冥府への案内人

伊駒辰葉

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三章

甘い誘惑

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 ふと、視界が暗くなる。

「あれ? 菅野女史? どしたの」

 それまでとは異なり、和也の口調がやけに砕ける。順は慌てて顔を上げてテーブル脇に立つ文江を見上げた。文江は周囲の学生と同じように手にトレイを持っている。

「何か騒がしかったから」
「あー、えーと」

 困ったように和也が頭をかく。文江は不思議そうに和也を見つめてから順に視線を移した。そこで何故か文江の頬が僅かに染まる。順は訝りに眉を寄せて無言で二人を見比べた。

 何で他の連中と同じように彼女を追い払わないんだろう。和也は困惑したように言葉を濁している。文江はどうしたの、と和也を見つめている。二人を見ているうちに順の胸の内に奇妙な感覚が生まれた。

「いや、別に何でもないって。ほら、ちょっと言い合いしてただけで」
「渡部くんと木村くんが?」

 目を見張って文江が和也と順とを見比べる。順は文江の視線は感じたが、あえてそれを無視した。隣の空いた椅子に乗せていた鞄をつかむ。順は立ち上がって文江に声をかけた。

「ここ、どうぞ。俺、帰りますから」

 そう言って椅子を引く。戸惑う文江に順はにっこりと笑いかけた。文江が困ったように視線を泳がせる。その顔はいつの間にか真っ赤になっていた。

「ちょ、ちょっと待て。帰るって」

 慌てたように和也が腰を上げかける。順は和也が立ち上がる前に片手を振り上げた。机を思い切り叩く。激しい音が響いて周囲はしんと静まり返った。

「自分のことくらいちゃんとしろ。仕事が出来なくなったら困るのはお前だろう」

 淡々と告げて順はテーブルに背を向けた。呼び止める和也の声を無視して学食を出る。順は早足で廊下を進み、階段を駆け上がった。振り返って誰も追って来ないことを確認してから速度を落とす。

 困惑した文江の表情が脳裏に焼き付いている。どうやら和也の口調からすると二人は親密な間柄のようだ。文江は恐らく和也を心配していたのだろう。それも当然だ。何しろ和也の顔色は普段に比べると相当悪かった。周囲がそれに気付かなかったのはいつも通りに和也が振る舞っていたからだろう。

 迂闊だった。順は深く反省しながら額を押さえた。久しく人と付き合ったことがなかったからずっと忘れていた。和也は自分とは違う。幾ら監視者の仕事に就いていても人間なのだ。どんなに強靭に思えても、人としての範疇は決して超えられない。もし、自分の身体が他人に影響を及ぼすなら、身体を重ねた相手である和也に何の影響も出ない筈がない。

 どうして何も言わないんだ。順は憤りに任せていつもより乱暴な歩き方である場所を目指した。調教なんて言ってる場合じゃないだろう。そう、心の中で和也に文句をつけてみる。監視者としての仕事をまっとうしさえすれば、契約の報酬は必ず手に入れられる。なのにどうして和也は余計なことをし始めたのだろうか。黙っていれば疑うことすらなかったのに。

 順は不機嫌なままでドアの前で足を止めた。苛立ちを出来るだけ抑えて深呼吸する。ドアをノックしてしばし待つ。中から答えたのは美恵だった。どうぞ、という返事がしてから順はおもむろにドアを開けた。

「お昼時にすみません」

 そう詫びて順は静かに美恵の部屋に入室した。美恵は作業中だったのか、手に分厚い書類の束を持っている。机について書類に目を落としていた美恵は顔を上げてにっこりと笑った。

「いいのよ。丁度、一息入れようと思っていたところだから」

 美恵が静かに席を立つ。大きな執務机には幾つも書類が積み重なり、雑多な感はある。が、恐らく美恵にはどこに何があるかきちんと判っているのだろう。順はすみません、ともう一度詫びて進み出た。

 美恵の部屋には大きな書棚が壁際に並んでいる。中に入っているのは美恵の担当する科目に関係する本や、それ以外の分野の本がひしめいている。この若さで今の地位を維持するには相当の努力が必要だ。他の教授の部屋より本の冊数が多いのはきっと美恵が勉強熱心だからだろう。

 勧められるままにソファに腰掛ける。美恵は部屋の隅にある小さな棚の上で茶をいれはじめた。

「ごめんなさいね。このくらいしかここにはなくて」

 そう言いながら美恵が出したのは紅茶の入ったマグカップだった。カップの表面には綺麗なばらの花が描かれている。順は礼を言ってカップを受け取った。

「それで? どうしたの?」

 訊ねながら美恵が順の隣に腰を下ろす。順はしばしカップを見つめてから切り出した。

「実は鍵をお借りしたくて」
「ああ、資料室の鍵? それは構わないけど」

 不思議そうに美恵が順を見つめる。順は無言で紅茶を啜った。本当なら午後の最後の講義が終わってから借りようと思っていた。だが美恵の講義までかなり時間がある。それならその空いた時間も調べ物に使えるのではないか。そう考えて順はここを訪れたのだ。

 データが早く揃えばそれだけ早く都子を迎えに行ける。そうすれば大学にはもう用はない。

「どうしたの? 何か悩み事でもあるの?」

 マグカップを両手に包んで美恵が静かに訊ねる。順は驚きに軽く息を飲んで目を上げた。どうして何も言っていないのに美恵はそんなことを言い出したのだろう。

「いえ、何でもありません」

 出来るだけ感情を殺して順はそう答えた。そう、と微笑んで美恵が紅茶を啜る。その横顔をちらりと眺めてから順もマグカップを傾けた。

 柔らかな甘い香りがする。外国生活の長かった美恵のことだ。もしかしたら特別に取り寄せた紅茶なのかも知れない。そんなことを思いながら順は不思議な香りを確かめるようにゆっくりと紅茶を飲んだ。

 ふわりと美恵が身体を傾ける。順は驚きに目を見張って美恵を見た。美恵は順に寄りかかって俯いている。

「はい、これ」

 スカートのポケットから美恵が鍵を取り出す。順はありがとうございますと鍵を受け取った。その手を鍵ごと美恵が握る。細い指先が手をなぞるのを順は黙って見下ろしていた。

「ねえ。今日は夕食に付き合ってくれる?」

 囁きで問われ、順は目を少しだけ細めた。じっと美恵を見下ろして軽く手に力をこめる。驚いたように美恵が顔を上げる。細い美恵の手を優しく握り、順は微かな笑みを浮かべた。

「判りました。講義の後、ここに来ます」

 そう告げて順は紅茶の半分残るカップをテーブルに戻した。呆気に取られた顔をする美恵に笑みかける。順は静かに立ち上がり、優雅に身を折って一礼した。
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