、ガリード」
「申し訳ないっス。一体相手だったんスけど、急襲を受けてあっと言う間に壊されてしまいました」
険しき面で見渡す彼の指摘に恐縮して答える。結果的に言えば、十分制圧出来る存在に壊滅寸前に追い込まれたのだ。その責任を感じて頭は下がる。
「・・・そうなったのなら、仕方ない。負傷はしても、死者は居ない事は最良だ。馬車も壊されたが、レイホースも無事の様だしな」
急襲時に辛くも助かったその馬は安全を確認したのだろう、戻ってきて不満そうに鼻を鳴らす姿が見える。
「今日は此処で切り上げる。不測の事態に備え、周囲を警戒して帰路に就く。非戦闘員、消耗が濃い者は馬車で待機。動ける者はその警備だ」
弁償しなければと頭を抱えながら、これ以上の調査は難しいと判断して戻る事を指示する。それに皆は応じ、行動に移すのであった。
その折、ラギアがシャオに礼を告げていた。ぶっきら棒にも、悔しそうにも確かに。それを受けたシャオは何かを含んだ微笑みで応じていた。
【10】
薄らと陽の明かりが射し込みそうな曇天、微かに雨足が緩んだような日。もう既に夕暮れ時が訪れていた。
その沼地地帯、人々の拠点と言えるローレルに構えられた宿屋にて、調査に赴いていた面々は軽い宴を開いていた。
ガリードを始めとする数人が厨房を借り、仕留めた魔物を調理する。完成すれば食卓へ次々と振る舞う。その様は少々喧しく、受ける仲間達は舌鼓を打って。
「これで上の連中の買収でもしてきたのかい?熱心な事だねぇ」
そう、あの女傑も挑発を叩きながらも料理を挟む手は緩めない。今は無礼講と言うように、それを注意する事はせず、料理を楽しむ。
そうした様子は注意される事は無い。他の客に迷惑になりかねない騒がしさだが、文句を言われる処か、居合わせた客は御満悦。それもその筈、彼等にも料理は振る舞われていたのだ。
そもそも食料を調達し、料理を提供する事を条件に宿泊に関する事に便宜を図って貰っている。なので、此処の店主は酒を片手に上機嫌に箸を進めている。もう既に幾らか出来上がり、顔は紅色に染まっていた。
「漸く交代出来たっス。どうぞ!」
此処の職員と交代して戻って来たガリード、その手には大皿を二つ。特盛に盛り上げるのはやたらと巨大な唐揚げ、シンプルな形状と南蛮漬け風の二つ。蟹肉を使った唐揚げに天婦羅、コロッケに炒飯。
それを仲間が座る食卓に置き、空いた皿を厨房を送ってから、椅子に腰掛ける。開始してから約一時間後の合流であった。
「さて、食事の途中で悪いが、今回の調査、皆、良くやってくれた。少ない人員だが、沼地地帯の一通りの調査を完了させられた」
全員を労うナルナッド、達成して誇らしいのか少し微笑んで。
調査の結果は既にリアの元へ送られている。同時にある程度の情報も共有されており、更なる地形変化が多く確認された。その中で地形の果てが改めて認識されていた。
それは草原地帯と同様。だが、目の当たりにしてしまえば不安に駆られようか。
沼地の果て、環境は唐突に閉ざされるように終わる。唐突に崖が切り立つように地形が分断され、海が広がっていた。何処までも広い、限りの無い海が、曇天に覆われた大海が広がっていたのだ。その向こうには何もない。他の大陸がある訳でも、島がある訳でも。
「色々あったが、ターニャ。君の戦闘能力には助けられた。感謝する」
「そうだねぇ、まぁ、多少楽しかったよ」
率直な賞賛に彼女は素直に受け止めて返答する。そして、実直に嬉しいのか、片手にする酒を飲む量が少々増して。
「ラビスも色々と世話になった。君には本当に助けられた」
「いえ、それぐらいしか出来ない事ですから」
今は剣を手放しており、育ち盛りを示すように大人と同じぐらいの量をもりもりと食べて。アニエスの教育の賜物か、其処に一切の粗相やマナー違反は見られず。
「そして、ラギアにも伝えて欲しい。聞いていると思うが、無理のない範囲での鍛錬は続ける事だ。それは他の者からも言われたと思うがな。反復する事で実戦時にも役に立つ」
あの後、ガリードがナルナッドに相談した結果、合間に指導を行う事となった。他のギルドの者に必要以上の干渉は憚れたものの、ガリードの説得によってそれは実現していた。
