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一章
ハンバーガー屋の窓の外
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その年は嫌に長く雨が続いた。とある地方では長雨のために川が決壊し、多数の住民が被害に遭ったようだ。新聞やテレビでは毎日のように憂鬱なニュースが流れていた。
だが長すぎる梅雨も暑い夏が訪れれば忘れられてしまう。明るい日差しの下を行く人々をぼんやりと眺めながら順はため息をついた。元気良く歌いながら歩道を歩く小学生の群を何となく目で追いかける。ランドセルを背負った小学生たちは窓から見つめる順の視線には気づかず、楽しそうに歌いながら視界から消えた。
学籍番号、と。そう呟きながら順は横罫のまっさらなレポート用紙にペンで自分の学籍番号を書き入れた。それから続いて氏名を書く。木村順。そこまで書いてから順は再び窓の外に目をやった。
空は青く明るい。ビルの隙間に見えるのは入道雲だろう。この様子だともしかしたら夕刻辺りには一雨くるのかも知れない。だがきっとその雨も一瞬で通り過ぎてしまう。この間の梅雨のように降り続くことはないだろう。明るい空を見上げて目を細めていた順は再度ため息をついて肩を竦めた。
晴れていようが降り続いていようがレポートの提出期限に変更はない。順は口許に手を当てて軽く咳き込んでからペンを持ち直した。地質学の教授は時間に煩い。明後日までに学生のレポートが揃わなければまた機嫌を悪くするだろう。
「また暗い顔してる。もう少し元気な顔にならんもんかね?」
笑い混じりの声を聞いた順は本格的にうんざりとしたため息をついた。肩で風を切るほどではないが、がたいの良い男が近付いてくる。高校時代、柔道をかじっていたらしく男の体格はかなりしっかりとしたものだ。
「別に」
そっけなく返事をして順は男から目を逸らした。男の名は渡部和也。順が初めて受けた講義で隣の席になった縁で、一年以上過ぎた今でも付き合いのある男だ。
まあ、何となく顔を見る程度だけど。内心でそう呟きながら順はテーブル脇に立った和也を斜めに見上げた。
「そこに立たれると影になる。さっさと座れ」
いつもの調子で言うと、和也はへいへいと軽い返事をしながら順の真正面の席を陣取った。
クリーニング屋の二階、という一風変わった場所にあるファーストフード店が最近の順の憩いの場だ。が、近頃は和也がよくここに現れるようになったため、一人になれる時間はめっきり少なくなった。
「……なんだよ、その嫌そうな顔は。オレの顔見るのがそんなに不満かよ?」
さっきまでのリラックスした表情が少し厳しさを帯びる。元々、顔の作りがはっきりしている和也がそういう表情をすると、大抵の学生たちは怖がって離れていく。だが和也にその自覚はないらしい。順は呆れた顔で和也を睨んでからテーブルの隅に寄せておいたトレイに手を伸ばした。
「まあね」
思った通りに答え、順は殆ど中身のないアイスティーを啜った。途端に和也が不服そうに顔を歪める。どうやら和也は顔を見られて嬉しいとでも言って欲しかったらしい。いつも通りの和也の反応に順は微かに眉を動かした。
「大体、何でお前がここにいる? 勝沼教授の講義とってるんじゃないのか」
結局、不服そうに唇を尖らせる和也に折れる形で順は嫌々ながら訊ねた。すると待ってましたとばかりに和也の顔がぱっと明るくなる。順は眉間に皺を寄せて呆れたため息をついた。思わず似合わない、と呟く。くるくると表情が変わるところは少年か若しくは小動物のようだ。その様は和也の体格とは不釣合いに思える。だが和也の耳に順の感想は入らなかったようだ。嬉しそうに話を続ける。
「それがなぁ。突然、休講になってな」
そう言って和也がテーブルに身を乗り出す。順は嫌な顔をしつつも和也の方に耳を向けた。口の側に手をあてがった和也が声を潜める。自然と耳を澄ました順は次の瞬間に素早く和也から離れた。耳を押さえて和也を睨みつける。
「何のつもりだ」
