冥府への案内人

伊駒辰葉

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二章

信号を越えて

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 考えを巡らせるうちに順の視線は無意識に鋭くなっていた。殆ど睨むようにして窓の外を見てからふと気付く。そういえばこの目の色はどう言い訳すればいいだろう。和也に言わせればカラーコンタクトと言えば済むらしいが、知り合いに会った場合にそれで済むだろうか。

 それまで気にならなかった目のことを考え始めた順は自然と俯いた。もしかしたら先ほどの女子高生たちは自分の目の色が違うことを話題にしていたのかも知れない。

「あー? 何だ、急に。どした?」
「別に」

 呟くようにして答えて順は目を閉じた。瞼を擦ってから目を開ける。ぎこちなく顔を上げた直後、順は焦ってそっぽを向いた。和也が順の顔を間近で覗いたのだ。

「あ、判った。目か」
「あ、ああ」

 先に言い当てられてしまったことに不信に感じつつも順は素直に頷いた。

「もう平気だぞ。木村は気付いてなかったかもだが、電車乗る前くらいかな。戻ってたぞ」

 一応、周囲の目を気にしたのか和也が順にそっと耳打ちする。順は驚いて何度か瞬きを繰り返した。慌てて周囲を見回すが鏡などはどこにもない。手っ取り早く傍にあった銀色の柱に顔を寄せる。だが使い込まれた柱の表面は濁っていて鏡の変わりになりそうにはない。

「落ち着けって。んな、すげえ形相であちこち見てたらそっちのが目立つぞ」
「煩い。他人事だと思って」

 不意に目の前に何かが差し出される。順は驚きに息を飲んでそれを見た。いつの間にか和也が小さな鏡を持っているのだ。折り畳み式の小さな鏡を顔の前に差し出され、順は大人しくそれを覗き込んだ。

 確かに言われた通り、目の色は元に戻っている。何度も瞬きをしてみるが特に変わったところはない。

「何でだろう」

 自然とそう呟いて順は鏡から目を上げた。和也が片手に乗せていた鏡を折り畳んで鞄にしまいこむ。お前、そんなもの普段から持ってるのか。つい、何気なく告げた順の言葉に和也は苦笑した。

「わざわざ出してやったのにその言い草かよ。木村ってホント、恩知らずだよな」
「う」

 あけすけに言われて順は言葉に詰まった。確かにそうかも知れない。和也が暴行に及んだ点はともかくとして、倒れそうになったところを助けてもらったのは事実だ。そうは思ったが順はどうしても礼を言えなかった。

 ああいうのって婦女暴行とは違うよな。つい、そんなことを呟いてしまって順は慌てて口を押さえた。視線だけを動かして周囲を見る。どうやら誰にも聞きとがめられなかったようだ。電車に乗り合わせている人々が特にこちらに関心を向けている様子はない。順は恐る恐る最後に和也を横目に見た。

「同意の上での行為は暴行とは言わない」
「なっ! 誰が同意した!?」

 思わず憤りをこめてそう返してから順は周囲を見た。今度はさすがに声が響いたらしい。驚いたような顔で数人が順を見ている。注視されることは承知の上だったのだろう。和也が楽しそうにくすくすと笑う。

「それに婦女って誰がだ? まあ、そう言ってもいいくらい、木村ってなよっとしてっけどな」

 言いながら和也がするりと手を動かす。唐突に尻を撫でられた順は真っ赤になって和也を睨みつけた。思わず和也の足を問答無用の力で踏みつける。だが順に足を踏まれても和也はへらへらと笑うだけで一向に堪えた様子がない。訝る順に下手くそなウインクをして和也は片足を軽く上げてみせた。