指導と言っても基本的な筋力トレーニングと素振りや身体の動きの指導と言った、戦闘における基礎となる部分。それが重要だと言い聞かせて行わせた。それには数人が面倒を見ていた。少々驚く事に、一番熱心だったのはターニャであった。
その間、少年と少女は文句の一つを言う事無く、黙々と、けれど熱心に取り組んでいた。その直向さが指示する者を真剣にさせたのだ。苦しさの中でも目的を見出し、それに進む強さは取り組む目が語り、それ以降も続けていく事は皆が即座に理解して。
「・・・はい、ラギアも、分かっていると言っています」
「なら、いい。最後になるが、今日で此処での調査は終了となるだろう。その旨を打診しているが、問題無ければ明朝には此処を発っても構わない。馬車の手配は済ませている。俺は此処の常駐なので離れられない為、それ以降はガリードに任せている」
「そう言う事なんで、もうちょっと頑張りましょう」
引き締まった空気を少し緩める彼の言動に、ナルナッドは小さく息を吐く。
「・・・ともあれ、今日は十分に休んでくれ」
その合図と共に食事は再開される。各々が料理を楽しみ、酒やジュースで喉を潤す。仕事の達成感に皆は開放的になって。
仕事を共にし、共感し合って笑う様を眺めながら料理を運ぶガリード。自然と目はシャオに向かれる。丁度隣の彼と目が合う。
「シャオ。これで調査は終わっちまうが、何か見付かったのか?それとも分かった事があったか?何か探していたようだったけどよ、お前が満足出来る結果になったのか?」
調査の最中、彼が何かを探していた事は最初から気付いた。今迄尋ねる事はしなかったが終わりとなってしまう今、望みは達成されたのかと疑問になり、思い切って尋ねていた。出来なくとも、また手伝うと伝える事も備えて。
「うん・・・充分です。知りたかった事、知れました。助けになってくれて、ありがとう・・・ございます」
受けた彼は笑顔で応答する。変わらぬ笑顔、いや何処か吹っ切れたような新しい笑顔であった。
「なら、良かった」
叶った云々は本人しか分からない事。その本人の発言と笑顔を信じるしかない。
良い様に捉えて微笑んだガリード。小さく、違和感を感じて。それは状況による一時的な差異なのか。ともあれ、何時も通りに見えた優しき微笑みに中身が満たされたように感じた。
「あれ?何時の間にか無くなってるぞ?誰が食べたんだ?」
その言葉に食卓を見てハッとする。発言通り、前に並べていた料理が片端から消えて無くなっていた。新しく運んだものも含めて数分程度では平らげられない量であった。なのに、気が付けば無くなっていた。
「早いっスね!じゃあ、俺次を・・・っ!?」
食が早い事を喜び、次の料理を持ってこようとした矢先、彼は気付いた。
何時の間にか紛れ込んでいた。音も無く侵入し、景色に融け込むように其処に居た。酒気や騒ぎで注意が削がれていた事もあるだろう。けれど、彼女は当たり前のように料理を頬張り、飲み込んだ後に告げた。
「・・・もっと」
隣にはノラが居た。空白ではなかったが、何時の間にかガリードと仲間を押し退けるように割り込み、料理を片端から食していたのだ。その速さ、驚愕でしかなく。
「・・・何時の間にか彼女が居たが、ガリード、知り合いか?」
少し前に存在に気付き、困惑を見せたナルナッドが指摘する。それで皆は彼女の存在に気付く。
「し、知り合いっス。こいつが、全部食っちまったようで・・・」
「何だよ、凄い食いっぷりだな!」
唐突の登場に驚き返る彼はただ平然と居座るノラに圧倒されていた。
「・・・悪いが、ガリード。次を頼んでも、良いか?」
「・・・分かりました」
知り合いが仕出かした責任は取らなければならないと言うように、渋々と彼は厨房へ引き返す。満足に食事に手を付けていないと言うのに。
厨房へ引き戻される姿に笑いが零される。その中、シャオも笑みを零していたのだが、終始、懐かしむような羨ましがるような雰囲気を密かに漂わせていた。
誰にも気付かせないまま、ローレルに流れる時間に任せるように、その空気を楽しむのであった。
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