冥府への案内人

伊駒辰葉

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五章

和也と黒田

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 雑草が脇に茂る川辺の小道は学校帰りのいつものコースだった。夕暮れの赤い陽の照るその場所を歌いながら歩いて帰った。赤い夕陽の中で、そこだけが切り取られたように綺麗な横顔に微笑みが浮かぶのが好きだった。

 澄んだ歌声は周囲の物音をかき消すくらい美しかった。だが順は一度もその声を自慢したことがなかった。本人は楽譜通りに歌うことしか出来ないのだという。歌を誉めると決まってそう言って順は照れたような笑みを浮かべた。

 春は名のみの風の寒さや。
 谷の鶯 歌は思えど

 順の歌の後に続けて何度も歌った。だがどうしても上手く歌えない。声を途切れさせるたびに順が心配そうに顔を覗き込む。そのたびに大丈夫と苦笑した。

 そんなやり取りもいつしかしなくなった。いつからだろう。あの時のような順の笑顔は見れなくなった。綺麗な笑みの代わりに浮かぶようになったのは不安と苛立ち、焦りといった感情の入り混じった沈んだ表情だった。だがそれでも順はその感情を隠そうとしていたのだろう。目を合わせて話をしている時にはいつもと変わらない態度を通していた。

 酷く、痛々しかった。順がその表情を垣間見せるたびに、何度本当のことを言おうとしただろう。だがどうしても言えなかった。

 最後の最後、別れる時まで言えなかった。

 いつか償えると信じて話した時の順の顔は凍りついていた。浮かべる笑みもとても冷ややかに見えた。だが順に自覚はなかったのだろう。逆に気にするな、と慰めの言葉をかけられた。

 寂しさと悲しみの混ざった冷たい微笑が心に突き刺さる。きっとどんなに詫びても赦してはもらえないだろう。その瞬間まで甘い考えでいたことを心の底から悔いた。

「……いいかげんに起きろ。手間をかけさせるな」

 低く不機嫌な声が間近に聞こえる。和也は顔をしかめて片目を開けた。どうやら夢を見ていたらしい。窓からは夕陽が差し込んでいる。ああ、このせいかと納得しつつ和也は再び目を閉じた。

「うっせえ。ちょっとくらい休ませろ」

 寝起き特有の掠れた声で呟いて和也は身体を傾けた。声をかけてきた黒田に背を向ける。黒田は呆れた息をついて無造作にベッドを蹴った。その拍子にベッドがぐらりと揺れる。

「お前はずっと休みっぱなしだろ。いいかげんに仕事をしろ」
「くそ小姑が」

 壁に向かいながら和也はどすの利いた声で悪態をついた。だが黒田はその程度では動揺はしない。それも和也には判りきっていた。

 黒田は腕組みをしてベッド脇にじっと立っている。和也は深々とため息をついて仕方なく身を起こした。寝癖のついた頭をかきながらベッドの上で胡座をかく。盛大な欠伸をする和也を無言で見ていた黒田がシャツの胸ポケットから何かを取り出す。放って寄越されたそれを和也は指の間で受け止めた。

 真っ黒なカードに深い灰色の文字が浮かび上がる。殆ど見えないその文字を和也はしっかりと読み取った。カードの真ん中に刻まれているのは知らない誰かの名前だ。和也はしばらくじっとその名前を見つめてからカードを黒田に投げた。黒田が黙ってカードを指先で受け止める。

「くだらん」
「いいかげんにしろ。いつまで意地を張るつもりだ」

 怒りこめて吐いた和也の言葉に黒田が淡々と応える。相変わらず嫌なやつめ。そう吐き捨てて和也は苛々と頭をかいた。

 黒田が言っていることの意味は判る。確かにカードの名前を見た瞬間からどうしようもない欲求は腹の底に生まれている。が、それに従うかどうかはまた別問題だ。

「木村がいない隙を狙いやがったな」
「当り前だ。居られると邪魔だ」

 また即座に黒田が切り返す。このやり取りももう何度繰り返しただろう。和也はため息をついて膝に手を当てて腰を上げた。佇む黒田の脇を抜けて部屋の隅にあるたんすを乱暴にあける。ぐっしょりと汗に濡れた服を脱ぎ捨てて新しいものに替える。洗濯用のかごに濡れた衣類を放り込んでから和也は部屋のドアを乱暴に蹴り開けた。

「帰れ。オレは何度言われたって仕事なんざする気はない」

 そう言って和也はドアの向こうの玄関を指差した。黒田がゆっくりと振り返って和也を睨みつける。鋭い眼差しを真正面から受け止めて和也も視線に怒りをこめた。早くしなければ順が戻ってくる。

 しばらく二人は無言で睨み合っていた。やがて黒田が諦めの息をつく。これもまたいつものことだ。

「……あいつには何も報せないのか」
「ったりめーだ、アホ。何でいちいち話して聞かせなきゃなんねえんだよ」

 静かな黒田の言葉に和也はいつもの調子で応えた。だが今日は何故かそこで黒田が去ろうとしない。訝りに眉を寄せて和也は唇を引き結んだ。黒田が持っていたカードに視線を落とす。黒田が指でカードの表面を撫でると浮かんでいた灰色の文字はゆっくりと消えた。

「お前も奴と同じことをしているとどうして判らない」
「それを下らないお節介っつーんだよ、ボケが」

 そんなことは言われなくても判っている。きっと順は自分を恨むだろう。裏切ったと憎むだろう。だがそれでも順に明かすことは出来ない。和也は黒田から目を背けて鼻で嗤ってみせた。

 慣れた気配が近付いてくる。和也は舌打ちをして黒田を睨んだ。黒田は先に気付いていたらしい。平然としている。きっとわざと言わなかったのだ。

「てめえ、ほんっとに性悪だな」
「たまにはイレギュラーがあってもいいだろう?」

 黒田が手を差し出す。和也は再度舌打ちをして差し出されたものをひったくった。黒田が差し出したのは黒い小さなピアスだ。順が初めてバンドに参加したあの日、黒田がわざと片方だけ外していったのだ。そうでなければあのまま和也はしばらくは起き上がれなくなっていただろう。

 ドアが小さく鳴る。

「あれ? 客が来てるのか?」

 そう言いながら順が玄関に姿を現す。やれやれと内心で呟いて和也は玄関に向かって歩き出した。

「おー、おかえりー。くろちゃんがな。今日は夕飯おごってくれるってよ」

 せめてもの反撃のつもりで和也はそう言いながらちらりと黒田を振り返った。誰がくろちゃんだ、といつものごとく黒田が低い声で反論する。

「えっ、そうなのか? ちょっと得したな」

 嬉しそうに笑いながら順が和也の脇を過ぎようとする。和也は過ぎ去ろうとした順の腕をつかまえて引き寄せた。急に抱きしめられた格好になった順が慌てて手足を振り回す。

「ちょ、人前で何してるんだ! ばか!」

 真っ赤に頬を染めて順が喚く。和也は順の片方の耳にさりげなく指をあてがい、握っていたピアスをそっとはめ込んだ。
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