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三章

システマの心

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 ずたぼろでマンションに戻った俺は予想通りの光景に思わず笑った。マンションの玄関ホールで勝亦の奴が待ち構えている。手にしていたぐしょ濡れの鞄を勝亦に放り、俺はいつものようにポストをチェックした。珍しいな。今日はチラシが一枚も入ってねえ。

「おつかれ」
「お前もな」

 互いにそう挨拶して俺は自分の部屋に向かった。勝亦が後ろから無言でついてくる。勝亦の奴も相当、殴られたらしいな。痣が出来てやがる。

 何か随分と長く感じられた一日だった。日が完全に落ちてもすぐに帰る気にはならず、俺はしばらくの間は街をぶらついていた。だが特にあてがあるでもない。結局、俺はここに戻ることしか思いつけなかった。会社? 俺が行けば逆に迷惑がかかるだろ。

 部屋に入った俺は勝亦に断って真っ先にシャワーを浴びた。疲れきった身体を熱めのシャワーに突っ込んだところで感覚が戻ってくる。くそ。やっぱりあそこでこうすれば良かったって考えが次々にわいてくる。

 手早くシャワーを浴びて着替えて一息。俺はため息ついてからバスルームを出た。キッチンに寄って冷蔵庫から二本のビールをさらい、部屋に所在なげに立ってる勝亦に片方差し出す。戸惑ったように俺とビールを見比べてから勝亦はありがとうと受け取った。

「綺麗なもんだろ。睦月と片付けたんだ」

 勝亦が驚いてるのも無理はない。散らかり放題だった部屋がきっちり片付いてるんだからな。よっぽど感心したのか勝亦はああ、とあっさり頷いてその場に腰を下ろした。俺の濡れた鞄は玄関に放置されている。まあ片付けるのは明日でいいだろ。めんどくせえ。

 おつかれ、と色気も何もなくボトルを合わせてから俺はビールを一気にあおった。なんか久しぶりに飲む気がするのにあんまり美味くない。勝亦も似たようなものらしく、ボトルを傾けてからため息をついている。

 勝亦は淡々と後始末の件を話してくれた。騒動の流れが開発部長の思惑を大きく外れたため、睦月と時雨が取引の材料に使われることはなかったようだ。真っ先にそのことを話した勝亦に俺はそうかって頷いてみせた。やけにあっさりしてるなと勝亦が不思議そうに言う。

「睦月が言ってたからな。そうなるだろうって」

 あんまりしつこく勝亦が訊くもんで、俺は仕方なくそう白状した。睦月がつまづいて転んだあの場所。あれは開発部長が取引を持ちかけようとしていた会社のまん前だったのだ。

 その場所で叫んだ睦月の言葉を思い出す。自らをシステマでないと言い切った睦月は欠陥品と断定された。勝亦は俺の顔をちらちらとうかがいながらそう言った。ああ、そうだろうよ。俺は残ってたビールを飲み干して新しいボトルを取りに腰を上げた。ついでに勝亦の分も冷蔵庫から取り出して部屋に戻る。

 長根所長は最後まで俺を庇ってくれたらしい。営業所の奴らを動かして追っ手たちの邪魔をしてくれてたってのはここだけの話だ。追っ手の連中は車を使ってたからな。営業車で先回りして、駐車禁止場所に停めてあった連中の車を通報して警察にしょっ引かせたりとかしてたらしい。その話を聞いた俺は思わず吹き出しちまった。それは確かにまずいよな。俺らの営業車は特別に駐停車が許可されてるが、奴らの私用車はそうはいかないからな。さぞ痛い思いをした奴もいるだろう。

 中條先輩は手持ちのコネクションを駆使し、開発部長がどこの誰と取引をしようとしていたかを真っ先に突き止めたらしい。あの人は容赦がないな、というのが勝亦の感想だった。調べたところ、やっぱり開発部長は他にも色々と悪どいことをやってたそうだ。で、俺と仲良くくびってことになったらしい。ご愁傷様。人を呪わば穴二つってな。昔の人はいいこと言うもんだよ、ほんと。