愛想の欠片もない口調で言うと、順はさっさとテーブルの上を片付け始めた。和也が内緒話をする振りをして順の耳に息を吹きかけたのだ。下らない真似ばかりして、と内心で和也を罵りながら、順は殆ど白紙のレポート用紙を鞄に突っ込んだ。
「そんなに怒るようなことか? 相変わらず洒落の通じんやつだな」
「……いつもながら、どうしてそう下らないことばかりするんだ、お前は」
深々と息をついて順は小声で告げた。和也はだが悪びれる様子もなく楽しそうに笑っている。
順は普段から他人とはあまり口をきかない。幼い頃は明るい性格だと周囲の誰もが言っていたのだが、とある日を境に順は自分から意思表示することは少なくなった。大学の中でも、例え教授相手でも順は必要最低限の会話しかしない。だが和也が相手の時は別だ。何しろ和也は知り合ったその日から、順が返事をするまでしつこく付きまとったのだ。講義室だけでなくトイレにまでついてきた和也に呆れ、順は仕方なく返事をした。
別にそんなことどっちでもいいだろう。
質問の内容は忘れたがどう答えたのかは今でも覚えている。面倒で鬱陶しくて、だからそう答えたのだ。だが順のいいかげんな答えに和也は納得したらしい。
それ以来、和也はこうしていつでも付きまとってくる。正直なところ、鬱陶しい。実際、順はいつも和也に対しては素っ気ない態度をとっている。だがそれでも和也は懲りずに付きまとってくるのだ。
やれやれと肩を竦めて順は持ち上げていた鞄を椅子に戻した。
「それで?」
この暑いのに和也はホットコーヒーを啜っている。順が声をかけると和也は目だけを上げて口許に笑いを浮かべた。
「なんかな。勝沼教授って変な噂あるだろ?」
「さあ」
他人の噂など興味はない。その意味をこめて素っ気なく返した順に和也は苦笑した。
「相変わらず冷めてるなあ。あんなおっさんのことには興味ないってか」
意味深な笑い方をする和也を横目に睨み、順は無言で顎をしゃくった。話相手の気を引くために答えを言い渋るのは和也の癖だ。
「判った判った。言うからそんなに睨むなよ」
溶けた氷でカップの中身は殆ど水に変わっている。表面に水滴の浮いたカップを取り上げ、順は中身を少しずつ啜った。
この店に来る時に注文するものは決まっている。一杯のアイスティーだけだ。元々、人の少ないこの店では飲料一つで数時間粘っても文句は言われない。
「実はな。勝沼教授、ポカやったらしくてな」
「は?」
順は思わず疑問の声を返した。勝沼は生物学の教授だ。学生たちの間でも人気は高く、受講生も多いという。年は三十代前半だっただろうか。学生と一緒にいると誰が教授か判らなくなるほど、見た目は若々しい。順は勝沼のプロフィールをざっと思い出しながら和也を見た。
「コレで」
意味ありげに笑いつつ、和也が右手の小指を立てる。順は眉間に皺を寄せて嫌そうに和也から目を逸らした。小指の意味するところは女。つまるところ、勝沼は女性問題で休講にする羽目になったらしい。そう理解して順は再度、やれやれと息をついた。
「くだらない」
「えー、そうかあ? もしかして木村ってスキャンダルとか嫌なのか?」
「騒ぐだけ無意味だな。俺の人生には関係ないし」
冷めた口調で言ってから順はそれじゃあ、と席を立とうとした。だが和也がまあまあ、と順の肩を押す。腰を上げかけていた順は怪訝な面持ちで座り直した。
「木村が何か食ってるとこって見たことないんだが……ちゃんと食ってるのか?」
そう言いながら和也が腕を伸ばす。ハンバーガーやポテトの乗ったトレイの上から伸びてきた手が順の手首をつかむ。順は無言でつかまれた自分の手首を見下ろした。たくましい体格の和也らしい力強さを感じさせる大きな手だ。それとは対照的につかまれた自分の手首は細く、力強さなど欠片も感じない。しばらく和也の手を見つめてから順は静かにその手を払った。
「余計なお世話だ。用がないなら俺は行くぞ」
呆れ混じりに告げて順はじろりと和也を睨んだ。こんな風に順が怒りを込めて睨む相手もごく限られている。和也は数少ないその中の一人だ。が、順は和也に対して特に好意を持っている訳ではない。単純に、和也が順の感情を逆なでするタイプなだけだ。少なくとも順は和也に対してそう評価を下していた。