「伊達にラッシュの電車に乗り付けてねえの、オレ。ハイヒールの姉ちゃんがげしげし踏んでもいいようにな。鉄板入りの靴な訳」
「……そんなに重そうな靴をわざわざ」

 得意げに言う和也に順は悔しさをこめて告げた。だが確かに足の下から伝わってくる感触は通常の靴よりはるかに硬い。ひとしきり和也の靴を踏み躙ってから順は足を退けた。

「そんな重くねえぞ? これ」

 順が悔しそうにしていることが嬉しいのか、和也は機嫌よく今度は靴の話をし始めた。

 正直なところ、順は和也がこれまで通りの顔をして喋っていることが不思議だった。和也の普段通りの態度を見ていると昨日のことがまるで嘘のようにも感じられる。だが身体の痛みは紛れもなく本物だ。順は痛む腕をさりげなく押さえて周囲を見た。先ほどまで二人を注視していた人々も今は大した興味もないのだろう。順の方を見てはいない。そのことにほっとして順は内心で胸をなで下ろした。

 やがて電車は大学に程近い駅に停車する。順は和也が引き止めるのも無視して一人、早足で改札を抜けた。

「おい! 待てよ!」

 後ろから声を張る和也を振り返りもせず、順は歩行者信号の点滅する横断歩道を走って渡った。慌てた和也が横断歩道に差し掛かる寸前に信号が赤に変わる。走って渡り終えたところで順は肩越しに振り返った。既に車が走り始めている。車の流れの向こう岸に和也の姿を見つけた順はほっと息をついた。

 不意に複数のクラクションが鳴り響く。安堵して俯きかけていた順は慌てて顔を上げた。鮮やかな色の車の波が横断歩道を中心に止まっている。

「渡部!」

 順は思わず大声で呼んだ。車の流れを止めて和也が強引に横断歩道を渡る。周囲は一気に騒然となった。怒鳴り声と悲鳴が響く中、和也が横断歩道を渡りきる。

「ばか! 何やってるんだ!」

 走ってきた和也の胸倉をつかんで順は大声でそう叱りつけた。だが和也はけろりとしている。いつも通りのその顔を見た順は反射的に右手を振り上げた。手のひらにじんと痛みが走る。不思議なことに和也は順の手を避けようともせず、されるがままに左の頬を打たれていた。てっきり避けられると思っていた順は無意識に息を詰めた。

「木村がどっか行っちまうんじゃないかって」

 殴られて赤くなった頬を押さえながら和也が小声で言う。順は揮った右手を左手に包み込んで深呼吸し、和也を睨みつけた。

「だからって、危ないだろう!」
「……やば」

 さらに文句を言おうとした順の手を和也がつかむ。驚く間もなく和也は順の手を引いて走り始めた。誰かが通報したのだろう。人ごみの間に警察官の姿が見え隠れしている。順は肩越しに喧騒を振り返って慌てた。

 どこをどう走ったのか覚えていない。気がつくと順は通いなれた大学への坂道に着いていた。学生たちが息を切らしている二人を面白そうに眺めて過ぎる。上がった息を整えながら、順は壁に寄りかかった。壁伝いにその場に座り込む。

「な、んで、俺が、お前に、付き合って、走らなきゃ、ならない、んだ」

 途切れ途切れに文句を言う順の隣に同じように座り込みながら和也が苦笑する。

「何となくだよ、何となく。その場の雰囲気? 流れってやつ?」
「笑い、ながら、言うなっ。ばか」

 シャツの胸元をつかんで風を送りながら順は呆れた息をついた。長く走ったために身体が熱い。もしかしたらこれだけ走ったのは高校の体育の授業以来かも知れない。そんなことを思いながら順は何度か深呼吸をした。

 身体のあちこちは痛むし、風邪はまだ完全には治っていない。それでも順の気分は妙にすっきりとしていた。目を閉じるとクラクションの洪水が耳の奥に蘇ってくる。なんてばかなことをするんだ、と順は小さく呟いた。

「あー?」

 声を耳ざとく聞きつけた和也が間延びした声を返す。順は目を開けて頭を壁にもたせかけた。

「あんな真似をして、怪我でもしたらどうするつもりだったんだ」

 呆れて言う順を一瞬、驚いたように和也が見る。だが順は空を仰いでいて和也の表情を見ていなかった。目を凝らして薄い色をした雲の切れ目を追いかける。

「あー……そういや、考えてなかったな」

 歯切れ悪く言って和也が順の頭に手を乗せる。自分とは違う、大きな分厚い手に押さえるようにして撫でられて順は眉を寄せた。
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