 だがそれでもシステマ……I 3604 Twins RC1は凍結されることが決定した。

「睦月は」
「初期状態に戻されることになったよ」

 俺の質問に勝亦がぼそぼそとした声で言う。そうか、と俺は小声で答えた。全ての記憶をデリートされ、データを解析した後、睦月と時雨は完全に作りたての状態に戻されるのだという。その解析は難航しているようだ。

 だが多分、無駄だろう。開発の連中にはとても興味深いサンプルかも知れないが、どれだけ調べてもシステマが人になったという結果は出てこない。

 あの時の叫びが睦月の演技だったのだ。

 ホテルの部屋で睦月は俺に言った。人になる方法を教えてくれ、と。完全に人になってしまう必要はない。人らしく見えればそれで十分だ。だからその方法を教えて欲しい。そう言った時の睦月の真剣な表情が俺の脳裏にこびりついている。

「すげえよな、睦月。見事だったよ」

 俺は乾いた声で笑いながらビールのボトルを傾けた。それまで沈んだ顔で黙っていた勝亦がぼそりと言う。

「能戸。メールを確かめたか?」
「あ?」

 唐突に言われて俺は首を横に振った。勝亦が振り返って壁際にある机を見る。俺は怪訝に思いながらも腰を上げた。旧式の端末の電源を入れる。相変わらずぼろいな。変な音を立てた端末の箱を俺は素手で軽く叩いてやった。内部で上手くかみ合ってなかったらしいファンの立てていた音がそれで大人しくなった。

「新しいのを買ったらどうだ?」

 背後に立ってた勝亦が呆れたように言う。うっせえ。これが一番早いんだよ。俺はその意味をこめて勝亦を睨んでから椅子に腰掛けた。部屋の隅に積み上げられたままのディスクとダンボールをちらりと見る。どうせ仕事も辞めたんだ。明日辺り、片付けるかな。そんなことを思いながら画面に目を戻したところで俺は目を見張った。

 俺、アドレス教えた覚えはないのに。だが立ち上げたメーラーの受信メールのところには間違いなく睦月の名があった。ウイルスの類じゃないことははっきりしてる。自慢じゃないがこのマシンを組んだのは勝亦なんだ。その手のメールは表示される前に破棄される仕組みになっている。

 未開封のメールを表示させる。睦月と差出人のところに名前の記されたメールは淡白な文章で綴られていた。はは。なんか睦月らしくて笑っちまった。

『私はシステマでしかありません。ですが私はシステマであることに誇りを持っています。』

 ああ、知ってる。今なら俺も判る。睦月は俺の言葉に随分と傷ついただろう。俺が人になれって言う度に、いや、人の方がいいに決まっているなんてことまで言ったな。その度に睦月は誇りを傷つけられていたに違いないのだ。だが鈍い俺はそんなことには全く気付かなかった。

 睦月は人らしく振る舞えという俺に文句一つ言わなかった。水族館に行った時も俺の言った通り、システマらしい働きは殆どしなかった。本当ならもっと違う楽しみ方をしたかったのではないだろうか。だがそれはもう過ぎてしまったことだ。今さらどうにもならない。

 言えなかった。たったひと言でもいい、睦月にお前は大したシステマだと、それすら俺は言うことが出来なかったのだ。だから睦月は最後に俺の願っていた人らしさを見せてくれたのだ。……例えそれが嘘だとしても、睦月は必死で演じたのだ。それが俺の願いと判断したから。

 小さな音を立てて玄関のドアが閉まる。……阿呆。気を遣ったつもりかよ、勝亦の奴。勝手に帰りやがって。だがちょっと感謝かな。こんな情けない面、見られるのも嫌だしな。

『能戸さんと知り合えてとても嬉しかったです。ありがとうございました。さようなら。』

 画面が滲んで見えなくなる。くそ、俺が今日一日だけでどれだけ汗をかいたと思ってやがるんだ。これ以上水分出したらビールの一本や二本じゃ足りねえだろが。俺は悪態をつきながら持ってたビールを飲み干した。
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