指でつまんだポテトを口に放り込みながら和也が意味ありげに笑う。
「どうせまともなもん食ってないだろ? がりがりじゃねえか」
トレイに乗っていたハンバーガーを一つつかみ、和也は順のトレイにそれを乗せた。目の前に置かれたハンバーガーと和也とを見比べる。どうやら一応は心配されているらしい。そう判断して順は大人しく礼を言った。
「ありがとう。でも俺はちゃんと食べてるぞ。全く食事をしていない訳じゃない」
少なくとも身体を維持するだけの栄養は摂取しているつもりだ。そう続けて順はハンバーガーを取った。実際、和也が分けてくれたハンバーガーを手にしても食欲は湧かない。が、順はそれを隠して包みを剥きにかかった。
食べ物を目にしても食欲がわかない。それは順が自分の周りに壁を作り始めたあの日からずっと続いている。どんなご馳走が目の前に並べられても美味そうに思えないのだ。
だが食べなければ身体はもたない。順は出来るだけ不自然にならないように心がけながらハンバーガーを食べ始めた。口に入れてしまえば咀嚼して飲み下すことは出来る。塩分や糖分などの味もわかる。なのにどうしても美味しいと思えない。
原因ははっきり判っている。だが例え原因が判っていてもどうにもならないこともある。
「新作だってよ、それ。でかい看板が店の前に出てたろ?」
「ふうん」
もしかしてパンとハンバーグの間に挟まっている目玉焼きが新しいのだろうか。だが味は普通のハンバーガーに比べてくどくなっている気がする。順はカップに残っていたアイスティーで口の味を流しつつ、何とかハンバーガーを食べ終えた。口許を押さえて咳き込みつつ、手の中に残っていたハンバーガーの包みを丸めてトレイに置く。ふと顔を上げると訝しげな顔をした和也と目が合った。
「風邪か?」
「そうらしいな」
咳の合間にそう返事して順はアイスティーを飲み干した。腕に嵌めた時計を見て眉を寄せる。もう三時近い。
「ごちそうさま。俺、そろそろ行くよ」
出来るだけ咳の衝動を堪えながら順は立ち上がった。トレイを片手にテーブルを離れる。その後姿を和也がじっと見ていたが、順はそのことには気づかなかった。
だが長すぎる梅雨も暑い夏が訪れれば忘れられてしまう。明るい日差しの下を行く人々をぼんやりと眺めながら順はため息をついた。元気良く歌いながら歩道を歩く小学生の群を何となく目で追いかける。ランドセルを背負った小学生たちは窓から見つめる順の視線には気づかず、楽しそうに歌いながら視界から消えた。
学籍番号、と。そう呟きながら順は横罫のまっさらなレポート用紙にペンで自分の学籍番号を書き入れた。それから続いて氏名を書く。木村順。そこまで書いてから順は再び窓の外に目をやった。
空は青く明るい。ビルの隙間に見えるのは入道雲だろう。この様子だともしかしたら夕刻辺りには一雨くるのかも知れない。だがきっとその雨も一瞬で通り過ぎてしまう。この間の梅雨のように降り続くことはないだろう。明るい空を見上げて目を細めていた順は再度ため息をついて肩を竦めた。
晴れていようが降り続いていようがレポートの提出期限に変更はない。順は口許に手を当てて軽く咳き込んでからペンを持ち直した。地質学の教授は時間に煩い。明後日までに学生のレポートが揃わなければまた機嫌を悪くするだろう。
「また暗い顔してる。もう少し元気な顔にならんもんかね?」
笑い混じりの声を聞いた順は本格的にうんざりとしたため息をついた。肩で風を切るほどではないが、がたいの良い男が近付いてくる。高校時代、柔道をかじっていたらしく男の体格はかなりしっかりとしたものだ。
「別に」
そっけなく返事をして順は男から目を逸らした。男の名は渡部和也。順が初めて受けた講義で隣の席になった縁で、一年以上過ぎた今でも付き合いのある男だ。
まあ、何となく顔を見る程度だけど。内心でそう呟きながら順はテーブル脇に立った和也を斜めに見上げた。
「そこに立たれると影になる。さっさと座れ」
いつもの調子で言うと、和也はへいへいと軽い返事をしながら順の真正面の席を陣取った。
クリーニング屋の二階、という一風変わった場所にあるファーストフード店が最近の順の憩いの場だ。が、近頃は和也がよくここに現れるようになったため、一人になれる時間はめっきり少なくなった。
「……なんだよ、その嫌そうな顔は。オレの顔見るのがそんなに不満かよ?」
さっきまでのリラックスした表情が少し厳しさを帯びる。元々、顔の作りがはっきりしている和也がそういう表情をすると、大抵の学生たちは怖がって離れていく。だが和也にその自覚はないらしい。順は呆れた顔で和也を睨んでからテーブルの隅に寄せておいたトレイに手を伸ばした。
「まあね」
思った通りに答え、順は殆ど中身のないアイスティーを啜った。途端に和也が不服そうに顔を歪める。どうやら和也は顔を見られて嬉しいとでも言って欲しかったらしい。いつも通りの和也の反応に順は微かに眉を動かした。
「大体、何でお前がここにいる? 勝沼教授の講義とってるんじゃないのか」
結局、不服そうに唇を尖らせる和也に折れる形で順は嫌々ながら訊ねた。すると待ってましたとばかりに和也の顔がぱっと明るくなる。順は眉間に皺を寄せて呆れたため息をついた。思わず似合わない、と呟く。くるくると表情が変わるところは少年か若しくは小動物のようだ。その様は和也の体格とは不釣合いに思える。だが和也の耳に順の感想は入らなかったようだ。嬉しそうに話を続ける。
「それがなぁ。突然、休講になってな」
そう言って和也がテーブルに身を乗り出す。順は嫌な顔をしつつも和也の方に耳を向けた。口の側に手をあてがった和也が声を潜める。自然と耳を澄ました順は次の瞬間に素早く和也から離れた。耳を押さえて和也を睨みつける。
「何のつもりだ」
愛想の欠片もない口調で言うと、順はさっさとテーブルの上を片付け始めた。和也が内緒話をする振りをして順の耳に息を吹きかけたのだ。下らない真似ばかりして、と内心で和也を罵りながら、順は殆ど白紙のレポート用紙を鞄に突っ込んだ。
「そんなに怒るようなことか? 相変わらず洒落の通じんやつだな」
「……いつもながら、どうしてそう下らないことばかりするんだ、お前は」
深々と息をついて順は小声で告げた。和也はだが悪びれる様子もなく楽しそうに笑っている。
順は普段から他人とはあまり口をきかない。幼い頃は明るい性格だと周囲の誰もが言っていたのだが、とある日を境に順は自分から意思表示することは少なくなった。大学の中でも、例え教授相手でも順は必要最低限の会話しかしない。だが和也が相手の時は別だ。何しろ和也は知り合ったその日から、順が返事をするまでしつこく付きまとったのだ。講義室だけでなくトイレにまでついてきた和也に呆れ、順は仕方なく返事をした。
別にそんなことどっちでもいいだろう。
質問の内容は忘れたがどう答えたのかは今でも覚えている。面倒で鬱陶しくて、だからそう答えたのだ。だが順のいいかげんな答えに和也は納得したらしい。
それ以来、和也はこうしていつでも付きまとってくる。正直なところ、鬱陶しい。実際、順はいつも和也に対しては素っ気ない態度をとっている。だがそれでも和也は懲りずに付きまとってくるのだ。
やれやれと肩を竦めて順は持ち上げていた鞄を椅子に戻した。
「それで?」
この暑いのに和也はホットコーヒーを啜っている。順が声をかけると和也は目だけを上げて口許に笑いを浮かべた。
「なんかな。勝沼教授って変な噂あるだろ?」
「さあ」
他人の噂など興味はない。その意味をこめて素っ気なく返した順に和也は苦笑した。
「相変わらず冷めてるなあ。あんなおっさんのことには興味ないってか」
意味深な笑い方をする和也を横目に睨み、順は無言で顎をしゃくった。話相手の気を引くために答えを言い渋るのは和也の癖だ。
「判った判った。言うからそんなに睨むなよ」
溶けた氷でカップの中身は殆ど水に変わっている。表面に水滴の浮いたカップを取り上げ、順は中身を少しずつ啜った。
この店に来る時に注文するものは決まっている。一杯のアイスティーだけだ。元々、人の少ないこの店では飲料一つで数時間粘っても文句は言われない。
「実はな。勝沼教授、ポカやったらしくてな」
「は?」
順は思わず疑問の声を返した。勝沼は生物学の教授だ。学生たちの間でも人気は高く、受講生も多いという。年は三十代前半だっただろうか。学生と一緒にいると誰が教授か判らなくなるほど、見た目は若々しい。順は勝沼のプロフィールをざっと思い出しながら和也を見た。
「コレで」
意味ありげに笑いつつ、和也が右手の小指を立てる。順は眉間に皺を寄せて嫌そうに和也から目を逸らした。小指の意味するところは女。つまるところ、勝沼は女性問題で休講にする羽目になったらしい。そう理解して順は再度、やれやれと息をついた。
「くだらない」
「えー、そうかあ? もしかして木村ってスキャンダルとか嫌なのか?」
「騒ぐだけ無意味だな。俺の人生には関係ないし」
冷めた口調で言ってから順はそれじゃあ、と席を立とうとした。だが和也がまあまあ、と順の肩を押す。腰を上げかけていた順は怪訝な面持ちで座り直した。
「木村が何か食ってるとこって見たことないんだが……ちゃんと食ってるのか?」
そう言いながら和也が腕を伸ばす。ハンバーガーやポテトの乗ったトレイの上から伸びてきた手が順の手首をつかむ。順は無言でつかまれた自分の手首を見下ろした。たくましい体格の和也らしい力強さを感じさせる大きな手だ。それとは対照的につかまれた自分の手首は細く、力強さなど欠片も感じない。しばらく和也の手を見つめてから順は静かにその手を払った。
「余計なお世話だ。用がないなら俺は行くぞ」
呆れ混じりに告げて順はじろりと和也を睨んだ。こんな風に順が怒りを込めて睨む相手もごく限られている。和也は数少ないその中の一人だ。が、順は和也に対して特に好意を持っている訳ではない。単純に、和也が順の感情を逆なでするタイプなだけだ。少なくとも順は和也に対してそう評価を下していた。
指でつまんだポテトを口に放り込みながら和也が意味ありげに笑う。
「どうせまともなもん食ってないだろ? がりがりじゃねえか」
トレイに乗っていたハンバーガーを一つつかみ、和也は順のトレイにそれを乗せた。目の前に置かれたハンバーガーと和也とを見比べる。どうやら一応は心配されているらしい。そう判断して順は大人しく礼を言った。
「ありがとう。でも俺はちゃんと食べてるぞ。全く食事をしていない訳じゃない」
少なくとも身体を維持するだけの栄養は摂取しているつもりだ。そう続けて順はハンバーガーを取った。実際、和也が分けてくれたハンバーガーを手にしても食欲は湧かない。が、順はそれを隠して包みを剥きにかかった。
食べ物を目にしても食欲がわかない。それは順が自分の周りに壁を作り始めたあの日からずっと続いている。どんなご馳走が目の前に並べられても美味そうに思えないのだ。
だが食べなければ身体はもたない。順は出来るだけ不自然にならないように心がけながらハンバーガーを食べ始めた。口に入れてしまえば咀嚼して飲み下すことは出来る。塩分や糖分などの味もわかる。なのにどうしても美味しいと思えない。
原因ははっきり判っている。だが例え原因が判っていてもどうにもならないこともある。
「新作だってよ、それ。でかい看板が店の前に出てたろ?」
「ふうん」
もしかしてパンとハンバーグの間に挟まっている目玉焼きが新しいのだろうか。だが味は普通のハンバーガーに比べてくどくなっている気がする。順はカップに残っていたアイスティーで口の味を流しつつ、何とかハンバーガーを食べ終えた。口許を押さえて咳き込みつつ、手の中に残っていたハンバーガーの包みを丸めてトレイに置く。ふと顔を上げると訝しげな顔をした和也と目が合った。
「風邪か?」
「そうらしいな」
咳の合間にそう返事して順はアイスティーを飲み干した。腕に嵌めた時計を見て眉を寄せる。もう三時近い。
「ごちそうさま。俺、そろそろ行くよ」
出来るだけ咳の衝動を堪えながら順は立ち上がった。トレイを片手にテーブルを離れる。その後姿を和也がじっと見ていたが、順はそのことには気づかなかった。
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